2015年11月25日水曜日

「ローマの信徒への手紙」ガイドブック 終わりのメッセージ(9〜11章)(その2)


終わりのメッセージ(9〜11章)(その2)

ところが実際にはそれとは反対に神様は、
私の救いに関わることがらを
私自身の自由意志の及ばない外部へ持ち出して
御自分で決定することになさいました。
それに加えて神様は私を守ることを約束してくださいました。
これは、
私が善いことを行ったり、
そうしようと奔走したりしたからではありません。
神様は御自身の恵みと憐れみのゆえにそうなさるのです。

まさにそれゆえに、
私は安らかな心で確信にみちて、
「神様は徹頭徹尾忠実なお方であり、私に一切嘘を言われないお方である」、
と断言できるし、
「どのような悪霊も不幸な出来事も神様に勝つことはできないし、
神様の御手から私を奪い去ることもできない。
それほど神様は強く大いなるお方である」、
と言い切ることもできるのです。


「私の父が私に下さったものは、すべてにまさるものです。
そして、誰も父の御手から、それを奪い取ることはできません」
(「ヨハネによる福音書」1029節)、
とイエス様が聖書で言われている通りです。

2015年11月18日水曜日

「ローマの信徒への手紙」ガイドブック 終わりのメッセージ(9〜11章)(その1)

終わりのメッセージ(9〜11章)(その1)


正直に告白しますが、
私は自分で自分の行動を自由に決める意思を
自分に許したいとは思いません。
また、救われるために努力する際に役立つような何かを
私の自由な裁量に任されることも望みません。
たとえこれらのことが可能であったとしてもです。

私がそう考えるのは、
多くの不幸な出来事と危険の只中で、
しかも多くの悪霊の攻撃に対抗して、
私は自分で自分を律して守ることができないからです。
一人の悪霊でさえ、すべての人間を合わせたよりも強大であり、
誰一人自分の力によってはそれから救われることはないからです。

しかし、私がそう考える主な理由は、
たとえ危険や不幸な出来事がなく悪霊がいなかったとしても、
私は結局のところ自由意志をもてあまして、確信をもって行動できず、
「空を打つような拳闘をする」ことになってしまうからです
(「コリントの信徒への第一の手紙」926節の表現)。

また、神様に受け入れていただけるために
どれほどたくさんの善い行いを積み重ねて行かなければならないか、
ということについては、
たとえ永遠に生き続けようとも、
私の良心はいつまでたっても確信がもてないまま
安らぎを得ることができないからです。

自分の行いによって神様の好意を獲得しようとする人々に
共通する体験でもあり、
惨めなことに私自身何年間にもわたる体験を通じて
身に染みてわかったことでもありますが、
人というものは、
どれほど非の打ち所がないような行いをしたとしても、
それが神様に喜んで受け入れていただけるものなのか、
それともまだ何か神様が要求なさっていることがあるのか、
という疑いに囚われ続けるものなのです。

2015年11月11日水曜日

「ローマの信徒への手紙」ガイドブック 第9回目の質問

9回目の集まりのために 「ローマの信徒への手紙」911

イスラエルは神様が遣わしたキリストを捨てました。
それゆえ、神様の義を得る事ができませんでした。
しかし、
神様がイスラエルの父祖たちに与えた約束を忠実に守っておられることは、
旧約聖書的に「残された聖なる者たち」と表現されるユダヤ人たちが
存在することに示されています。
イスラエルの背信は際限なく続くものではありません。
救われる異邦人の数が満ちる時、
福音はユダヤ人にも受け入れられるようになります。 
自分たちの王様について、
イスラエルは異邦人と一緒に神様への感謝を捧げます。

1)ユダヤ人の問題は
キリスト教会の内部でも意見が大きく分かれる問題です。
国家として今存在しているイスラエルは
すでにキリストなしでも救いの途上にある、
という意見もありますし、
ユダヤ人に特別な地位を認めない人もいます。
この問題を扱っている最も重要な聖書の箇所は
明らかに「ローマの信徒への手紙」911章です。
この箇所によると、何が正しい答えになるでしょうか。

2)イスラエルの特別の地位を認めることは
現在のイスラエル国家の行動をすべて承認することになるのでしょうか。
キリスト信仰者がユダヤ人に敵意を抱くのは許されている行為ですか。
1128節を参照してください。

3)イスラエルの堕落は
キリスト信仰者にどのような教訓を与えるはずのものでしょうか。
1120節を参照してください。


4)自分の親戚や友人や自国民が
イエス様を救い主として受け入れようとせず頑なになっている状態は、
パウロにとってとても辛いことでした。
多くのキリスト信仰者は、
自分の子どもや配偶者や友人の不信仰について心を痛めています。
この問題に関連して「ローマの信徒への手紙」911章は
私たちにどのようなことを考えさせるでしょうか。
8章の終わり、前回の最後の質問に立ち返ってみましょう。

2015年11月4日水曜日

「ローマの信徒への手紙」ガイドブック 11章25〜36節 ユダヤ人の行く末は?(その2)

ユダヤ人の行く末は? 112536節(その2)


ここまで私たちはパウロの「ローマの信徒への手紙」の
極めて重要な箇所を順々に学んできました。
ここに出てきた問題はパウロにとっても、
前に彼が遭遇した問題よりも困難なものでした。
神様による選び、
神様の全能なる権能、
いわゆる神義論(神様の義をめぐる論議)
といった様々な神学上のテーマと関連している問題だからです。
パウロは大胆にこの問題に取り組みます。
そして、他の多くの場合でと同様のことがここでも起きました。

暗闇が最も深い真夜中の只中でこそ、
一番素晴らしい輝きが見つかるものです。
ユダヤ人の救いをめぐる問題を深く考えることで、
パウロも私たちも神様の大いなる奥義の前に連れて行かれます。
その意思も知恵も人間には決して究めることができない
大いなる神様に対して賛美の歌を捧げることによって、
パウロはこの箇所を閉じます。