2018年9月26日水曜日

「ペテロの第一の手紙」ガイドブック 1章13〜25節 結論へ!(その4)

 1章13〜25節 結論へ!(その4)

ペテロの伝えるメッセージの別の側面もまた、
私たちキリスト信仰者の間ではっきり理解されているとはいえません。
それは、
神様の愛は私たちを「神様御自身のもの」として結びつけ、
神様の道を歩ませるようにさせる、
ということです。

生ける者と死にたる者とに対していつか必ず裁きを下される主のことを、
私たちは「父なる神様」とお呼びしています。
神様の御国は戯言でも冗談でもありません。
たとえ「キリストの道」を歩むことで
様々な苦しみを受けることになるとしても、
この道を捨てることがあってはなりません。

キリストの道を歩むことで
私たちの人生におけるこの世的な愉楽が
すこしばかり制限されるだけで済む場合なら、
なおさらそうです。

神様の愛から導き出される結論、
すなわち「聖化」は
キリスト信仰者ひとりひとりの義務であるとも言えます。
このことは、
たとえば「ローマの信徒への手紙」6章や、
ルター派の正しい教義を集成した「ルーテル教会信条集」にも記されています。

ここで注意すべきことがあります。
私たちルター派は
「よい行いは救われるために絶対に必要である」とは教えない、
ということです。
私たちの救いは神様からいただく「賜物」であるからです。
それに対して、私たちは
「よい行いはキリスト信仰者にとって絶対に必要である」と教えます。
神様の戒めに従って生きようとするかしないかは、
私たちが勝手に決めてよいことではありません。
一生の間私たちは、
人間の言葉で書き記された神様の御言葉である聖書の生徒として
留まり続けるべきなのです。
たとえ他の人々や私たち自身の罪深い性質が
このことに反対して何を主張してこようとも、
このことの重要性は変わらないことを
私たちは強調したいと思います。

2018年9月19日水曜日

「ペテロの第一の手紙」ガイドブック  1章13〜25節 結論へ!(その3)

 1章13〜25節 結論へ!(その3)

神様は私たちを「新しい命」へと生んでくださったのです。
ですから、
この「新しい命」を生きて行くことが私たちの責務となります。
また、
私たちは自らの生活における多くのことがらを
新たに見つめ直す必要があります。

苦しみを受けているキリスト信仰者たちを慰めるために
ペテロが伝える最初のメッセージは次の通りです。

天の御国は開かれており、
神様は私たちを聖なる者としてくださいました。
しかも、このことは
私たちの業績でも行いによるものでもなく、
ひとえにキリストの十字架の死の犠牲によるものです。
それゆえ、
誰もこのことが本当かどうかを疑う必要はありません。
このことが確実であるのは、
私や私自身の信仰に基づくものではなく、
神様とその御言葉にその根拠を置くものだからです。

私がキリスト信仰者としての生き方をするのは、
私が救われるための「条件」ではなく、
私がすでに救われている「結果」なのです。

私は自分自身の行いによって聖なる者となるのではありません。
「聖さ」とは、神様が罪人たちに与えてくださる全き賜物なのです。
この観点をおろそかにすると、
ペテロの手紙の素晴らしい慰めが見えなくなってしまいます。
残念なことに、
私たちはそれを十分明瞭に見ることはできないし、
それによってお互いを慰めることができない場合も多いです。

2018年9月12日水曜日

「ペテロの第一の手紙」ガイドブック 1章13〜25節 結論へ!(その2)

1章13〜25節 結論へ!(その2)

この章の後半の鍵となるのは
「わたしが聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者になるべきである」
(16節、口語訳)という御言葉です
(「なるべきである」と訳された箇所は
ギリシア語では動詞の未来形が使用されています。訳者註)。
これがこの手紙の核心ともいえるメッセージです。
それには二つの側面があり、その両方とも検討していく必要があります。

「聖さ」は神様にのみ属する本質です。
人間は自分の力では決して「聖なる者」になることができません。
すなわち、ありのままの人間は
「神様の大広間」に足を踏み入れることなど決してできない存在なのです。
この手紙もそのようなことが人間に可能であるとは主張していないし、
「自分自身の聖さ」を無理やり作り出すように勧めているわけでもありません。
私たちが「聖なる者」である根拠は、
神様が私たちを「きずも、しみもない小羊のようなキリストの尊い血」
(1章19節、口語訳)によって清めてくださったことにあります。
私たちが聖なる者であることは、到達点ではなくて出発点なのです。

この出発点から次のような結論が導かれます。
「神様が私たちを聖なる者としてくださったのだから、
私たちはいただいた賜物に調和するような生き方をするべきである」
という結論です。
これは
「罪との戦い、すなわち聖化こそが
キリスト信仰者の絶え間ない日々の生活態度である」
という意味です。
次の聖句はこのことを素晴らしいイメージによって表現しています。

「あなたがたが新たに生れたのは、
朽ちる種からではなく、朽ちない種から、
すなわち、神の変ることのない生ける御言によったのである」
(1章23節、口語訳)。

2018年9月7日金曜日

「ペテロの第一の手紙」ガイドブック  1章13〜25節 結論へ!(その1)

 1章13〜25節 結論へ!(その1)

「ペテロの第一の手紙」の典型的な特徴は、
すでにこの最初の章にあらわれています。
この手紙ははじめに、
神様が私たちにしてくださったことについて語り、
すぐその後で、
このことに基づく私たちの生き方について語ります。

パウロの手紙では息の長い文章が続きます。
「ローマの信徒への手紙」はこの最良の例と言えます。
しかし、このペテロの手紙の文章には「ヘブライの信徒への手紙」と同様に、
とても短いものも含まれています。
この特徴のおかげで、
「ペテロの第一の手紙」は読みやすくわかりやすいものになっています。

神様は何をしてくださったのか?
この神様の御業は私の生き方にどのような影響を与えるのか?

このパターンが手紙全体を通じて繰り返し展開されていきます。

エジプトでの隷属状態の中で生活していたイスラエルの民は
「故郷に帰る支度をするように」との命令を神様から受けました。
過越の食事はこの出来事を記念するものでした。
奴隷の状態から解放されるために
エジプトを出発しようとしていることについて、
イスラエルの民はこの段階ではまだ一切知らされていませんでした。
しかしその一方で、彼らは
「旅支度を整えた上でこの食事をとるように」という指示を受けていました。

旧約聖書のこの出来事のイメージを用いて、
今ペテロは手紙の読者にも「旅支度を整える」ように奨励しているのです。
苦しみの時はもうすでにはじまっています。
しかし、それは長く続くものではありません。
主は近くにおられます。
この世における人生は永遠に続くものではありません。

2018年9月3日月曜日

「ペテロの第一の手紙」ガイドブック 1章3〜12節 喜びと苦しみと(その3)

1章3〜12節 喜びと苦しみと(その3)

次に、今述べたことよりも学ぶのがはるかに難しいと思われる
第二のことがらをとりあげることにします。

手紙の受け取り手が苦しみに対してどのような態度をとるべきであるか、
ペテロは教えます。
そして、
神様の偉大さと、言葉では表現できないほどの善き本質とについて語ります。
そうすることで、キリスト信仰者が苦しみに対してとるべき態度を説くのです。
その姿勢は感動的でさえあります。

ペテロは、
キリスト信仰者の受けている苦しみに対して
無理やり理屈を付けて説明しようとはしません。
神様の行いをむやみに正当化しようともしません。
神様に対してあまりにも賢しげな態度をとることもありません。

ペテロの手紙の文章は
新約聖書の「エフェソの信徒への手紙」の3章を思い起こさせます。
それは理由なく投獄された使徒パウロが自らに与えられた
「特権的な地位」について深い喜びをもって語っている章です。
言葉にできないほどの神様の善き本質について
宣べ伝えることができたことをパウロは喜んでいます。
「ペテロの第一の手紙」の教えは
これとまったく同質のものであると言えます。

苦しみの問題に対する最初の、
そしておそらくは唯一の答えは、
キリストにおいて具現化した、
言葉に表現できないほどの神様の善なる本質でしょう。