2022年9月15日木曜日

「ヤコブの手紙」ガイドブック 「ヤコブの手紙」5章7〜11節 忍耐はいつかかならず報われる(その2)

 忍耐はいつかかならず報われる(その2)

「ヤコブの手紙」5章7〜11節

 

「だから、兄弟たちよ。

主の来臨の時まで耐え忍びなさい。

見よ、農夫は、地の尊い実りを、前の雨と後の雨とがあるまで、

耐え忍んで待っている。」

(「ヤコブの手紙」5章7節、口語訳)

 

「前の雨」は秋の雨あるいは秋の収穫を、

また「後の雨」は春の雨あるいは秋の収穫を意味しているとも考えられます。

イスラエルでは秋にも春にも収穫期があったからです。

春には穀物が、秋には果物が実りました。

雨季も年に二回あり、

秋は十月に、春は三月から四月にかけてよく雨が降りました。

雨季と収穫については次に引用する旧約聖書の「申命記」にも記されており、

それがヤコブの言い回しの背景にあるとも考えられます。

 

「もし、きょう、あなたがたに命じるわたしの命令によく聞き従って、

あなたがたの神、主を愛し、心をつくし、精神をつくして仕えるならば、

主はあなたがたの地に雨を、秋の雨、春の雨ともに、時にしたがって降らせ、

穀物と、ぶどう酒と、油を取り入れさせ、

また家畜のために野に草を生えさせられるであろう。

あなたは飽きるほど食べることができるであろう。」

(「申命記」11章13〜15節、口語訳)

 

忍耐の模範の例として旧約聖書の預言者たちやヨブが挙げられています。

参考箇所を次に挙げます。

 

「このほか、何を言おうか。

もしギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、

サムエル及び預言者たちについて語り出すなら、時間が足りないであろう。

彼らは信仰によって、国々を征服し、義を行い、約束のものを受け、

ししの口をふさぎ、火の勢いを消し、つるぎの刃をのがれ、

弱いものは強くされ、戦いの勇者となり、他国の軍を退かせた。

女たちは、その死者たちをよみがえらさせてもらった。

ほかの者は、更にまさったいのちによみがえるために、

拷問の苦しみに甘んじ、放免されることを願わなかった。

なおほかの者たちは、あざけられ、むち打たれ、しばり上げられ、

投獄されるほどのめに会った。

あるいは、石で打たれ、さいなまれ、のこぎりで引かれ、つるぎで切り殺され、

羊の皮や、やぎの皮を着て歩きまわり、無一物になり、悩まされ、苦しめられ、

(この世は彼らの住む所ではなかった)、

荒野と山の中と岩の穴と土の穴とを、さまよい続けた。」

(「ヘブライの信徒への手紙」11章32〜38節、口語訳)

 

ヨブは、その「ひととなりは全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかった」

(「ヨブ記」1章1節、口語訳)にもかかわらず、

あるいはそれゆえにこそ、実に様々な苦難に遭います。

財産も子どもたちも自らの健康さえも失い、

彼を慰めに来た友人たちも逆に彼を責め立てるようになります。 

それでもヨブは最後まで忍耐を貫き、

主なる神様に叫び声を上げて祈り続けました。

ヨブは大変な不幸を経た後で、裁き主なる神様から諌められ、悔い改めます。

ヨブを責め立てた友人たちは神様からきついお叱りを受けます。

最後にヨブの人生は好転し始めました。

次のように「ヨブ記」は閉じられます。

 

「主はこれらの言葉をヨブに語られて後、テマンびとエリパズに言われた、

「わたしの怒りはあなたとあなたのふたりの友に向かって燃える。

あなたがたが、わたしのしもべヨブのように

正しい事をわたしについて述べなかったからである。

それで今、あなたがたは雄牛七頭、雄羊七頭を取って、

わたしのしもべヨブの所へ行き、あなたがたのために燔祭をささげよ。

わたしのしもべヨブはあなたがたのために祈るであろう。

わたしは彼の祈を受けいれるによって、

あなたがたの愚かを罰することをしない。

あなたがたはわたしのしもべヨブのように

正しい事をわたしについて述べなかったからである」。

そこでテマンびとエリパズ、シュヒびとビルダデ、ナアマびとゾパルは行って、

主が彼らに命じられたようにしたので、主はヨブの祈を受けいれられた。

ヨブがその友人たちのために祈ったとき、

主はヨブの繁栄をもとにかえし、

そして主はヨブのすべての財産を二倍に増された。

そこで彼のすべての兄弟、すべての姉妹、

および彼の旧知の者どもことごとく彼のもとに来て、

彼と共にその家で飲み食いし、

かつ主が彼にくだされたすべての災について彼をいたわり、慰め、

おのおの銀一ケシタと金の輪一つを彼に贈った。

主はヨブの終りを初めよりも多く恵まれた。

彼は羊一万四千頭、らくだ六千頭、牛一千くびき、雌ろば一千頭をもった。

また彼は男の子七人、女の子三人をもった。

彼はその第一の娘をエミマと名づけ、

第二をケジアと名づけ、

第三をケレン・ハップクと名づけた。

国のうちでヨブの娘たちほど美しい女はなかった。

父はその兄弟たちと同様に嗣業を彼らにも与えた。

この後、ヨブは百四十年生きながらえて、その子とその孫と四代までを見た。

ヨブは年老い、日満ちて死んだ。」

(「ヨブ記」42章7〜17節、口語訳)

 

次の「ヤコブの手紙」の箇所には、

ヨブを不当に断罪した友人たちに対する主の叱責に通じるものがあります。

 

「兄弟たちよ。互に不平を言い合ってはならない。

さばきを受けるかも知れないから。

見よ、さばき主が、すでに戸口に立っておられる。」

(「ヤコブの手紙」5章9節、口語訳)

 

裁く者が裁かれることをこの節は教えています。

イエス様も次のように言っておられます。

 

「人をさばくな。

自分がさばかれないためである。

あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、

あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。」

(「マタイによる福音書」7章1〜2節、口語訳)

 

「兄弟たちよ。

互に悪口を言い合ってはならない。

兄弟の悪口を言ったり、自分の兄弟をさばいたりする者は、

律法をそしり、律法をさばくやからである。

もしあなたが律法をさばくなら、

律法の実行者ではなくて、その審判者なのである。」

(「ヤコブの手紙」4章11節、口語訳)

 

上掲の節は前にも引用しましたが、

ヤコブは他の人について悪い噂を撒き散らす者たちを厳しく戒めています。

 

それでもヤコブは神様を

私たちの罪を赦してくださる憐み深いお方として描き出しています。

これは多くの神学者のもつヤコブについての一般的な印象とは

かなり異なっていると思います。

彼らはヤコブが完全で聖なる信仰生活を人々に要求していると

誤解しているからです。

2022年9月12日月曜日

「ヤコブの手紙」ガイドブック 「ヤコブの手紙」5章7〜11節 忍耐はいつかかならず報われる(その1)

 忍耐はいつかかならず報われる(その1)

「ヤコブの手紙」5章7〜11節

 

「イエスの再臨について新約聖書がほとんど述べていないのは

それが重要ではないからだ」という主張もときおり耳にします。

「イエス様の再臨」とは、

この世の終わるときにイエス様がこの世に戻ってこられて

生きている人と死んでいる人とを裁かれる未来の出来事のことです。

しかし丁寧に読んでみると、

新約聖書はイエス様の再臨(および最後の裁き)について

実に約300もの箇所で触れているとも言われます。

新約聖書には全部で260の章があるので、

平均して1章につき約1回の割合で

イエス様の再臨(および最後の裁き)に言及されていることになります。

ヤコブばかりではなくパウロもまた

イエス様の再臨についてアテナイのアレイオパギアの賢者たちに対して

次のように語っています。

 

「神は、このような無知の時代を、これまでは見過ごしにされていたが、

今はどこにおる人でも、みな悔い改めなければならないことを命じておられる。

神は、義をもってこの世界をさばくためその日を定め、

お選びになったかたによってそれをなし遂げようとされている。

すなわち、このかたを死人の中からよみがえらせ、

その確証をすべての人に示されたのである」。」

(「使徒言行録」17章30〜31節、口語訳)

 

このようにイエス様の再臨と最後の裁きとは

最初期のキリスト教の宣教において中心的なテーマであったことがわかります。

 

ユダヤ人たちは「主の日」の到来を待ち望んでいました。

その日はユダヤ人たちにとっては喜びの日となり、

異邦人たち(すなわち非ユダヤ人たち)にとっては

苦しみと裁きの日となるはずでした。

キリスト教信仰においても主の再臨への待望は、

上に述べた裁きと喜びという二つの対照的な出来事への期待が含まれています。

 

ヤコブはイエス様ができるかぎりすみやかに

この世に再臨してくださるのを待望していました。

しかしそうはなりませんでした。

ヤコブはまちがっていたのでしょうか。

使徒ペテロはイエス様の再臨を待ち続けることに関する同様の質問に

手紙で次のように答えています。

 

「愛する者たちよ。

この一事を忘れてはならない。

主にあっては、一日は千年のようであり、千年は一日のようである。

ある人々がおそいと思っているように、

主は約束の実行をおそくしておられるのではない。

ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、

あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。」

(「ペテロの第二の手紙」3章8〜9節、口語訳)

 

イエス様の再臨はいまだ起きていません。

神様がそうなさっているのにはちゃんとした理由があります。

すべては恵みに基づくことなのです。

また、神様と人間とにはそれぞれまったく異なる時間の感覚がある

ということも覚えておかなければなりません。

 

どうしてイエス様の再臨の時がなかなか訪れないのか、

私たちは理性によってあれこれ考えあぐねるべきではありません。

むしろ、自然がいつものように種を成長させてくれることを期待しながら

種を蒔いていく者のような姿勢で活動していけばよいのです。

それと同じようにして、キリスト信仰者は神様の約束なさったことを信頼し、

それがいつかは必ず実現することを期待し続けなければなりません。

農夫は種が実を結ぶのを早めることはできません。

同様に、キリスト信仰者は

神様の立てられたスケジュールに従わなければなりません。

種が実を結ぶようにいつ再臨が訪れるのか、キリスト信仰者は知りません。

それをご存知なのは神様おひとりだけです。

 

「その日、その時は、だれも知らない。

天の御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。」

(「マタイによる福音書」24章36節、口語訳)

 

このことと併せて、次に引用する「ルカによる福音書」12章の

イエス様の警告にも耳を傾けましょう。

 

「するとペテロが言った、

「主よ、この譬を話しておられるのはわたしたちのためなのですか。

それとも、みんなの者のためなのですか」。

そこで主が言われた、

「主人が、召使たちの上に立てて、

時に応じて定めの食事をそなえさせる忠実な思慮深い家令は、

いったいだれであろう。

主人が帰ってきたとき、

そのようにつとめているのを見られる僕は、さいわいである。

よく言っておくが、主人はその僕を立てて自分の全財産を管理させるであろう。

しかし、もしその僕が、主人の帰りがおそいと心の中で思い、

男女の召使たちを打ちたたき、

そして食べたり、飲んだりして酔いはじめるならば、

その僕の主人は思いがけない日、気がつかない時に帰って来るであろう。

そして、彼を厳罰に処して、不忠実なものたちと同じ目にあわせるであろう。

主人のこころを知っていながら、

それに従って用意もせず勤めもしなかった僕は、多くむち打たれるであろう。

しかし、知らずに打たれるようなことをした者は、打たれ方が少ないだろう。

多く与えられた者からは多く求められ、

多く任せられた者からは更に多く要求されるのである。」

(「ルカによる福音書」12章41〜48節、口語訳)

2022年9月5日月曜日

「ヤコブの手紙」ガイドブック 同時にキリスト信仰者でもあり金持でもあることは可能なのか?

 同時にキリスト信仰者でもあり金持でもあることは可能なのか?

 

イエス・キリストを信仰する経営者が1970年代に

フィンランドの長者番付で一位になったことがありました。

その年に彼は全フィンランド人の中で一番多く税金を国に支払った

ということになります。

新聞記者が彼に

「フィンランドで一番の金持であるあなたは

イエス・キリストを信じているそうですが、

どうしてそのようなことが可能なのでしょうか?」

という趣旨の質問をすると、彼は

「私はフィンランドで一番裕福な者なのではなく、

収入を正直に一番多く国に申告しただけです」と答えました。

 

キリスト信仰者は同時に金持でもありうるのでしょうか。

「ルカによる福音書」によれば、

イエス様の弟子たちのうちの少なくとも一部は経済的に余裕のある人々でした。

彼らはそれぞれ自らの資産を用いてイエス様にお仕えした

と書かれているからです(「ルカによる福音書」8章3節)。

 

次の聖句からもわかるように、

富そのものは罪ではなく、むしろ神様からの祝福のあらわれのひとつです。

 

「謙遜と主を恐れることとの報いは、

富と誉と命とである。」

(「箴言」22章4節、口語訳)。

 

ここで「富を何のために使用するのか?」

また「富はその所有者にどのような影響を与えるのか?」

といった問題を考えてみる必要があります。

「ルカによる福音書」16章19〜31節に登場する

金持の男に起きたのと同じようなことが誰に対しても起こりえます。

この金持の男は自分の富によって目が眩み、

自宅の門前に横たわっていた貧しいラザロにはまったく関心を示しませんでした。

また彼はこの世での限りある人生を終えた後に

永遠の世界が彼を待ち受けていることも忘れていました。

 

ところでキリスト信仰者、キリスト教会、キリスト教宣教団体は

各々の組織において金銭にかかわる事柄を

どのように取り扱うべきなのでしょうか。


宗教改革者マルティン・ルターは

「もしも明日この世が終わることを知っていたとしても

自分はリンゴの木を植える」という旨のことを言ったという伝承があります。


次に引用する出来事はイエス様が十字架にかけられる少し前に起きました。

 

「さて、イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家におられたとき、

ひとりの女が、高価な香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、

イエスに近寄り、食事の席についておられたイエスの頭に香油を注ぎかけた。

すると、弟子たちはこれを見て憤って言った、

「なんのためにこんなむだ使をするのか。

それを高く売って、貧しい人たちに施すことができたのに」。

イエスはそれを聞いて彼らに言われた、

「なぜ、女を困らせるのか。

わたしによい事をしてくれたのだ。

貧しい人たちはいつもあなたがたと一緒にいるが、

わたしはいつも一緒にいるわけではない。

この女がわたしのからだにこの香油を注いだのは、

わたしの葬りの用意をするためである。

よく聞きなさい。

全世界のどこででも、この福音が宣べ伝えられる所では、

この女のした事も記念として語られるであろう」。」

(「マタイによる福音書」26章6〜13節、口語訳)

 

イエス様はある女から高価な油を頭に注ぎかけられたときに、

それを金の無駄遣いとは思われませんでした。

イエス様は彼女に対してお叱りになるどころか、

むしろそれについて感謝なさったのです。

 

金銭には神様の御国の働きにおいて固有の役割があります。

お金がなければ、

宣教師たちはすぐにでも母国に帰国しなければならなくなるでしょう。

お金がなければ、

冬の冷え切った教会に暖房を入れることもできなくなります。

しかし、お金は「使用人」であるべきであって「主人」であってはなりません。

 

私たち人間は経済的にも将来への備えをしなければなりません。

今日一日で全財産を使い切ってしまうような真似は決してしてはいけません。

その一方で、

金銭がどのような場合に無駄にさびつくことになり、

どのような場合に将来を見据えた賢明な備えとなるのか

という問題を慎重に考えてみるべきです。

これら二つのケースの間に明確な境界線を引くのは容易ではありません。

だからこそ、

キリスト教会やキリスト教の宣教団体で経済面を委ねられている人々が

適切な判断を下していけるように

私たちキリスト信仰者が祈りに覚えるのは大切なことになります。