2010年12月1日水曜日

「コリントの信徒への第一の手紙」第4回目の終わりのメッセージ

終わりのメッセージ

「この方がしてくださったことはすべて素晴らしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださった」(「マルコによる福音書」7章37節)。
 
御言葉が正しく用いられるところにはどこであれクリスチャンがいるものです。
御言葉が正しく扱われないところにはクリスチャンもいません。
神様の御言葉を真剣に聴き続けることを決して忘れてはいけません。
神様は、御言葉を介さずにあなたの心に何かを告げようとは思っておられません。
もしもあなたが神様を見て知りたいならば、それは御言葉と聖礼典(洗礼と聖餐)を通してのみ実現します。
他の方法によっては、聖霊様はあなたの中でみわざを行われないのです。
   
神様御自身、天国について教えられるとき、
「これは私の愛する子、御心に適う者です。彼の言うことを聴きなさい」
(「マタイによる福音書」17章5節)
と言われています。
  
同じように、キリストは弟子たちに、
「あなたがたは行って、すべての民を私の弟子にしなさい。
父、御子、御霊の御名により洗礼を授けなさい。
私があなたがたに命じておいたことをすべて守るように彼らに教えなさい」
(「マタイによる福音書」28章19~20節より)
と命じておられます。
  
神様はこのようにも言われています、
「あなたがたのことを聴く者は私のことを聴くのです」
(「ルカによる福音書」10章16節)。
   
主キリストは私たちが口を開き、人々に福音を宣べ伝え、彼らに洗礼を授けることを命じておられます。
これが、救われるための正しい方法です。
他の方法は何であれまったく役に立ちません。
  
「あなたがたのことを聴く者は」、
と主は言われます、
「私のことを聴くのです」。
   
主なる神様御自身が説教なさる教会がどこにあるかわかれば、どんなに遠くからでもその教会に馳せつけない人は私たちの中には一人もいないでしょう。
誰もが神様の御声を聴きたいと望んでいるのです。
   
主なる神様はこう言われます、
「私はあなたのすぐそばに来ます。
あなたは長い旅行をする必要などはないのです。
あなたの教会の牧師、またお父さんとお母さんのことを聴きなさい。
そのようにして、あなたは私のことを聴くことになるのです。
彼らは私の弟子であり、職員なのです。
あなたが彼らのことを聴くときに、私はあなたの心に語りかけています。
私が口の利けない人に話しかけたときのように、あなたの耳は開かれ、あなたの舌はもつれが解かれます。
そうして、あなたは耳が聞こえ話すことができる人間になります。
あなたはもう前のような耳の聞こえない人でも口が利けない人でもありません」。
  
しかし、もしも父や母、この世の権力者、御言葉の説教者を通して私たちに話される神様の言われることを聴こうとしないならば、その罰として、悪魔はさらにきつく耳を閉じ、舌を縛り、神様の御言葉を聴くことと告白することを今まで以上に困難にします。
そのかわり悪魔は、自分の偽り、分派、間違った教え、その他みだらなことを聴く耳を開きます。
御言葉を見下す態度が普通そのような報いを招くのです。
そうなるのが当たり前です。
まさにそのような状態を望んでいたわけですから。
  
「この方がしてくださったことはすべて素晴らしい。
耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださった」、
と言って主キリストを賛美した、まじめなクリスチャンたちの模範に従おうではありませんか。
  
このことを主イエス様は、キリスト教会で、聖礼典(洗礼と聖餐)と外的な御言葉を通して、休むことなく実現なさっています。
主は説教者が御言葉を説教するようになさいます。
それにより耳の聞こえない人の耳が開かれ、口の利けない人が話し始めるようになるためです。
他の何ものでもなく、御言葉を通して、聖霊様は私たちの中で働きかけてくださいます。
このことによく注目し、以前よりも熱心に配慮しなさい。
なぜなら、それは、耳を開き、舌のもつれを解き、救われるための、一番直接的で確実な方法だからです。
どうかそれを、愛する救い主キリスト・イエス様が私たちに与えてくださいますように!
アーメン。
  
(マルティン・ルター 「霊的な活力」)