2010年9月7日火曜日

「コリントの信徒への第一の手紙」 罪深い都市、コリント

罪深い都市、コリント

コリントには古く輝かしい歴史がありました。
ギリシア人が海洋術を学ぶとまもなく、両側に海浜をもつ狭い峡部に位置するこの都市は、絶好の港町となりました。
ギリシアが勢威を振るった時代(紀元前480~330年)に、コリントは海洋業が盛んな活気あふれる町でした。
その後、ギリシアの覇権を握ったのは、フィリッポスとその息子アレクサンダー大王の率いるマケドニア人であり、さらに100年後、彼らに続いて支配の座に着いたのは、ローマ人でした。
こうした変遷の中で、ギリシア人の都市国家の重要性は薄れていったのです。
コリント主導の下に結集した都市国家は、ついにローマに反旗を翻しました。
紀元前146年、ローマ人は、ほかのすべてのギリシア人に対するみせしめとして、コリントを破壊しました。100年後、紀元前46年に、ガイウス・ユリウス・カエサルはこの都市をローマ人の植民都市として再建しました。
地の利を生かして、コリントはまもなく新たな隆盛を迎えました。
すでに紀元前29年には、コリントはアカヤ州の首都、総督府の都市となっています。
パウロの時代には、コリントは現代の大きな港湾都市と同じような賑わいを見せていました。
そこには、ありとあらゆる堕落と不道徳がありました。
都市には大金持ちも貧乏人も大勢いました。
それに加えて、港町にはさまざまな新しい宗教がなだれこんできていました。
これらすべてのことが、コリントの教会および「コリントの信徒への手紙」の中にくっきりと刻印を残しています。