2022年1月26日水曜日

「ヤコブの手紙」ガイドブック 手紙を書き記したのは誰か?

 「ヤコブの手紙」ガイドブック

 

フィンランド語版著者 パシ・フヤネン(フィンランド・ルーテル福音協会牧師)

日本語版翻訳・編集 高木賢(フィンランド・ルーテル福音協会、神学修士)

 

本文中に引用される聖書の日本語訳は口語訳によっています。

なお翻訳者の判断に従って日本語版では表現の変更や聖書の引用などについて

ある程度の編集が施されていることをあらかじめお断りしておきます。

 

 

 

神様の民は旅の途上にある

「ヤコブの手紙」1章

 

 

「ヤコブの手紙」は公同書簡のうちのひとつである

 

新約聖書にはパウロの13通の手紙や「ヘブライの信徒への手紙」の他に

「公同書簡」と呼ばれる7通の手紙が含まれています。

「公同書簡」の「公同」とは「一般的」という意味です。

これら7通の手紙は3通の「ヨハネの手紙」、2通の「ペテロの手紙」、

「ユダの手紙」、およびこれから取り上げる「ヤコブの手紙」を指しています。

 

 

奨励と警告

 

「ヤコブの手紙」にはたくさんの奨励と警告が記されています。

この際立った特徴のゆえに、

この手紙には時を超えてあらゆる時代のキリスト信仰者たちに

伝えようとしているメッセージが含まれているとも言えるでしょう。

とはいえ奨励や警告の多さは他の「公同書簡」の特徴でもあります。    

 

 

手紙を書き記したのは誰か?

 

この手紙を書いたのは「神と主イエス・キリストとの僕ヤコブ」である

手紙の冒頭に記されています。

 

新約聖書には「ヤコブ」という名の人物が3名登場します。

1)イエス様の弟子であり、ヨハネの兄弟であり、

ゼベダイの息子であるヤコブ(「マルコによる福音書」3章17節)

2)イエス様のもう一人の弟子であり、

アルパヨの子であるヤコブ(「マルコによる福音書」3章18節)

3)イエス様の弟であるヤコブ(「マルコによる福音書」6章3節)

 

彼らのうちゼベダイの子ヤコブは西暦44年頃に殉教しました

(「使徒言行録」12章1〜2節)。

ですから彼がこの手紙の書き手であったとは考えにくいです。

またアルパヨの子ヤコブについて知られていることはごくわずかです。

 

キリスト教会の伝承ではごく初期の頃より

この手紙の書き手がイエス様の弟ヤコブであったという見方がされてきました。

 

イエス様が公に伝道活動をなさっていた頃には

まだこのヤコブはイエス様への信仰を持っていませんでした。

それはイエス様の他の兄弟たちにもあてはまることです

(「ヨハネによる福音書」7章2〜5節)。

しかし最初のペンテコステ(聖霊降臨)の出来事が起きた時点で

ヤコブはすでにキリスト信仰者の群れに加わっていました

(「使徒言行録」1章14節)。

また彼は死者の中から復活されたイエス様と出会っています

(「コリントの信徒への第一の手紙」15章7節)。

ヤコブはペテロの後を継いで

エルサレムの最初期の教会の指導者として活躍しました(

「使徒言行録」12章17節、15章13節、

「ガラテアの信徒への手紙」2章9節)。

 

「義人ヤコブ」と呼ばれもするこの人物は西暦62年に殉教します。

彼は神殿の屋根から突き落とされて石打の刑に処されたとも言われています。

 

もしもこの手紙がイエス様の弟ヤコブによって

書き記されたものであるとするならば、

手紙の執筆時期は西暦50年代であった可能性がかなり高いと思われます。

 

この見方とは異なり、

この手紙は2箇所(1章1節と2章1節)にイエス様のお名前を書き加え、

名目上の執筆者としてヤコブの名を冠した、

元々はユダヤ人の手によってすでに30年代には執筆された文書であった、

という説もあります。

 

しかしこの説を反駁する根拠はいくつも見つかります。

例えば「ヤコブの手紙」には旧約聖書関連の引用がたくさんありますが

(全部で65個)、そこには福音に関連する引用も多く含まれています

(全部で26個)。

さらに2章の終わりの部分はそこで扱っている問題の背景に

パウロの教えを想定しなければ理解しにくくなります(2章14〜26節)。

 

その一方で現代の研究者の大半は

「ヤコブの手紙」が成立した年代はもっと遅かったと考えており、

約70〜130年代頃であったという説が一般的であるようです。

もしもこの説を採用するならば

「ヤコブの手紙」を書いたのはヤコブ本人ではなくて

名のわからない誰か他のキリスト信仰者であったことになります。

 

この手紙がイエス様の弟ヤコブによって書き記されたことを擁護する立場と

否定する立場との間にある意見のちがいは

次のようにまとめることができるでしょう。

 

この手紙はヤコブが書き記したものである。

なぜならば、

1)最初期のキリスト教会の伝承がそのように主張しているからである。

2)この手紙の書き手は自己紹介をしていない。

ということは彼は皆によく知られた人物であったということになる。

3)この手紙にはイエス様に関連する引用がたくさんみられる。

4)この手紙にはパレスティナ的な特徴がある。

例えば神様の働きかけを言葉で表現する際に受動態が使用されている

(1章5節、1章17節)。

 

この手紙はヤコブが書き記したものではなく、

たんに彼の名前が借用されただけのものである。

なぜならば、

1)手紙の言葉遣いは上質のギリシア語のそれである。

そして手紙にはヤコブの母国語であるアラム語の影響は見られない。

2)パウロによる伝道からすでにかなりの時が経ち、

彼の教えがまちがって理解され始めていた、と解釈することによってのみ

「ヤコブの手紙」の2章の終わりの書き方に説明がつく。

それゆえこの手紙は早くとも70年代に書かれたものと推定するべきである。

 

しかしこれら後者の主張に対しては次のように答えることができます。

 

1)手紙の執筆にあたってヤコブは代筆者を利用することができたはずである。

また当時の地中海の東海岸地域には

ギリシア語のできる人が大勢いたことが知られている。

それゆえヤコブ自身ギリシア語がよくできた可能性もある。

そしてよい文章を書く才能は

当然ながら出身や教育にばかり左右されるものではない。

2)パウロはすでに生前の頃からその教えを曲解されていたことがわかっている

(「ローマの信徒への手紙」6章1〜2節、

「ペテロの第二の手紙」3章14〜16節)。