2010年5月21日金曜日

「エフェソの信徒への手紙」について 5章1~5節 その1

5章1~5節 神様に倣う者たち!その1
   
直訳すれば、1節でパウロは「神様を倣う者になりなさい」と言っています。
これはとても含蓄のある表現です。
見たこともない神様を人はどのように模範とすることができるのか、などと今深刻に考えるのは意味がありません。
ここでは、目に見えない神様の偉大さを模範とすることが問題なのではありません。
新約聖書のほかの箇所ではしばしば、キリストは「キリストのもの」にとって従うべき模範である、という指示があらわれます。
たとえば、ヨハネによる福音書13章、フィリピの信徒への手紙2章などです。
         
しかし、「キリストを模範として生きる」とはどういう意味でしょうか。
キリスト教会の歴史の中では、アッシジのフランシスコのように、自分の財産を捨て、本気でキリストを模範として生きようとした人たちがいました。
ところが、今「エフェソの信徒への手紙」で紹介されている教えは、それとはまったく異なるものです。
4章32節から5章の2節までの箇所が、このことをはっきり示してくれます。
           
「互いに役立とうとする、同情心あふれる者となり、神様がキリストにあってあなたがたを赦してくださったように、あなたがたも互いに赦し合いなさい。
こうして、あなたがたは、神様に愛されている子供として、神様に倣う者になりなさい。
また、愛のうちを歩みなさい。
キリストもあなたがたを愛してくださって、私たちのために御自身を神様へのかぐわしい香りの捧げ物、また、犠牲として捧げられたのです。」
(「エフェソの信徒への手紙4章32節~5章2節」)
          
たとえば、「キリストに従って荒野に向かう」という考えは、すばらしいものに感じられるかもしれませんが、ここで言われているのは、まったく別のことです。
つまり、「キリストが私たちを愛してくださったように、私たちも隣人を愛さなければならない」ということを通して、「主キリストに従う」ということです。
(神様の)愛から愛が生まれます。
2節は、旧約聖書の犠牲の捧げ物に関する用語を用いながら、キリストの犠牲の捧げ物の意味を説明しています。