2015年1月28日水曜日

「ローマの信徒への手紙」ガイドブック 7章1〜6節 律法から離れなさい(その1)


律法から離れなさい 716節(その1)

人は、神様のお定めになった戒めに完全に束縛されています。

かりに人が戒めに反して自分勝手に行動したとしても、
例えば第7戒(「盗んではならない」)などの戒めが
有効であることは変わりません。

たとえ教会の指導者や大学の教授たちが一群となって押し寄せ、
「現代ではこのような戒めにもはや従う必要がない」、
と教えたとしても、まったく無駄なことです。
主の御前では、 十戒の刻まれた板の下からは、
砂のかけらさえ移動されてはいないからです。
神様がお定めになったことがらは、永遠に有効であり続けます。

パウロはここで実に的確なたとえを用いています。
「私たちは神様の律法と結婚している」、
と言うのです!
それは、
「私たちは十戒から別れることができない」、
という意味です。

「神様の戒めなど気にしない」、
といくら言い張ったとしても、
それらの戒めは私たちを、
私たちが生きている間ずっと束縛しており、
そして最後には神様の御座の前で責め裁きます。
人は誰も、自分の罪深さを告発するこの起訴状から逃れることができません。


2015年1月23日金曜日

「ローマの信徒への手紙」ガイドブック 7章


罪の圧制の下で

「ローマの信徒への手紙」7



「ローマの信徒への手紙」全体を通じて、
この第7章こそが最も力強い章であると言えるでしょう。
まさにこの章に基づいて、
「キリスト信仰者は同時に、罪深い存在でもあり、聖なる存在でもある」、
と私たちは教えることができます。
ですから、 
この章の与えてくれる大きな慰めを
自分にあてはめて受け入れることができるように、
今とりわけ心を引き締めて聖書を読むべきなのです。
というのは、
神様の御言葉の伝えるこの真理を
否定したり忘れたりする教えが今の時代にも流布しているからです。
しかし、そのような教えによるかぎり、
キリスト信仰者は己の行いの奴隷となりはて、
希望のない生活を際限なく送ることになってしまいます。

2015年1月16日金曜日

「ローマの信徒への手紙」ガイドブック 終わりのメッセージ(6章)(その2)


終わりのメッセージ(6章)(その2)

「洗礼とは契約の内容を守ることです」

洗礼式は、キリスト信仰者の人生にとって、
たんなる過去の出来事ではありません。

洗礼式では、受洗者の上に十字架を切る習慣があります。
これは、
受洗者が全人生を通じて自らの十字架を積極的に担って行くことを
表しているとも言えます。

洗礼の恵みの中で生きることは、 
目減りしない莫大な相続財産を日々紙幣やコインに両替して行く過程に
なぞらえることができるかもしれません。

洗礼が受洗者のその後の人生を覆い尽くすほど大事な出来事であることを
正しく理解できるように、
私たちは霊的に成長して行かなければなりません。

遺憾ながら、現代の教会では、
洗礼式や堅信式がたんなる通過儀礼となってしまっている傾向があります。
そして、洗礼式や堅信式が
それらを受けた人々のその後の人生にどのような影響を与えるかについては、
関心が払われない場合が多いようです。

しかしそれとは異なり、
初めの頃の教会のキリスト信仰者たちは、
個々の信仰者だけではなく教会全体が「水の上に建てられている」
(使徒教父からの引用)、という事実を信仰の基点としていました。

洗礼を通して私たちは、
死者の中からの復活の恵みを
相続財産として受け継ぐ権利をいただいています。
ですから、この世の高価な品々は、それほど大切なものではなくなります。

これほど素晴らしい相続財産があるのに、
今までとは違う生き方をする勇気をもてないようなら、
いかにも奇妙だと言わざるをえないでしょう。


(レイノ•ハッシネン)

2015年1月5日月曜日

「ローマの信徒への手紙」ガイドブック 終わりのメッセージ(6章)(その1)


終わりのメッセージ(6章)(その1)

「洗礼とは契約の内容を守ることです」(その1

洗礼は、神様から贈られた証書です。
神様が私たちに賜ったこの証書ほど素晴らしい遺言状を残すことができる者は、
他には誰もいません。
聖なる洗礼を通してのみ、私たちは、
救い主との個人的な親しい関係の中に入れていただけるのです。

洗礼の意味を誤解する人が出てくるのは、無理もありません。
洗礼を受けている人たちのうちの全員が
信仰を持って生きている訳ではないからです。

しかし、
キリストに喜んでいただけるような生き方をするために、
神様からのこの賜物に感謝して、
日々自己中心的な生き方を正していく人は
誰であれ、キリスト信仰者なのです。

神様からいただいたこの尊い「相続財産」を守る人は、
誰であれ、神様の子どもなのです。
そして、キリスト御自身が
その人の「神様の子ども」という立場を守ってくださっています。


堅信式は、洗礼を通して受けた神様からの贈り物を、
私たちがこれからもしっかり守って行くことを公に表明する場です。
「キリスト信仰者として生きること」に関わる一切の事柄も、
神様からのこの賜物をしっかり守って行くことにつながっています。
それは、
「主よ、どうか今日も私を用いてください」、
という毎日新たになされる態度表明でもあります。

主は、洗礼を受けている人たちを、
御自分と共に積極的に活動していくように招いておられます。

「誰であれ私の後について来たいと思うなら、
自分を捨て、日々自分の十字架を負い、私に従いなさい
(「ルカによる福音書」923節)。