2011年11月28日月曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 4章1~11節 天国訪問(その2)


 
天国訪問 4章1~11節(その2) 
 
 
宝石は不思議な色で光り輝きます。
それら宝石を(象徴として)用いて、
ヨハネは御座に着かれている天と地の主を描いています。
全能者の周りには24人の長老が白い衣を身にまとい、
金の冠を頭にかぶっていました。
彼らが誰なのか、私たちは知りません。
おそらく彼らは
神様の御座で特別な任務を受けている天使たちなのでしょう。
旧約の時代には、
イスラエルの民は
ヤコブの12人の男子に呼応して
12の部族に分かれていました。
新約の基盤は使徒的な信仰です。
そして、使徒は12人いました。
長老の人数は神様が結ばれた二つの契約を想起させます。
  
神様の御座の周りには、
体中が目だらけの四つの生き物がいました。
「エゼキエル書」1章には
これと似たような幻についての記述があります。
これらの生き物が何者か、
またしても確実なことは言えません。
おそらく天使ではないかと思われます。
生き物たちのもつ夥しい数の目は、
神様に対しては何も隠し立てできないこと
をあらわしているのでしょう。
生き物たちの目があらゆるところに向いているのと
ちょうど同じように、
神様はすべてをご覧になります。
全知全能の神様は、
すべてを見ておられ、
すべてを知っておられるのです。
  
後世のクリスチャンは四人の福音書記者を
ヨハネの見た生き物として表現しました。
マルコはライオン、ルカは雄牛、ヨハネは鷲、
マタイは人間の顔を持った生き物、としてです。
  
8節~11節で、ヨハネは天国での礼拝を描きます。
生き物たちは全能の神様に賛美を歌います。
「聖なるかな」という言葉が三回繰り返されます。
神様が三位一体のお方だからです。
御父に「聖なるかな」、
御子に「聖なるかな」、
御霊に「聖なるかな」、
というように。
天国での礼拝は神様の偉大さを力強く証しています。
天国の一群は全能者の御前にひれ伏し、
この方こそがすべての栄光を有される主なる神様です、
と告白します。
天国の民が絶え間なく礼拝を続けていることからもわかるとおり、
神様はまことに大いなるお方なのです。

2011年11月25日金曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 4章1~11節 天国訪問(その1)


  
ヨハネの黙示録4
   
天国訪問 4111節(その1)
  
 
4章は「ヨハネの黙示録」のターニングポイントです。
これまでは、地上で活動している教会についての話でした。
今、視線は天国とそこでの出来事に向けられます。
これまでは、復活されたイエス様がヨハネに直接話しかけられました。
ヨハネは4章の冒頭でラッパのような音を耳にします。
それはおそらく神様の御子の語りかけを意味しています
11011節を参照してください)。
この後でふたたびイエス様の声が響くのは、
(いくつかの例外を除けば)ようやく最終章になってからです。
そこにいたるまでは、
イエス様はヨハネに天使を通して語りかけられます。
119節でイエス様はヨハネに、
今の、そして、これから起きる出来事を
教えることを約束なさいました。
これまでの章では、
諸教会の当時の状態がヨハネに示されました。
これからの章では、
未来での出来事が明らかにされるのです。
  
ヨハネは恍惚状態になります(110節を参照してください)。
彼は輝きに包まれて天国に連れて行かれ、
そこでの不思議な出来事を目の当たりにします。
ヨハネは自分が見ていることをどう言い表すべきか、困惑します。
それで、彼は象徴を用いて語ることにします。
もちろん、それらの象徴は、
彼に示された出来事そのものというより、それに近似するものです。
もしもヨハネにとって、
自分が見たことを言葉によって表現するのが難しいのだとすれば、
ヨハネが実際に何を見て、象徴によって何を意味したのか、
解き明かすのは、
「ヨハネによる黙示録」を読む私たちにとっては、
さらに難しいことになります。
それについて何かしら言うことはできるでしょうが、
ここではむしろ、
光輝く天国についてのヨハネの描写に
感嘆するにとどめておきたいと思います。
  
  

2011年11月23日水曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 第3回目の終わりのメッセージ

終わりのメッセージ
 
 
信仰を捨てることについて

 
 
人が信仰を捨てることになるのは、
その人の弱い信仰のせいではありません。
弱い信仰の人は、
それなしでは生きていくことができないもの(つまり信仰)を
しっかり保ちつづけるものだからです。
人々の心を最近再び支配するようになった自分の力に頼る考え方こそが、
信仰を消滅させてしまうのです。
私たちの生きている現代では、
このような自己中心的な考え方が
クリスチャンの心をも次に述べる二通りのやり方で支配しているように、
私には見えます。
  
大多数の人は時代の風潮に流されていくことで、信仰から離れていきます。
この世で成功しお金持ちになることが、彼らの人生の全目的になっています。
「皆そうして生きているではないか」、と彼らは言います。
知らず知らずのうちに、
彼らはすべてを自分の手中に収めようとする人間になってしまいました。
一方で彼らは、今までは生活の一部だった
神様の御言葉、クリスチャンの交わり、礼拝、聖餐式などを
次々と捨て去っていきます。
それらは晩秋の木々の葉っぱのようにはらはらと地面に落ちていきます。
こうして信仰の根っこが乾いてしまうのです。
「我々は周りから見ても立派に見える生き方をしてきたし、
宗教的な伝統を重んじている。
ちゃんとそれらに参加もしている」、
と彼らは弁解します。
ところが真の人生はすでに失われてしまっているのです。
  
人々を支配するもうひとつのものは、人々を眩惑する新しい考え方です。
その倫理的な魅力と社会的な正義は彼らにとって魅力的です。
これらを盾にして多くの人は社会批判の武器を手に入れました。
もちろん社会の中には批判されるべき点が沢山あります。
彼らはキリスト教の価値観にもとづいて社会批判を始めるのですが、
不思議なことに、
いつの間にか救い主との個人的な交わりが薄くなっていきます。
その代わりに、
社会問題の解決を考え続ける終わりのない試みが
生活の中心を占めるようになります。
彼らは元々は、
「救い主に頼るか、自分の力で問題を考えるか」、
という二者択一をするつもりはなかったのですが、
結局は後者を選ぶことになったのです。
しまいには彼らは、
あの拝金主義の人々と同じように、
自分の力に頼る者に成り果てました。
このことは、
彼らがもはや聖餐式を必要とせず、
クリスチャンの交わりよりも他の人間関係を大切にするようになり、
御言葉を生活の隅に追いやっていることなどからわかります。
こうしてまた信仰の根っこが切れてしまいました。
それとともに、命との関係も切れてしまいました。
    
(ラウリ コスケンニエミ 「今日私と共にいてください」)

2011年11月21日月曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 第3回目の質問(3章)

 
第3回目の集まりのために

「ヨハネの黙示録」3章


「ヨハネの黙示録」3章の内容は、
サルデス、フィラデルフィア、ラオデキヤの諸教会に宛てられた手紙についてです。
イエス様はサルデスとラオデキヤの教会を叱正なさいました。
それは理由があってのことでした。
イエス様は、
間違った方向に迷走し始めた教会が後で厳しい裁きを受けないために
一刻も早く悔い改めるよう勧告なさっているのです。
イエス様の御許に戻る道はまだ開いています。
フィラデルフィアの教会はイエス様から褒められています。
イエス様は、
この教会をこれからも御自分の働きを通して用いることを約束して、
教会が天国への旅をつづける大切さを思い出させます。


質問

1)サルデスの教会はおそらく無関心のまどろみの中に沈みこんでいたのでしょう
(1~6節の説明を参照してください)。
私たちの今の教会にもそれは当てはまりますか。また、それはどのように見えますか。
事態を改善するために私たちには何ができるでしょうか。
イエス様はどのような忠告をサルデスの教会にお与えになりましたか。

2)イエス様はサルデスとラオデキヤの教会をお叱りになりました。
イエス様は私たちのこともお叱りになるでしょうか。その場合、どのようにでしょうか。
叱られるのは気分のよいものではありませんが、必要なことでもあります。
それはなぜでしょうか。

3)フィラデルフィアの教会には敵がいました。
私たちには敵がいますか。
敵に対しては、どのような態度を取るべきでしょうか。
彼らにイエス様のことを伝えるにはどうすればよいでしょう。
クリスチャンをひどく軽蔑していた人が後でクリスチャンになる場合があります。
フィラデルフィアではそのようなことが起こる、とイエス様は約束してくださいました。
以前はキリスト教に激しく反対していたのに今ではクリスチャンになった人を、
あなたは誰か知っていますか。

4)天国について思い巡らすことによって、
神様に属する人として生きていく力をいただけますか。
天国のことを忘れずに生きていくためには、どうすればよいのでしょうか。
天国について考えすぎる、ということがありうるでしょうか。
もしもそうなったら、どのような結果を招くでしょうか。

5)イエス様はラオデキヤの教会では教会の主にふさわしい地位を与えられませんでした。
イエス様は戸の外側におられたのです!
このようなことがどうして起こるのでしょう。
イエス様が教会の中で片隅に追いやられている例を知っていますか。
それはどのような事態を招くことになるでしょうか。

6)ラオデキヤの教会はイエス様からの手紙に対してどのような態度を取ったと思いますか。
イエス様からそのような手紙をいただいた場合、
あなたならそれに対してどのように反応するでしょうか。

7)どのような手紙をイエス様はあなたの教会に送られると思いますか。

2011年11月18日金曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 3章14~22節 ラオデキヤの教会への手紙(その2)

ラオデキヤの教会への手紙 3章14~22節(その2)
 
 
18節でイエス様は、
ラオデキヤの教会が御自分の用意なさった品々を買うように勧めます。
「買う」と言っても、普通の意味での買い物ではありません。
神様からは何もお金で買ったりはしません。
それは「イザヤ書」が次のように言う意味での「買い物」なのです、
「さあ、渇いている者は皆、水のところに来なさい。
お金のない人も、こちらへ来て、食料を買い、食べなさい。
来なさい。そして、お金など払わずに無料で、ぶどう酒と乳を買い求めなさい」
(「イザヤ書」55章1節)。
このように、イエス様は教会に欠けているものを
ただで教会に差し出してくださいます。
教会はこの贈り物を、受け取ることも受け取らないこともできます。
もしもこの贈り物が教会の嗜好に合わないのだとしたら、
それはその教会自身の傲慢さを示しており、
教会はイエス様の口から外に吐き出されてしまうことになります。
 
イエス様は教会全体を揺り起こそうとしているだけではありません。
教会の会員ひとりひとりに語りかけてくださっているのです。
イエス様は外に立ち、戸をたたいておられます。
これは、
教会の主御自身がラオデキヤの教会の外に締め出されていたことを表しています。
教会の状態が悪化した原因がそこにあるのは、まちがいありません。
もしも教会全体が主の声に耳を傾けないとしても、
道を踏みはずした教会の会員のうちの数人だけか、あるいは一人だけでも、
その(心の)戸を御自分に開くように、とイエス様は勧告なさいます。
そして、そのように行う人に多くのよいことを約束してくださいます。
その人にはいつか将来、イエス様と共に神様の御座に座ることが許されるのです。
イエス様は十字架の道で戦われ、勝利されました。
それと同じく、
イエス様に従う人々の人生も戦いであり、十字架を背負っていくことです。
大変ですが、勝利はもう目の前です。
なにしろ、イエス様が勝利者だからです。
そして、勝利者に属する私たちもまた、勝利者なのです。

2011年11月16日水曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 3章14~22節 ラオデキヤの教会への手紙(その1)

ラオデキヤの教会への手紙 3章14~22節
 
  
ラオデキヤは交易路に面した富裕な都市でした。
西暦60年、この都市は地震で崩壊しました。
しかし、「ヨハネの黙示録」が書かれた頃には
ラオデキヤは再建され、経済的な豊かさを誇っていました。

イエス様はラオデキヤの教会に向けて、「アーメン」という言葉で話し始められます。
アーメンはヘブライ語で、「まことにそのとおりです」という意味です。
たとえば、他の人の話を聴いた後で、「アーメン」と言って、
その話が正しく信頼できるものであることを証することができます。
イエス様が「アーメン」と言われているのは、
イエス様が言われることすべてを「アーメン」という言葉で受け入れることができる、
という意味です。
イエス様のなさるお話は常に真です。
「神様のお造りになったものの始原」は、
「ヨハネの福音書」の冒頭で御言葉についての言及と同じことを意味しているのでしょう
(「ヨハネによる福音書」1章3節)。
イエス様は天地創造に参与され、
御子を通して父なる神様は万物をお造りになったのです。
 
ラオデキヤの教会は、サルデスの教会と同様に、イエス様から厳しく諌められています。
この教会はもはや主と共に戦う教会ではありませんでした。
鈍く、無関心で、生ぬるく、まったく落第点の教会に成り下がっていたのです。
サルデスの教会と同様に、ラオデキヤの教会も、
「うちの教会はすべて順調だ」、と勝手に思い込んでいました。
教会は自分の豊かさを誇ってさえいました。
ところが実際には、
教会はひどく哀れで、貧しく、盲目で、裸のような状態だったのです。
ラオデキヤの教会へのイエス様の言葉は、
スミルナの教会への言葉とは正反対のものでした。
スミルナの教会は外側からは貧しく惨めに見えましたが、
実際には豊かでした。
その教会には、ラオデキヤの教会には欠けていた「最大の富」があったからです。
 
ラオデキヤの教会はイエス様にとって役に立たない教会でした。
それは冷たくもなく熱くもありませんでした。
冷たい水には、それならではの大切な用途がありますし、それは熱い水の場合も同じです。
生ぬるい水は、置きっぱなしになっていて、使い道がなくなった水のことです。
ラオデキヤの教会はまさにその生ぬるい水のような教会でした。
それは味気がなくなり、
神様の教会に与えられている大切な使命を果たすことができなくなっていました。
それゆえ、イエス様は、
「このままでは、あなたたちの教会を私の口から吐き出して、
私に属する人々の群れから除外しますよ」、
と厳しく言われるのです。

2011年11月14日月曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 3章7~13節 フィラデルフィアの教会への手紙(その2)

フィラデルフィアの教会への手紙 3章7~13節(その2)

 
神様の教会は敵に対しても福音を伝えます。
それを示しているのが、9節です。
何人かのユダヤ人がクリスチャンになる、とイエス様は約束してくださいます。
キリストの教会こそが、神様の愛する「真のイスラエル」、
神様の民であることを彼らは理解するようになるのです。
 
神様に属する人のこの世における人生は、楽ではありません。
イエス様に従う人は、主のように「十字架の道」を歩みます。
これは、フィラデルフィアの信徒たちも実際に体験したことです。
圧迫を受けた教会には大いなる約束が与えられました。
すなわち、この教会を守ることと、
神様がこの世を裁かれる「最後の日」に御自分に属する人々を救うことを、
イエス様は約束されたのです。
そして、この約束は私たちに対しても与えられているものです。
私たちは、終わりまでイエス様に属し続けさえすれば、
最後の裁きの時に救われるのです。
  
イエス様はフィラデルフィアの教会の信徒たちに、
何が彼らを待っているか、思い起こさせます。
彼らには天国の神殿に自分の場所が用意されています。
彼らは、もはや悲しみも世のわずらいもまったくない場所へと旅を続けているのです。
天国で何が待っているかを覚えれば、天国への旅路を続けていく力を得るものです。
御自分に属する人々を天国の神殿の柱とする、というイエス様の約束は、
ゆるぎない永遠の命をあらわしています。
神殿の柱が神殿から取り除かれ他の場所に移されることがないのと同じく、
天国に入った人々が天国から追放されるようなことも決してありません。
天国に入った人々に授けられた神様の御名は、
彼らが誰に属しているか、よくあらわしています。
彼らは永遠に神様に属しているのです。

2011年11月11日金曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 3章7~13節 フィラデルフィアの教会への手紙(その1)

フィラデルフィアの教会への手紙 3章7~13節(その1)
 
 
フィラデルフィアにはしばしば地震が起こりました。
そのためもあって、
それは、富裕ではあるものの、かなり小さな都市のままでした。
地理的にはサルデスの近くに位置していましたが、
教会はサルデスの教会とはまったくちがっていました。
サルデスの教会はイエス様から叱られるべき点が多くあったのに、
フィラデルフィアの教会はまったく叱られていません。
フィラデルフィアの教会に送られた手紙には、
スミルナの教会へ送られた手紙と似ている点がたくさんあります。
どちらの教会の会員にも「冠」が約束されています。
幾多に困難の只中にあっても、彼らはイエス様への信仰を捨てませんでした。
それゆえ、彼らには天国が待っているのです。
冠はその天国をあらわしています。
また、どちらの教会にも共通の敵がいます。
ユダヤ人たちは、
スミルナのクリスチャンもフィラデルフィアのクリスチャンも迫害しました。
それで、どちらの手紙にも「サタンの会堂」が出てくるのです。
  
7節で、イエス様は「ダヴィデの鍵の持ち主」である、と言われています。
イザヤ書には、ダヴィデの宮殿の管理を任された
ヒゼキヤ王の役人についての話が出てきます。
この忠実な役人には、宮殿のあらゆる部屋と倉庫を開け閉めする権利がありました。
このことの証左として、その役人の肩には鍵がかけられていました
(「イザヤ書」22章22節)。
イエス様には、これよりもさらに大きな権能があります。
イエス様は「死と地獄の鍵」をお持ちなのです
(「ヨハネの黙示録」1章18節)。
イエス様には人々を天国に入れる権能も、滅びへと裁く権能もあるのです。
イエス様がある人に天国の門を開けてくださるならば、
誰もそれを閉じることができません。
イエス様がある人に対して天国の門を閉じる場合には、
誰もそれを開けることができません。
   
8節ではふたたび、「開かれた門」が出てきます。
これは、フィラデルフィアの教会に開かれた伝道の機会を意味していると思われます。
パウロもまた、彼に開かれた伝道の可能性に関して同じような表現を用いています
(「コリントの信徒への第一の手紙」16章9節にも「門」という言葉があります)。
フィラデルフィアの教会はイエス様とその御言葉への忠実を守り、
困難の最中にあっても主を否認することはありませんでした。
まさにそれゆえに、
イエス様は御自分に属する人々に委ねた仕事を通して教会を用いてくださったのです。
主を捨てた教会は、伝道という仕事に関しては、まったく役に立ちません。

2011年11月10日木曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 3章1~6節 サルデスの教会への手紙(その2) 

 
サルデスの教会への手紙 3章1~6節(その2) 
  
  
イエス様は教会の目を覚まさせようと、
今のような状態が続けばどうなるか、忠告なさいます。
いつか必ずイエス様は栄光に包まれて地上に再臨されます。
そして教会は、もしもその時に眠りこけているなら、
不信仰な世と同じ裁きを受けることになります。
それゆえイエス様は、「悔い改めるように」と教会に命じられるのです。
目を覚まし、今までの生き方を変えて、
神様の教会が本来歩むべき道へ戻るように、と。
この道における信仰は本物であり、生活にも影響を与えるものです。
 
サルデスには「その衣を汚さなかった」者たちがまだ何人か残っていました。
清潔な衣は、洗礼で私たちがいただいたもの、
私たちがイエス様を信じるときに「自分のもの」となるもの、
すなわち、洗礼の恵みに結びついた信仰をあらわしています。
洗礼において私たちはキリスト御自身を着せていただいた、と聖書は教えます
(「ガラテアの信徒への手紙」3章27節)。
キリストを着せられた者として私たちは、
神様が受け入れてくださるのにふさわしい者となります。
この「衣」がなければ、
神様は私たちの汚さをごらんになって、
聖なる裁きを私たちに下されるのは確実です。
サルデスの教会の大多数は、
おそらく知らず知らずのうちにイエス様から離れてしまっていたのでしょう。
そうして、自分たちの衣を汚してしまったのです。
それに対し、ごく一部の人々は救い主を信じつづけていました。
彼らの上には、
天国の神様の御許でも受け入れていただけるのにふさわしい衣が
ちゃんと着いていたのです。
   
5節でイエス様は、事がどれほど重大か指摘なさいます。
天国の書物には洗礼を受けた者皆の名前が書き込まれています。
しかし、洗礼を受けた人が主から離れ去る場合には、
その名前は天国の書物から消し去られてしまいます。
天国の書物にその名前が記されていない人は、いずれ窮地に陥ります。
最後の裁きの時に、イエス様はその人を「御自分のもの」とはお認めになりません。
これはその人に起こりうる最悪の事態です。
それに対して、天国の書物の中にその名前が見出される人には、
大いなる約束が与えられています。
イエス様はその人を知っておられ、
その人には天国の門が開かれることになります。
 

2011年11月7日月曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 3章1~6節 サルデスの教会への手紙(その1) 

  
ヨハネの黙示録3章
 
   
サルデスの教会への手紙 3章1~6節(その1)

   
  
サルデスは地中海沿岸から約80キロメートル内陸に位置していました。
この都市には輝かしい過去の歴史がありました。
それは紀元前6世紀には巨万の富で有名なクロイソス王の都市であり、
古代リュディア王国の首都でした。
しかし、その後何百年もの歳月が流れ、サルデスは変わり果てました。
都市は落ちぶれ、「ヨハネの黙示録」が書かれた頃には
かつての栄華の面影はもはやすっかり消えうせていました。
サルデスの教会もまた、その都市と同じような状態でした。
教会にはかつて輝かしい過去と良い評判がありました。
しかし、教会の現状は、
都市の人々の風評から想像されるようなものではありませんでした。
つまり、教会は、一見すると活動的でありながら、
その実、半死半生の状態だったのです。
  
1節でイエス様は教会とその牧者を厳しく叱っておられます。
外部の評判がどうあれ、
イエス様はサルデスの教会の真の状態を知っておられました。
人々の目にはそれは模範的な教会に見えましたが、
イエス様の目をごまかすことはできません。
教会生活は、たんなる表面にすぎません。
実際には教会は死んでいました。
あるいは、少なくとも死にかけていました。
なぜサルデスの教会がこんな惨めな状態になったのか、確かなことは言えません。
おそらくそれは異端の教えのせいではなかったでしょう。
もしも異端の教えが教会の死を招いたのだとしたら、
イエス様は間違いなくそれを名指しで指摘なさったでしょうから。
教会をだめにしたのは、道徳的な堕落でもなかったでしょう。
もしも神様の御心を軽んじる態度が教会の死因だったとしたら、
それについて明記されていたことでしょうから。
真実に近いと思われる原因は、教会を覆い尽くした「無関心」でしょう。
もはや教会員たちはイエス様を本気で信仰しなくなり、
その浮ついた態度が教会としての死を招いたのではないでしょうか。
「目を覚ましなさい」、というイエス様の勧告は、このことに関係しています。
教会はあたかも眠り込んでしまったかのようでした。
これは、教会の無関心なだらしなさを示しています。
 
2節でイエス様は、神様の要求を満たしていない教会の行いについて語られます。
これは、サルデスの教会の行いが徹底さを欠いていた、という意味に理解できます。
教会には忍耐力がありませんでした。
教会は天国への道を歩むのを途中で放棄してしまいました。
神様に属する人々がこの世で行う「戦い」はもはや止み、
そのかわりに、無関心がはびこるようになりました。
  

2011年11月3日木曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 第2回目の終わりのメッセージ 

 
終わりのメッセージ 
 
 
憐憫 
  
 
私たちの救い主は人々のことを憐れに思われた、と聖書はしばしば語っています。
イエス様は民の群れをかわいそうに思われました
(「マタイによる福音書」9章36節)。
目の見えない人々や重い皮膚病に罹っている人々を憐れんでくださいました
(「マタイによる福音書」20章34節、「マルコによる福音書」1章41節)。
イエス様のたとえ話の中に登場する王は負債を抱えた僕のことを不憫に思われました
(「マタイによる福音書」18章27節)。
大祭司としてイエス様は私たちの弱さに同情してくださいます
(「ヘブライの信徒への手紙」4章15節)。
  
私たちの普通の理解では、「憐憫」という言葉には、
同情や冷めた憐憫の態度を遠くから示すことなどが含まれています。
私たちは自分では憐憫の対象になりたくはありません。
ところが、新約聖書では、この言葉は完全に肯定的な意味で用いられています。
この言葉は心の奥底にある気持ちや憐れみ深い愛について語っており、
共に苦しむ温かい心をあらわしています。
 
イエス様が憐れに思われるとき、
イエス様の深い憐れみの愛がすぐそばまで来ています。
イエス様のたとえ話の中の王は
負債を抱えた僕にその莫大な負債を帳消しにしてあげました。
このことは、
自分の不信仰に苦しめられ弱く虐げられている人が皆、
憐れみと恵みによって助けていただくため、
「大胆に」(「ヘブライの信徒への手紙」4章16節)
恵みの御座の前へと歩み出るよう、促してくれます。
   
この道は、行き止まりで立ち往生している人々に対しても開かれています。
この恵みは、貧しい人々にも無料で提供されています。
この助けは、死人のように無力な人々へも差し出されています。
   
イエス様は憐れに思い、愛してくださいます、今日もまた、あなたのことを。
  
(ラウリ コスケンニエミ 「恵みは近くに」)