2023年3月14日火曜日

「ハバクク書」ガイドブック 「ハバクク書」1章2〜4節 社会に横行する悪行を嘆く預言者

 社会に横行する悪行を嘆く預言者 「ハバクク書」1章2〜4節

 

主よ、わたしが呼んでいるのに、

いつまであなたは聞きいれて下さらないのか。

わたしはあなたに「暴虐がある」と訴えたが、

あなたは助けて下さらないのか。

あなたは何ゆえ、わたしによこしまを見せ、

何ゆえ、わたしに災を見せられるのか。

略奪と暴虐がわたしの前にあり、

また論争があり、闘争も起っている。

それゆえ、律法はゆるみ、公義は行われず、

悪人は義人を囲み、公義は曲げて行われている。」

(「ハバクク書」1章2〜4節、口語訳)

 

この箇所でハバククは

当時のユダ王国で横行した悪事の数々について述べています。

それに対して後に出てくる1章12〜17節では

バビロニア人たちの悪名高い残酷さや悪辣さを描写しています。

また1章5〜6節ではバビロニアがユダを

その悪行のゆえに罰するために攻撃してくることが語られています。

 

上掲の箇所旧約聖書の「哀歌」と同じ形式で書かれています。

例えば「詩篇」3、13、22篇もこれと似た状況を描写しています。

 

「聖歌隊の指揮者によってうたわせたダビデの歌

主よ、いつまでなのですか。

とこしえにわたしをお忘れになるのですか。

いつまで、み顔をわたしに隠されるのですか。

いつまで、わたしは魂に痛みを負い、ひねもす心に

悲しみをいだかなければならないのですか。

いつまで敵はわたしの上にあがめられるのですか。

わが神、主よ、みそなわして、わたしに答え、

わたしの目を明らかにしてください。

さもないと、わたしは死の眠りに陥り、

わたしの敵は「わたしは敵に勝った」と言い、

わたしのあだは、わたしの動かされることによって喜ぶでしょう。

しかしわたしはあなたのいつくしみに信頼し、

わたしの心はあなたの救を喜びます。

主は豊かにわたしをあしらわれたゆえ、

わたしは主にむかって歌います。」

(「詩篇」13篇、口語訳)

 

「いつまで」は「哀歌」でもよく使われている言葉ですが、

「ハバクク書」1章2節の他にも

上掲の「詩篇」13篇2〜3節や「イザヤ書」6章11節などに出てきます。

もうひとつの典型的な言葉は「何ゆえ」です。

これは「ハバクク書」1章3節の他にも例えば「詩篇」22篇2節、

「エレミヤ書」20章18節、「哀歌」5章20節に登場します。

 

ユダ王国では数々の悪事が行われているにもかかわらず、

それを神様はあえて容認しておられる、とハバククは感じていました。

何ゆえに神様はそれらの悪行を妨げなかったのでしょうか

(「ハバクク書」1章2節)。

神様は御自分の民を助け支えることを約束なさっていたはずではありませんか。

旧約聖書にはこのテーマに関連する箇所がたくさんあります。

例えば「申命記」20章4節、「詩篇」18篇41節、33篇16〜19節、

「イザヤ書」59章1〜2節、「エレミヤ書」42章7〜11節などです。

同じような疑問に苦しめられた旧約聖書の代表的な人物としては

ヨブ(「ヨブ記」6章28〜30節)や

「詩篇」の詩人アサフ(「詩篇」73篇)を挙げることができます。

 

「今、どうぞわたしを見られよ、

わたしはあなたがたの顔に向かって偽らない。

どうぞ、思いなおせ、まちがってはならない。

さらに思いなおせ、

わたしの義は、なおわたしのうちにある。

わたしの舌に不義があるか。

わたしの口は災を

わきまえることができぬであろうか。」

(「ヨブ記」6章28〜30節、口語訳)

 

神様を平気で貶めている悪辣な連中は

何ゆえに神様から妨げられることなく悪を行い続けているのでしょうか。

悲惨な現実は少なくとも人間の目にはそのようなものとして映ったのです。

ユダ王国はエホヤキムの治世(在位期間は紀元前609〜597年)に

すっかり汚職に塗れ、法廷さえも賄賂によって左右されていました

「ハバクク書」1章3〜4節)。

2023年3月9日木曜日

「ハバクク書」ガイドブック 「ハバクク書」1章1節 表題

 表題 「ハバクク書」1章1節

 

「預言者ハバククが見た神の託宣。」

(「ハバクク書」1章1節、口語訳)

 

「ハバクク書」の預言全体の導入部はとても簡潔に書かれています。

 

「託宣」(1章1節)は原語のヘブライ語では「マッサー」といいます。

この言葉には「重荷」という別の意味もありますが、

「エレミヤ書」によれば

後者の意味でこの言葉を使用する預言者は主によって罰せられます。

 

「この民のひとり、または預言者、または祭司があなたに、

『主の重荷はなんですか』と問うならば、彼らに答えなさい、

『あなたがたがその重荷です。

そして主は、あなたがたを捨てると言っておられます』と。

そして、『主の重荷』と言うその預言者、祭司、または民のひとりを、

その家族と共にわたしは罰する。」

(「エレミヤ書」23章33〜34節、口語訳)

 

「託宣」はイスラエル以外の何か他の対象についての

予言を表す言葉として用いられるのが一般的でした。

そして「ハバクク書」の数々の予言の大部分もバビロニアに関わるものでした。

 

「ハバクク」に該当するアッカド語の「ハッバクーク」には

「園の植物」という意味があります。

旧約聖書の大部分はヘブライ語で書かれており、

アッカド語はヘブライ語と同じセム語族に属する古代言語です。

セム語には「語根」と呼ばれる三個のアルファベットの組み合わせが

それから派生する様々な単語の基本的な意味を規定するという特徴があります。

また「ハバクク」と同じ語根から派生したヘブライ語の動詞「ハーバク」には

「抱きしめる」や「手で掴む」という意味があります。

人名としての「ハバクク」にも

そのような意味が込められているとも考えられます。

2023年3月3日金曜日

「ハバクク書」ガイドブック「義人はその信仰によって生きる」

「ハバクク書」ガイドブック

「義人はその信仰によって生きる」

ここで当時のユダ王国の状況を振り返ってみることにしましょう。

敬虔なヨシヤ王(在位期間は紀元前640〜609年)は

前述のカルケミシュの戦いに向けて進軍するエジプトに戦いを挑み

メギドの地で戦死してしまいます。

ユダ王国を継承したエホアハズはわずか三ヶ月間在位しただけでした。

その次に王となったのは悪辣さで知られたエホヤキムです。

彼は紀元前609〜597年の間、ユダの王位にありました

(「歴代志下」36章1〜10節)。

 

絶望的に見える混迷の時代に主の預言者ハバククは

神様が偉大で全能なるお方であることを「選ばれた民」

すなわちイスラエルの民に説き聞かせます。

主はたしかに一時的にではあれ

バビロニア(「カルデヤびと」)が強大な権力を掌握することを許されました。

しかしそのバビロニアもいずれは主の御心によって滅ぼされることになる

ということについてハバククは語りました。

そしてその通りになったのです。

 

預言者ハバククは熱心に祈る人であり、

詩的な表現を巧みに駆使して預言を書き記す人でもあったことが

「ハバクク書」からは伝わってきます。

この書で彼は神様との対話を試みています。

「ハバクク書」1〜2章はおおよそ次のように区分することができるでしょう。

 

1章2〜4節 預言者の第一の嘆き

1章5〜11節 神様からの第一の返答

1章12〜17節 預言者の第二の嘆き

2章1〜20節 神様からの第二の返答

 

どうして神様は悪辣なバビロニア王国の力を使って

ユダ王国を罰するようなことをなさったのでしょうか。

この疑問をハバククは神様に素直にぶつけます。

バビロニアはユダよりもさらにひどいやりかたで神様を蔑ろにする

邪悪な国だったからです。


このもっともな質問に対する神様からの返答は次のようなものでした。


義人はその信仰によって生きる(「ハバクク書」2章4節)。

それに対し、神様を蔑ろにする悪辣な者は裁きを受ける。

最終的にはバビロニアもまた裁きを受けることになる

(「ハバクク書」2章7〜8節)。


事実、紀元前539年にペルシアがバビロニアに勝利し、

ユダの捕囚民を解放することになります。

 

ハバククは真の神様がいずれは世界中であまねく知られるようになる

という幻を受けていました(「ハバクク書」2章14節)。

すなわち、彼は主の御心を正しく伝える宣教活動が

世界中で大規模に展開される未来を予言していたことになります。

 

1940年代に死海のほとりのクムラン洞窟で発見された

いわゆる「死海文書」には「ハバクク書」の釈義書も含まれていました。

しかしそれには「ハバクク書」3章の説明が欠けています。

ともあれ、この書がクムランで発見されたことから、

紀元前後の時期のユダヤ教において

「ハバクク書」が重要視されていたことがわかります。

 

また「ハバクク書」には

使徒パウロや宗教改革者マルティン・ルターにとって極めて重要になった

聖句が含まれています。

それは

「義人はその信仰によって生きる」(「ハバクク書」2章4節、口語訳)

という一節です。

この言葉は新約聖書の「ローマの信徒への手紙」1章17節や

「ガラテアの信徒への手紙」3章11節にも引用されています。

預言者ハバクク自身にとってこの言葉は、

真の神様への信仰を守り通すイスラエル人たちが

バビロニアという異国で捕囚の民として過ごす時期にも

信仰によって「主の民」として生き抜くことができる

という希望と慰めを与えてくれるものでした。


信仰を失った国民や人間は世界の混乱の只中で

正しい道を見失い行方が分からなくなってしまうものです。

しかしその一方で、

信仰を保ち続ける人々はどのような苦境の只中にあっても

耐えて生きていくことができます。

2023年3月1日水曜日

「ハバクク書」ガイドブック はじめに

 「ハバクク書」ガイドブック

 

フィンランド語版著者 パシ・フヤネン

(フィンランド・ルーテル福音協会牧師)


日本語版翻訳・編集者 高木賢

(フィンランド・ルーテル福音協会、神学修士)

 

フィンランド語版ガイドブックの表現や内容には

ある程度の編集が加えられています。

 

日本語版では「ハバクク書」全文およびその他多くの聖書の箇所を

具体的に本文で明示しました。

聖書の引用は「口語訳」によっています。

 

 

なぜ神様は沈黙しておられるのか?

 

はじめに 

 

「義人はその信仰によって生きる」

 

「ハバクク書」の預言者ハバククについては殆ど何も知られていません。

例えば父親の名前や本人の出身地などについても

旧約聖書には記述が見当たりません。

ハバククはレビ族に属する神殿奏者だったのではないかという推論もあります。

「ハバクク書」3章は「詩篇」の形式で書かれており、

しかもそこには演奏する際の注意事項まで付記されているからです

(「ハバクク書」3章1、3、9、13、19節)。

 

このようにハバククは謎に包まれた人物です。


それでも

「ハバクク書」に記されている幻がいつの時代に該当するものか

確定するのは比較的容易であると言えます。


中近東地域の権力を掌握したカルデア人によって

ユダ王国とその首都エルサレムが滅ぼされる混迷の時代が到来することを

ハバククは予言しました。

このことから

ハバククは預言者エレミヤの同時代人であったのではないかと推測されています。

 

アッシリア帝国のアッシュルバニパル王が紀元前627年に死去すると、

中近東世界は後継者をめぐって大混乱に陥り、

その政治的な空白に乗じて権力奪取を目論む多くの者があらわれました。


その結果、紀元前612年にアッシリア帝国およびその首都ニネヴェは

メディア、エラム、バビロニア(世界史に登場する新バビロニア王国)

の攻撃を受けて滅亡します。


さらに、この状況を自国の権益拡大に利用しようとした

エジプトとバビロニアの間にも戦争が起こります。


そして、紀元前605年のカルケミシュの戦いに勝利したのは

ネブカドネザル二世に率いられた新バビロニア王国でした。


これ以降、エジプトは中近東地域での権勢を失うことになります。


「ハバクク書」に収められている予言が

このカルケミシュの戦いからまもない時期に書き記されたものであるのは

ほぼ確実です(「ハバクク書」1章12節)。


また、この戦いは次の「エレミヤ書」の箇所でも言及されています。

 

「エジプトの事、すなわちユフラテ川のほとりにある

カルケミシの近くにいるエジプトの王パロ・ネコの軍勢の事について。

これはユダの王ヨシヤの子エホヤキムの四年に、

バビロンの王ネブカデレザルが撃ち破ったものである。

その言葉は次のとおりである、」

(「エレミヤ書」46章2節、口語訳)

 

以上に述べた歴史的考察から、

預言者ハバククの活動時期は紀元前605〜598年頃であったと

推定することができるでしょう。

紀元前597年に始まった最初のバビロン捕囚について

「ハバクク書」は触れていないように見えるからです。

2023年1月30日月曜日

「恵みに基づく自信」「恵みに基づく自信」とはどのようなものでしょうか。

「恵みに基づく自信」  

質問)「恵みに基づく自信」とはどのようなものでしょうか。

 

人間は自分自身の弱さに向き合い、

神様の憐れみに満ちた恵みを受け入れることで

健全な自信を持てるようになります。

私はこれを「恵みに基づく自信」と呼んでいます。

 

例えばパウロは聖書の多くの箇所で

「キリスト信仰者たちを迫害した過去を持つ自分は

すべての使徒たちの中で最も卑しい存在である」と告白しています。

それでもなお彼には健全な自信があったと言えます。

またパウロの身体には何らかの「棘」が刺さっていました。

彼は主なる神様にその棘が取り除かれるように嘆願しました。

ところがイエス様はパウロに次のようにお答えになったのです。

 

「わたしの恵みはあなたに対して十分である。

わたしの力は弱いところに完全にあらわれる。」

(「コリントの信徒への第二の手紙」12章9節前半、口語訳)

 

このイエス様の御言葉のおかげで、

パウロは自らの弱さについて自信を持って誇ることができたのです。

 

「それだから、キリストの力がわたしに宿るように、

むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。

だから、わたしはキリストのためならば、

弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。

なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。」

(「コリントの信徒への第二の手紙」12章9節後半〜10節、口語訳)

2023年1月27日金曜日

「恵みに基づく自信 」自分の弱さを抱えながら生きていくにはどうしたらよいのでしょうか。

恵みに基づく自信  

質問) 自分の弱さを抱えながら生きていくにはどうしたらよいのでしょうか。

 

私自身(ユハ・ヘイノネン)の例を挙げて説明しますね。

私は吃らずに言葉を発することができないのです。

中学校時代の私は自分が他の同級生たちよりも劣っていると感じていました。

この劣等感にどう対処すべきか、本当に長い間思い悩み続けました。

そして劣等感から解放されて先に進んでいけるようにしてくれる

二つの視点をようやく見つけることができたのです。

 

一つ目の視点は「弱さを抱えているのは私だけではない」という発見でした。

あるとき私の友人は腰に肉体的欠陥を抱えていることを打ち明けてくれました。

「人は皆、人目から隠そうとしている弱さを抱えているものなのだ」

と私はそのときはじめて気づいたのです。

聖書によれば、はじめの人間たちが罪に堕落した結果、

彼らの子孫である全人類も同様に各々が自分の弱さを抱えこむようになりました。

 

さらに重要な二つ目の視点は、どうして人間には弱さがつきまとうのか、

その理由を聖書から見つけたことでした。

新約聖書の「コリントの信徒への第一の手紙」には次のような箇所があります。

 

「それだのに神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、

強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、

有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、

すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。

それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである。」

(「コリントの信徒への第一の手紙」27〜29節、口語訳)

 

人は自らの弱さや中途半端さを自覚すると

イエス様なしでは自信を持って生きていけないことがわかるようになります。

自分に関するすべてのことがうまく行っている場合には

私たちはいともたやすく神様の大切さを忘れてしまうものです。

神様は人間一般に共通するこのような「弱さ」をよくご存知なので、

私たち皆に個別の弱さを与えてくださったのです。

 

自信は私たちの人格に深く関わっています。

このことをはっきり理解するように心がけましょう。

完全無欠な存在になろうとする必要はありません。

それどころか私たちは弱さを抱えたありのままの姿で

神様に受け入れていただけるのです。

この聖書の教えを素直に受け入れましょう。

2023年1月25日水曜日

「恵みに基づく自信」自信の形成に影響を与えるものは何でしょうか。自信が持てない場合にはどうすればよいのでしょうか。

恵みに基づく自信 

質問) 自信の形成に影響を与えるものは何でしょうか。

 

自信の形成に最も影響を与えるのは

周囲の人たちからの感想や意見といったフィードバックでしょう。

人間は社会的な存在です。

「他の人たちは私たちについて一体何を考えているのか」

というのは私たちにとって大事です。

また私たちがお互いを受け入れることも大切です。

人間には四つの基本的な欲求があると言われています。

それらは

愛されること、承認されること、評価されること、自分らしく生きる権利です。


これらの中でもとりわけ

「私たちが愛されること」が大事であるのは言うまでもありません。

 

人間の自信の形成に影響を与えるものとしては、

その人が置かれている現実の状況に加えて、

その人の過去や今までの経験などを挙げることができます。

例えば小さい時にいじめられたことがある人は

自信を持ちにくくなる場合が多いのではないでしょうか。

 

 

質問) 自信が持てない場合にはどうすればよいのでしょうか。

 

これは本当に難しい問題です。

たしかに神様は「御自分のかたち」として私たちを創造してくださいました。

しかしこれは

自動的に私たちが自信を持てるようになるのを保証するものではありません。

聖書では神様の天地創造の後に人間の罪への堕落に関する記述が続きます。

はじめの人間たちは神様の御心に反して罪へと堕落しました。

その影響で、

彼らの末裔である人類は皆「罪深い存在」として

この世に生まれるようになってしまいました。

この「生まれながらの罪」(原罪)のせいで、

私たち人間はこの世で常に様々な問題や苦しみに付きまとわれるようになり、

自信を持って生きていくことができなくなってしまったのです。

 

人間にとって

自分の弱さや中途半端さを素直に認めることは決して容易ではありません。

そしてこれが自信のなさを生んでいる原因です。

ともすると人間は自らの弱さや中途半端さのせいで

「ありのままの自分ではきっと周りから認めてもらえない」

という思い込みに支配されやすくなるからです。