2026年8月10日月曜日

「テトスへの手紙」ガイドブック テトスについて(その1)

 「テトスへの手紙」ガイドブック

 

フィンランド語版執筆者 パシ・フヤネン

(フィンランド・ルーテル福音協会、牧師)

 

日本語版翻訳・編集者 高木賢

(フィンランド・ルーテル福音協会、神学修士)

 

聖書の引用は原則として口語訳によっています。

引用箇所に章と節のみが記されている場合は

「テトスへの手紙」からの引用です。

ただし「「コリントの信徒への第一の手紙」1章13節および3章2節」

といった表記の場合には

どちらも「コリントの信徒への第一の手紙」からの引用です。

また日本語版では

聖書の箇所を明示したり原語の文法的な補足説明を加えたりするなど

日本の読者を考慮した編集がある程度なされています。

 

 

 

「テトスへの手紙」について

 

「テトスへの手紙」1章 異端との戦い

「テトスへの手紙」2章 教えと信仰生活

「テトスへの手紙」3章 この世で生きるキリスト信仰者として

 

 

テトスについて(その1)

 

テトスは新約聖書で13回その名が出てきます

(「テトスへの手紙」1章4節、

「コリントの信徒への第二の手紙」2章13節

および7章6、13、14節

および8章6、16、23節

および12章18節(2回)、

「ガラテアの信徒への手紙」2章1、3節、

「テモテへの第二の手紙」4章10節)。

しかし驚くべきことに「使徒言行録」には彼の名は一度も出てきません。

これはテトスがルカの親戚だった(もしかしたら兄弟でさえあった)

からではないかという推測もなされていますが、

たんなる仮説にすぎず確実なことは何も言えません。

            

テトスはギリシア人キリスト信仰者

すなわち異邦人の背景を持つキリスト信仰者でした。

ユダヤ人キリスト信仰者たちから要求されたにもかかわらず、

パウロはテトスに割礼を受けさせることを断固として拒絶しました

「ガラテアの信徒への手紙」2章1〜4節)。

それとは対照的に、

パウロはテモテが割礼を受けることは承認しています

(「使徒言行録」16章3節)。


ユダヤ人の母親を持つテモテはユダヤ人とみなされたため、

パウロは

割礼を受けていないユダヤ人を自分の伝道グループに同行させることから

生ずるかもしれないユダヤ人たちとの間の軋轢を

できるかぎり避けたかったのです。


しかし、テモテとは異なりテトスは異邦人でした。


パウロがエルサレムに赴いて使徒会議に参加したのは

「異邦人も割礼を受けるべきかどうか」について

そこで議論されることになっていたからです

(「ガラテアの信徒への手紙」2章1節、

「使徒言行録」15章1〜2節)。


このことを踏まえると、

テトスはいわば「テスト・ケース」であったことがわかります。


もしもテトスが割礼を受けなければならないとしたら、

他の異邦人キリスト信仰者も皆

テトスと同じように割礼を受けなければならないことになります。

しかし、もしもテトスが割礼を受ける必要がないのなら、

他の異邦人キリスト信仰者も皆

割礼を受ける必要がないことになります。


パウロはすでに40年代にはテトスと知り合っていました。

テトスはシリヤのアンテオケのキリスト信仰者であり、

おそらくパウロの伝道を通してキリスト信仰者になったものと思われます

(1章4節)。

2026年6月5日金曜日

「テモテへの第二の手紙」ガイドブック 「テモテへの第二の手紙」4章19〜22節 終わりの挨拶

終わりの挨拶

「テモテへの第二の手紙」4章19〜22節

 

「プリスカとアクラとに、またオネシポロの家に、よろしく伝えてほしい。」

(「テモテへの第二の手紙」4章19節、口語訳)

 

プリスカとアクラはユダヤ人キリスト信仰者の夫婦でした。

クラウデオ帝が首都ローマからユダヤ人を追放するよう命じたために

彼らはローマを退去せざるを得なくなりました(「使徒言行録」18章2節)。

コリントでパウロに出会い同僚となった彼らはパウロと共にエフェソに出発し

そこに留まりました。

しかしパウロはさらにエルサレムへと旅を続けました

(「使徒言行録」18章18〜28節)。

 

パウロは「ローマの信徒への手紙」(16章3節)で

プリスカとアクラに挨拶を送っています。

その時点で彼らはローマに帰還していたのです。

しかし「テモテへの第二の手紙」の書かれた時には

ふたたびエフェソに来ていました。

パウロが「コリントの信徒への第一の手紙」を

エフェソから書き送ったのはほぼ確実であり、

その末尾には

「アクラとプリスカとその家の教会から、主にあって心からよろしく。」

(「コリントの信徒への第一の手紙」16章19節)とあります。

 

オネシポロは「テモテへの第二の手紙」のはじめのほうにも

その名が挙げられています(「テモテへの第二の手紙」1章16〜18節)。

 

「エラストはコリントにとどまっており、

トロピモは病気なので、ミレトに残してきた。」

(「テモテへの第二の手紙」4章20節、口語訳)

 

エラストはコリント市の会計係であり(「ローマの信徒への手紙」16章23節)

パウロとテモテの同僚でもありました(「使徒言行録」19章22節)。

 

トロピモは小アジヤ出身であり(「使徒言行録」20章4節)、

パウロの第三次伝道旅行に同行し、エルサレムまで一緒に来ています

(「使徒言行録」21章29節)。

ですからトロピモがミレトに残ったのはこの第三次伝道旅行の時ではなく

もっと後になってからのことになります。

 

エフェソの港町であったミレトは

エフェソの南方およそ80キロメートルのところにありました。

 

「冬になる前に、急いできてほしい。

ユブロ、プデス、リノス、クラウデヤならびにすべての兄弟たちから、

あなたによろしく。」

(「テモテへの第二の手紙」4章21節、口語訳)

 

当時、冬季には帆船による航海は行われませんでした

(「使徒言行録」27章12節および28章11節)。

 

プデスとクラウデヤはラテン名です。

このことは「テモテへの第二の手紙」がローマで書かれたことを裏付けます。

原語で言えば「ウス」(us”)という語尾をもつ名前はラテン名であり、

「オス」(os”)という語尾をもつ名前はギリシア名です。

ギリシア語で「ユブロ」は「エウブーロス」Euboulosといい、

「リノス」(Linosとともに

「オス」という語尾をもつ名前(ギリシア名)になっています。

 

エイレナイオスとエウセビオスという二人の教父は

ペテロとパウロの殉教後ローマの教会長

(ローマ・カトリック教会の呼称によれば「法皇」)になった最初の人物が

リノスであったと伝えています。

ただし、この名は当時珍しいものではなかったので、

このリノスが21節のリノスと同一人物であるかどうかについては

何も言えません。

 

上掲の節はパウロがまったくの孤独ではなかったことを示しています。

パウロにはまだ数人の信仰の兄弟姉妹がローマに残っていたのです

(4章16節も参考になります)。

 

「主が、あなたの霊と共にいますように。

恵みが、あなたがたと共にあるように。」

(「テモテへの第二の手紙」4章22節、口語訳)

 

手紙の末尾の挨拶は複数形で「あなたがた」宛になっています。

この手紙は私的なものではなく

一般に読まれることを想定して書かれていたのです。

しかしこの手紙がテモテ宛に書かれたものでもあることは

上節のはじめに単数形を用いて

「主が、あなたの霊と共にいますように。」

と書かれていることからわかります。

 

(以上で「テモテへの第二の手紙」はおわりです。)

2026年5月18日月曜日

「テモテへの第二の手紙」ガイドブック 「テモテへの第二の手紙」4章14〜18節 ひとり取り残された使徒

 ひとり取り残された使徒

「テモテへの第二の手紙」4章14〜18節

 

「わたしの第一回の弁明の際には、

わたしに味方をする者はひとりもなく、

みなわたしを捨てて行った。

どうか、彼らが、そのために責められることがないように。」

(「テモテへの第二の手紙」4章16節、口語訳)

 

この節はローマでパウロの受けた最初の裁判と投獄

(「使徒言行録」28章16、30〜31節)について述べている、

という解釈があります。

それによると次の4章17節は

パウロのエスパニヤ旅行での様子を描写していることになります。

しかしこれが最も自然な解釈であるとは必ずしも言えません。

 

パウロの案件はローマ当局の取り調べを受けました。

しかしローマ在住のキリスト信仰者たちはパウロを弁護しようとしませんでした。


使徒教父文書の一つである

「コリントの信徒への第一のクレメンスの手紙」(5章5節)からは、

パウロが死刑判決を受けることになったのは

ローマのキリスト信仰者たちがパウロを積極的に弁護しなかったことも

影響したらしいことが読み取れます

(「(律法をめぐる)激しい諍いのために

パウロは忍耐によって勝利の冠を得た」)。


この問題については

「フィリピの信徒への手紙」1章15〜18節も参考になります。

 

しかしパウロはそのようなローマのキリスト信仰者たちのことを赦しました。

パウロのこの姿勢には

イエス様の十字架の上での御言葉

(「父よ、彼らをおゆるしください。

彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」)

に通じるものがあるのではないでしょうか

(「ルカによる福音書」23章34節)。

 

「しかし、わたしが御言を余すところなく宣べ伝えて、

すべての異邦人に聞かせるように、

主はわたしを助け、力づけて下さった。

そして、わたしは、ししの口から救い出されたのである。」

(「テモテへの第二の手紙」4章17節、口語訳)

 

今回の裁判でもパウロは自らの信仰について証しました

(「使徒言行録」24章10〜21節および26章1〜32節。

また「使徒言行録」23章11節および27章23〜24節も参考になります)。

 

パウロはローマ帝国の正規な国民であったため

(「使徒言行録」22章25〜29節)、

獅子の餌食として闘技場に投げ出されることはありませんでした。

「わたしは、ししの口から救い出されたのである」は比喩であり、

パウロがきわめて困難な状況から救い出されたことを表しています。


なお「ペテロの第一の手紙」5章8節で

サタンは「ほえたけるしし」と呼称されています。

 

「主はわたしを、すべての悪のわざから助け出し、

天にある御国に救い入れて下さるであろう。

栄光が永遠から永遠にわたって主にあるように、アァメン。」

(「テモテへの第二の手紙」4章18節、口語訳)

 

この節は「悪しき者からお救いください。」

(「マタイによる福音書」6章13節)という主の祈りの一節を想起させます。

2026年5月8日金曜日

「テモテへの第二の手紙」ガイドブック 「テモテへの第二の手紙」4章9〜15節 具体的な指示(その2)

 具体的な指示(その2)

「テモテへの第二の手紙」4章9〜15節

 

パウロは第二次宣教旅行にマルコが同行することに反対しました。

というのもマルコは第一次宣教旅行の途中で

パウロ一行から離脱してしまったからです(「使徒言行録」15章38節)。

マルコを同行させるかどうかで意見が対立したために

パウロとバルナバは以後別行動をとるようになります。

しかしパウロとマルコの関係は

この手紙の書かれた時点では修復されていたようです。

マルコは

「コロサイの信徒への手紙」4章10節(「バルナバのいとこマルコ」)と

「フィレモンへの手紙」24節でその名前が挙げられています。

一度は壊れた関係を神様が修復してくださったおかげで、

パウロとマルコはふたたび福音伝道の同僚になれました。

 

テキコはしばしばパウロの手紙の配達人の役目を引き受けていました

(「エフェソの信徒への手紙」6章21〜22節

(「主にあって忠実に仕えている愛する兄弟テキコ」)、

「コロサイの信徒への手紙」4章7〜8節、

「テトスへの手紙」3章12節)。


「テモテへの第二の手紙」も

テキコがエフェソに配達したのではないかと推測されています。

おそらくパウロはテキコをエフェソにテモテの「代理」として派遣することで、

テモテがパウロに会いにローマまで訪ねて来るようにしたかったのでしょう。

 

「あなたが来るときに、

トロアスのカルポの所に残しておいた上着を持ってきてほしい。

また書物も、特に、羊皮紙のを持ってきてもらいたい。」

(「テモテへの第二の手紙」4章13節、口語訳)

 

パウロはトロアスで捕まったのではないかという説が

上節に基づいて提案されています。

このように考えると

パウロの上着や高価な書物がトロアスに残されていた理由を説明できるからです。

 

また上節は

「テモテへの第二の手紙」がパウロ自身の書いた手紙である

という証拠でもあります。

この手紙をずっと後にパウロ以外の誰かが書いたものと仮定すると、

パウロの上着についてわざわざ手紙で言及した理由がわからなくなるからです。

 

当時の「書物」は安価なパピルスに記されるのが普通でした。

重要事項のみ高価な羊皮紙に書き記されたのです。

パウロの羊皮紙の書物に書かれていたのは

旧約聖書の一部あるいは全部だったのではないかとも推測されています。

 

「銅細工人のアレキサンデルが、わたしを大いに苦しめた。

主はそのしわざに対して、彼に報いなさるだろう。」

(「テモテへの第二の手紙」4章14節、口語訳)

 

上節の「アレキサンデル」は「テモテへの第一の手紙」1章20節に出てくる

アレキサンデルと同一人物かもしれません。

しかしエフェソでの騒乱の際に発言したユダヤ人アレキサンデル

(「使徒言行録」19章33〜34節)とは違う人物であったと思われます。

 

「主はそのしわざに対して、彼に報いなさるだろう」という言葉は、

この件に関してテモテや教会が

個人的にアレキサンデルに報復する必要はないし、するべきでもなく、

すべてを神様にお委ねするべきであるという意味です

(「サムエル記下」3章39節も参考になります)。

 

「あなたも、彼を警戒しなさい。

彼は、わたしたちの言うことに強く反対したのだから。」

(「テモテへの第二の手紙」4章15説、口語訳)

 

「自分を裏切ってローマ当局に引き渡したアレキサンデルに注意せよ」

とパウロはここでテモテに警告しているという仮説もありますが、

これは推測にすぎません。

2026年4月30日木曜日

「テモテへの第二の手紙」ガイドブック 「テモテへの第二の手紙」4章9〜15節 具体的な指示(その1)

 具体的な指示(その1)

「テモテへの第二の手紙」4章9〜15節

 

「テモテへの第二の手紙」4章の終わりには17人の名前が挙げられています。

 

パウロはテモテができるだけ早く、遅くとも冬の到来する前までには

彼のもとに来てくれることを望んでいました(4章9、21節、1章4節)。

地中海のこの海域における当時の航海は

11月の半ばから3月の初頭までは困難だったからです。

 

「あなたが来るときに、

トロアスのカルポの所に残しておいた上着を持ってきてほしい。

また書物も、特に、羊皮紙のを持ってきてもらいたい。」

(「テモテへの第二の手紙」4章13節、口語訳)

 

寒い冬が来る前に上着も手元にあったほうがよい

パウロが願ったのは当然でした。

 

ローマからエフェソまでの旅は約2週間かかりました。

パウロからの手紙を受け取り次第すぐに出発した場合でも

テモテがパウロのもとに到着するのは早くても1ヶ月後だったでしょう。

 

「デマスはこの世を愛し、わたしを捨ててテサロニケに行ってしまい、

クレスケンスはガラテヤに、テトスはダルマテヤに行った。」

(「テモテへの第二の手紙」4章10節、口語訳)

 

デマスの顛末をめぐっては盛んに議論されてきました。

「この世を愛すること」という言い回しは

後の時代には「殉教を回避すること」という意味をもつようになりましたが、

これは必ずしも「信仰を捨てること」ではありません。

おそらく自らの命を惜しんだデマスは

パウロを置き去りにして故郷のテサロニケに帰ってしまったのでしょう

(4章16節も参考になります)。

西暦100年代に遡る伝承によれば、

デマスは異端者ヘルモゲネの追従者になったとされています

(ヘルモゲネについては1章15節に書かれています)。

 

以前のパウロの手紙

(「コロサイの信徒への手紙」4章14節、

「フィレモンへの手紙」24節)では

ルカなどと共にパウロの同労者のひとりとしてデマスの名前が挙げられています。

 

上節の「クレスケンス」は私たちには知られていない人物です。

彼についての記述は新約聖書ではこの箇所だけです。

 

上節の「ガラテヤ」は「ガリア」を意味しているとする仮説もあります。

しかしガラテヤ人たちが元々はガリア出身であったことを考えると、

ここは「ガラテヤ」のままで正しいと思われます。

 

「ダルマテヤ」は

イルリコ(「ローマの信徒への手紙」15章19節)のことであり、

現在のバルカン半島西部にあります。

 

テトスはクレタ島での伝道をやり遂げました。

 

「ただルカだけが、わたしのもとにいる。

マルコを連れて、一緒にきなさい。

彼はわたしの務のために役に立つから。」

(「テモテへの第二の手紙」4章11節、口語訳)

 

「ルカによる福音書」と「使徒言行録」を書き記したルカは

「コロサイの信徒への手紙」4章14節(「愛する医者ルカ」)や

「フィレモンへの手紙」24節にもその名が登場します。

2026年4月20日月曜日

「テモテへの第二の手紙」ガイドブック 「テモテへの第二の手紙」4章1〜8節 私は自分の仕事をやり遂げた(その2)

私は自分の仕事をやり遂げた(その2)

「テモテへの第二の手紙」4章1〜8節


 

「しかし、あなたは、何事にも慎み、苦難を忍び、

伝道者のわざをなし、自分の務を全うしなさい。」

(「テモテへの第二の手紙」4章5節、口語訳)

 

教会の責任者であるテモテは

異端教師たちの人気の高さや聴衆たちの反対に惑わされることなく

何が真理かを見極めて福音を宣教していかなければなりません。

 

「わたしは、すでに自身を犠牲としてささげている。

わたしが世を去るべき時はきた。

わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、

走るべき行程を走りつくし、

信仰を守りとおした。」

(「テモテへの第二の手紙」4章6〜7節、口語訳)

 

今や死が間近に迫っていたパウロは

「すでに自身を犠牲としてささげている」と言っています。

なお、旧約聖書の「民数記」15章や28章には

「主への捧げ物」についての記述があります。

 

信頼のおけるキリスト教の古い伝承によれば、

パウロは剣で殺害されました。

彼は信仰のゆえに自分の血を流すことになったのです。

 

「今や、義の冠がわたしを待っているばかりである。

かの日には、公平な審判者である主が、それを授けて下さるであろう。

わたしばかりではなく、主の出現を心から待ち望んでいたすべての人にも

授けて下さるであろう。」

(「テモテへの第二の手紙」4章8節、口語訳)

 

「世を去るべき時」はパウロにとってキリストの御許に辿り着くこと

(「フィリピの信徒への手紙」1章23節)や

信仰の勝利の印である「義の冠」をいただくことを意味していました。

 

ここでもパウロはキリスト信仰者のこの世での信仰生活を

運動競技にたとえています

(「コリントの信徒への第一の手紙」9章24〜27節、

「フィリピの信徒への手紙」3章12〜16節、

「テモテへの第一の手紙」6章11〜12節、

「テモテへの第二の手紙」2章5節)。

 

人間にとってこの世での生活がすべてではないこと、

そしてこの人生の後にようやく「目的地」に辿り着けることを

パウロははっきり知っていました

(「使徒言行録」20章24節、

「コリントの信徒への第二の手紙」5章1〜10節)。

 

パウロはローマ皇帝ネロから

有罪の死刑判決を言い渡されるのを待つばかりの身となっていました。

パウロは神様から

「キリストへの信仰のゆえに義とされた者」

という宣言をすでに受けていましたが、

信仰にあって死んだ後になって

ようやく義の栄冠と永遠の命を神様からいただけるので、

その時を待ち望んでいたのです。

2026年4月17日金曜日

「テモテへの第二の手紙」ガイドブック 「テモテへの第二の手紙」4章1〜8節 私は自分の仕事をやり遂げた(その1)

 忍耐の勧め

「テモテへの第二の手紙」4章

 

私は自分の仕事をやり遂げた

「テモテへの第二の手紙」4章1〜8節(その1)

 

今から扱う箇所はまるで遺言状のようです。

自分に割り当てられた仕事を成し遂げた使徒パウロが

福音宣教の責任を他の人たちに受け継がせる時がついに来たのです。

 

「御言を宣べ伝えなさい。

時が良くても悪くても、それを励み、

あくまでも寛容な心でよく教えて、

責め、戒め、勧めなさい。」

(「テモテへの第二の手紙」4章2節、口語訳)

 

この節でパウロが

「やりかたが良くても悪くても」ではなく

「時が良くても悪くても」と言っていることには

相応の理由があります。


もしかしたらここでパウロは

かつて彼の説教をさえぎった地方総督ペリクスの

「きょうはこれで帰るがよい。

また、よい機会を得たら、呼び出すことにする」

(「使徒言行録」24章25節)

という言葉を思い浮かべていたのかもしれません。


福音を聞くための「よい機会」は

悔い改めない人には決して訪れることがありません。

 

「人々が健全な教に耐えられなくなり、

耳ざわりのよい話をしてもらおうとして、

自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め、

そして、真理からは耳をそむけて、

作り話の方にそれていく時が来るであろう。」

(「テモテへの第二の手紙」4章3〜4節、口語訳)

 

福音の宣教は時が経つとともに容易になるものではありません。


むしろ逆です。


人々は正しい教えを聞かずに済ませるために、

彼らにとって都合の良いことを教える新しい教師たちを

たえず探し求めるものだからです

(「ヨハネによる福音書」9章4節も参考になります)。

 

しかしキリスト教信仰で宣べ伝えるべきなのは、

人々が聞きたがっていることではなく

神様が彼らに聴かせたいことなのです。

 

福音を聞かず信じもしない人の生活は

何か別の教えによって満たされてしまいます

(「マタイによる福音書」12章43〜45節)。


「作り話」の危険について

パウロは以前すでに警告していました

(「テモテへの第一の手紙」1章4節)。

「作り話」はギリシア語で「ミュトス」といい

「神話」という意味もあります。