2021年4月28日水曜日

「ヨナ書」ガイドブック  ヨナのしるし 2章11節

 ヨナのしるし 2章11節

 

「すると、(イエス様は)彼らに答えて言われた、

「邪悪で不義な時代は、しるしを求める。

しかし、預言者ヨナのしるしのほかには、なんのしるしも与えられないであろう。

すなわち、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、

人の子も三日三晩、地の中にいるであろう。」」

(「マタイによる福音書」12章39〜40節、口語訳)

 

ユダヤ人の時間の数え方は現代の私たちのそれとは異なっています。

当時のユダヤ人は「一日未満」でも「丸一日分」とみなしました。

また、日没から次の日没までが同じ「一日」でした。

たとえば、金曜日の日没の時から土曜日が始まり、

土曜日の日没の時からは日曜日が始まります。


イエス様が墓の中におられたのは

金曜日の夕方(日没前)から日曜日の朝方まででした。


私たちの計算に従えば、この期間は約一日半の長さになりますが、

ユダヤ人の計算によれば、丸三日間が過ぎたことになります。


イエス様が墓におられた期間が金曜、土曜、日曜にまたがっていたからです。

2021年4月21日水曜日

「ヨナ書」ガイドブック 救われたことを神様に感謝するヨナ 2章2〜10節(その3)

 救われたことを神様に感謝するヨナ 2章2〜10節(その3)

 

ヨナは自分では主から罪の赦しを受けておきながら、

依然としてニネヴェの人々に対しては憐れみの心を示しませんでした

(2章9節)。

彼はまるでイエス様の譬え話に出てくる負債者のようでした。

この負債者は自分では多額の借金を帳消しにしてもらったのに、

友人たちに貸した少額の借金を免除してあげようとはしなかったのです

(「マタイによる福音書」18章23〜35節)。

ヨナの不従順さはこの負債者よりもはるかに重大なケースです。

「罪人を憐れみたい」というのが神様の御心でした

(4章11節)。

そのことをヨナはすでに知っていましたが、

ニネヴェの人々はまだ知らされていなかったからです。

 

これと似たような危険は私たちにもつきまとっています。

ともすると私たちは自分と神様との関係だけを考えて、

他の人々のことを忘れたり裁いたりさえする傾向があるからです。

それに対して、

自分の罪が赦されたのは自分のよい行いとはまったく無関係であり、

ひとえにイエス・キリストの贖いの御業のゆえであることを

はっきりわかっている人は、

イエス様の十字架での死のゆえに全世界のすべての人の罪を赦された

憐れみ深い神様について他の人たちにもぜひ告げ知らせたい、

という伝道する心を自ずと持つようになるものです。

 

こうしてみてくると、

神様がヨナに対して教えたり働きかけたりしなければならないことがらは

まだたくさんあったことがよくわかります。

生涯をかけて神様の御心を実現していくことをヨナは神様に約束しました。

すると、魚は主の命令を受けてヨナを陸に吐き出したのです

(2章10節)。

 

2021年4月14日水曜日

「ヨナ書」ガイドブック 救われたことを神様に感謝するヨナ 2章2〜10節(その2)

 救われたことを神様に感謝するヨナ 2章2〜10節(その2)

 

イエス様がこの地上で生活しておられた時代に、

サドカイ派はユダヤ教において理性に頼った考え方を標榜する祭祀階級でした。

たとえば、サドカイ派は復活も天使の存在も信じていませんでした。

サドカイ派は旧約聖書の最初の五書

(「創世記」「出エジプト記」「レビ記」「民数記」「申命記」)のみが

唯一真正なる神の言葉であり、

復活や天使はこれら五書(いわゆる「律法」)に表明されている正しい信仰に

後から付加されたものであると主張したのです。


このサドカイ派に対して、

イエス様は復活がすでに上記の五書の中に記されていることを

次のように指摘なさいました。

 

「復活ということはないと主張していたサドカイ人たちが、

その日、イエスのもとにきて質問した、

「先生、モーセはこう言っています、

『もし、ある人が子がなくて死んだなら、その弟は兄の妻をめとって、

兄のために子をもうけねばならない』。

さて、わたしたちのところに七人の兄弟がありました。

長男は妻をめとったが死んでしまい、そして子がなかったので、

その妻を弟に残しました。

次男も三男も、ついに七人とも同じことになりました。

最後に、その女も死にました。

すると復活の時には、この女は、七人のうちだれの妻なのでしょうか。

みんながこの女を妻にしたのですが」。

イエスは答えて言われた、

「あなたがたは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。

復活の時には、彼らはめとったり、とついだりすることはない。

彼らは天にいる御使のようなものである。

また、死人の復活については、神があなたがたに言われた言葉を読んだことがないのか。

『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』と書いてある。

神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である」。

群衆はこれを聞いて、イエスの教に驚いた。」

(「マタイによる福音書」22章23〜33節、口語訳)

 

伝統的に旧約聖書は「律法」「預言者」「諸書」の三つの部門に分けられます

(それぞれヘブライ語で「トーラー」「ネヴィイーム」「ケトゥヴィーム」です)。

旧約聖書の中でも、

「律法」(旧約聖書の最初の五書)以外の

「預言者」(預言書)や「諸書」(「詩篇」など)の部門にこそ

復活についての明瞭な記述があるのは事実であり、

この点でサドカイ派の主張は正しかったとも言えます。

たとえば「ヨナ書」2章7節は「預言者」の中で、

また「ヨブ記」19章25〜26節は「諸書」の中で、

復活が確かに存在することを明証する箇所として知られています。

 

「わたしは地に下り、

地の貫の木はいつもわたしの上にあった。

しかしわが神、主よ、

あなたはわが命を穴から救いあげられた。」

(「ヨナ書」2章7節、口語訳。節数は旧約聖書原語版によっています)

 

「わたしは知る、

わたしをあがなう者は生きておられる、

後の日に彼は必ず地の上に立たれる。

わたしの皮がこのように滅ぼされたのち、

わたしは肉を離れて神を見るであろう。」

(「ヨブ記」19章25〜26節、口語訳)

 

このように、

イエス様の時代のユダヤ人たちやイエス様の弟子たちにとって

「復活」はなじみのない奇妙な考え方ではありませんでした。

しかし、

彼らは復活が世の終わりの時に起きるものとすっかり思い込んでいたのです。

だからこそ、

十字架の死からわずか三日目にイエス様が死者の中から復活されたことは

彼らに大きな驚きを与えました。