2010年1月15日金曜日

「エフェソの信徒への手紙」について 1章15~23節(後半)

第1章の後半部では、「エフェソの信徒への手紙」に特徴的なことがらが取り上げられています。
パウロは、信仰者たちが神様をしることを学ぶように、待ち望んでいます。
これは私たちにいろいろなことを考えさせます。
牢獄の底から神様の愛を賛美する声が聞こえてきます。
手紙の著者は神様とその愛をしることを学んだ人です。
それゆえ、彼は苦い思いにとらわれることなく、熱心に、また我を忘れて、大いなる秘密をしるようにと手紙の読者をいざないます。
神様は、手紙の受け取り手に、彼ら自身が理解したことよりもさらに多くのことを分け与えようとしておられます。このことは私たちにどんなことを教えているでしょうか。

私たちクリスチャンも信仰生活において、落ち込んでいたり、怠けていたりするものです。
それというのも、神様の愛が広大であることや、私たちの希望が素晴らしいものであることを、私たちはほとんど気づかずに日々過ごしているからです。
まさにここに私たちの信仰生活と教会全体の重大な問題がある、と私はますます確信を深めてきました。
問題は、私たちが十分に努力していない、という点ではありません。
また、信仰を証するのが下手である、とか、現代世界の発展から取り残されてしまった、という意味でもありません。
さらには、私たちは感情を揺さぶるような強烈な体験をしなければならない、とか、新しい恵みの賜物を獲得しなければならない、とかいう意味でさえありません。
ここでのポイントは、「エフェソの信徒への手紙」が語っていること、すなわち、キリストの十字架が語っている「神様の圧倒的に大きな愛」のうち、ごくわずかの部分しか私たちはしってはいない、ということです。

「エフェソの信徒への手紙」の勉強を次のことから始めましょうか。
あなたには、あなたのままで、ただキリストの十字架と神様の愛のゆえに、御父がおられます。
これまであなたは御父の善性や偉大さや愛をあれこれ想像してみることしかできなかったのです。
要求、脅迫、条件ではなく、ひたすら神様の善性のみに注目しましょう。

もしもこれについて何かしらわかるなら、私たちは今「爆弾」のようなものを取り扱っているのだ、ということに気がつくでしょう。ヘドベルグがそれをしったとき、(現在のフィンランド福音ルーテル協会につながる)福音運動がはじまったのです。私たちもそれをしるならば、私たちの中にもリヴァイヴァル運動が生じるのは大いにありうることです。