2009年3月19日木曜日

マルコによる福音書について 10章1~12節

誰が一番えらいのでしょうか?

マルコによる福音書10章


離婚についてのイエス様の教え 10章1~12節

マルコによる福音書の1章から8章までは、ガリラヤでのイエス様の活動が描かれています。イエス様がいくつかの例外を除けば、とても狭い地域で活動なさっていたことを、ここではおさえておきましょう。イエス様は、今までは真の中心地、エルサレムには来られませんでしたが、この10章ではとうとうユダ地方に到着されました。イエス様の周りに集まった大勢の人たちの運動については、もちろんエルサレムにもすでに知られていました。それゆえ、緊張した雰囲気の中で、ファリサイ人たちはイエス様がどのようなお方か確かめようとしたのでした。イエス様の教えの信憑性を試すため、はじめの質問として「離婚」がとりあげられました。結婚はユダヤ人たちにとって聖なるものであり、神様御自身が設定なさったものです。申命記24章1~4節は、夫が妻を離婚して立ち去らせようとする場合には、妻に離婚証書を与えるようにと、要求しています。これについてどう思うか、イエス様は質問を受けました。それに対してイエス様は、ユダヤ人のやり方に従って、逆に質問を投げかけることによってお答えになりました。「モーセは夫が離婚証書を書いて妻を捨てることを許している」とファリサイ人たちは考えていました。しかし、イエス様はこれとは違う教えをなさいます。それは、「離婚証書についてのモーセの規定は、夫のかたくなな心に対して妻を守るために与えられている」というものです。すなわち、心をかたくなにした夫が妻を捨てる場合には、彼は妻に「この女は新たに結婚することができる」ことを証明する文書を与えなければなりません。当時、夫から捨てられた女性は、再婚しない場合には、貧窮するか、あるいは、娼婦になるか、事実上この二つしか選択肢がなかったのです。離婚は神様の創造のみわざの目的に沿ってはいません。結婚は神様が設定なさったものであり、そこでふたりの人が「ひとつの肉」となり、彼らはひとつの存在となるのです。神様がこうして男と女をひとつに結び付けてくださったので、人はもはや結婚という契約を取り消すことができません。モーセは離婚を許したのでは毛頭なく、逆に、心をかたくなにした夫の恥知らずな数々の行いから、女性を守ったのです。弟子たちに対しては、イエス様はこの問題についてさらに、「離婚の後の再婚は神様の御心に反することであり、罪である」と教えられました。力強い教えによって、イエス様は女性たちを、それまで彼らがユダヤ教の社会の中ではもちえなかったような「立場」に引き上げました。妻を捨てる者は、神様に対してだけではなく、妻に対してもまた、罪を犯しているのです。女は、男たちの話題にあがる「物」などではありません。困窮するか娼婦に身を落とすかの選択を、男が勝手に女に迫る権利などもありはしないのです。神様は人を男と女として創造なさり、男と女はひとつの肉となります。イエス様は、御自分の行いによって、その教えをどのように実行するべきか、示されています。マルタとラザロの姉妹マリアは、たんにすばらしい給仕であっただけではありません。彼女はまずもって、主の足元で主の教えに聞き入っている「弟子」でした(ルカによる福音書10章38~42節)。
悪いうわさが立てられることも気にせずに、イエス様は女たち(中には未婚者も既婚者もいました)に、御自分と共に行動しその教えに従うことを許されました(ルカによる福音書8章1~4節)。女たちはまた、イエス様の復活の知らせを伝えるために、空っぽの墓から駆け出して行きました。初期の教会はイエス様のはじめられた革新的なやり方から逸脱したりせずに、イエス様の教えに忠実に活動をつづけました。女性は、男性と同様に、最初から「教会の会員」でした。たとえば、聖書で名が挙げられている最初のヨーロッパのクリスチャンはルデアという女性です(使徒の働き16章11~15節)。女性はまた、教会で積極的に活動していました。たとえば、ローマの信徒への手紙16章にある、9人の女性たちへのパウロの挨拶や、プリスカの活動(使徒の働き18章24~28節)などが挙げられます。にもかかわらず、教会の牧師職は男性だけのものであるという制限が与えられています(コリントの信徒への第1の手紙14章33~40節)。ここで教会は「主の命令」(37節)に全幅の信頼を寄せて、使徒の職に男性だけを選ばれたイエス様を模範としているのです。

2009年3月16日月曜日

マルコによる福音書 第9回目の終わりのメッセージ

終わりのメッセージ

「もしも滅びの裁きを宣告する任務が光栄なものだとすれば、義を宣告する任務は、それよりもはるかに栄光にみちたものです。」(コリントの信徒への第2の手紙3章9節)

ここで使徒パウロが書いていることをクリスチャンはきちんと学ぶようにしてください。異端教師の権威ぶった教えや、悪魔のわなである「人を苦しめる考え」などは気にしないように!悪魔は律法を引き合いに出して、人が義を自分自身の行いによってさがしもとめるようにしむけ、「救われるためには、お前は本当はあれもこれもやらなければならなかったのだ」などという考えを吹き込んで、あなたの心をいたぶります。しかし、あなたは悪魔からその武器をうばいとってこう言わなければなりません。
「なぜお前は律法や行いを引き合いに出して私をいたぶるのか。お前がどんなに長く説教したとしても、罪や死や地獄を私の上にかき集めてくるだけではないか!そんなことをしても、私は神様の御前で自分の義をいただくことはできないのだ!」
聖パウロがこの箇所で「律法の栄光」について書いていることがらは、ユダヤ人の教師たちが自分の行いを誇るときに引用する箇所でもありますが、もともとは出エジプト記20章と34章にある出来事にもとづいています。そこでは、神様が王にふさわしい大いなる栄光をまとって天からおりてこられたときに律法がどのようにして与えられたか、について語られています。稲妻の閃光と雷動のなかでシナイ山全体が炎に包まれました。律法の板をかかえて山からおりてきたモーセの顔はあまりにも輝いていたため、イスラエルの民はモーセを直視することができず、モーセは顔に覆いをかけなければなりませんでした。ユダヤ人の教師たちがあまりにも自分の行いを誇り高ぶっているために、聖パウロは次のようなことを一息に話し始めたのでした。
「たしかにこれも王様の栄光ではあります。しかし、この栄光は人を神様から逃げ出させ、死と地獄に追いやることしかしません。それとは逆に、私たちにはまったく異なる「任務」の栄光があり、これについて私たちは誇りを持っています。マタイによる福音書17章2~4節の福音によれば、キリストは太陽のように輝いている御顔の栄光を、弟子たちがはっきりと見れるようになさいました。弟子たちは逃げ出したりはせず、そのお顔にうれしそうにうっとりとみとれていました。そしてこう言いました。「主よ、私たちがここにいるのはすばらしいことです。もしもお望みでしたら、私たちはここに三つの幕屋を立てたいと思います。」。」
これら二つのイメージをくらべてごらんなさい。そうすれば、使徒が何を意味していたのかが、わかります。前にも言ったように、律法は、その光が私たちの心の奥まで照らして、私たちがそれを本当にしるようになったときには、どんな人にも恐れと死をもたらすだけなのです。それとはちがって、福音は、慰めと平和と喜びとを与えてくれます。

フレドリック・ガブリエル・ヘドベルグ (「救いへの唯一の道」)

2009年3月12日木曜日

マルコによる福音書について 第9回目の質問

第9回目の集まりのために

マルコによる福音書9章2~50節

イエス様は「輝きの山」で御自分の本来のお姿を示され、御自分に対して無理解な人々の中で活動をつづけられます。

1)輝きの山で信仰は目に見えるものに変わりました。それは、御子についての父なる神様御自身の力強い証でした。ふつう私たちクリスチャンは、目には見えないものを信じることで満足しなければならないものです。輝きの山にはまた象徴的な意味もあります。それは強烈な信仰体験です。
あなたがたにはこうした「輝きの山」での体験がありますか。こうした体験は(クリスチャンにとって)必要不可欠のものでしょうか。

2)ペテロの第2の手紙1章16~21節を読んでください。この箇所はクリスチャンに対して「使徒による証」がどのような意味をもっている、と語っているのでしょうか。

3)人間の魂は死んだ後で肉体から別の肉体へと移り行くものでしょうか。たとえばコリントの信徒への第1の手紙15章35~36節を読んでください。

4)24節で子どもの父親は自分の信仰を大声で告白し、それと同時に、不信仰の中にいる自分を助けてくださるようにイエス様に頼みました。どのような信仰ならイエス様に受け入れていただけるのでしょうか。私たちの人生の中では信仰と不信仰が別々に並んでいるのではなくて、むしろ互いに入り組んでいるものですが、そのことについて自分の体験を話し合ってください。

5)イエス様に聞かれたくはなかった自分たちの話し合いを聞かれてしまって、弟子たちは困ってしまいました(9章33~37節)。
「イエス様が家のかしらであって、すべての話し合いに耳を傾けている目に見えない聞き手であること」を語る文が額にはめられて壁にかかっている家があります。イエス様はあなたがたの家でどのようなことを聞くことになってしまったのでしょうか。そして、それでもイエス様はまだそこに住んでくださるのでしょうか。

7)新約聖書はイエス様の互いに正反対であるようなふたつの御言葉を書き留めています。それらは、「私たちに反対しない者は、私たちの見方です」(マルコによる福音書9章40節)と「私の側ではない者は、私に反対する者であり、私と共に集めない者は、散らすのです」(マタイによる福音書12章30節)というものです。互いに異なる御言葉には、それぞれ別の背景があります。どのような状況にこれらの御言葉はそれぞれ合致しているのでしょうか。

8)他の人たちを信仰から引き離すように誘惑する人々は非常に厳しい裁きを受けることになる、とイエス様は言われています(9章42節)。牧師や教師や両親たちが、ここでイエス様が警告なさっている「惨めな結末」を避けるためには、どうしたらよいのでしょう。

9)イエス様は「御自分に属する者たち」に、信仰生活の「目的」をはっきり心に刻んでおくように忠告なさっています。人が神様の御国の中に入ることの大切さに比べたら、他のことは何の意味も持たないほどです。また、もしも人が地獄に落ちてしまうならば、人生でどんなに立派なことを実現したとしても、何の役にも立ちません。
どのような誘惑が、私たちクリスチャンにとってとりわけ危険なものでしょうか。はたして私たちは、イエス様が要求されているように、目を覚ましていて、神様の御国のためならばどのようなことでも捨て去る用意ができているでしょうか。

10)49節にある「火」とはどういう意味でしょうか。

11)塩で味付けなければならないささげものについてのイエス様の御言葉はどういう意味なのでしょうか。「ささげもの」とは何であり、「塩」とは何なのでしょう。どのようにして「塩の味」が抜けてしまうのでしょうか。

マルコによる福音書について 9章41~50節

気をつけなさい! 9章41~50節

イエス様はクリスチャンにとって躓きとなる誘惑について話されます。「キリストのもの」である者たちが信仰を捨て去るようにしむける人々がいます。そのような人間の受ける裁きは厳しく情け容赦のないものになります。この罪以上の厳しさで裁かれている犯罪は、聖書の中にはあまりありません。「キリストのもの」である人たちに対して、そうした誘惑に耳を貸さないように、という厳しい警告がここで与えられているわけです。イエス様の御言葉の内容は明瞭です。大切なのはたったひとつのことだけです。すなわち、人がいつか神様の御国の中に入ることです。これと比べたら、あらゆる誘惑に対する極端な反対さえも、行き過ぎた否定的態度ではありえません。もしも人が神様の御国の中に入れないならば、その人にとって、たとえば「健康」などは陰府では何の役にも立ちません。三番目の警告もまた「キリストのもの」である人たちに対してです。この箇所は非常に難解です。たとえば次のように理解することができるでしょう。イエス様に属する人は皆、火の様な試練に遭い、神様の御国のために自分を捨てざるをえなくなります。このような人は、「モーセの律法にしたがって塩によって味付けされた神様へのささげもの」のような存在です。「塩味の付けられた」というのは、「イエス様とその御国とに結びつけられた」ということでしょう。にもかかわらず、こうした塩をもつ人が、自分で考えているよりもいともたやすくその塩を失ってしまうことがあるのです。そうした危険について、イエス様はここで厳粛に警告なさっています。

マルコによる福音書について 9章38~40節

見知らぬエクソシスト 9章38~40節

イエス様の御名によって悪霊を追い出している見知らぬ男があらわれ、弟子たちの間には困惑が広がりました。弟子たちは彼の活動をやめさせようとしましたが、イエス様は彼がしたいようにさせておきなさいと言われました。イエス様の御名によって奇跡を起こす者が、すぐにイエス様の悪口を言ったりはしないものです。人々を弟子たちの仲間に入れるのが大切なのであって、彼らを「お前たちは弟子ではない」と外に追い出すべきではないのです。イエス様に反対しない人は、イエス様の味方です。このイエス様の御言葉は、おそらく後の教会の状況の中で実際にくりかえされたことでもあるでしょう。クリスチャンが周囲の怒りの対象となり迫害される中で、迫害する側にも迫害される側にもつかない人たちがいました。彼らに対して次のどちらの御言葉を適用するべきなのでしょうか。「私たちに敵対しない者たちは私たちの味方です」でしょうか。それとも、「私の側ではない者は私に敵対しており、私と共に集めない者は散らしているのです」(マタイによる福音書12章30節)でしょうか。ここでイエス様は、キリストに属する者たちに同情する人は、たとえその人が沈黙を守る少数派に属していたとしても、報酬を受けないでいることはないことを、私たちに思い出させてくださいます。それゆえ、イエス様に属する者は、あまりにも厳しい基準を設けて「弟子とそうではない人」とを性急に分け隔ててはいけません。そうした境界を引くのは、神様おひとりのみわざに属することがらですから。

マルコによる福音書について 9章30~34節

2度目の苦難の予告 9章30~32節

イエス様は弟子たちを群集の中から連れ出して彼らに対してだけ教え始められました。その教えの内容はフィリポ・カイザリヤでのものと同一です。すなわち、「人の子なるイエス様は人々の手中に落ち、殺され、死んだ後で3日目によみがえる」というものです。この教えはイエス様の教えの核心であり、イエス様のもっとも大切な使命にかかわっていることなのに、弟子たちはそれをまったく理解できませんでいた。旧約聖書においてすでに準備されている神様の御計画は、人々にとっては理解しがたいものでした。弟子たちでさえわからないままだったのです。このように「キリストの秘密」は、イエス様が教えてくださっているにもかかわらず、依然として「秘密」のままでした。


誰が一番偉いか? 9章33~34節

イエス様が御自分に訪れる受難についてはじめて弟子たちに告げられたときのように(マルコによる福音書8章)、弟子たちはイエス様が二度目にこのことを告げられたときにもその「受難」の意味を理解しませんでした。つまり、イエス様の弟子たちさえもイエス様のことがわかってはいなかったのです。これもまたキリストの十字架の道の一部でした。弟子たちはイエス様から「あなたたちはここに来る途中で何を論じ合っていたのですか?」と尋ねられました。弟子たちにとって、これは先生から訊かれたくない質問でした。弟子たちは恥ずかしくて答えることができませんでした。「自分が他の人よりどんなに偉い立場にあるかについて言い争っていたのだ」などとは誰も言いたくはなかったのです。イエス様は彼らの真ん中に小さい子どもを連れてきて、神様の御国の「憲法」にかかわる教えをなさいました。すなわち、「一番偉い人は皆の僕にならなければならない」ということです。神様の御国には偉い人のための名誉職などはなく、あるのはただ僕の職のみなのです。小さい子どもに仕える者は、その子を通してキリストに仕えているのです。そして、キリストに仕える者はキリストを通して神様に仕えています。

マルコによる福音書について 9章14~29節

「不信仰な私を助け出してください!」 9章14~29節

輝く山のふもとにはこの世での苦難が待ち受けていました。小さな子どもを苦しめている悪霊を弟子たちが追い出すことができなかったため、大騒ぎになっていました。イエス様がデーモンに命じると、それは子どもから出て行きました。実は、この出来事の核心には、すべての人を悩ませている「信仰と不信仰」という問題があります。弟子たちの信仰は暗闇の諸霊と戦うには十分ではありませんでした。大勢の人たちや苦しんでいる父親の見守る中で、弟子たちは悪霊に敗北してしまったのです。自分たちの不信仰に悩まされ、興味本位で騒ぎたてている群衆に取り囲まれて、弟子たちはふつうでは考えられないほどの忍耐を強いられたのでした。この子どもの父親の信仰と不信仰は、今に至るまで人々の心に深い印象を与えてきました。父親は信じています。しかし、彼の信仰はイエス様の求めておられる「水準」には足りませんでした。信じる者にはあらゆることが可能です。父親の信仰の力では「山を移動させる」ことができません。にもかかわらず、父親はイエス様に助けていただくために、イエス様の御許に留まり続けようと決心しました。イエス様は彼を追い出すどころか、自分の不信仰を嘆くあわれな父親とその息子に対して、助けを差し伸べられたのでした。

マルコによる福音書について 9章11~13節

誰がエリヤか? 9章11~13節

旧約聖書の最後を飾るマラキ書は、「預言者エリヤが主の日の到来の前にやってきて民を神様へと方向転換させることになる」と教えました(マラキ書3章23節)。マルコによる福音書のこの箇所で弟子たちは、「エリヤがまずはじめに来なければならなかったのでしょうか?」とイエス様にたずねました。実は、その質問は「弟子たちの信仰告白」でもあったのです。まずはじめにエリヤが来て、それからキリストが来るはずでした。いまやキリストが来てくださった、ということは、エリヤはどこにいるのだろうか?「エリヤはすでに来たのだけれど、人々は彼に注意を向けなかったのだ」とイエス様は言われました。マタイによる福音書ではさらに、イエス様はここで洗礼者ヨハネを意味しておられた、と説明しています(マタイによる福音書17章13節)。この箇所に関連してよく聞かれる質問で、まったく聖書的ではない考え方について、ここで触れておかなければならないでしょう。それは東洋的な宗教性としてしばしばとりあげられる「魂が遍歴するという教え」です。この教えは、「人はひとつのまとまった存在である」とする旧約聖書的な考え方とは相容れないものです。東洋の宗教によれば、それぞれの人の魂には「不死なる神性」が微量ながら含まれています。これと同様の迷信は古代のギリシア人たちの中にも見出せます。こうした考えに従って、「人は死んでもその魂はこの世に残り、新しい肉体を見つける」と信じ込まれていたのです。しかし、聖書にはこのような考え方はまったくありません。聖書によれば、人の肉体と魂は神様の創造のみわざの結果であり、神性の一部分などではありません。それゆえ、魂も人から人へと遍歴するようなことはないのです。魂は神様の創造なさった人の中にある、神様が創造なさった一部分なのです。エリヤは特別なケースです。というのは、彼は生きたままで天へとあげられたからです(列王記下2章18節)。

マルコによる福音書について 9章2~10節

輝きの瞬間

マルコによる福音書9章2~50節


輝きの山の栄光 9章2~10節

前章はマルコによる福音書の分岐点でした。「イエス様はキリストです」という弟子たちの信仰告白のあとで、イエス様の「道」が孤独と十字架と死へと下降しはじめたのでした。神様が遣わされたキリストは栄光に輝く王国を築くはずではなかったのです。キリストの道は「御自分の命を失い、それをふたたび神様の御手から受け取る」というものでした。イエス様は孤独でした。神様の道は人々の目から隠されたものだったからです。神様の道の下降していく有様とまったく異なっているのが、この高い山でのたった3人の弟子たちを前にしたイエス様のお姿でした。ペテロとヤコブとヨハネは信じがたい光景を目の当たりにしました。イエス様の外見が言葉には尽くせないほどの輝きと素晴らしさに満ち、衣服も光を放っていました。旧約聖書のもっとも偉大な人物たちであるエリヤとモーセが現れて、イエス様と語り合っていました。この世の終わりに臨んでユダヤ人たちが出現を待ち望んでいた人物はまさしくエリヤとモーセであったことが、知られています。そしてそれは、この「輝きの山」で実現したのでした。しまいには神様御自身が雲の中にあらわれて、「イエス様は神様の愛する御子であり、人々はこの方に聞き従わなければならない」ことを証してくださいました。そのあと、突然この光景は消えうせ、弟子たちと共にいたのはイエス様おひとりだけでした。この輝きの山での出来事はマルコによる福音書全体を視野に入れて読むべきです。人々の間ではイエス様は御自身の本当のお姿を隠しておられました。群集の目にはイエス様の「下降の道」は恥辱と屈辱にすぎませんでした。しかし、真実はちがっていました。神様の御子が御父の与えた使命をいまや成就なさろうとしていたのです。イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになった瞬間の出来事、フィリポのカイザリヤで、実は自分でも何を言っているのかよくわからないままペテロが「イエス様はキリストです」と信仰告白した出来事を、神様はこの輝く山ではっきりと力強く示してくださいました。イエス様の真のお姿が一瞬強烈な光を放って明かされたのです。ところが、山から下りるときにイエス様は再び御自分を「キリストの秘密」の中に覆い隠されました。「人の子が死者の中からよみがえるまでは、輝きの山での出来事を誰にも一言も話してはならない」とイエス様はお命じになったのです。弟子たちはその指示に従いましたが、その意味を理解することはありませんでした。

マルコによる福音書 第8回目の終わりのメッセージ

終わりのメッセージ

悔い改めなさい!

イエス様はこう言われます。「私はあなたに対して責めるべきことがあります。あなたははじめの愛を捨ててしまいました。そこで、あなたはどこから落ちてしまったかを思い出して、悔い改めてはじめのわざを行いなさい。」(ヨハネの黙示録2章4~5節)
イエス様がまっさきにごらんになるのは、私たちのわざではなく、私たちのわざの原動力となっているものだ、ということがこれからわかります。「あなたは私に祈っていますか、あなたは私に対して信仰を告白しますか、あなたは私のために何かについて苦しみを受けていますか、あなたは私のために犠牲になっていますか」などと、イエス様は尋ねたりはなさいません。イエス様が訊かれるのは、「あなたは私を愛していますか、私はあなたにとって愛するものでしょうか」ということです。

どうですか。イエス様は私たちにとって愛するお方でしょうか。イエス様への自分の愛が確かなものだと(自分やまわりの人に)納得させなければならないとき、おそらく多くの人たちは黙り込んでしまうのではないでしょうか。それでもあなたは、自分を恥じながらも、かすかな声でこの質問に「そうです」と答えるのではないでしょうか。あなたはそうするほかはないでしょう。あなたが「なぜイエス様が自分にとって愛するお方であるのか」を自問するときに、「なぜ罪深い女がイエス様を愛するようになったか」を説明するイエス様の次の御言葉は、あなたにも当てはまるのではないでしょうか。「それゆえ、私はあなたに言います。この女の多くの罪は赦されているのです[1]。それで[2]、彼女はたくさん愛したのです[3]。」(ルカによる福音書7章47節より)
あなたはほかの理由を見つけないでしょう。まさにあなたの罪のゆえにあなたは、「人間の罪のために死ぬことによって罪を赦してくださったイエス様」を必要としているのです。

ところが、多くの人は、心の中でこの信仰の出発点をすっかり忘れて、立派で聖なる者になってしまい、十字架につけられたキリストとそのあがないの血が、彼らの内なる命の唯一のよりどころではなくなってしまうようです。そのかわりに彼らにとっては、福音のために労苦すること、罪や悪に激しく反対すること、正しい教えを守るために激しく戦うこと、さらには、イエス様のために苦難を受けること、などが大切になってきます。そのような者たちにイエス様はこう言われます。
「あなたは、どこで躓いたのかを思い出して、悔い改めなさい。」
人が貧しい罪人の立場をはなれて立派になり、日々の罪の赦しを必要ともしないで生きていくようにさせるような「霊的生活」は決して正しいものではありません。キリストのあがないの血による恵みが、私たちの人生の夕べにいたるまで常に、私たちが呼吸する「空気」であり、私たちが生きていくために必要な「食べ物」でなければなりません。

主、イエス様!私たちはあなたの御前で心を開いています。私たちを試してください。そして、私たちの内なる命の唯一の太陽となってください。世の罪を担ってくださる方よ!

K.V.タンミネン (「よい守りの中で」)
[1] 完了形。
[2] 「なぜなら」とも訳せる。その場合意味がすっかり変わってしまうことに注意。
[3] アオリスト。

マルコによる福音書について 第8回目の質問

第8回目の集まりのために

マルコによる福音書8章1節~9章1節

弟子たちは「イエス様がキリストであられる」と告白しました。イエス様の道はまもなく十字架に向かっていきます。

1)この段階になって、なぜイエス様からしるしが要求されたのでしょうか?それまでなされた奇跡では足りなかったのでしょうか?旧約のしるしを(神様の)権威に基づいて与えた人たちは誰でしたか?

2)人生のどのような状況の中で、私たちは神様からしるしを求めることができるでしょうか?奇跡は、十字架につけられた主イエス様を信じるように、人を導くことができるでしょうか?

3)目の見えない人を癒される出来事(8章22~26節)は福音書全体にかかわりをもっている箇所です。目の見える者は実は目が見えません。しかし、イエス様は目の見えない人を見えるように癒されました。

この出来事は霊的な盲目とその癒しについて話すときに正当にも引き合いに出される箇所です。「イエス様のみが霊的な盲目を癒してくださる」ということは、私たちにとってどのような意味をもっているでしょうか?使徒信条の第3信条(聖霊様への信仰)についてのルターの教理問答書は、次のように始まります。「私は自分の理性や力によっては主イエス・キリストを信じることも、その御許に行くこともできないけれども、聖霊様が私を福音を通して招いてくださっていることを、私は信じます。」

4)「栄光の神学」は、神様の力やキリストの栄光やキリスト教信仰の合理性やクリスチャンの強さを強調します。一方、「十字架の神学」の核心には、神様は御自分の力をこの世では隠しておられることにあります。それゆえ、神様の力があらわれるのは、傷つけられたキリストの中、人間的な理性に反しているように見えるキリスト教の信仰の中、また、クリスチャンたちの弱さの中なのです。ペテロはどちらの神学を代表していますか?イエス様はどちらの神学を教えておられますか?私たちのそれぞれの教会では、どちらの神学がより強い支持を得ていますか?「正しい」栄光の神学というのは、ありえないのでしょうか?

5)8章34~38節をもう一度読んでください。この箇所の御言葉に従って、教会史に登場する有名な人物たちは持ち物すべてを人に分け与えました。今でもクリスチャンは皆、自分が所有しているものを全部捨て去るべきなのでしょうか?

6)9章1節の意味は何ですか?