きよい人には、すべてのものがきよい(その2)
「テトスへの手紙」1章10〜16節
「ユダヤ人の作り話や、真理からそれていった人々の定めなどに、
気をとられることがないようにさせなさい。」
(「テトスへの手紙」1章14節、口語訳)
異端に巻き込まれることは真理や神様に対して背を向けることを意味します。
「きよい人には、すべてのものがきよい。
しかし、汚れている不信仰な人には、きよいものは一つもなく、
その知性も良心も汚れてしまっている。」
(「テトスへの手紙」1章15節、口語訳)
異端の教えにはしばしば禁欲主義が結びついています。
いろいろなことが禁止事項とみなされ、
ある種の食物も食べてはいけないものとされます
(「テモテへの第一の手紙」4章1〜5節)。
しかし、神様の素晴らしい数々の賜物は自由に享受してよいものであり、
そうしても自分の救いの妨げとはならないことを
キリスト信仰者は知っています
(「マタイによる福音書」15章10〜11、16〜20節、
「マルコによる福音書」7章14〜23節、
「使徒言行録」10章9〜16節、
「ローマの信徒への手紙」14章19〜23節、
「コロサイの信徒への手紙」2章20〜23節)。
「彼らは神を知っていると口では言うが、行いではそれを否定している。
彼らは忌まわしい者、また不従順な者であって、
いっさいの良いわざに関して失格者である。」
(「テトスへの手紙」1章16節、口語訳)
異端の教師たちの生活の実態は、
神様を知悉していると主張する彼らが実は神様について無知であることを
露呈させました。
彼らが教えている内容だけではなく、
彼らが実際にどのような生きかたをしているかについても
厳しく注視していくべきなのです。
パウロはユダヤ人たちを叱責しました。
彼らの実生活が彼らの宣教している内容とは適合しないものだったからです。
この自己欺瞞のせいで彼らの宣教は実を結ぶことがありませんでした。
「もしあなたが、自らユダヤ人と称し、
律法に安んじ、神を誇とし、御旨を知り、
律法に教えられて、なすべきことをわきまえており、
さらに、知識と真理とが律法の中に形をとっているとして、
自ら盲人の手引き、やみにおる者の光、愚かな者の導き手、幼な子の教師
をもって任じているのなら、
なぜ、人を教えて自分を教えないのか。
盗むなと人に説いて、自らは盗むのか。
姦淫するなと言って、自らは姦淫するのか。
偶像を忌みきらいながら、自らは宮の物をかすめるのか。
律法を誇としながら、自らは律法に違反して、神を侮っているのか。
聖書に書いてあるとおり、
「神の御名は、あなたがたのゆえに、異邦人の間で汚されている」。
もし、あなたが律法を行うなら、なるほど、割礼は役に立とう。
しかし、もし律法を犯すなら、あなたの割礼は無割礼となってしまう。
だから、もし無割礼の者が律法の規定を守るなら、
その無割礼は割礼と見なされるではないか。
かつ、生れながら無割礼の者であって律法を全うする者は、
律法の文字と割礼とを持ちながら律法を犯しているあなたを、さばくのである。
というのは、外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、
また、外見上の肉における割礼が割礼でもない。
かえって、隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、
また、文字によらず霊による心の割礼こそ割礼であって、
そのほまれは人からではなく、神から来るのである。」
(「ローマの信徒への手紙」2章17〜29節、口語訳)