2014年6月25日水曜日

「ローマの信徒への手紙」ガイドブック 第4回目の質問

  
4回目の集まりのために 「ローマの信徒への手紙」4
  
 
パウロは 義に関する教えを手短じかに紹介しました。
すなわち、
キリストが人類のすべての罪を帳消しにするために
十字架で私たちの身代わりとして死んでくださった
このあがないの御業のゆえに、
ユダヤ人も異邦人も等しく、神様に受け入れていただける、
ということです。
4章で、パウロは、
ユダヤ人の始祖であるアブラハムもまた、
行いではなく信仰によって、義とされたことを示しました。
これについて書いた時、
パウロは大きな魚(ユダヤ人全員のこと)を一網打尽にしていました。
ユダヤ人は自分を「アブラハムの子」と呼び、
アブラハムの模範に従おうとするからです。

1)この「ローマの信徒への手紙」4章と
「ヤコブの手紙」221節とを比較してください。
ヤコブが反対しているのは、どのような考え方でしょうか。
この「ヤコブの手紙」の箇所は、
「ローマの信徒への手紙」4章と調和できるものでしょうか。


2)パウロは、義に欠けている者を義とすることについて語りました。
そして、他のタイプの人々(すなわち、義に欠けていはいない人々)は、
罪の赦しをいただく必要がない、と言います。
ここで考えてみてほしいのですが、
私たちは、「義に欠けている者を義とする教え」を忘れて、
その代わりに、
「聖なる者たちを義とする教え」を信仰生活の中に持ち込んではいませんか。

2014年6月19日木曜日

「ローマの信徒への手紙」ガイドブック 4章13〜25節 死の只中にある命(その3)


死の只中にある命 41325節(その3)


アブラハムの信仰は、
神様の約束が本当であると認めることだけではありません。
彼の信仰は、
神様の約束に忍耐強く頼り続けることでもありました。

実は、こうした姿勢こそが、私たちの人生全体を決定づけるものなのです。
キリスト教の教える信仰とはいかなるものか、このことからわかります。
信仰とは、
あることを実行した後で忘れてしまうようなものではありません。
信仰とは、
人がキリストに属する者として活き続けることであり、 
神様の子どもとして自分がどのように行動するのがふさわしいか、
常に決断することなのです。


アブラハムと彼の信仰について、パウロは難しい書き方をしています。
その言わんとすることを理解するためには、
パウロと同じように、
本来なら旧約聖書全体を知悉する必要があるところでしょう。
しかし、一番大事なのは次のことです。
すなわち、
ひとえにイエス•キリストの御業のおかげにより、
私たちは皆、神様が私たちの罪を赦してくださったことを信じてよい、
ということです。
このことについては、すでに旧約聖書が証ししており、
そしてとりわけ、
イスラエルの民の始祖であるアブラハムが証しているのです。

2014年6月13日金曜日

「ローマの信徒への手紙」ガイドブック 4章13〜25節 死の只中にある命(その2)


死の只中にある命 41325節(その2)


アブラハムの信仰は、私たちにとって模範的です。
アブラハムは神様から、自分の子孫について、
それが大いなる一族となって行く、という約束をいただきました。
アブラハムは、この約束を堅く信じ続けました。
彼自身も彼の妻であるサラも、
人間的に見れば、もはや子孫を作れない身体になっていたにもかかわらず、
神様は約束なさったことを必ず成就なさる方である、
とアブラハムはすっかり確信してしました。
神様は死の只中でも命を呼び起こすことがおできになる、
というこの粘り強い信仰が、義と見なされたのです。
同様に私たちも、
イエス•キリストを死者の中からよみがえらせた神様を
信頼することができます。

パウロは驚くべき信仰告白でこの章を閉じます。
すなわち、イエス•キリストは、
私たちの罪過のゆえに十字架に打ち付けられ、
私たちを義とするために死者の中からよみがえらされた、
という信仰告白です。

神様の救いの御業は、
私たちの全く外側から私たちの許へと到来するのです。
私たちを守ってくれるのは、
私たち自身の義なのではなく、
他の方の義、キリストのあがないの御業です。

2014年6月11日水曜日

「ローマの信徒への手紙」ガイドブック 4章13〜25節 死の只中にある命(その1)


死の只中にある命 41325節(その1)


パウロは深遠な思索を続けます。
神様は、まずアブラハムに、
信仰による義と、
アブラハムが多くの国民の父となるという約束とを
お与えになりました。

神様のやり方は、
いったん与えてはまた取り去る、
といった浅はかな人々のやり方とは違います。

約束し与えてくださる時に、
神様は後から条件を付け加えるようなことはなさいません。
ですから、
約束よりも後になって人に授けられた律法が、
信仰による義を無効にすることはできないのです。
もしもそのようなことをしたら、
神様は、人に天の御国を継ぐ権利を授ける約束をしておきながら、
後からそれを打ち消して権利を取り上げてしまうことになるからです。
神様はそのようなことはなさいません。

今でも神様は、
アブラハムにそうなさったように、
恵みにより、信仰を通して、罪の赦しを与えてくださるのです。