2010年4月6日火曜日

「エフェソの信徒への手紙」について 3章14~21節

  
天のお父様の子供たち 3章14~21節
  
ここで扱う14~21節は「エフェソの信徒への手紙」のはじめの部分をしめくくっています。そこには、教会のための祈りと、神様への賛美が含まれています。
 
「神様が父だというのはたんなる比喩的なイメージに過ぎない」と主張する人たちがいます。
「神様を別のやり方で表現することもできるはずだ」というわけです。
ところが、15節は、「神様とは、その本当のお姿が私たちの生活の中へ映し出されているお方であって、逆に私たちの生活が神様のイメージを決定しているわけではない」ということを語っています。神様の父親としての愛は、美しい比喩にとどまるものではありません。
神様は私たち人間の肉親としての父の遠い原型にあたるお方であり、肉の父について私たちのもっているイメージは、神様がどのようなお方であるか、思いをめぐらすときに役立ちます。
  
現代社会に大きな影響を与えているフェミニズムは、キリスト教の領域にも独自の価値観を持ち込んできています。
ある人たちは、神様を父と呼んだり男性形の代名詞で表すことを拒絶し、神様を表す男性形の言葉をすべてそれらと対応する女性形の言葉に置き換えて、新しい信仰告白をつくることさえしています。彼らは、「聖書は族長中心の社会で生まれたので、男性中心的な書物だ」と考えています。
ところが、聖書は神様の活動を繊細に「母の愛」に比較しています(たとえば、イザヤ書66章13節)。
とりわけここで大切なのは、私たちと神様との関係は私たちに啓示されていることがらに完全に依存しているということを、確認しておくことです。
神様について私たちがしっているのは、神様御自身が聖書で教えてくださったこと以外にはありません。
そして、聖書でイエス様は神様を父を呼んでおられます。
聖書とキリストを差し置いて神様のことを追求しようとするある種のフェミニズムの「天才的な試み」は、実のところ根拠のない想像の産物にすぎません。
今ここで取り扱っている手紙の箇所は、「神様の父親としての愛は私たちの生活のために与えられた模範だ」と言っています。
ところが、私たち肉としての父親は、自分の子供たちが神様に、愛する子供たちが優しいお父さんに接するように、近づこうとする気持ちをかえって踏みにじってきたのではないでしょうか。
本当に恥じ入るべきことです。
残念なことに、「神様も私たちの父親だというのか、自分の父親だけでもうんざりしているというのに!」と言う若者が多いのではないでしょうか。
  
人生で一番大切なのが「知識」だと考えている人たちのことを念頭において、「エフェソの信徒への手紙」は書かれています。
彼らの言う「知識」とは、普通の意味での理性的な知恵ではなく、超自然的なことがらに関する知識であり、暗闇と光の諸霊が互いにどのような関係にあるかについての知識でした。
このような「知識」を我が物とした人は他の人間よりも高い境地に達している、というわけです。
「エフェソの信徒への手紙」はこのような物の見方に、穏やかな態度を保ちつつ反対しています。「神様に満ちているもの」を人間にもたらすのは、知識などではなく、キリストの愛なのです。
私たちは、キリストの十字架とキリストの御言葉への従順に、すべての関心を集中するべきです。
こうして、私たちは光輝く恵みの流れのほとりに何度も繰り返し導かれ、自分たちの心の渇きを癒していただけるのです。
  
20~21節は神様への賛美です。これは教会の礼拝で古くから用いられてきた賛美だと考えられています。