2010年10月1日金曜日

「コリントの信徒への第一の手紙」1章18~25節 

  
理に反する十字架の説教 1章18~25節  
  
パウロは、コリントの教会の紛争者のうちの誰が正しく誰が間違っているか、少なくともすぐにはっきり示そうとはしません。
彼は「神様の福音」について語り始めます。
この福音は人間の考えの及ばぬ遥か上方にあるため、福音を敬愛する者が福音をめぐって人間くさい喧嘩を始めるのはありえないことです。
キリストについての福音は、人間的な教えでも人間が捏造した教えでもありません。
人に福音の宣教をゆだねることによって、神様は、「人間の賢さを無意味なものにする」という預言を成就なさいます(「イザヤ書」29章14節)。
キリストの誕生、死、復活以前に、神様は御自分の偉大な知恵と義とを預言者に宣教させました。
しかし、人々は福音に背を向け、神様を無視した生活を続けました。
これに対する神様の答えは、御自分の知恵を受け入れなかった人間たちにまったく愚かな教えを与えることでした。
それがキリストについての福音です。
福音は人間的な理性の限界を超えるものです。
ユダヤ人は大いなる奇跡を、ギリシア人は鉄壁の論理と深い知恵を要求します。
人間の知恵はいつでも神様を隅に追いやるものです。
にもかかわらず、神様は福音を皆に宣べ伝えるようになさいました。
神様が信じるように召された者は福音を信じます。
まさにこれは、神様の愚かさや弱さでさえも人間の最高の知恵とはまったく別格のものだ、ということをよく示しています。
   
注意深い読者なら腰を抜かしてしまうような表現をパウロはここで用いています。
もしも主の使徒がこのように話さなければ、誰一人「神様の愚かさ」などという言葉を口にする勇気などは持ち合わせてはいないことでしょう。
しかしパウロは、あえてこのように言うことによって、福音の核心を信じがたいほど深く探り当てているのです。