2011年1月31日月曜日

「コリントの信徒への第一の手紙」7章12~16節 

  
特例事項 7章12~16節
  
ある特別なケースについては、パウロは話し合いの場で自分なりの意見を述べる用意があります。
キリスト教が広まっていくにつれ、それは家庭に分裂を招くきっかけにもなりました。
配偶者の片方が信仰の道に入り、もう片方は信じない、というケースが出てきたのです。
そのような場合にはどうするべきなのでしょうか。
今までの生活にさっさと見切りをつけ、配偶者を捨てるべきなのでしょうか。
「決してそのようなことがあってはならない」、とパウロは言います、「もしも一方(クリスチャンではない人)がもう片方(クリスチャン)を外に放り出さない限りは」。
しかし、もしもこうなった場合には、どうすればよいのでしょう。
そういう場合には、クリスチャンは「まったき良心」をもってこの(別居)状態を受け入れてよいのです。
なぜなら、神様はクリスチャンを絶え間ない心の苦痛にではなく霊の平安へと招いてくださったからです。
14節は正確な意味がはっきりしません。
ともかくその言わんとすることは、「神様の聖さは何らかの形で「神様のもの」である人を通して結婚相手にも伝わっていく」、ということです。
それがどのような聖さであるのか、この節からはわかりません。
ともかくも、神様が制定された結婚は、「神様のものである人」と「神様を無視している人」との間の結婚生活にも主の聖さをもたらすものとして理解されるべきでしょう。
この節に基づいて、何か突飛な教義をひねりだすのは慎まなければなりません。
教義というものは、意味がはっきりしている箇所に基づくものでなければならないからです。
 

2011年1月28日金曜日

「コリントの信徒への第一の手紙」7章10~11節 

  
短い律法 7章10~11節
 
離婚について語るとき、パウロは自分自身の意見をあれこれ考えようとはしません。
そのことについては、解釈の余地のない「主の御言葉」があり、それを彼はコリントの信徒たちに伝えています。
配偶者を捨ててはいけません。
しかし、もしもそうなってしまった場合には、ドアを開けたままにしておかなければなりません。
これは、「死が夫婦を離れ離れにするまでは、新たに結婚してはいけない」、という意味です。
この箇所を理解するために必要なのは、内容を理解する力だけです。
離婚についての教えがイエス様の御言葉に基づいているのは、あきらかです(たとえば、「マルコによる福音書」10章11~12節、「マタイによる福音書」19章6節)。
 
私たちの生きている現代では、結婚制度は危機を迎えています。
離婚も普通の出来事になってしまいました。
どうしてこうなってしまったのでしょうか。
せわしない生活リズムと使い捨ての消費社会が、家族のまとまりを保てなくする理由の一部であるのは確かです。
一方では、神様の御言葉から故意に離脱する姿勢が、この件に関してとりわけ顕著に見られます。
誰も離婚するために結婚したりはしませんが、「結婚の聖さ」は、それをお定めになったお方の聖さを知らない人々には、当たり前のことではなくなっています。
まず第一に言っておくべきことは、「結婚は私たちの中にいる「古いアダム」を打ち砕くものだ」、ということです。
今私は、「離婚しているか、していないか」を基準として、人々を罪人と罪人ではない人とに区別したいとは思いません。
家族の体裁を保ち続けているどの家族の中でも、神様の御心に反した行いが、悔い悲しむ心もなく行われています。
ぶつぶつ文句を言ったり、怒ったり、復讐したり、配偶者を自分の思い通りに拘束しようとしたり、「あなたは私を命令してはいけないぞ」と態度で示したりします。
誰の結婚生活であっても、いつ爆発してもおかしくない「怒りのサイクル」を内蔵しているものです。
結婚した時の幸福感がいつの間にか消えうせ、ついにはどちらも互いに見向きもしなくなる時が来ることがあります。
そのようなときには、結婚生活の中で一番大切な「ごめんなさい」という言葉を用いて、二人で一緒にゴルゴタの十字架の御許に行き、主にも罪の赦しを乞い、また、主から罪の赦しをいただくことが、私たちにできる残された唯一のことです。
そうする場合には、もはや誰も、「自分にはまったく落ち度がない」と思い込んで、(自分が完全になるために)自分の弱点を消去するための無謀な戦いをしようなどとはしなくなることでしょう。
このやり方によってのみ、罪人たちは一緒に幸福に暮らすことができるのであり、皆の上に結婚の制定者からの祝福が安らかに留まり続けるのです。
   

2011年1月26日水曜日

「コリントの信徒への第一の手紙」7章8~9節 

  
結婚するべきでしょうか? 7章8~9節
   
パウロは「未婚者と寡婦のこと」に話を戻します。
彼が「結婚しないこと」に与えている高い評価が、ここで再び繰り返されます。
今回は新約聖書の他の箇所も挙げられています。
「結婚しないということ」は、神様の賜物や、神様が与えてくださっている使命でもありえます。
ですから、あらゆる手段を尽くしてでも、この状態から解放されるべきだ、というわけではありません。
それは「二流の生き方」などではまったくなく、深い敬意と高い評価に値することなのです。
このように言うときにパウロはまた、「誰の上にも余計な重荷を背負わせないように」、とも警告しています。
ある人にとって未婚が耐えられないほどの重荷である場合には、神様はその人が結婚するのを妨げたりはなさらないのです。

現代では、一人暮らしをしている人たちの性生活について、以前よりもオープンに話し合われるようになりました。
そしてこれは、今が性に関することを強調しすぎる時代であり、性交を自制する意味をまったく理解しない時代だからでもあります。
世界の歴史の中で現代ほど、セックスが話題の中心になっている社会は今までなかったことでしょう。
そうなっている理由は、金と人間的な欲望との汚らわしい「同棲関係」にあります。
広告は性的に人を篭絡する表現によって何でもかんでも売り物にしています。
とりわけ若い人たちにとって、これは大きな誘惑です。
「人がどれだけ性的な冒険を経験したか、しなかったか」、がその人の価値を決めてしまうような風潮さえあります。
このような時流に、私たちは一歩たりとも追従してはなりません。
人間の価値は、その人の性や、性交する能力や、性的な魅力にあるのではありません。
その基底にあるのは、神様の創造のみわざだけです。
そのみわざのゆえに、人は皆それぞれ、かけがえのない、いとおしまれるべき存在なのです。
「自由な性交」は誰のことも「自由」にはしないし、当事者の良心を強め励ますどころか、かえって逆の結果を招きます。
神様の御言葉の教えは明瞭です。
すなわち、「もしも一人で生きていくのが辛くなったならば、結婚しなければならない」、ということです。
ルターによれば、よい結婚相手は主からいただくものなので、早くからこのことのために祈るべきなのです。
  

2011年1月24日月曜日

「コリントの信徒への第一の手紙」7章1~7節 

  
結婚は神様の御心でしょうか? 7章1~7節
 
再びパウロは、コリントの信徒たちが前に手紙で彼に書き送っていたと思われる質問の内容に触れています。
「結婚しないのが一番よい」と理解する人たちがいました。
パウロの目には、これから起こるクリスチャンに対する迫害が見えていました(7章26節)。
彼は「結婚していないこと」を価値のあるよいこととみなしています。
そして、自分が結婚していないことを「神様が彼に許してくださった恵みの賜物」ととらえています。
これはしかし、一般にも当てはまる規則ではありません。
普通の場合はどうであるか、パウロは疑問の残らない仕方で説明しています。
すなわち、人は皆それぞれ配偶者をもつべきなのです。
こうすることで、いわゆる「放埓な性的関係への誘惑」が減ります。
短く、的確で、美しい文章を綴りながらパウロは話を続けます。
この箇所は、クリスチャンの結婚倫理に関する大切な根拠のひとつとなっています。
配偶者には互いに相手の性的な欲求をみたしあう義務があります。
古典時代には理解しがたい瞠目すべきことは、パウロが夫と妻を平等な立場に置いていることです。
妻の身体は彼女自身のものではなく、彼女の夫のものです。
同様に、夫の身体も彼自身のものではなく、彼の妻のものです。
これは、神様が創造された男と女がひとつの肉、ひとつの生き物になることの論理的な帰結でもあります。
パウロは片方の結婚相手が自分ひとりで勝手に決めて修道僧や修道女になる誓いを立てることを否定しています。
そのようなことをしても、かえって自制を欠いた放縦な生活に流されてしまうだけです。
もっとも、一定の期間を定めて双方が祈りに集中できるようにすることは、べつにかまいません。
しかしその場合にも、二人がそろって一緒に決めるべきです。
しかもこのような約束事は、パウロが「これぐらいは認めてもよいだろう」と考えているということなのであって、「こうしなければならない」という命令ではないのです。
(大人の人間の)正常な状態は、結婚とそこで営まれる性生活です。
  

2011年1月21日金曜日

「コリントの信徒への第一の手紙」7章 クリスチャンの結婚

クリスチャンの結婚

「コリントの信徒への第一の手紙」7章

これから扱う「コリントの信徒への第一の手紙」の7章は、クリスチャンの結婚に関して、新約聖書の中でも最も大切な箇所です。
特に夫婦は少なくとも年に一度は二人でこの箇所を読んで、話し合うべきでしょう。
パウロは経験豊かなカウンセラーとして教会にアドヴァイスを与えています。
ここでの彼の態度は、攻撃的でも厳格でもなく、穏やかです。


パウロは結婚していたのでしょうか?

新約聖書の中心的な登場人物の人生について、私たちはあまりにも知らなすぎる、ということはこの章に関してもあてはまります。
パウロが結婚していたのかどうか、知ることができればどんなに興味深かったことでしょうか。
この7章でパウロ自身、「さして困難もなく結婚相手のいない生活を送ることができている」、と語っています。
過去について彼は何も触れていません。
ラビたちの間では、結婚は神様のお定めになったこととして教えられていました。
「増えよ、地に満ちよ」という御言葉は、「神様のもの」である人々全員を拘束する戒めでした。
それゆえ、ラビたちは戒めにしたがい、結婚するのを義務とみなしていました。
おそらく使徒パウロもこの命令にしたがったことでしょう。
後に妻が死んで、彼はやもめとなったのかもしれません。
これについては何も確実なことが言えません。

2011年1月19日水曜日

「コリントの信徒への第一の手紙」第6回目の終わりのメッセージ

  
終わりのメッセージ
    
永遠の滅びを避けるために、クリスチャンは主の御声を聴いて御許に戻り、悲嘆して自分の罪を告白し、主イエス・キリストにおいて私たちがいただいている「贖いのみわざ」に信仰を通して「避けどころ」を求めるべきです。
もしも迷子になった羊が羊飼いの声に耳を貸さず、羊飼いの許に戻ろうとしないならば、その羊は荒野で衰弱し、しまいには野獣の餌食になってしまいます。
放蕩息子(「ルカによる福音書」15章)は遺産を異国で浪費し尽くし困窮しました。
彼には故郷の家に裕福で優しい父親がいたのにです。
これとまったく同様に、洗礼を受けた者が天のお父様を捨て、主イエス様から離れ去るならば、洗礼においていただいたあらゆる尊い賜物と天の御国の遺産すべてを失ってしまうことになります。
放蕩息子は自分の父親の許に来て、心から自分の罪を告白し、こう言います、
「お父さん、私はあなたと天に対して罪を犯しました」。
父親は彼を憐れみ、首を抱いて接吻し、礼服を着せ、あらゆるやり方で、彼が今も変わることなく自分の息子であり遺産相続者であることを示してくれました。
  
洗礼の恵みから外れてしまった罪人が、ざんげの心でみたされて、天の御父様の御許に戻り、再び主イエス様の恵みの中に避難する場合には、その罪人に対しても放蕩息子の場合と同じことが起こります。
なぜなら、たとえ私たちが洗礼の契約を破ってしまった場合でも、神様のほうではその契約を破ったりはなさらないからです。
たとえ私たちが洗礼の恵みから踏み外れてしまった場合でも、神様の洗礼は地に落ちてだめになったりはしません。
聖なる洗礼は神様の堅固な城です。
そこにあなたは今でも戻ることができるし、避難することができます。
それは、あなたが時には洗礼の恵みから外れてさまようことがあっても変わりません。
洗礼は、私たちが「この世の海」を渡って航海するための「船」です。
ルターも言っています、
「この船は決して壊れません。
なぜなら、それが神様の御心であり、神様がお定めになったものであって、私たち人間が作り出したものではないからです。
ところが、私たちはしばしばぐらついてはこの船から落ちてしまいます。
もしも誰かにこういうことが起こったならば、その人は泳いで船のところまで戻り、それにぴったりしがみついて再び中に入り、前と同様、船と共に前に進んでいくようにしなさい」。
  
F.G. ヘドベルグ 「疲れた人に休息を」

2011年1月17日月曜日

「コリントの信徒への第一の手紙」第6回目の質問

  
「コリントの信徒への第一の手紙」 第6回目の質問

パウロは、教会内部の諍いをクリスチャンではない人々による裁決にゆだねたコリントの信徒たちを批判しています。
章の終わりで彼は、「クリスチャンの自由」は無際限な欲望の実行を意味しないことを、教えています。
  
1)大部分のフィンランド人が教会に所属している状況で、パウロの裁判についての教えはどのような意味をもっているでしょうか。
権威をもってクリスチャン同士の争いを解決できるのは誰でしょうか。
  
2)天国と地獄は存在しますか。
もしも存在するのならば、どうしてそれらが話題に上らないのでしょうか。
それとも、それらについて実際に話し合われることがありますか。
  
3)9~10節の悪い行いのリストを研究してください。
これらの罪は今でも一般に見受けられるものでしょうか。
  
4)「貪欲な者たち」や「そしる者たち」がこのリストの中に入っているのは何かの間違いでしょうか。

5)同棲婚と婚前性交はフィンランドでは非常に一般的です。
この章に基づきこれらについて考えるとき、(クリスチャンとして)何が言えるでしょうか。
  
6)「結婚していない人たちは性的関係をもたないようにするべきだ」、とパウロは本当に考えているのでしょうか。
  
7)「聖書は法律書ではない」と主張して、人間の性生活についての聖書の教えを拒絶する人々がいます。
これに対して何と言うべきでしょうか。
  

2011年1月14日金曜日

「コリントの信徒への第一の手紙」6章12~20節 

   
自由の限界 6章12~20節
    
パウロは、「すべては私には許されている」とか、「食べ物はおなかのためにあり、おなかは食べ物のためにある」という言葉を引用しました。
おそらくコリントの教会にあらわれた「変に霊的な人々」が、パウロが引用しているこれらの言葉を使っていたのでしょう。
ギリシア古典時代には、「人間の欲求を満たすのは自然なことだ」、と主張する哲学の流派があらわれました。
「人間の欲求には恥じるべきことも自制すべきこともないのだ」、というのです。
あるいはコリントの異端教師たちの教えの背景には、こうした哲学の影響があったのかもしれません。
 
「コリントの教会の変に霊的な人々は、御霊の力の発現に驚嘆して気を取られ、肉体の罪には注意を払わなかったのではないか」、というのも十分納得のいく説明です。
パウロに特徴的なやり方として、「敵対者の用いる言葉に別の意味を含ませて逆用する」、ということがあります。
たしかにすべては許されているが、すべてが益をもたらすわけではないのです。
たとえどれだけ許されていることであるにせよ、人間がそのことの奴隷になってしまってはいけません。
とりわけパウロは姦淫の罪について警告しています。
ここでもこの「姦淫」(ギリシア語でポルネイア)という言葉の意味は、結婚前の性交渉のみではなく、第六戒を破るあらゆる行為を指しているのは明らかです。
  
パウロにとって、クリスチャンが結婚の外部で性的関係を持つのはまったくあってはならないことです。
クリスチャンは各々、「キリストの体」、すなわち「キリストの教会」の一員なのです。
ふたりの人間が性的に結ばれるとき、彼らはひとつの肉体になります。
これは結婚の偉大な奇跡です。
それに対して、「クリスチャンが町の娼婦と性的交渉を持ち、彼女を通してキリストに結ばれる」、というのはまったくありえない考え方です。
それゆえ、パウロは特に力を込めて、「教会員は婚外の性的関係をもって生活してはならない」、と教え命じています。
クリスチャンの身体は「聖霊様の神殿」です。
そして、そこには神様の聖霊様がお住まいになっているのです。
「どのように生きるか」は、人間が自分で決めるべきことがらではありません。
すべての根底には、キリストが教会を御自分の尊い血によって買い取ってくださった、という事実があるのです。
そのことはまた、クリスチャンに「罪と戦う義務」を与えるものでもあります。
   
私たちはこの箇所を正確に読むことが許されています。
「第六戒を破る罪だけが罪なのではなく、心の中だけで犯した躓きもまた神様の御前では罪過である」、と強調する人たちが私たちの周りにはしばしばいます。
たしかにパウロはこの箇所で、「姦淫の罪」を罪の中でも最悪の部類のものと言っているのですが、それにもかかわらず、これはまったく正しい指摘です。
私たちは聖書を「隣人の罪」についてのみあてはめて読む傾向があります。
その一方で、自分自身の罪は明るみに出されることがありません。
  
この箇所は私たちに対して重大な言葉を語っているのです。
結婚の価値は、私たちフィンランド人の間では、ひどくあいまいになってしまいました。
同棲婚や結婚前の性的関係は例外というよりもある種のお決まりにさえなってしまっています。
同じことがクリスチャンの間でも広まってきています。
家庭問題を扱うあるベテランの専門家は、「結婚していない人たちが誰とも性的関係をもてないのは、本当に神様の御心なのだろうか」、と公然と問いかけたことがあります。
神学者の中には、質問をするだけでは収まらない者もいます。
聖書の教えを無視するときに持ち出される常套の手段は、「聖書は法律書ではない」という理屈です。
結婚制度そのものが危機に瀕しているのは、何の不思議もないことです。
にもかかわらず、それは神様がお定めになった制度であり、それゆえ永遠に有効であり続けます。
「誰が御国を継ぐことができ、誰が継げないか」は、おひとり神様のみが宣言できることがらです。
私たちにできるのは、神様の御言葉を聴いて、それにしたがって悔い改めることだけです。
自分の罪を知っている弱い人たちに対して、神様は罪の赦しを惜しみなく与えてくださいます。
しかし、驕慢で自信満々な者たちは意外な結末に陥ることを覚悟しておきなさい。
 

2011年1月12日水曜日

「コリントの信徒への第一の手紙」6章9~11節 

   
神様の御国を継ぐことができない人々 6章9~11節
  
パウロは、「どのようなことが罪深い悪い行いか」を記したリストを作成します。
このようなリストは新約聖書の他の箇所にも幾つかあります。
たとえば、「ガラテアの信徒への手紙」5章19~21節とか、「エフェソの信徒への手紙」5章5節などです。
「正しくない者たち」(ギリシア語で「アディコイ」)というのは、神様を無視して生きている人々を指す、一般的な名称です。
「姦淫をする者たち」(ギリシア語で「ポルノイ」)とは、いろいろなやり方で第六戒を破る行いをしている人々のことです。
たとえば、不貞をはたらくとか、結婚する前に性的関係をもつとか、などがその例です。
「男娼となる者たち」(ギリシア語で「マラコイ」)と「男色をする者たち」(ギリシア語で「アルセノコイタイ」)というふたつの言葉はどちらもホモセクシュアルの男性を指しています。
後者はその積極的な側、前者はその受身の側のことです。
リストにはさらに、「酒に酔う者たち」、「盗む者たち」、「偶像を礼拝する者たち」、「略奪する者たち」などが入っています。
注目すべきは、リストの中に「貪欲な者たち」や「そしる者たち」が入っていることです。
これらの者には皆、ひとつの共通点があります。
それは、「彼らは天の御国を継ぐことができない」、ということです。
パウロは、「このこともコリントの信徒たちは当然知っているはずだ」、という書き方をしています。
「コリントの信徒全員がこのことを知っていたとは、いったいどういうわけだろうか」、と訝る研究者もいます。
この疑問への納得のいく答えとして、「洗礼を受ける時にこれらのリストが読み上げられたので、洗礼を受ける者は皆このリストに明記されているひどい罪を捨て去るべきであるということを知っていた」、という説があります。
パウロがこのリストを挙げた後の箇所で洗礼について語っているということも、この説の正しさを裏付けています。
多くのコリントの信徒たちのクリスチャンとしての昔の生活態度には、たしかにあまりほめられたものではないところがいろいろとありました。
しかしながら、彼らは洗礼を受けて「キリストのもの」となっており、こうして彼らはキリストにあって「聖で義なるもの」とされているのです。
それはまた、彼らが自分たちの罪の生活を捨てて歩むことを義務付けるものでもあります。
  
パウロは私たちにとって、「誰が天の御国を継ぐことができ、誰ができないか」という疑問に対して答えることができるこのうえない専門家です。
彼の言葉を疑問に付すのは愚かしいことです。
ともかくも、彼の教えはここフィンランドでは忘れ去られています。
フィンランド人全員が、「上のリストに上げられている公の罪を犯している者は永遠の命を継ぐことができず、永遠に滅びてしまう」、ということをちゃんと知っているのでしょうか。
天国と地獄は存在するでしょうか。
キリスト教信仰は私たちにとってたんなる趣味や暇つぶしにすぎないのでしょうか。
「これは生きるか死ぬかの問題だ」、ということを私たちはしっかりと理解しているでしょうか。
もしも理解しているならば、なぜ私たちは、他の人たちや自分自身の状態の抱えている危機を、燃える心をもって親身に心配したりしないのでしょうか。
 

2011年1月10日月曜日

「コリントの信徒への第一の手紙」6章1~8節 

自由の限界

「コリントの信徒への第一の手紙」6章


6章でもパウロはコリントの信徒たちに対して大鉈を振るっています。5章と6章は教会の現実の状態がどれほどひどいものであるかを、情け容赦もなく明らかにしています。これは、最初期の教会について私たちが抱きがちな美化されすぎた幻想を吹き飛ばしてくれることでしょう。


裁判官の前で 6章1~8節

コリントの信徒たちの間の諍いは、教会内部だけの問題としては収まりませんでした。
争いはこの世の司法機関による裁判に持ち込まれました。
そこでその裁判官が最終的な判決を下すのです。
これを聞いてパウロは激怒しました。
神様の教会でどうしてこのようなことが起こってよいものでしょうか。
なすべきことはわかっていました。
神様の御国では、誰も他の人から略奪してはいけないし、自分の権利に執着して裁判を起こすような真似をしてもいけません。
まったくもってひどいのは、クリスチャンの間の争いごとをこの世の司法機関に訴えて、クリスチャンではない人たちが裁定を下すような羽目になってしまったことです。
あるクリスチャンのことで苦情を述べなければならない場合には、どうしてそれを教会内で信頼されているクリスチャンに訴えないのでしょうか。
日常生活にかかわることぐらいについては、誰かちゃんとした信仰者が判断を下せるような「システムと共通認識」が教会の中にあるのが当たり前なのです。

パウロの目には、クリスチャンではない裁判官たちの判決によって争いごとを片付けようとする態度は、決して取るに足りない些細なことではありません。
このことに関しても他の場合についても、「愛する最後の日」、「世の終わりと最後の裁き」のことが彼の念頭にあったからです。
パウロは、「現代の私たちにとっては奇妙に聞こえるものの、当時のコリントの信徒たちにとっては馴染み深いテーマだったと思われることがら」を話し始めます。
「まさか知らないのですか」という言い方には、「聖徒たちがこの世を裁くようになる、ということはすでに皆が知っているはずです」、という含みがあります。
最後の裁きの時には、クリスチャンは裁きを行う側に参加するようになる、ということです。
イエス様は弟子たちに、彼らがイスラエルの12部族を裁くようになる、と約束されました(「マタイによる福音書」19章28節)。
パウロはこの御言葉を当然すべてのクリスチャンと全世界にもあてはまるものとして語っています。
さらにクリスチャンは、被造物の中で最も高みに位置している天使たちのことさえも裁くようになるのです。
このような眩暈がするほどすばらしい眺望からしてみると、コリントの信徒たちが自分自身で日常生活の問題さえ整理解決できないのは、パウロには本当に腹が立つことでした。
彼らは裁判官を必要としており、しかも、クリスチャンのグループの外部の人間を裁判官とするつもりなのです!

パウロの言葉を私たちの状況に照らし合わせるとき、いろいろなことをじっくりと考えてみる必要に迫られます。
フィンランドでは大多数の人が教会に属しています。
また、多くの裁判官は少なくとも形式的にはクリスチャンです。
一方では、裁判にかけられる人々も教会の会員であるケースが多いです。

こういうことに基づいて、「クリスチャンはこの点に関してはすっかり生活態度を改めたのだ」、と主張する人が出てくるかもしれません。
「今や、キリスト教会の内部で裁判事を処理できるわけだから」、と。
こんなことを言う人自身、実は屁理屈をこねているに過ぎないことを知っているはずです。
この聖書の箇所はいまだに現代にもあてはまる内容です。
それは、たとえ、フィンランドの国民の大部分が、形式的にはクリスチャンである場合でもそうなのです。
「神様の民」であるクリスチャンは、自分自身の権利を主張するときには、非常に慎ましくやり始めるべきなのです。
もしも争い合っている相手がクリスチャンである場合には、争いごとの調停はさらに慎重に、まったく別のやり方でその解決を模索していかなくてはなりません。
教会の中から、調停をうまくまとめる人々がでてこなければならないのです。
そして、牧師以外でも調停が上手な人がいれば、その人に任せればよいでしょう。
ただし、私たちの中には、いったいそのような人がいるのでしょうか。