2017年12月14日木曜日

アタナシウス信条(ラテン語版から訳出)(その2)

アタナシウス信条(ラテン語版から訳出)(その2)


20
父は
なにものから成った[1]のでも、
造られたのでも、生まれたのでもありません。

21
子は
父からのみ生まれたのであって、
成ったのでも、造られたのでもありません。 

22
聖霊は
成ったのでも、造られたのでも、生まれたのでもなく、
父と子から発する方[2]です。

23
それゆえ、
一なる父であって、三なる父たちではなく、
一なる子であって、三なる子たちではなく、
一なる聖霊であって、三なる聖霊たちではありません。

24
そして、
この三位一体においては[3]
どれがより先でありどれがより後であるか、
どれがより大きくどれがより小さいか、
ということはありません。

25
そうではなく、
この三なる位格はすべて共に永遠であり、同等です。
このように、すでに先に述べたように、
すべてをとおして、三位が一体において、
一体が三位においてあがめられるべきである、ということです。

26
それゆえ、
救われたいと願うものは皆、そのように考えなさい[4]

27. 
私たちの主イエス・キリストの受肉[5]についても、
忠実に[6]信じることが、永遠の救いのために必要です。

28
正しい信仰[7]とは、
私たちの主イエス・キリストが神様の御子であり、
神様であると同時に[8]人でもあることを信じて告白することです。

29
この方は、
神様としては父の本質から[9]
世に先立ってお生まれになり[10]
人としては母の本質から、
世においてお生まれになりました[11]

30
この方は、
完全な神様、完全な人であられ、
理性的な魂と人性的な肉とに存在しておられる方です。[12]

31
この方は、
神性によれば父と等しく、
人性によれば父よりも小さいお方です。

32
この方は、
神様であられるにもかかわらず[13]、人でもあられます。
しかしながら、
キリストはふたりおられるのではなくて、おひとりです。

33
この方は、
神性が肉に変わったためではなく[14]
神様のうちに人性をとりいれたために[15]
一なる方なのです。

34
この方は、
本質[16]が混同されたゆえにでは全くなく、
位格が一であるがゆえに、一なる方なのです。

35
理性的な魂[17]と肉とが一つの人であるように、
神様と人とが一なるキリストなのです。

36
キリストは、
私たちの救いのために苦しみを受け、
よみ[18]にくだり、
死者たちの中から復活し、

37
[19]にのぼり、
父の右に座し、
そこから来られて[20]
生きている者たちと死んだ者たちとを裁かれます。

38
キリストが来られると[21]
すべての人は自分のからだとともに復活することができます[22]
そして、
自分自身の行ったことについて申し開きをすることになります。

39
そして、
善を追求した者たち[23]は永遠の命に入り、
悪を追求した者たちは永遠の火に入ることになります。

40
これが公同の信仰[24]です。
これを忠実かつ堅固に[25]信じない者は誰であれ、
救われることはできません。




[1] ”est factus”
[2] ”procedens”
[3] ”in hac trinitate”
[4] ”sentiat”
[5] ”incarnationem”
[6] ”fideliter”
[7] ”fides recta”
[8] ”pariter”
[9] ”ex substantia”
[10] ”genitus est”
[11] ”natus est”
[12] ”ex anima rationabili et humana carne subsistens” 
[13] ”licet”
[14] ”non conversione”
[15] ”adsumptione humanitatis in Deo”
[16] ”substantiae”
[17] ”anima rationabilis”. 「理性的な」という言葉は「魂」のみを修飾。
[18] ”ad inferos”
[19] ”ad caelos”
[20] 未来分詞。
[21] ”ad cuius adventum”
[22] ””omnes homines resurgere habent cum corporibus suis”. ”habere + inf.” で「〜することができる」という意味。
[23] ”qui bona egerunt” ”egerunt”の基本形である”agere” は「行う」とも訳せる。
[24] ”fides catholica”
[25] ”fideliter firmiterque”

2017年10月4日水曜日

アタナシウス信条(ラテン語版から訳出)(その1)

アタナシウス信条[1](ラテン語版から訳出)(その1)

1
救われたいと願う者は皆、
何よりもまず、公同の信仰[2]を保つことが必要です。

2
誰であれ、もしもこの信仰を、
健全で傷つけられていないものとして[3]守らないならば、
その人は疑いもなく、永遠に滅ぶことになります。

3
公同の信仰とは次のものです。
すなわち、
一なる神様を三位において[4]また三位を一体においてあがめ、

4
位格たち[5]を混同せず、本質[6]を分離しない、
というものです。

5
父の位格と子の位格と聖霊の位格は別々のものです。

6
しかし、
父と子と聖霊の神性[7]は一であり、
栄光は等質であり、
尊厳[8]は永遠に共存します[9]

7
父がおられるのと同じく、
子がおられ、また聖霊もおられます。[10]

8
父は造られたものではなく[11]
子は造られたものではなく、
聖霊は造られたものではありません。

9
父は計り知れず[12]子は計り知れず、聖霊は計り知れません。

10
父は永遠であり、子は永遠であり、聖霊は永遠です。

11
しかも、三なる永遠ではなくて、一なる永遠です。

12
それは、
三なる造られたものではないものや、
三なる計り知れないものがあるのではなく、
一なる造られたものではないものや、
一なる計り知れないものがあるのです。

13
同様に、
父は全能であり[13]子は全能であり、聖霊は全能です。

14
しかも、
三なる全能者がおられるのではなく、
一なる全能者がおられるのです。

15
このように、
父は神様であり、子は神様であり、聖霊は神様です。

16
しかも、
三なる神様ではなく、一なる神様です。

17
このように、
父は主[14]であり、子は主であり、聖霊は主です。

18
しかも、
三なる主ではなく、一なる主です。

19
なぜなら、
キリスト教の真理によって、
それぞれの位格を個別に、
神様であり主である、と告白することを
私たちは強く求められており[15]
このように、
三なる神様や三なる主について語ることを、
私たちは公同の宗教によって[16]禁じられているからです。



[1] Die Bekenntnis-Schriften der evangelisch-lutherischen Kirche
1998  Herausgegeben im Gedenkjahr der Augsburgischen Konfession 1930. 12. Aufl., 47. -49. Tsd.
Göttingen : Vandenhoeck & Ruprecht. s.28. Symbolum Athanasii contra Arianos scriptum.
[2] ”catholicam fidem”
[3] ”integram inviolatamque”
[4] ”in trinitate”
[5] ”personas”
[6] ”substantiam”
[7] ”divinitas”
[8] ”maiestas”
[9] ”coaeterna”
[10] ”Qualis pater, talis filius, talis et spiritus sanctus”
[11] ”increatus”
[12] ”immensus”
[13] ”omnipotens”
[14] ”Dominus”
[15] ”compellimur”(直訳は「私たちは強いられている」)
[16] ”catholica religione”