2013年1月30日水曜日

「ヨハネによる福音書」ガイドブック 5章30~45節 イエス様のお話が本当であることの証明



イエス様のお話が本当であることの証明 53045

イエス様のお話は、ユダヤ人の耳目を驚かすものでした。
イエス様は真実を語っておられる、
聴き手はどうして知ることができるのでしょう。
それについては、次に述べるように、証人も証拠もたくさんありました。
  
1)洗礼者ヨハネが、イエス様について証しました。
これについては、すでに1章と3章でみたとおりです。
 
2)イエス様の「しるし」のみわざが、
イエス様が神様の遣わされた方であることを示しています。
こう断言できる背景には、たとえば「イザヤ書」35章があります。
 
3)神様御自身が、
御言葉(私たちの用語では旧約聖書)の中で
イエス様について証しておられます。
   
これらの証拠や証人は、
イエス様の権威を認めて、それを告白し、イエス様を信じるために、
十分な理由であったはずです。
ところが、ユダヤ人たちはそうは考えませんでした。
そのせいで、彼らは命にあずかることができなくなりました。
上に挙げたすべての証拠や証人は、
非常に興味深いかたちで、旧約聖書の出来事に結びついています。
また、すべての福音書において見られるように、
洗礼者ヨハネは特別な立場にあります。
イエス様の行われた奇跡は、
一人一人の人を癒すことや、
そのみわざを目にした人々に名状しがたい独特なインパクトを与えること
だけには留まらない、深い意味をもっていました。
それらは、
イエス様の御自分について語られたことの正しさを示す
証書だったのです。
とりわけ第三番目の証人が一番大切です。
神様御自身が、イエス様について
実に旧約聖書で証しておられるからです。
このようにして、イエス様と使徒たちは旧約聖書を読みました。
ユダヤ人たちは、
たとえば「モーセ五書」[1]の中から
イエス様を見出すことができませんでした。
そのことを考慮して、初期の教会は、
キリストを聖書全体を読み解く鍵として提示しました。
  
ただし、あることがらに関しては、
イエス様とユダヤ人と初期の教会との見方が一致していました。
それは現在ではしばしば否定されている見方でもあります。
3740節で、御父の証と旧約聖書の御言葉とが同一視されている、
というのがそれです。
聖霊様が使徒や預言者を通して語られたこと、
また、それゆえに全聖書が神様の御言葉であることを、
教会は証します。
これを認めずに疑問に付す者は、教会の外に出てしまっているのです。
 


[1] 旧約聖書の最初の5つの書物。
「創世記」、「出エジプト記」、「レビ記」、「民数記」、「申命記」のこと。

2013年1月28日月曜日

「ヨハネによる福音書」ガイドブック 5章24~29節 御子が御父から受けた任務の核心、裁きの権能



御子が御父から受けた任務の核心、裁きの権能 52429

神様の御子への権能の授与は、たんに形式上のことではありませんでした。
イエス様も、その権能をむやみに振りかざしたりはなさいません。
すべてには明確な目的があります。
すでにイエス様はそれを
「ヨハネによる福音書」316[1]に凝縮してくださいました。
神様がくださった権能の核心は、
人々を裁きと死の下から自由と命へ移すことです。
「ヨハネによる福音書」によれば、この裁きは二通りの仕方で実現します。
それは終わりの時に行われますが、
一方では、
イエス様の御言葉を聴いている今すでに起きていることでもあります。
「ヨハネによる福音書」は、最後の裁きについて多くを語りませんが、
他の福音書同様、そのメッセージは明瞭です。
墓にいる者が皆、大いなる裁き主の声を聞いてよみがえり、
裁きの座へと赴く時がいつかかならず来ます。
そして、
よいことをした者たちは永遠の命の喜びへと、
悪いことをした者たちは永遠の地獄の苦しみへと
裁きを受けることになるのです。

この箇所の背景にあるのは、
「ダニエル書」の壮大な幻(713節、1213節)です。
それによれば、裁き主は「人の子と似た方」です。
これらの御言葉があったため、
イエス様の時代の人々は「人の子」を待ち望んでいました。
ここでイエス様は、
「神の子」なる御自分こそが
預言者を通して予言された「人の子」であり、
万人の裁き主であることを告げておられるのです。

「ヨハネによる福音書」によれば、
裁きは、終わりの時になってようやく始まるものではありません。
御父は裁きの権能を御子にお与えになったので、
厳しい裁きを受けるか、あるいは解放の宣告を受けるか、について、
最後の裁きの時までその結果を待つ必要はありません。
死んでいる人々は、今すでに神様の御子の声を聴いて命を得ます。
私たちとキリストとの関係が、
私たちが永遠の世界でどうなるかが、
すでに今ここで決まります。
キリストが「私たちのもの」なら、
私たちにあるのは死ではなく、まったき命です。
キリストが「私たちのもの」でないなら、
私たちにあるのは命ではなく、まったき死です。



[1] 「神様はその独り子をお与えになったほどに
この世を愛してくださいました。
それは、御子を信じている者がひとりも滅びないで
永遠の命を得るようになるためです。」

2013年1月25日金曜日

「ヨハネによる福音書」ガイドブック 5章19~23節 御父と御子はひとつ



御父と御子はひとつ 51923
  

「ヨハネによる福音書」によく出てくるように、
この箇所でも、イエス様とユダヤ人たちとの間の対話よりも
イエス様の長いお話がその中心をなしています。
  
イエス様のお話の冒頭の言葉は、ユダヤ人たちを激怒させました。
イエス様が御自分を神様と等しい者となさったからです。
イエス様の活動の基本にあったのは、
御自分が神様の御子であり、御父が御子にすべての権能を与えられた、
ということです。
御子は御父のなさることをよく観て、御自分もそれと同じようになさいます。
御子は人間に裁かれるような方ではありません。
逆に、御父は、あらゆる裁きの権能を御子にお与えになったのです。
神様の御心は、
人々が御子に対して御父に対してと同じように敬うことです。
御子を敬う者は、それと同時に御父をも敬っていることになります。
「ヨハネによる福音書」のこの箇所からは、
明確で壮大なキリスト教のメッセージが響き渡っています。
それはあたかも
世界宣教命令[1]が簡潔かつ的確に伝えていることについての
説明であるかのようです。


[1] 「私には、天においても地上においても、
すべての権能が与えられています」(「マタイによる福音書」2818節)


2013年1月23日水曜日

「ヨハネによる福音書」ガイドブック 5章1~18節 



「ヨハネによる福音書」5
  
御父と御子はひとつ
  
  
5118
  
この箇所の舞台となるベトサイダの池には、
様々な病気や障害で苦しむ人々が群がっていました。
イエス様がこの世で生活しておられた時代には、
このような人々の境遇は、
親戚の世話を受けられない場合には、
徐々に悪化していくほかありませんでした。
  
癒しの奇跡の記事は簡潔です。
「ヨハネによる福音書」は引用していませんが、
足の不自由な人の癒しの奇跡の出来事には
「イザヤ書」356節が密接に関わっています。
いつかかならず救いの時がくる、と神様は約束してくださいました。
その時には、
目の見えない人は目が見えるようになり、
耳の聞こえない人は耳が聞こえるようになり、
足の不自由な人は喜んで飛び走るようになります。
38年間病を患い続けた男が床を担いで歩き回る時、
神様の大いなる約束が実現しつつあったのです。
  
イエス様がこのみわざを行われたとき、
特にファリサイ派の人々は、
彼らが最も神聖視していたことがらが
イエス様によって踏みにじられたと感じたのでした。
癒しの奇跡が行われたのは安息日でした。
律法の当時の解釈によれば、
安息日にはどのような荷物も絶対に担いではならないことになっていました。
イエス様は
癒された男が自分の家に帰るように命じられるどころか、
床を担いで歩き回るように、と命じられたのです。
イエス様のこうした活動は、
ユダヤ人たちの当時の教えに意図的に真っ向から反するものであり、
彼らからの深い怒りを買う結果を招きました。
  
イエス様がそうなさる理由を述べられると、
彼らの怒りはますます募りました。
神様は安息日に何もなさらないのではなく、
日々働きつづけておられるので、
神様御自身の御子もまた、
この世で御父様とまったく同じようになさるのです。
安息日の仕事を禁じる規則は、
神様御自身にもイエス様にもあてはまりません。
「ヨハネによる福音書」では、
この教えを聞いた後で、
はじめてユダヤ人たちがイエス様を殺したいと思うようになります。
  

2013年1月21日月曜日

「ヨハネによる福音書」ガイドブック 第4回目の質問(4章)


 
「ヨハネによる福音書」4
  
 
4回目の質問
  
 
1)「サマリア人」とはどのような人々ですか。
イエス様がサマリアの女と対話された、
というのはどういう意味をもっていますか。
  
2)サマリアの女がひとりで真昼間に井戸に来ていたのは、なぜでしょうか。
  
3)イエス様は「活きた水」について話されます。
この話を女はどう理解しますか(411節)。
この話はどのように理解するべきなのでしょうか。
女はイエス様の話をどの程度理解しているように見えますか。
  
4)イエス様が女の男性関係について話を向けると、
女は急いで話題を変えます(420節)。
対話は女の実生活をどのようなものとして明らかにしていますか。
また、イエス様はそれについてどのような態度を取られますか。
私たちはそこから何かを学ぶことができますか。
  
5)イエス様は、御自分がキリストであることを告げられます。
しかし、ちょうどその時に弟子たちがイエス様のところに戻ってきて、
女はその場を離れます。
女が町のほかの住人たちにイエス様について語るようにさせたものは、
いったい何だったのでしょう。
なぜ女の話を聞いた人々は、イエス様に会いに出かけたのでしょうか。
  
6)この対話で実りと収穫について話されるとき、
イエス様は何を意味しておられるのでしょうか。
  
7)サマリアの女は、
イエス様の話の内容をまちがって理解してばかりいます。
イエス様のところへ戻ってきた弟子たちも、また誤解します。
このことによって福音は、何を私たちに教えようとしているのでしょうか。
神様の御国について自分が期待したほど理解できていないことを
認めて正直に告白するのは、
あなたがたにとって簡単なことですか、
それとも、とても難しいことでしょうか。
   
8)44654節では、イエス様が役人の息子を癒す奇跡について語られます。
男が信じたことについては、450節および53節で述べられています。
なぜ二度繰り返されているのでしょうか。
「しるし」(不思議なわざ)が人の信仰に与える影響について、
この話は全体としてどのようなことを語っているのでしょう。
 

2013年1月18日金曜日

「ヨハネによる福音書」ガイドブック 4章43~54節 役人の信仰 


 
役人の信仰 44354
  
 
ガリラヤに戻られたイエス様は、皆の注目の的でした。
ガリラヤで受け入れられなかった時期
(「マルコによる福音書」616節を参照してください)は、
もはや過ぎ去りました。
「ヨハネによる福音書」によれば、
ガリラヤで人知れず始められたイエス様の活動は、
エルサレム訪問の後で一躍脚光を浴びたわけです。
「ヨハネによる福音書」44654節の
カペルナウム在住の役人についての話が、
「マタイによる福音書」8513節および
「ルカによる福音書」7110節に記述されている出来事と
何らかの関連があるかどうか、少し考えて見ましょう。
「マタイ」や「ルカ」では、
この役人は異邦人(ユダヤ人ではない人)ですが、
「ヨハネ」ではそれについて何も語られていません。
この出来事の核心は、
役人がどのようにして信じるようになったか、
ということです。
必死で助けを求めるこの男へのイエス様の答えは、
冷淡ともとれるものでした。
奇跡やしるしなどにはよらず、ただ御言葉に基づいて、
人はイエス様を信じなければならない、というのです。
イエス様が言われたある言葉に、男はしがみつきます。
「信仰」とは、ここでは
「息子は元気になる」という信頼を意味しています。
カナからカペルナウムへの帰途、役人はうれしい知らせを耳にしました。
イエス様が貴い御言葉を言われたちょうどその時刻に男の子は癒された、
というのです。
これを聞いて、その子の父親である役人も、彼と一緒にいた他の者も、
「信じた」のでした。
今や「信仰」という言葉は、前とはまったく別の意味をもつに至りました。
「ヨハネによる福音書」はこれ以上詳説してはいませんが、
役人の信仰が、今やイエス様のペルソナ[1]に向けられていることを、
私たちは知ります。
イエス様のペルソナと使命とに関わることがらを、
私たちはここで復習することができます。
イエス様は天の父の御子であり、
暗闇から光へ、虚偽から真理へ、死から命へと導いてくださるのです。
 


[1] 三位一体の神性にかかわる極めて重要な神学用語。
ここでは簡単に、「本質」と置き換えてよいでしょう。(訳者註)

2013年1月16日水曜日

「ヨハネによる福音書」ガイドブック 4章1~42節 イエス様とサマリアの女の対話(その3)


 
イエス様とサマリアの女の対話 4142節(その3)

 
 
この対話は、
イエス様が女に御自分がメシア(キリスト)であることを
明かされるところで終わります。
その瞬間から、女には
この光のメッセージをまわりの人々に伝える使命が与えられました。
女が町に出かけて他のサマリア人たちと戻ってくるまでの間に、
もうひとつの話し合いがもたれました。
そのテーマは派遣についてでした。
イエス様は、食べ物がいらないとおっしゃいます。
弟子たちは、またしてもその意味を誤解します。
イエス様の食べ物は、神様の御心を行うことなのです。
御父は御子をこの世に遣わされました。
御子は、派遣された方の望まれることしか行いません。
御父が御子をこの世に遣わされたのとまったく同様に、
御子は弟子たちを派遣されます。
伝道の仕事はいくらでもあり、待っている必要はありません。
当時の人々にとって、
種蒔きと収穫の間の期間を過ごすのは、非常に忍耐の要ることでした。
貧しい農民たちは、毎年のように食べ物の不足におびやかされていました。
しかし、伝道に関しては状況が異なります。
弟子たちは待つ必要がありません。
イエス様がすでに種を蒔いてくださったので、
弟子たちの仕事はその実を収穫することでした。
この御言葉は、
サマリアの女との対話の実の収穫だけではなく、
後の時代にもあてはまるものです。
イエス様の死と復活が宣教される場合には、
そのメッセージのもたらす結果(伝道の実)を、
気をもみながら最後の裁きの時まで待ちつづける必要はありません。
御言葉が心に触れた人は、御子を知るようになり、
瞬く間に死から命へと移ります。
まさにこのことが、
罪人として蔑まれていたサマリアの人々の上に起こったのです。