2020年9月30日水曜日

「ルツ記」ガイドブック ボアズの畑で 「ルツ記」2章1〜16節(その3)

ボアズの畑で 「ルツ記」2章1〜16節(その3)

いつの間にかルツはボアズの使用人の一人になっていました。

ボアズはまずルツが彼の畑で落ち穂拾いをするように勧めます(8節)。

それから彼はルツに身辺の保護を保証します(9節)。

さらに彼はルツに飲み物を与えることを約束し(9節)

また食べ物も提供しました(14節)。

 

当時の収穫作業では男たちが刈り取りをし、

女たちが刈り取られたものを集めて束ねる仕事をしました(8〜9節)。

 

旧約聖書はある特定の民(たとえばモアブ人)が

神様の民の一員となることを禁じています。

それなのに、

どうしてモアブ人ルツは主に選ばれた民の一人となれたのでしょうか。

旧約聖書の時代におけるこの選別は、実質的には、

生まれながらに属している民族や国民が何であったかということよりも

むしろ信仰する宗教が何であったのかということに基づいてなされた

ということではないでしょうか。

 

1990年代にイスラエル国はエチオピアに住むユダヤ人たち

(ベタ・ユダヤ人とかファラシャ人とか呼ばれます)の大部分を

エチオピアからイスラエルに移住させました。

彼らベタ・ユダヤ人たちの皮膚の色は真っ黒でした。

たんに皮膚の色に基づいて判断を下すならば、

彼らがユダヤ人民族に属していると考える人はいないでしょう。

しかし、彼らの宗教はまぎれもなくユダヤ教そのものでした。

 

これと同じように、ルツの信仰は旧約聖書の主なる神様への信仰だったのです。

 

「しかしルツは言った、

「あなたを捨て、あなたを離れて帰ることをわたしに勧めないでください。

わたしはあなたの行かれる所へ行き、またあなたの宿られる所に宿ります。

あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神です。」

(「ルツ記」1章16節、口語訳)

 

旧約聖書はイスラエルの民がそれ以外の国民と結婚するのを禁じています。

しかし、この禁止が守ろうとしたものは

民族的な純潔性ではなく宗教的な純潔性でした。

 

「また彼らと婚姻をしてはならない。

あなたの娘を彼のむすこに与えてはならない。

かれの娘をあなたのむすこにめとってはならない。

それは彼らがあなたのむすこを惑わしてわたしに従わせず、

ほかの神々に仕えさせ、

そのため主はあなたがたにむかって怒りを発し、

すみやかにあなたがたを滅ぼされることとなるからである。」

(「申命記」7章3〜4節、口語訳)

 

たとえばソロモン王もユダヤ教以外の宗教を信奉する妻たちの影響を被って、

まちがった道へとさまよい出てしまいました(列王記上11章1〜5節)。

 

人種差別主義には様々なタイプがあります。

しかしその支持者たちも、

聖書に基づいて人種や民族ごとの貴賎の違いを決して正当化できないことを

知っておくべきです。

全世界のすべての人間には

アダムとエバという共通の祖先がいることを聖書は教えているからです。

2020年9月23日水曜日

「ルツ記」ガイドブック ボアズの畑で 「ルツ記」2章1〜16節(その2)

ボアズの畑で 「ルツ記」2章1〜16節(その2)

「ルツは行って、刈る人たちのあとに従い、畑で落ち穂を拾ったが、

彼女ははからずもエリメレクの一族であるボアズの畑の部分にきた。」

(「ルツ記」2章3節、口語訳)

 

この節に出てくる「はからずも〜した」という表現は、ヘブライ語原文では、

動詞「カーラー」(出くわす)と名詞「ミクレー」(出来事)という

同じ語根からなる二つの単語による重語的表現(figura ethymologica)です。

これは「偶然にも、ルツはボアズの畑で落ち穂拾いをすることになった」

という意味ではありません。


神様の世界にはいかなる「偶然」も存在しません。

一切の出来事は神様のお許しの下に生起しているからです。

神様はこれから私たちに起こる事柄についても

そのすべてをあらかじめご存知です。


次の引用箇所からもわかるように、

人間の目には偶然に映ることも実際には神様の導きの下にあるのです。

 

「しゅうとめは彼女に言った、

「あなたは、きょう、どこで穂を拾いましたか。どこで働きましたか。

あなたをそのように顧みてくださったかたに、どうか祝福があるように」。

そこで彼女は自分がだれの所で働いたかを、しゅうとめに告げて、

「わたしが、きょう働いたのはボアズという名の人の所です」と言った。

ナオミは嫁に言った、

「生きている者をも、死んだ者をも、顧みて、いつくしみを賜わる主が、

どうぞその人を祝福されますように」。

ナオミはまた彼女に言った、

「その人はわたしたちの縁者で、最も近い親戚のひとりです」。」

(「ルツ記」2章19〜20節、口語訳)

 

ルツの履歴はベツレヘムの村の全住民に知られていました

(「ルツ記」1章19節、2章6節)。

当時、小さい村の住人に関する情報や噂は瞬く間に広まったからです。

しかし、はじめボアズはルツのことを、

最近ベツレヘムに帰ってきたナオミが一緒に連れてきたモアブ人女性であるとは

認識していなかったようです(5〜6節、11節)。

 

ルツが全力で仕事に打ち込む姿勢(7節)は、

彼女がモアブの地でナオミを助けた時すでに発揮されていました。

ボアズを含めベツレヘムの住民たちは皆このことを知っていました(11節)。

彼女の熱心な仕事ぶりは、

彼女に対してボアズが示す態度にも好ましい影響を与えたものと思われます。

これは、まもなくボアズがルツに

モーセの律法規定が認めているよりも多くの権利を与えたことからもわかります。

 

「食事の時、ボアズは彼女に言った、

「ここへきて、パンを食べ、あなたの食べる物を酢に浸しなさい」。

彼女が刈る人々のかたわらにすわったので、ボアズは焼麦を彼女に与えた。

彼女は飽きるほど食べて残した。

そして彼女がまた穂を拾おうと立ちあがったとき、

ボアズは若者たちに命じて言った、

「彼女には束の間でも穂を拾わせなさい。

とがめてはならない。

また彼女のために束からわざと抜き落しておいて拾わせなさい。

しかってはならない」。」

(「ルツ記」2章14〜16節、口語訳)

 

「人は自分のまいたものを、刈り取ることになる」

(「ガラテアの信徒への手紙」6章7節より、口語訳)

という御言葉がここで実現しています。

ルツは姑のナオミに対して神様の御言葉に基づく正しい態度を貫きました。

そして、今度はルツがそのよき行いに相応しい正当な待遇を

ボアズから受けることになったのです。ボアズはルツに次のように言います。

 

「どうぞ、主があなたのしたことに報いられるように。

どうぞ、イスラエルの神、主、

すなわちあなたがその翼の下に身を寄せようとしてきた主から

じゅうぶんの報いを得られるように。」

(「ルツ記」2章12節、口語訳)

2020年9月16日水曜日

「ルツ記」ガイドブック ボアズの畑で 「ルツ記」2章1〜16節(その1)

新たな未来 「ルツ記」2章〜4章

 

ボアズの畑で 「ルツ記」2章1〜16節(その1)

 

ボアズはエリメレクの親戚でした。

「ルツ記」2章の冒頭にはボアズに関する説明があります。

そして、この人物こそが

ルツとナオミを苦境から救い出してくれる英雄であることが

ここですでに予告されているとも言えます。

 

「ボアズ」という名前にどのような意味が込められているのか、

確かなことはわかりません。

「力」や「速さ」などに関係する意味である可能性はあります。

辞書によっては「神殿の前面にある青銅の柱」を意味する言葉ともされています。

ユダヤ教のラビ文献の伝承によれば、

ボアズはエリメレクの兄弟の息子とされています。

しかし、これは的外れな推測でしょう。

そうだとすると、

ボアズはナオミたちにとって非常に近しい親戚ということになりますが、

ボアズはルツに

「たしかにわたしは近い親戚ではありますが、

わたしよりも、もっと近い親戚があります。」

(「ルツ記」3章12節、口語訳)と言っているからです。

ちなみに、ボアズの名は

新約聖書に収められているイエス様の二つの系図の両方に挙げられています

(「マタイによる福音書」1章5節、「ルカによる福音書」3章32節)。

 

「レビ記」19章9〜10節、および以下に挙げるモーセの律法の規定によれば、

畑をすっかり空にしてしまうほど穀物を収穫し尽くすことは許されていません。

寄留の他国人や孤児や寡婦たちのためにも

畑に穀物の一部を残しておくべきであるとされていたからです。

 

「あなたがたの地の穀物を刈り入れるときは、

その刈入れにあたって、畑のすみずみまで刈りつくしてはならない。

またあなたの穀物の落ち穂を拾ってはならない。

貧しい者と寄留者のために、それを残しておかなければならない。

わたしはあなたがたの神、主である。」

(「レビ記」23章22節、口語訳)

 

「あなたが畑で穀物を刈る時、

もしその一束を畑におき忘れたならば、

それを取りに引き返してはならない。

それは寄留の他国人と孤児と寡婦に取らせなければならない。

そうすればあなたの神、主はすべてあなたがする事において、

あなたを祝福されるであろう。」

(「申命記」24章19節、口語訳)

 

ところが実際には、畑の所有者の多くはこの規定を守りませんでした。

それどころか、彼らは社会的に弱く貧しい立場にある人々が

地面にこぼれ落ちた穀物の残りを拾い集めるのを妨げさえしました。

 

「その時ボアズは、ベツレヘムからきて、刈る者どもに言った、

「主があなたがたと共におられますように」。

彼らは答えた、「主があなたを祝福されますように」。」

(「ルツ記」2章4節、口語訳)

 

神様に対するボアズの深い信頼は、

ボアズと使用人たちとが互いに神様の祝福を願い合う態度にも

よくあらわれています。

このことからもわかるように、ボアズは義と律法を重んじる人でした。

だからこそ、ルツはボアズの畑から落ち穂を拾い集めることができたのです。

ルツは貧しい異邦人でした。

前述のモーセの律法の規定によれば、

ルツには畑の落ち穂を拾い集める権利が二重にあったことになります。

ここでもルツはナオミを助けました。

元々の地元民であるナオミのほうが異邦人であるルツよりも

ベツレヘムの畑に出やすかったはずです。

しかし、年老いたナオミには落ち穂拾いは荷が重過ぎたので、

代わりにルツが出かけて行ったのです。

2020年9月9日水曜日

「ルツ記」ガイドブック 辛い帰郷 「ルツ記」1章19〜22節

 辛い帰郷 「ルツ記」1章19〜22節

 

「ルツ記」の最初の章はナオミに焦点を当てています。

ナオミの辛いベツレヘムへの帰郷でこの章は閉じられます。

 

「ナオミは彼らに言った、

「わたしをナオミ(楽しみ)と呼ばずに、マラ(苦しみ)と呼んでください。

なぜなら全能者がわたしをひどく苦しめられたからです。 

わたしは出て行くときは豊かでありましたが、

主はわたしをから手で帰されました。

主がわたしを悩まし、全能者がわたしに災をくだされたのに、

どうしてわたしをナオミと呼ぶのですか」。」

(「ルツ記」1章20〜21節、口語訳)

 

この箇所によると、以前エリメレクの家族は裕福であったようです。

当時のベツレヘムは小さい村であり、

村の住民はもちろん互いに知り合いでしたし、

村から出て行った者たちのことも村人たちは知っていました。

 

ナオミは、

自分の生き方には神様に喜ばれない側面があったせいで

自分は不幸になったのだ、

と感じていたことがこの節からは伝わってきます。

しかし、

主がわたしを悩まし全能者がわたしに災をくだされたのだ、

というナオミ自身の解釈はあまりにも否定的過ぎるものであったと言えます。

なぜなら、ナオミは「ルツ記」の終わりの記述によれば

神様の救いの歴史の中で重要な位置を占めることになる人物だったからです。

 

私たちも自分の人生の出来事の意味を誤って解釈しがちであることを

覚えておきましょう。

ここでタペストリ−を例にとってみます。

タペストリーはまちがった面(すなわち裏)から眺めると

不鮮明な紐の寄り集めにすぎないようにみえるものです。

しかし、正しい面(すなわち表)から眺めれば、

タペストリー本来のもつ絵柄が鮮明に浮かび上がります。

 

人間的な見方をするならば、

なるほどナオミ(ヘブライ語で「ノオミ」)の人生は

喜ばしいものでも「幸福なもの」(ヘブライ語で「ノオミ」)でも

ありませんでした。

それどころか逆に、それは

「苦い不幸」(ヘブライ語で「マーラー」)に満ちた人生でした(20節)。

 

ナオミとルツがベツレヘムに戻ってきた「大麦刈の初め」の季節は

私たちのカレンダーの4月〜5月頃にあたります。

そして、この時期の数週間後には「小麦刈」が始まります

(「ルツ記」2章23節)。

 

2020年9月2日水曜日

「ルツ記」ガイドブック 死ぬまで変わらぬ友愛 「ルツ記」1章6〜18節(その3)

 死ぬまで変わらぬ友愛 「ルツ記」1章6〜18節(その3)

 

イスラエルの地に移住することは、

モアブの主神ケモシュを捨てることでもありました(15節)。

ルツにはそうすることも辞さない覚悟がありました。

エリメレクの家族は全能なる神様の働きかけによって

モアブの地で過酷な不幸にさらされました。

にもかかわらず、

他ならぬこのイスラエルの神様御自身が

ルツにも深い影響を及ぼされたのです。

前掲の1章13、20〜21節でナオミがルツに言ったことを

ここで思い起こしてください。

 

ところが、ルツはナオミに次のように答えます。

 

「あなたの死なれる所でわたしも死んで、そのかたわらに葬られます。

もし死に別れでなく、わたしがあなたと別れるならば、

主よ、どうぞわたしをいくえにも罰してください。」

(「ルツ記」1章17節、口語訳)

 

この節には、ナオミに対するルツの深い友愛と信頼が美しく描かれています。

ルツには一切を投げ捨てて先行きのまったく見えない未来に向かって

姑と共に歩みだす決死の覚悟がありました。

 

イスラエル人と異国人の間のこのような深い友愛の絆は、

以下に引用するダヴィデ王とガテ人イッタイの間にもありました。

これは自分の息子アブサロムの謀反によって都落ちを余儀なくされた

ダヴィデ王にまつわるエピソードです。

 

「時に王はガテびとイッタイに言った、

「どうしてあなたもまた、われわれと共に行くのですか。

あなたは帰って王と共にいなさい。

あなたは外国人で、また自分の国から追放された者だからです。

あなたは、きのう来たばかりです。

わたしは自分の行く所を知らずに行くのに、

どうしてきょう、あなたを、われわれと共にさまよわせてよいでしょう。

あなたは帰りなさい。

あなたの兄弟たちも連れて帰りなさい。

どうぞ主が恵みと真実をあなたに示してくださるように」。

しかしイッタイは王に答えた、

「主は生きておられる。

わが君、王は生きておられる。

わが君、王のおられる所に、死ぬも生きるも、しもべもまたそこにおります」。

ダビデはイッタイに言った、

「では進んで行きなさい」。

そこでガテびとイッタイは進み、

また彼のすべての従者および彼と共にいた子どもたちも皆、進んだ。

国中みな大声で泣いた。

民はみな進んだ。

王もまたキデロンの谷を渡って進み、民は皆進んで荒野の方に向かった。」

(「サムエル記下」15章19〜23節、口語訳)

 

最終的にオルパは自分の国に帰ることを選びました(14節)。

その後彼女がどうなったのか、私たちは知りません。

人間的な見地からすると、

ナオミに従ってエルサレムに向かうことにしたルツの選択にくらべて、

オルパの決断ははるかに理にかなったものでした。

しかし、ルツのその後の人生は重大な意味を帯びることになりました。

彼女はダヴィデ王の、さらにはメシア(救い主)の先祖の母にもなったからです

(「マタイによる福音書」1章1〜5節)。

人間の理性に従った決断と神様の御心とは

必ずしも常に調和するものではありません。

神様は私たちに理性的な考え方を捨てるように指図されるわけではありませんが、

時として理性は神様の御心に反した判断を下す場合があることは

覚えておくべきでしょう。