2010年6月17日木曜日

「エフェソの信徒への手紙」について 第5回目の終わりのメッセージ 

第5回目の集まりのためのおわりのメッセージ

キリストの教会の聖さの基であり始点となっているのは、キリストが教会を愛しておられ、教会のために身代わりに死んでくださった、ということです。
使徒はこう言っています、「キリストは教会を愛し、御自分を教会のために犠牲としてささげられました。それは、キリストが教会を聖とするためです」。
      
しかし、どのようにして主キリストは教会を、御自分の貴い犠牲によって確保した聖さにあずかるようにしてくださるのでしょうか。
        
答え。洗礼と御言葉を通してです。
   
なぜなら、使徒はこう付け加えているからです、「主は教会を、御言葉の中で、水の洗いによってきれいにし、聖となさります」(「エフェソの信徒への手紙」5章26節)。
洗礼を受け、御言葉を信じる者たちは、本当にきれいで聖いのです。
      
たとえ彼らが、この世や自分自身の目には、誤りやすく弱い者のように見える場合であっても、そうなのです。
これは本当に、ごくつまらない清さや聖さなどではありません。
たとえそれが理性や偽善者の目にはまったくそうは見えない場合でも、そうなのです。
神様の御子キリスト御自身が清くなさった教会は、神様とすべての天使たちの御前では本当に清いにちがいありません。
たとえ悪魔やこの世や盲目の理性が、教会の中に、清さではなく、汚ればかり見出す場合であっても、そうなのです。
      
キリストが、すべてを犠牲として捧げ、神様と人とを完全に和解させ、すべてを成し遂げてくださる愛を通して、私たちに確保してくださったこの聖さ、聖なる洗礼と御言葉を通して教会があずかれるようにしてくださったこの聖さが、どれほど偉大で特別なものか、ということを示すために使徒は次のように語っています、「それは、しみも、しわも、その類のものが一切なく、清くて傷のない教会を、栄光に満ちたものとして御自分の御前に立てるためです」(27節)。
        
しかし、キリストが十字架の死と復活の報酬として確保してくださったもの、洗礼において与えてくださったもの、御言葉を通して私たちに約束してくださったもの、は信仰によって受け入れられ、用いられるべきものです。
さもなければ、それらすべては、失われた賜物のままになってしまいます。
         
キリストを信じている私たちは神様の恵みと愛と好意をいただいている、と今私たちは確かに知っています。
なぜなら、「そうなのです」と、主御自身の使徒がここで告げているからです。
理性や感情にはそうではないように見えたとしても、それが何だと言うのでしょうか。
御言葉は、私たちが見たり理解したり感じたりするあらゆることよりも確実なものです。
御言葉は神様から発しており、それがうそをついたりだましたりすることはありえません。
        
この御言葉に私たちは信頼します。
       
(F.G.ヘドベルグ 「命のことば」)