2016年11月21日月曜日

「ローマの信徒への手紙」ガイドブック 16章 名前のリスト

「ローマの信徒への手紙」16

名前のリスト


パウロは「ローマの信徒への手紙」の最後の章を
同労者や友人たちへの挨拶によって閉じます。
ここに挙げられている名前のリストは、
聖書の一般的な読者にとっては
あまり意味がないように思われるものかもしれません。
しかし、このリストには
初期の教会、およびその状況に関する情報が
驚くほどたくさん含まれているのです。
古代史の研究者なら、人間の名前からだけでも、
その人物に関してかなり多くのことを知ることができます。
このような長い名前の一覧表は、研究者にとっては宝物そのものです。
もっとも、彼らの得た研究結果は、
神様の御声を聴くために聖書を読む私たちにとっては
必ずしも興味を引く内容ではないかもしれません。
それでも、こうした研究者の仕事も必要なのであり、有益なのです。
聖書を知るために役立つ背景知識が得られるからです。

2016年11月11日金曜日

「ローマの信徒への手紙」ガイドブック 15章20〜33節 パウロの計画(その2)

パウロの計画(その2)

パウロ自身はエルサレムで起きたことについては語っていません。
福音書記者ルカは新約聖書の「使徒言行録」の中で、
エルサレムでの使徒たちの再会の模様を記しています。
パウロ側もエルサレム側もキリスト教会の一致を望みました。

律法に執心するユダヤ人たちがモーセの律法に従おうとするのを
邪魔する意図はないことを自らの行動で実際に示すために、
パウロはエルサレムの神殿に行きました。
神殿でパウロを見かけたユダヤ人たちは激高しました。
しかし、ローマ兵たちが事態に素早く介入したため、
パウロは早すぎる殉教の死を免れました。

この出来事の後、パウロはいろいろな場所で拘留され、その挙げ句に、
ローマの皇帝の面前で弁明するために送還されることになりました。
どのようにパウロが皇帝に対峙したのか、正確にはわかっていません。
しかし、パウロが皇帝ネロの迫害で西暦60年代に殺害されたことは
ほぼ確実とみられています。
もちろんパウロが死ぬ前に拘留を解かれて
ヒスパニアへの旅を行った可能性はあります。
初期のキリスト教文献である「使徒教父文書」の一つ、
「コリントの信徒たちへのクレメンスの手紙」(57節)には
この可能性を示唆する記述があります。
これらの事柄に関しては、これ以上確実なことは言えません。
わかっているのは、主の使徒は職務を忠実に全うし、
自らの血によって私たちの主について証をしたということです。


2016年11月4日金曜日

「ローマの信徒への手紙」ガイドブック 15章20〜33節 パウロの計画(その1)

パウロの計画(その1)


ローマを通ってヒスパニア(現在のイベリア半島の地域)に出かける前に、
パウロはエルサレムに行って、
異邦人キリスト信仰者たちが集めた捧げ物(献金)を
エルサレムの母教会の貧しい信徒たちに持って行かなければなりませんでした。
このエルサレム訪問は、
誰にでも任せられるような、ありふれた旅行ではありませんでした。
パウロにはたくさんやるべきことがあったのです。

エルサレムの教会の信徒たちの会議で、
パウロの宣教している、キリスト信仰者の自由についての福音は
承認を受けていました。
この福音によれば、
異邦人キリスト信仰者はモーセの律法に従う必要がありません。
パウロが受け入れた唯一の義務は、
異邦人キリスト信仰者たちが力を合わせて、
エルサレムの貧しい信徒たちを経済的に援助することでした
(「ガラテアの信徒への手紙」210節)。
パウロは、あらゆるところで真面目にこの義務を履行しました。

それに対して、コリントやその他のところでは、
キリスト者の自由にかかわる福音に反対する、
律法に執心する人々が幾度となく出現しました。
パウロはここで敢然と彼らに立ち向かいます。

パウロは自分に課せられた約束をちゃんと守りましたが、
エルサレム側でも(パウロの福音を認めるという)約束を
守る気があるのでしょうか。
エルサレム訪問は緊迫したものになるのがわかっていたので、
誰か他の人にこの仕事を任せるわけにはいかなかったのです。
ユダヤ人たちが彼の命を狙っているのを承知の上で、
パウロは自分でエルサレムに行くしかありませんでした。

あるいはむしろ、
パウロは自分で乗り込むことで、
福音を受け入れた異邦人たちに対して
ユダヤ人たちが熱情あるいは羨望の念を抱くように
仕向けたかったのかもしれません
(「ローマの信徒への手紙」111314節を参照してください)。