2016年12月29日木曜日

「ローマの信徒への手紙」ガイドブック 16章7節 ユニアスとアンドロニコ(その1)

ユニアスとアンドロニコ 167節(その1)

はじめに日本語聖書の代表的な二つの翻訳を記します。

「わたしの同族であって、
わたしと一緒に投獄されたことのあるアンデロニコとユニアスとに、よろしく。
彼らは使徒たちの間で評判がよく、かつ、
わたしよりも先にキリストを信じた人々である。」(口語訳)

「わたしの同胞で、
一緒に捕らわれの身となったことのあるアンドロニコとユニアスによろしく。
この二人は使徒たちの中で目立っており、
わたしよりも前にキリストを信じる者になりました。」(新共同訳)

聖書を新たにフィンランド語に翻訳し直したときに、
この節はフィンランドにおいて二つの点で話題になりました。
第一に、ここで「ユニアス」と訳されている名前が、
1992年の新しいフィンランド語訳では
「ユニア」という女性の名前に変えられたことです。
このように訳す日本語訳も存在します。
第二に、これは日本語訳でもそうですが、
この節で挙げられている二人の人物が、
1938年版のフィンランド語訳では「使徒たちの間で評判が」よい人たち
だったのが、
1992年版の新しい訳では「使徒たちの中で目立って」いた人たちだった、
と変更されている点です。
つまり、二人は際立った使徒であった、という解釈です。


パウロが「コリントの信徒への第一の手紙」143336節で伝えている、
「女性が礼拝で教える立場を取るのは許されない」という指示を無視して、
女性が牧師になってもよいとする「婦人牧師制」を支持する人々にとって、
女性の使徒が発見された(?)ことは、大歓迎の出来事でした。
しかし彼らには都合が悪いことに、
このぬか喜びを台無しにする反証がたくさんあるのです。

2016年12月21日水曜日

「ローマの信徒への手紙」ガイドブック 16章3〜5節 アキラとプリスカ

アキラとプリスカ 1635


アキラとプリスカ(プリスキラ)というユダヤ人夫婦も
パウロの挨拶の対象となっています。
「使徒言行録」18章にも彼らは登場しています。
西暦49年に、彼らはローマから退出しなければならなくなりました。
この年に、ローマ皇帝クラウディウスがユダヤ人をローマから追放したからです。
ローマ人歴史家スエトニウスは、
ユダヤ人たちが「クレストゥス」に煽動されて暴動を起こした、
と記しています。
当時普通の奴隷の名前だった「クレストゥス」(「まとも」という意味)と、
私たちの主の御名「キリスト」は、当時同じように発音された言葉でした。
スエトニウスが事態を誤って理解し、
ユダヤ人たちがこぞって誰か奴隷の指導の下で暴動を起こした、
と勘違いしたのだと思われます。
ところが実際には、ローマ在住のユダヤ人たちは、
ナザレのイエスがキリストであるかどうか、互いに論争していたのです。
これらの争いの中で、
イエス様を受け入れようとしなかった不信仰なユダヤ人たちは、
イエス様を信じるユダヤ人たちに対して
シナゴーグ(ユダヤ人の集会堂)からの追放などの懲罰を適用したのであろう
と思われます。
その処置が非常に厳しいものであったため、
周囲の注目を集めるほどの騒乱が生じてしまったのでしょう。
ユダヤ人たちのローマ追放は徹底さを欠く短期間の処置だったものと思われます。
皇帝クラウディウスが54年に没した後、ユダヤ人追放令は解除されました。
ですから、アキラとプリスカがその後再びローマに戻ってきていたのは
大いにありうることです。
彼らは主を証しする勇気ある信仰者でした。
パウロの説明によれば、彼らはある時には、
使徒の命を救うために自らの首を差し出すことさえしたのです(164節)。
この出来事について、私たちは残念ながら何も知りません。
もしかしたらそれは、
パウロがエフェソで経験した大きな危険と関係があるものかもしれません。
この出来事も私たちには謎のままです。
ともあれ、アキラとプリスカの家ではキリスト信仰者たちが集っていました。
これは、彼らの居住地には多くの小さな信徒の群れがあったことを
示唆しているものと思われます。
パウロは普通の場合、手紙の宛名として特定の教会を想定しますが、
ここではそれとは異なり、手紙の受け取り手が「ローマの教会」ではなくて、
「ローマにいる聖徒たち」宛てになっていることに注目しましょう。

2016年12月15日木曜日

「ローマの信徒への手紙」ガイドブック 16章1〜2節 フォイベと、パウロの女性嫌悪について(その2)

フォイベと、パウロの女性嫌悪について 1612節(その2)
  

前回述べた理由から、
パウロには女性に対する憎悪がある、
という見方もなされてきました。
未婚者パウロが人間の現実の生活のことがわかるわけがない、
と考える人もいました。
「パウロが実際に会った女性たちは、
彼が「未婚者としての教義」を形成し、
しかもそれを「主の命令」(「コリントの信徒への第一の手紙」1437節)
として恥ずかしげもなく披露するのに一役買うタイプの女性ばかりだった。
パウロ、あなたは可哀想な男ね」、
などと、あるフィンランドの女性記者はうそぶきました。

ここでまずもって覚えておくべきことがあります。
それは、
私たちのキリスト教の信仰によれば、
主の使徒は自分が勝手に考えた意見を述べているのではなくて、
聖霊様に導かれて御言葉を語っている、
ということです。

また、パウロに「女性嫌い」というレッテルを貼るのも間違っています。
まさにこの16章で、
彼はキリストにある多くの信仰の姉妹たちに温かい挨拶を送っているからです。
彼らの中には「使徒言行録」18章にも記載のあるプリスカや、
キリスト信仰者たちのために多くの労苦をいとわなかったマリアがいます。
また、トゥルパイナとトゥルフォーサ、
また「主にあってたくさん労苦した、愛する姉妹」ペルシスがいます。
ルフォスの母親はパウロにとっても母親のような人でした。
ローマの教会の女性たちに対するパウロの挨拶の仕方には、
温かな愛と信仰者としての一致とが反映されています。

2016年12月9日金曜日

「ローマの信徒への手紙」ガイドブック 16章1〜2節 フォイベと、パウロの女性嫌悪について(その1)

フォイベと、パウロの女性嫌悪について 1612節(その1)


パウロはローマの信徒たちに、
コリントの港町ケンクレアの教会の「僕」フォイベについて
心のこもった推薦文をしたためています。
この短いメッセージから私たちは
驚くほど多くの内容を読み取ることができます。
とりわけ、教会の「僕」(ギリシア語で「ディアコノス」と言い、
教会での執事の職に相当します)としては女性も働くことができた、
ということです。
このことは聖書のどの他の箇所でも禁じられていません。
教会の初期の頃から、多くの女性が執事として働いたことがよく知られています。
彼らのうちの多くの者は「女性執事」という名称で呼ばれました。
この執事の職は教会の牧師職(ギリシア語で「エピスコポス」と言い、
英語の「ビショップ」(教会長)という言葉の元になっています)とは異なり、
教会を指導したり教えたりする職務ではありませんでした。
パウロは女性が教会の礼拝で教えることを禁じており、
この点について非常に厳しく命じています
(「コリントの信徒への第一の手紙」142640節、
および「テモテへの第一の手紙」2915節)。

「コリントの信徒への第一の手紙」1114章全体は、
教会の礼拝について語っています。
教会には礼拝以外の分野で、
女性が教会での職に就いて神様の御言葉に依り頼みながら行うことができる
実に多様な仕事が昔からありましたし、今もあります。
それゆえ、パウロが伝える神様の御言葉を背景にして考えるとき、
女性がそれ以外の働きを行うこと
(例えば、礼拝で牧師として働くこと)は無謀であり、
その行為に神様からの祝福が伴っているかどうかは
極めて疑わしいと言わざるをえません。