2021年2月24日水曜日

「ヨナ書」ガイドブック 「ヨナ書」1章 神様から逃げることはできない 預言者の召命を受けるヨナ 1章1〜3節(その1)

 「ヨナ書」1章 神様から逃げることはできない

 

預言者の召命を受けるヨナ 1章1〜3節(その1)

 

「ヨナ書」の始まりの言葉(「主の御言葉が来た」)は

旧約聖書の預言者の書に典型的なものです。

旧約聖書の他の六つの預言書もほぼ同じような言葉で始まっています

(「ヨエル書」1章1節、「ミカ書」1章1節、「セファニヤ書」1章1節、

「ハガイ書」1章1節、「ゼカリヤ書」1章1節、「マラキ書」1章1節)。

このような表現は旧約聖書において

「ヨナ書」の始まりの言葉と同一のものだけでも100回以上、

さらにいろいろなバリエーションを含めると600回以上用いられています。

 

神様は御言葉を通して御自分のことを私たちに啓示しておられます。

 

「隠れた事はわれわれの神、主に属するものである。

しかし表わされたことは長くわれわれとわれわれの子孫に属し、

われわれにこの律法のすべての言葉を行わせるのである。」

(「申命記」29章28節、口語訳)

 

最初に御言葉を受けた時、ヨナは主の御心に素直に従おうとはしませんでした。

はたして私たちはどうでしょうか。

「神様の御心が何であるか私は知らない」と言い張ったり

「私は神様からもっとはっきりした「しるし」を要求する」

という態度をとったりすることは私たちにもできないはずです。


このことに関連して、イエス様の「金持ちとラザロ」のお話を次に読みましょう。

 

「ある金持がいた。

彼は紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮していた。

ところが、ラザロという貧乏人が全身でき物でおおわれて、

この金持の玄関の前にすわり、

その食卓から落ちるもので飢えをしのごうと望んでいた。

その上、犬がきて彼のでき物をなめていた。

この貧乏人がついに死に、

御使たちに連れられてアブラハムのふところに送られた。

金持も死んで葬られた。

そして黄泉にいて苦しみながら、目をあげると、

アブラハムとそのふところにいるラザロとが、はるかに見えた。

そこで声をあげて言った、

『父、アブラハムよ、わたしをあわれんでください。

ラザロをおつかわしになって、その指先を水でぬらし、

わたしの舌を冷やさせてください。

わたしはこの火炎の中で苦しみもだえています』。

アブラハムが言った、

『子よ、思い出すがよい。

あなたは生前よいものを受け、ラザロの方は悪いものを受けた。

しかし今ここでは、彼は慰められ、あなたは苦しみもだえている。

そればかりか、わたしたちとあなたがたとの間には大きな淵がおいてあって、

こちらからあなたがたの方へ渡ろうと思ってもできないし、

そちらからわたしたちの方へ越えて来ることもできない』。

そこで金持が言った、

『父よ、ではお願いします。

わたしの父の家へラザロをつかわしてください。

わたしに五人の兄弟がいますので、こんな苦しい所へ来ることがないように、

彼らに警告していただきたいのです』。

アブラハムは言った、

『彼らにはモーセと預言者とがある。それに聞くがよかろう』。

金持が言った、

『いえいえ、父アブラハムよ、

もし死人の中からだれかが兄弟たちのところへ行ってくれましたら、

彼らは悔い改めるでしょう』。

アブラハムは言った、

『もし彼らがモーセと預言者とに耳を傾けないなら、

死人の中からよみがえってくる者があっても、

彼らはその勧めを聞き入れはしないであろう』。」

(「ルカによる福音書」16章19〜31節、口語訳)

 

金持ちは「病気で貧乏なラザロを助けるべきである」という神様の御心を知りつつも、

生前はそれを無視し続けました。

そして、死んだ後は一転して地獄で苦しみ続けています。

「せめて兄弟たちは自分と同じ苦しみに合わないようにするために、

死んだラザロを彼らのもとに派遣して警告したい」という金持ちの懇願に対して、

アブラハムは「

もし彼らがモーセと預言者とに耳を傾けないなら、

死人の中からよみがえってくる者があっても、

彼らはその勧めを聞き入れはしないであろう」と答えました。

 

上の引用文で「モーセと預言者」とは旧約聖書のことを指しています。
神様の御言葉である旧約聖書に聴き従わない者は、
たとえ「死者の中からの復活」という「しるし」をまとったお方
(すなわちイエス様御自身)が目の前に現れたとしても、
そのメッセージを受け入れることなく不信仰の中で死ぬことになる、
という意味です

2021年2月17日水曜日

「ヨナ書」ガイドブック イスラエルの敵、ヨナのしるし、「ヨナ書」の構成

イスラエルの敵

 

神様がヨナに行くように命じたニネヴェという都市はアッシリアの首都であり、

メソポタミアのチグリス川に面していました。

 

ヨナ書に描かれている時点でのアッシリアは

まだ広大な領土を誇る大帝国にはなっていません。

紀元前745年に王となったティグラト・ピレセル3世が導入した

軍制改革(徴兵制度)によってアッシリアは文字通りの「世界の覇者」となったのです。

そして、紀元前722〜720年にアッシリアの軍隊は

イスラエル王国の首都サマリアを占領して破壊し、

イスラエルの民を捕囚としてメソポタミアへ連れ去りました。

 

 

ヨナのしるし

 

「自分がメシアであることの証としてどのようなしるしを我々に示すつもりなのか」

と問われたイエス様は

「「ヨナのしるし」以外のしるしは与えない」とお答えになりました。

(「マタイによる福音書」12章38〜42節、16章1〜4節、

「ルカによる福音書」11章29〜32節)

 

「そのとき、律法学者、パリサイ人のうちのある人々がイエスにむかって言った、

「先生、わたしたちはあなたから、しるしを見せていただきとうございます」。

すると、彼らに答えて言われた、

「邪悪で不義な時代は、しるしを求める。

しかし、預言者ヨナのしるしのほかには、なんのしるしも与えられないであろう。

すなわち、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、

人の子も三日三晩、地の中にいるであろう。

ニネベの人々が、今の時代の人々と共にさばきの場に立って、

彼らを罪に定めるであろう。

なぜなら、ニネベの人々はヨナの宣教によって悔い改めたからである。

しかし見よ、ヨナにまさる者がここにいる。

南の女王が、今の時代の人々と共にさばきの場に立って、彼らを罪に定めるであろう。

なぜなら、彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果から、

はるばるきたからである。

しかし見よ、ソロモンにまさる者がここにいる。」

(「マタイによる福音書」12章38〜42節、口語訳)

 

「「ヨナのしるし」という言葉でイエス様が意味していたのは

悔い改めを要求する説教である」と考える研究者たちもいますが、的外れです。

はたして悔い改めを求める説教は「しるし」と呼べるものでしょうか。

上に引用した「マタイによる福音書」12章40節で

イエス様御自身が言われているように、

この「しるし」とは、ヨナが海の大魚の腹の中に三日間過ごした出来事が、

イエス様が聖金曜日からイースター主日までの三日にまたがる期間に

墓の中に埋葬されることをあらかじめ示したものだったのです。

 

 

 

「ヨナ書」の構成

 

聖書の各書はいろいろなやり方で区分することができるので、

ある特定の区分法だけが唯一正しいものとは言えません。

 

次にあげる区分は「ヨナ書」のメッセージを浮き彫りにするものであると思います。

 

1)海でのヨナ 1章1節〜2章10節

A. 預言者の召命を受けるヨナ 1章1〜3節

B. ヨナと船乗り 1章4〜16節

C. 救いを感謝するヨナ 2章1〜10節

 

2)ニネヴェでのヨナ 3章1節〜4章11節

A. 再び召命を受けるヨナ 3章1〜3節

B. ヨナとニネヴェの人々 3章4〜10節

C. ニネヴェの人々の救いを怒るヨナ 4章1〜11節

2021年2月10日水曜日

「ヨナ書」ガイドブック  ヨナとは何者か?

これからは旧約聖書の「ヨナ書」についてのガイドブックを更新していきます。


「ヨナ書」ガイドブック 

 

フィンランド語版著者 パシ・フヤネン (フィンランド・ルーテル福音協会牧師)


日本語版翻訳・編集者 高木賢 (フィンランド・ルーテル福音協会、神学修士)

 

内容には一部変更が加えられています。

聖書の引用は口語訳によっていますが、

必要に応じて直接ヘブライ語原文からも訳出しています。

なお、章節の番号についてはBiblia Hebraica Stuttgartensiaに準拠しているため、

口語訳聖書とは一部ずれています。

 

 

 

だめな予言者ヨナ、よい預言者ヨナ

 

 

「ヨナ書」について

 

「ヨナ書」1章 神様から逃げることはできない

 

「ヨナ書」2章 ヨナのしるし

 

「ヨナ書」3章 ニネヴェを憐んでくださる神様

 

「ヨナ書」4章 ヨナを諭される神様

 

 

 

「ヨナ書」について

 

 

ヨナとは何者か?

 

旧約聖書に含まれる多数の預言書の中でも「ヨナ書」は例外的であると言えます。

他の預言書では預言者自身の話や説教がその大部分を占めているのに対して、

「ヨナ書」ではヨナの体験した冒険談がその主要な部分を構成しています。

 

「ヨナ書」に描写されていることがら、

たとえばヨナが海の大きな魚の腹の中に入ったことや

ニネヴェの異邦人たちが悔い改めて主なる神様を信じるようになった事件などは

実に不思議な出来事です。

このために、多くの聖書研究者は「ヨナ書」の内容を歴史的な出来事とはみなさず、

架空の教訓談や譬え話としてとらえています。

 

「ヨナ書」には、この書に描かれている出来事がいつごろ起きたのかを

確定するために必要な情報がほとんどありません。

ニネヴェは紀元前612年に滅亡したので、

ヨナがニネヴェで伝道したのはそれ以前の出来事だったことになります。

また「列王記下」14章25節には

「アミッタイの子ヨナ」についての言及があります。

彼はイスラエルの王ヤロベアム二世の時代(紀元前793年〜753年)に

活動した預言者です。

彼はガリラヤ地方のナザレにほど近いガト・ヘフェルの出身でした。

ヨナはサルパトのやもめの息子であったとみなすユダヤ人の伝承もあります。

預言者エリヤが死から生き返らせたあの子どものことです

(「列王記上」17章17〜24節)。

 

 

これからひとつの問題を考えてみたいと思います。

はたして「ヨナ書」は

紀元前750年頃にイスラエルの預言者ヨナに起きた実際の出来事を

記録したものなのでしょうか。

それとも、

アミッタイの子ヨナを主人公に据えた架空の物語あるいは譬え話なのでしょうか。


 

「ヨナ書」を譬え話とみなす主張について

 

旧約聖書の研究者のうちの大多数は

「ヨナ書」を歴史的に信用できる文書ではないと断じています。

「ヨナ書」のことを「教訓物語」とみなす人もいれば

「諧謔的な掌編」ととらえる人もいます。

また「アレゴリー」(寓話)に分類する人もいれば、

たんなる「譬え話」と考える人もいます。

 

「ヨナ書」は歴史的事実に基づくものではないと主張する根拠として、

たとえば次のような点が挙げられています。


1)ヨナはクジラの腹の中にいたはずがない。

クジラの喉は小さすぎて人間を呑み込むことができないからである。


2)ヨナの時代にイスラエルの民は

神様の意思を異邦人に宣べ伝えることを認めていなかった。


3)「ヨナ書」のヘブライ語にはアラム語の影響がみられる箇所がある。

すなわち、この書はバビロン捕囚以後に書かれたものだということになる。


4)「英雄が魚の腹から救い出される」という物語はギリシア神話にもある。

したがって、この書はギリシア神話から転用された創作であり、

ヘレニズム時代(とりわけ紀元前300〜200年ごろ)に書かれたものである。


5)「ヨナ書」はいわゆる歴史書ではない。

この書を記した者もその内容を文字通りに受け取ることを期待してはいなかった。

この書は教訓物語であり喩え話なのである。

 

こういった主張を支持する研究者たちは

「ヨナ書」をバビロン捕囚以後の紀元前400年〜200年頃に書かれたものである

と推定しています。

 

その一方で、上述の主張に対する批判ももちろんあります。

 

1に対する批判)

       聖書は「クジラ」がヨナを呑み込んだとは言ってはいない。

「大きな魚」とか「海の怪物」といった表現をしている。

イエス様もヨナについて

「すなわち、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、

人の子も三日三晩、地の中にいるであろう。」

(「マタイによる福音書」12章40節、口語訳)と言っておられる。

ともあれ、

聖書自身もヨナが救い出されたことを普通の出来事ではなく奇跡とみなしている。

 

2に対する批判)

「ヨナ書」で神様が異邦人たちに憐れみを豊かに示されたことを、

イスラエルの一員としてヨナもまた認めようとしなかった。

 

3に対する批判)

       たとえ「ヨナ書」が紀元前400年〜200年頃に書かれたものだとしても、

    この書に描かれている出来事が実際に起きて

    後代まで語り継がれていった可能性は否定できない。

    「ヨナ書」の言語的な特徴(アラム語の影響)は

    北イスラエルの方言の影響であるとも推定されうる。

    たとえば「士師記」12章6節の「シッポレト」と「シッボレト」という

    方言の違いに関する記述をここで思い起こそう。

 

4に対する批判)

       類似の「物語」が他の書物にも登場するからといって、

    イスラエルの民がそれを他から借用したという根拠にはならない。

    それとは逆に他の書物のほうが「ヨナ書」の内容を借用した

    という可能性だって同じようにありうる。

 

5に対する批判)

    「ヨナ書」は譬え話ではありえない。

    譬え話としてはあまりにも複雑すぎ、多様な解釈が可能でありすぎる。

    普通の譬え話ではある特定のメッセージが強調されるものである。

    「ヨナ書」が譬え話であるとするならば、

    どうしてその主人公としてわざわざ「アミッタイの子ヨナ」

    という昔の預言者が選ばれなければならなかったのか。

    譬え話のメッセージを一般的に誰にでも容易に当てはまるようにするために

    「不特定の人物」が主人公として選ばれるはずである。

 

「ヨナ書」を歴史的な事実の記述として認めるのを一番強く妨げる根拠になりうるのは、

この書に記されている数々の奇跡でしょう。

これらの点については後にそれらの該当箇所で詳しく取り上げることにしましょう。