2017年6月5日月曜日

私たちは聖餐について何を信じていますか?(その3)

私たちは聖餐について何を信じていますか?(その3)


「「神の子」(イエス・キリストのこと)が
パンとぶどう酒の中に存在している」というのは、
単純すぎる迷信的な考えであると思われるものかもしれません。
天の御国において父なる神様の右の座におられるイエス様が
聖餐の中に臨在なさっていることや、
イエス様がいろいろな場所で行われている聖餐式に
同時に存在なさっていることを、
私たち人間の理性はおそらく理解しえないことでしょう。

こうした事柄を信じるのが困難であるのは、
私たちが聖餐式でイエス様にお会いしていることを
実感できないからでもあります。
イエス様がおられるならそれを感じるはずである、
と私たちは考えがちなのです。

しかし、私たちの理性や感情がどのようであろうとも、
神様の御言葉自体が何を言っているかを見つめて、
それを信じるべきなのです。
このようにすることで私たちは、
信仰を殺してしまう理性の乱用や、
私たちの信仰が自らの感情に左右されてしまう状態から
守られます。

信仰は神様の御言葉に基づくべきものです。
すなわち、
私たちは聖書が言っていることを信じる、ということです。
こうすれば、私たちの信仰は堅く保たれます。
神様の働きは私たち人間の感覚や理解に依存するものではありません。

2017年5月31日水曜日

私たちは聖餐について何を信じていますか?(その2)

私たちは聖餐について何を信じていますか?(その2)
  

どこからイエス様を見つけることができるのでしょうか?

病人が癒されたり、
人が霊に満たされて倒れたり、
などと特別なことが起きているところに、
イエス様はおられるのでしょうか?

それとも、
イエス様の存在を体感できる集会とか、
まれに見る優れた説教者がいるところに、
イエス様はおられるのでしょうか?

イエス様はそういったところにもおいでかもしれません。
しかし、少なくとも、
イエス様は聖餐の中に確実に存在しておられます。
なぜなら、
イエス様御自身がそのように約束してくださったからです。

あなたは聖餐式に行きなさい。
そうすれば、
あなたはイエス様と会うことができます。

あなたのかかえている事柄を聖餐式に携えていきなさい。
そして、それらの重荷をイエス様にあずけなさい。
そうすれば、
イエス様はあなたに、あなたが必要としているものをくださいます。

また、
イエス様に会いたい他の人たちも
聖餐式につらなるようにさそってください。

2017年5月17日水曜日

私たちは聖餐について何を信じていますか?(その1)

私たちは聖餐について何を信じていますか?(その1)

フィンランド語版著者 ヤリ・ランキネン(牧師)
日本語版編集・翻訳者 高木賢(フィンランド・ルーテル福音協会)

「主の聖餐について(De cena Domini)、
キリストのからだと血とは主の聖餐の中に
真に臨在しており(vere adsint)、
それを食する者たちに分け与えられる、
と(私たちの諸教会は)教えています。
そして、これとは異なって教える者たちを認めません。」
(「アウグスブルク信仰告白」第10条、ラテン語版、高木が訳出)。

「これは私のからだです。(中略)これは私の血です」
(「マタイによる福音書」26章26~28節)。

この御言葉によって主イエス様が言われたいのは、
イエス様自らが聖餐のうちに、
ほとんど目立たないかたちをとりながらも、
真に(vere)臨在しておられるということです。

「牧師が聖餐について正しく教えているかどうか、
どうしたら知ることができるのでしょうか?」、
という質問をある人から受けたルターは、
「あなたが聖餐を分け与えているときに
あなたの手に持っているものは何ですか?」
牧師に対して尋ねてみるように、その人に命じました。
聖餐というものがどれほど素晴らしいことであるかわかっているならば、
その牧師は「私は手にイエス様を持っています」と答えることでしょう。


イエス様は聖餐のパンとぶどう酒の中におられます。
それゆえ、
牧師は祝福された聖餐のパンとぶどう酒を高く持ち上げて、
それからそれらに対してひざまずくこともあります。
あるいは、
ルター派の礼拝の聖餐の部において、
礼拝参加者一同が「神の小羊」という歌を祈りつつ歌うさいに、
聖壇の中央にある聖餐のパンとぶどう酒の中におられるイエス様のみが
会衆の賛美の唯一の対象となるようにするために、
牧師が聖壇のわきに退くこともあります。

2017年4月28日金曜日

「祭司」と「牧師」について(その4)

「祭司」と「牧師」について(その4)

原著者 エルッキ・コスケンニエミ
(フィンランド・ルーテル福音協会牧師、神学博士)
翻訳・編集者 高木賢
(フィンランド・ルーテル福音協会、神学修士)
聖書の引用は原則として口語訳に拠っています。

牧師や祭司とは誰のことであり、
人はどのようにして牧師や祭司になるのでしょうか?

「一般祭司制」および「牧者の職制」は、
神様がキリスト教会に与えられた二つの大きな賜物です。
そのどちらも軽んじてはいけません。
また、あたかもそれらが互いに反しあっているかのように
みなすべきでもありません。
両方とも私たちには必要だからです。

旧約聖書の時代には、
イスラエルの民全体が「王直属の祭司階級」という位置付けでした。
にもかかわらず、
聖なる職務を遂行するのは誰でもよいというわけではなく、
それを許されていたのは、そのために任命された祭司たちのみでした。

これとまったく同様の理由から、
一般祭司制に基づいて誰でも主の聖餐式や洗礼式やざんげを執行してもよい、
ということにはならないのです。

もちろんざんげと洗礼とは、
緊急の場合には一般の信徒であっても執行することができます。

聖礼典(洗礼と聖餐)の執行と、
それを通してなされる教会に対する責任とは、
教会がそのための「牧者の職制」に任命した特定の男性に属しています。

どれほどこの責任が恐ろしいものであるかは、
すでにあげた「使徒言行録」20章に加えて、
次にあげる「コリントの信徒への第一の手紙」31015節からも
よくうかがえます。

「神から賜わった恵みによって、
わたしは熟練した建築師のように、土台をすえた。
そして他の人がその上に家を建てるのである。
しかし、どういうふうに建てるか、それぞれ気をつけるがよい。
なぜなら、すでにすえられている土台以外のものをすえることは、
だれにもできない。
そして、この土台はイエス・キリストである。
この土台の上に、だれかが
金、銀、宝石、木、草、または、わらを用いて建てるならば、
それぞれの仕事は、はっきりとわかってくる。
すなわち、かの日は火の中に現れて、それを明らかにし、
またその火は、それぞれの仕事がどんなものであるかを、ためすであろう。
もしある人の建てた仕事がそのまま残れば、その人は報酬を受けるが、
その仕事が焼けてしまえば、損失を被るであろう。
しかし彼自身は、火の中をくぐってきた者のようにではあるが、
救われるであろう。」   
「コリントの信徒への第一の手紙」31015節)

すなわち、
教会の「牧者の職制」を委ねられた者が
自らの職務をどれだけよく(あるいは悪く)遂行したかを最終的に吟味するのは、
他の人々ではなく「最後の日の火」である、ということです。

「一般祭司制」はその影響力や活動の観点からみると
「牧者の職制」よりもはるかに広範囲にわたるものです。

キリスト信仰者がひとりでもいるところには、
たとえばその人が高齢で病気の床に伏している詩人であろうと、
だっこされている赤ちゃんであろうと、
最良のコンディションの体力を要する職種の者であろうと、
あるいは家庭の母親であろうと、
そこにはたしかにキリストの教会が存在しています。
そして、その人を通して主の偉大なる御業が告知されているのです。

道端の人たちや職場や家庭や近所の人たちに主の御業を伝えていくのは、
キリスト信仰者ひとりひとりに与えられている大きな使命です。