2010年4月22日木曜日

「エフェソの信徒への手紙」について 4章1~6節 その2

                 
4章1~6節 その2
 
   
先を急ぐ前に、「エフェソの信徒への手紙」の構成に注目してみることにしましょう。
この構成順序はクリスチャンの信仰の内的な段階とも対応しています。
       
まずはじめに来るのが、「神様は私のために何をしてくださったか」ということです。
その後で、はじめのことがらの結果として続くのが、
「このような神様のあらゆる善性は、私の生活にどのような影響を与えるか」
ということです。
これは、神学的に言えば、
「義認と聖化とはどのような関係にあるか」
という問題です。
         
聖化は義認の原因ではありません。
言い換えれば、
人が義とされるのは、その人が聖となることに基づいているわけではありません。
それとは逆に、
聖化とは、義認の結果生じる直接的で自発的な働きです。
言い換えれば、
人は義とされると、すぐに自分からすすんで神様の御心にかなうことを行うようになるものだ、ということです。
                
神様の言いようもないほどに大きな愛をどれほど深く理解できるかに応じて、どのくらい私たちが神様を愛して、神様に仕え、捧げることができるか、が決まるのです。
まさにそのゆえに、教えの基本的なことがらを集中して学ぶのは、いつも教会にとってよいことなのです。
            
教えと生活を互いに正反対なものとして位置づけることはできません。
正しい教えによって生活は正しい方向に導かれます。
もしもそうならない場合には、教えをもう少し正確に確認してみる必要があります。
クリスチャンの生活は、その心にあることを示す尺度にすぎません。