2019年4月26日金曜日

「ペテロの第一の手紙」ガイドブック 5章1〜5節 教会とその牧者(長老)たち(その1)

「ペテロの第一の手紙」第5章 

教会は目を覚ましています

5章1〜5節 教会とその牧者(長老)たち(その1)

「新約聖書」に収められている多くの手紙がそうであるように、
「ペテロの第一の手紙」もまた
様々な状況の中で生活しているキリスト信仰者たちを
対象とした指示を含んでいます。
この箇所では、
まず教会の牧者(長老)たちが、次に教会全体が指示を受けています。

教会の牧者(長老)に向けられた指示は簡潔ですが興味深いものです。
「あなたがたにゆだねられている神の羊の群れを牧しなさい」
「ペテロの第一の手紙」5章2節前半、口語訳)
という指示を除くと、
「彼らが何をやるべきか」という具体的な指示はありません。
ここにあるのは「どのように彼らはその職務を果たすべきか」という指示です。

「しいられてするのではなく、神に従って自ら進んでなし、
恥ずべき利得のためではなく、本心から、それをしなさい。
また、ゆだねられた者たちの上に権力をふるうことをしないで、
むしろ、群れの模範となるべきである」
(「ペテロの第一の手紙」5章2節後半〜3節、口語訳)。

この御言葉が教えているのは、
牧者としての職務は金銭収入などのためではなく
自発的に真心を持って行われるべきであり、
その際、牧者は他の人たちに対して冷たい傲慢な態度をとってはいけない、
ということです。

「そうすれば、大牧者が現れる時には、
しぼむことのない栄光の冠を受けるであろう」
「ペテロの第一の手紙」5章4節、口語訳)

この記述からは具体的なイメージが浮かんできます。
手紙が書かれた当時の牧者には部下の羊飼いが何人もいるのが一般的でした。
そして、牧者は部下たちの仕事ぶりを監督しました。
部下の羊飼いたちは主人が来るのを待ちながら、
自らに委ねられた羊の群れの面倒をずっと見ていました。

それと同じようにして、教会の牧者は
大牧者キリストの再臨の時がいつ起きてもよい
という心構えをもって牧会に励むのです。

2019年4月12日金曜日

「ペテロの第一の手紙」ガイドブック 4章7〜19節 世の終わりは近い(その3)

4章7〜19節 世の終わりは近い(その3)

一方で、私たちは
「ペテロの第一の手紙」の背景にある当時の現実から、
自分たちが想像しているほどかけ離れた環境に身を置いているわけでもない、
とも言えます。
すなわち、
当時のキリスト信仰者と私たち現代のキリスト信仰者との間には共通点もある、
ということです。

私たちは「神様の子ども」として長く生活を続ければ続けるほど、
それだけいっそうはっきりと、
この世は私たちにその真の姿を見せるようになります。
この世は罪と誘惑に満ちた世界であり、
そこに実在する悪は私たちの想像を超えるほど深く根を張っています。
キリスト信仰者として私たちはこの世の真の姿を垣間見ることができるのです。

私たちが神様の御言葉から霊的な栄養を受ければ受けるほど、
私たちが生活しているこの世は、
それだけいっそうよそよそしいものに感じられるようになります。

もしも家族や親戚がキリスト信仰者である場合には、
彼らのうちのより多数の者がこの世を去り栄光の世界へと移住していくにつれて、
天の父なる神様の家である「天の御国」は私たちにとって、
よりいっそう愛しい場所になっていきますし、
そこに住む白い衣を着た聖徒たちの顔が、
よりはっきりと見えるようになっていきます。

天の御国を「自分が受け継ぐもの」としていただいた者にとって、
この世は次第に価値を失っていきます。
もっとも、これは一朝一夕に実現することではなく、
日々の信仰の学びと戦いを通して少しずつ身につけていくべきことがらです。

2019年4月5日金曜日

「ペテロの第一の手紙」ガイドブック 4章7〜19節 世の終わりは近い(その2)

4章7〜19節 世の終わりは近い(その2)

ところで、現代の私たちは
聖書を今述べてきた希望の視点から読む際に、
少しばかり考え込んでしまうのではないでしょうか。
はたして私たちは
心から「世の終わり」を待ち望んでいるのでしょうか。
それとも
「あと何十年もこの世界で生きられるほうがもっと望ましい」
というのが本音に近いのでしょうか。
しかし、教会の最初期のキリスト信仰者たちにとっては
「最後の裁き」に思いを馳せることは大きな慰めでした。

「だから、兄弟たちよ。主の来臨の時まで耐え忍びなさい。
見よ、農夫は地の尊い実りを前の雨と後の雨とがあるまで耐え忍んで待っている。
あなたがたも主の来臨が近づいているから耐え忍びなさい。
心を強くしていなさい。」
(「ヤコブの手紙」5章7〜8節)

現代に生きる私たちキリスト信仰者にとって、
この「ヤコブの手紙」にみられる心構えで
キリストの再臨と最後の裁きを忍耐強く待ち望むことは
難しくなってきているのではないでしょうか。
むしろ、私たちはこの世界の終末の到来のほうを恐れてはいませんか。
いったい何が私たちにこのような変化をもたらしたのでしょうか。

教会の最初期のキリスト信仰者と私たち現代のキリスト信仰者との間には
顕著な相違点があります。
それは、
私たちが信仰のゆえに人々から憎まれたり迫害を受けたりするケースが
かなり稀なことになってきているという点です。
もちろん世界的に見れば
キリスト信仰者が過酷な迫害を受けている地域が今もあります。
しかし、いわゆる先進国に住んでいるキリスト信仰者たちは、
貧しい人も中にはいるとはいえ、
一般的に見ればかなり快適な環境に身を置いて暮らしていると言えるでしょう。
そのような生活を送っている人々にとって、
是が非でもこの世の終わりを待望するような心構えは
なかなか持てないものなのではないでしょうか。
このような現状を変えるには、いったいどうすればよいのでしょう。
迫害や病気や怪我などを自らすすんで願い求めるべきなのでしょうか。

もちろんそうではありません。
私たちはこの世で平和で幸せな生活を送れる日々について、
そのように計らってくださる神様に対して感謝を捧げます。
しかしそれと同時に、
私たちは自らの立場をわきまえる必要があります。
すなわち、
私たちキリスト信仰者はこの世では常に「選び分かたれた寄留の民」である
ということです。

私たちは「この世に属する者」ではありません。
キリストのゆえに「天の御国に属する者」なのです。
ですから、この世での快適さに慣れ親しみ過ぎてはいけません。
私たちは天の御国へと帰還する旅の途上にあり、
まだ目的地に到着してはいないからです。

2019年4月1日月曜日

「ペテロの第一の手紙」ガイドブック 4章7〜19節 世の終わりは近い(その1)

 4章7〜19節 世の終わりは近い(その1)

この箇所(とりわけ7〜11節)におけるペテロの奨励の言葉の内容は、
パウロの教えと大きく重なるものです。
たとえば、「ローマの信徒への手紙」(12〜13章)で
キリスト信仰者に与えられている多くの一連の指示は、
それ自体としてみればたいへん理解しやすく、
日常でもなじみのあるものばかりです。
ところが、これらの指示を具体的に実行しようとすると、
その時はじめて人はその困難さに直面することになります。

奨励はこの箇所でも「希望」という視点に結びつけられています。
しかし、それが「世の終わり」への希望であるのは、
現代のキリスト信仰者にとっては意外なのではないでしょうか。

教会の最初期のキリスト信仰者たちは、
キリスト信仰者としてこの世を生きることに関係する指示を
互いに与えたり受けたりしていました。
その際に彼らの念頭にあったのは
この世の最後の日であり、最後の審判でした。

「ペテロの第一の手紙」の4章の最後は
「世の終わりを待ち望む視点」がキリスト信仰者たちの思いを
二つの方向に導くものであったことをはっきりと示しています。
この視点は、一方では希望を与え、
他方では謙虚さと絶えざる悔い改めへと彼らを導いたのです。

とりわけ12〜14節には、
この希望の視点が次のように提示されています。
たしかに今は厳しく困難な試練の時です。
にもかかわらず、
キリスト信仰者が罪や死や悪魔の圧制下から贖い出され
「神様の身内とされた者」として苦しみを受けるのは
大いなる特権であるとも言えます。

また、希望の視点はキリスト信仰者を謙虚にもします。
すべての人間は最後の裁きを受けることになっています。
それは私たちキリスト信仰者の場合も同じです。
実のところ、
この裁きは「神様の家」から開始されることになっています(17節)。

人間にはうかがい知ることのできない裁き主、
人間の心の内を知っておられる神様は、
いわゆる「イデア」や「思潮」などといったものに
還元して把握できる存在などではありません。

キリスト信仰者はひとりひとりが
たった今神様の御前でひざまずき、
最後の裁きの時にも同じようにひざまずくことになるのです。

ペテロはこのように教えることによって、
この手紙で今まで述べてきた「キリスト信仰者としてあるべき生き方」に
はっきりとした意味合いを持たせています。

すなわち「聖なる神様との関わり合いは遊びごとではない」ということです。