2021年5月28日金曜日

「ヨナ書」ガイドブック  聴き入れられたヨナの宣教 3章5〜9節(その1)

 聴き入れられたヨナの宣教 3章5〜9節(その1)

 

イスラエルとユダで活動した主の預言者の多くは、

イスラエルとユダは、今の不信仰な状態が変わらないかぎり、

いずれ滅ぼされ厳しい裁きを受けることになる、

という内容のメッセージを伝えました。

しかし、イスラエルの民もユダの民も、自らの罪を悔い救い主を信じる、

すなわち、悔い改めるということがありませんでした。

ところが、ヨナは自ら伝えたメッセージをニネヴェの聴衆が受け入れていくのを

その目で見ることができました。

これは主の預言者としてはきわめて異例なケースです。

 

おそらくはヨナの上述の短い説教によって

ニネヴェの人々はすでに悔い改めに導かれていたのではないでしょうか。

「ヨナ書」にはヨナが行った他の説教についての記述はありません。

そのため、

悔い改めは速やかにニネヴェの人々の間に広がっていったという印象を与えます。

 

どうしてこれほどまでに大規模なリヴァイヴァル(信仰の覚醒)が

ニネヴェで起きたのか、その理由はわかりません。

滅亡が間近に差し迫っているという危機感をニネヴェの人々は抱いた

というのが考えられる理由のひとつです。

ヨナの宣べ伝えたニネヴェの崩壊は

いつか遠い未来に起きるかもしれない出来事ではなく、

数週間後には現実になるものとされたからです。

 

これと同じような問題は今日にも見られます。

例えば、魂の敵(悪魔のこと)は私たちに対して次のように囁きかけてきます、

「あなたにはまだ十分時間がありますよ。

今はまだ人生を自らの快楽の赴くままに過ごしなさいな。

信仰に関わることや神については年老いてから考えはじめればよいのですよ。

老後にはそのための時間があるのですから」。


キリスト信仰者としてこの世を生きていくことは決して惨めなことではありません。

これは魂の敵が捏造して私たちに押し付けてくる虚偽のイメージに過ぎません。

このことを私たちははっきりと人々に教えていく必要があります。

文字通り「惨めな人生」を送っている人は、

人生のできるかぎり早い段階で神様の御許に助けを求めに行く人ではなくて、

神様の御許に行くことを先へ先へと引き延ばしにする人のことなのですから。

 

福音の宣教は聴衆をふたつのグループに分けます。

福音は人に信仰を与えるか、あるいはその心を頑なにするか、そのどちらかなのです。

それゆえ、

福音の宣教が大多数の人から反対を受けることを驚き怪しむべきではありません。

彼らは自らのやましい良心に悩むことすらなく、

むしろ平気で神様から離れて生活することを望んでいるからです。

 

神様からの御言葉に基づく福音のメッセージを自分でも受け入れていない人は

「このメッセージに聴き従わないなら、お前たちはすぐにでも滅びるぞ」

といった脅し文句で伝道を効果的なものにしようとしてはいけません。

2021年5月14日金曜日

「ヨナ書」ガイドブック ヨナをニネヴェに遣わされる神様 3章1〜4節(その2)

 ヨナをニネヴェに遣わされる神様 3章1〜4節(その2)

 

エルサレムからニネヴェまでは約800キロメートル離れており、

当時の旅ではおよそ一ヶ月間かかりました。

ヨナはエルサレムからではなく、

どこかの海岸地域からニネヴェへと出発したのでしょう。

しかし、その旅に要する時間はエルサレムから出発した場合と

さほど変わらなかったものと思われます。


ですから、

旅の途中でヨナには神様から受けた教えの内容を

じっくり考える時間が与えられたことになります。

このようなやり方で神様は御自分の僕であるヨナに

ゆったりと時間をかけて働きかけてくださったのです。

 

ニネヴェはどれほど大きな都市だったのでしょうか。

それについては

「神様にとって大きな町であり、徒歩で三日を要するほどであった」

(「ヨナ書」3章3節より、高木訳)という記述があります。

これは私たちの尺度に換算すると約100キロメートルに相当します。

この距離がニネヴェの直径なのかそれとも円周なのかについては

研究者の間でも意見が分かれています。

 

当時の都市の規模としてこの距離はあまりにも大きすぎる、と考える研究者もいます。

考古学的な発掘調査によって得られた推定データ

およびアッシリア諸王の年代記の記述によるならば、

ニネヴェの大きさは約20キロメートルだったことになります。

 

この「ずれ」については、

ヨナの言う「三日を要するほど」の大きさとは

都市ニネヴェの周辺地域の小さな町々も加えた場合の規模だった、

と説明することもできます。

たとえば「創世記」10章11〜12節には4つの町の名があげられています。

それらのうちで最初にその名があげられている町がニネヴェであり、

それら4つの町々は(一緒にすると)「大きな町」であったと言われています。

 

また「神様にとって大きな町」(3節)という表現は

ニネヴェが「神様にとって大切な町」であったという意味にもとれます。

それによると、

ニネヴェが神様にとって大切な町であったがゆえに

神様は悔い改めのメッセージをニネヴェの路地の隅々まで宣べ伝える労を

惜しまれなかった、という意味になるでしょう。

 

この神様のニネヴェ伝道への情熱とは対照的に

「ニネヴェにはもはや40日間しか憐れみの時が残されていない」

というヨナのメッセージは冷淡そのものでした。


この40という数字はでたらめに選ばれたものではありません。


預言者エレミヤは来るべきエルサレムの滅亡について

それが起こる40年前に宣べ伝えました(「エレミヤ書」1章1〜3節)。


またイエス様もエルサレムの崩壊(紀元70年)について

その通りになる40年前に宣教なさいました。

また当時は40年が一世代分の長さであるとされていました。

 

ヨナの宣教のケースでは、

ニネヴェに与えられた悔い改めのための時間は

「40年間」ではなく「40日間」というごく短い期間でした。


これからわかるように、

神様のお立てになった御計画はきわめて急を要するものでした。

エレミヤはエルサレムで40年間宣教しましたが、

ヨナはニネヴェで同じように40年間宣教するわけにはいかなかったので、

スケジュールが過密になったのはやむを得なかったのでしょう。

 

ヘブライ語原文を見ると、

ニネヴェでのヨナのごく短い説教を締めくくる

「滅ぼされる」(4節)という言葉には

受動的な意味を表すニファル態の動詞が用いられています。

同じ動詞はソドムとゴモラの滅亡の描写(「創世記」19章24節以降)

にも登場します。


なお、この動詞には「根本的に変えられる」という別の意味もあります。

ですから

「主に対するニネヴェの態度は根本的に変えられる」という解釈も可能です。

2021年5月5日水曜日

「ヨナ書」ガイドブック 3章 ニネヴェを憐れまれる神様 ヨナをニネヴェに遣わされる神様 3章1〜4節(その1)

「ヨナ書」3章 ニネヴェを憐れまれる神様

 

ヨナをニネヴェに遣わされる神様 3章1〜4節(その1)

 

神様はヨナにすでに一度与えたことのある使命をふたたびお与えになりました。

「ニネヴェに出かけて行って、

神様の御心をそこの人々に宣べ伝えなければならない」という使命です。

 

ヨナの説教は「まだ四十日間ある。そしてニネヴェは滅ぼされる」というものです

(「ヨナ書」3章4節の一部、高木訳)。

これはヘブライ語原文ではわずか6つの単語からなっています。

 

もちろんヨナの説教は本来もっと長いものであった可能性もあります。

そうである場合には「ヨナ書」を書き留めた人物が

ヨナの説教の核心部分を短くまとめたことになります。

 

ニネヴェの人々に向けられたこの説教のメッセージには、

ヨナの言いたいことではなくて神様がお伝えになりたいことが込められています。

これは特に重要な点です(2節)。

そもそも伝道者は神様の御言葉を宣べ伝えるのが使命ですが、

彼らにとって、自分でよく知っていると思うことや会衆が期待していることを

「神様からのメッセージ」として伝えてしまおうとする誘惑は大きいです。

このことについて、たとえばパウロは同僚者のテモテに次のように書いています。

 

「人々が健全な教に耐えられなくなり、耳ざわりのよい話をしてもらおうとして、

自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め、そして、真理からは耳をそむけて、

作り話の方にそれていく時が来るであろう。」

(「テモテへの第二の手紙」4章3〜4節、口語訳)

 

それゆえ、

説教者が御言葉を通して神様からいただいたメッセージを

忠実に聴衆に伝えることができるように祈りで支えるのは

教会員に与えられた大切な使命なのです。

 

神様の御言葉を理解する正しいやり方は

実はたったひとつしかないとも言えるでしょう。

それは「御言葉に従うこと」です。

以下の「申命記」の箇所を参照してください。

 

「隠れた事はわれわれの神、主に属するものである。

しかし表わされたことは長くわれわれとわれわれの子孫に属し、

われわれにこの律法のすべての言葉を行わせるのである。」

(「申命記」29章28節、口語訳。節番号はヘブライ語原文に従っています)

 

ところが、

私たちは実際にはそれとはまったく逆の順序で行動してしまうことがよくあります。

例えば、

活動方針をまず決めてからそれを神様の御言葉によって後から根拠付けてみる、

というやり方です。


本来ならば、

まず神様の御言葉から神様の御心を聴き取ることからはじめて、

それから具体的な活動内容を決めていく、

というやり方を取るべきところです。