2007年12月31日月曜日

人には、自分で自分の命を消すことが許されているのでしょうか?

今私たちは「命の貴さ」をクリスチャンとして学びなおす必要があると思います。
今年一年もすべての命の源である神様と共に歩みましょう。



人には、自分で自分の命を消すことが許されているのでしょうか?

エルッキ・コスケンニエミ


自殺は、世界のさまざまな文化の中で、時代によって、いろいろなやり方で取り扱われてきました。自殺が「勇気に満ちた素晴らしい行い」とみなされたケースも多くあります。とりわけ紀元1世紀のローマでは、自らの手で命を絶つことは、「人間が自分の命について、自ら勇気ある選択を行い、それを変わりやすい運命の手に放棄したりはしなかった」ことを示すものとみなされました。

旧約聖書は自殺について4つのケースを挙げています。
1)士師記9章54節(アビメレク)
2)サムエル記上31章4~5節(サウル)
3)サムエル記下17章23節(アヒトペル)
4)列王記上16章18節(ジムリ)
多くの場合、人々の行動について評価を下さずに語るのは、旧約聖書に典型的な特徴です。にもかかわらず、読者は、たとえばサウルやアヒトペルのケースに関しては、彼らの自殺が「間違った道の間違った結末」であったことを理解します。新約聖書にあらわれる自殺の唯一のケースは、イスカリオテのユダの最期です。ペテロとユダという、罪に落ち込んだふたりの人間の後悔を比べてみるとそこに決定的な違いがあることに、クリスチャンたちは昔から注目してきました。すなわち、ペテロは悔いてキリストのみもとへと戻ったのに対し、ユダは後悔したあと絶望して自殺への道を選んだのです。

血に塗れた過酷な迫害は、初期の教会史に深い刻印を押しました。その時期には、あがない主イエス様を否定するぐらいなら自らすすんで死を選んだクリスチャンたちがいました。ある意味で彼らは迫害における英雄たちでした。
「殉教を慕う心は自殺を求める心に近いのではないか」とみなす研究者たちもいます。しかし実際は、クリスチャンに対して「自分からすすんで拷問を受けて、死になさい」などという教会の教えや助言はありませんでした。教会は何世紀にもわたって愛をもって殉教者たちを覚えてきましたが、一方では自殺を否定してきたのです。

神様の命令であるモーセの十戒の中の第五戒は、「あなたは殺してはならない」です。この主の命令に基づいて教会教父ラクタンティウスは、「人間は非常に聖なる存在であり、神様は人の命をそれを殺した者の手から要求なさる」と言っています。神様御自身が人間の中に命の炎を吹き入れてくださったのです。偉大な創造主の「時」がくると、主御自身がその命の炎を吹き消されるのです。このように行う権威は人間には与えられてはいません。他の人に対してもまた自分自身に対しても。私たちは命を神様の御手からいただきます。たとえそれが痛みと苦しみに満ちた困難な人生であったとしてもです。
私たちは「命を守る」ために働くべきです。それゆえ、隣り人の生きる意欲を聞いて助けて守るのがクリスチャンの義務です。この点について私たちはもっと他の人たちに対しキリストが与えてくださる愛をもつべきだし、もっと彼らを助ける意欲が今まで以上に必要なところです。

自殺してしまった人たちを裁くのは私たちの仕事ではありません。私たちは彼らを神様の御手にゆだね、彼らがすべての罪から憐れまれるように祈ります。
「偶然に生れた人はただの一人もいない。今存在しているのは偶然ではない。神様に忘れられている人もいない。人ひとりひとりの命は神様にとって貴くかけがいのないものだ」という真実を、今生きている私たちは決して忘れてはなりません。

2007年12月19日水曜日

もしも目の前に荒野があらわれたなら

信仰生活に疲れて、いろんな理由から教会に通う力もない、と感じることは誰でもあるでしょう。
そのような時にどうすればよいのか、少し考えてみたいと思います。


「もしも目の前に荒野があらわれたなら」

エルッキ・コスケンニエミ


イエス様を信じるようになるとき、多くの人はたくさんのことを経験します。ところが、時とともにそれら経験したものがすべて消えてしまうということがあります。そのようなときに何をすればよいのでしょうか。信仰は一瞬だけの泡のようなものにすぎないのでしょうか。真理とは何の関係もない、人の心の中の生々しいあらしにすぎないのでしょうか。

いつの時代もほとんどのクリスチャンが、こうした問題にぶつかってきました。この問題に対してよい薬を見つけた人もいれば、やましい良心をもちつづけている人もいます。「自分で信じる」という能力が消えると同時に、信仰を失ってしまう人が何人もいます。

自分自身の状態を正直に見つめて、「私は信仰者にはなれない。私は自分の信仰を失ったのだもの。」などという人も多いです。この人の言っている初めの半分は正しいです。しかし、終わりの半分についてはべつにそうなると決まっているわけではありません。それどころか、まさに今こそ本当の神様の恵みを見つけることが可能になるのです。

人が自分の中に「信じるための起爆剤」をもっている間は、その人の信仰はある種の「外面」をもっています。しかし、そうした起爆剤が底を尽きると、「自分の力」なるものは取り去られてしまいます。自分の力が完全に消えうせてしまったときになってはじめて、人は、神様の愛を受けるにはまったくふさわしくないはずである自分のような者を愛してくださっている神様へ、自分の心をあずけることができるようになります。聖書の神様に対して、心が開かれるのです。御自分を罪深い世の命として差し出してくださった神様に、自分を明け渡します。神様の恵みとはどういう意味か、わずかながらも次第にわかってくる時になったのです。

ルター派の信仰の最も貴い宝石のひとつに、日々復唱すべき信仰告白の第3条(聖霊について)の次のような説明があります。
「第3条 聖化について
聖霊様を、私は信じます。また、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだの復活、永遠の命を信じます。アーメン。

この意味は何でしょうか。答え。

「私は自分の理性や能力によっては、私の主イエス・キリストを信じることも、そのみもとに来ることもできない」ことを、私は信じます。けれども、聖霊様は、福音を通して私を召し、その賜物をもって私を照らし、真の信仰のうちに聖め、保ってくださいました。(以下略)」

これはへりくだった信仰告白であり、また祈りでもあります。私がキリストを選んだのではなく、キリストが私を選んでくださいました。もしも神様が今私から御霊を取り去るなら、私は一日たりとも信仰に留まることはできません。

人は、自分の力で行うことができ、知ることができる間は、聖礼典(洗礼と聖餐のサクラメント)とは何のかかわりもなく生きています。ところが、自分の力がすべて消えうせてしまうと、神様の力が大切になってきます。神様は洗礼において、私たちの上にキリストを着せてくださったのです。それはちょうど暖かくて清潔なコートを着せてくださるのと同じです(ガラテアの信徒への手紙3章27節)。[1]
聖餐式に参加するときに、あなたは自分の唇でキリストに、そのからだと血に触れることになります(コリントの信徒への第1の手紙11章)。
そのときに神様は私たちから遠く離れておられるのではありません。すぐ近くにおられて、私たちを憐れみ、罪を赦し、世話してくださっているのです。また、私たちにクリスチャンとして生きる新しい力を与えてくださっているのです。

イエス様を信じるようになることは、多くの人にとって素晴らしい経験です。とりわけ、「自分は信仰者などには到底なれない」とはっきりわかったときにはじめて、キリストの恵みが見出されるのです。そのときに、自分の積み上げてきた仕事は溶け去ってしまいます。しかし一方では、神様のみわざ、聖書、洗礼、聖餐とざんげ[2]とは、揺らぐことのない「岩」であることがあきらかになります。
こういうわけで、「荒野」はべつに悪いことばかりではありません。荒野は私たちに、自分の力をわきに斥けて、神様の力を見つめるように教えてくれます。ルターは、「神様は天国まで届くほどの、燃え上がる愛のオーブンである」と言っていますが、それはこのことを意味しているのだと思います。

「しかしシオンは、「主は私を捨て、主は私を忘れられた」と言いました。「女がその乳のみ子を忘れて、その腹の子を、あわれまないようなことがあるでしょうか。たとえ彼らが忘れるようなことがあっても、私は、あなたを忘れることはありません。ごらんなさい、私は、手のひらにあなたを彫り刻みました。あなたの石がきは常に私の前にあります。」(イザヤ書49章14~16節) 

[1] 「キリストの中へとバプテスマを受けたあなたがたは、皆キリストを着たのです。」
この「着た」というのはギリシア語では中動態です。すなわち、人間が自分の力で積極的(能動的)にキリストを着たのではありません。といって、人間は一方的に(受動的に)キリストを着せられているわけでもありません(訳者註)。
[2] 「ざんげ」とは、神様に自分の罪を告白し、神様から罪の赦しの宣言をいただくことです。牧師が、ざんげする者の罪の告白を聞き、それから神様の御前で神様にかわり罪の赦しを宣言します。ざんげをした者は、その赦しの宣言が、神様御自身からのものであることを、疑わずにかたく信じなければなりません。

2007年12月15日土曜日

イエス様は、賜物であり模範です。

今回のテーマは、私たちにとってイエス様はどのようなお方であるか、ということです。当たり前のようでいて、バランスよくとらえるのが意外に難しいことがらだと思います。


イエス様は、賜物であり模範です。

エルッキ・コスケンニエミ

イエス様について語る人は多くいます。しかし、彼らはとくに「信仰者」になりたいと思っているわけではありません。彼らはあるいは信仰の道を捜し求めている人たちなのかも知れません。彼らは、イエス様の教えが知恵に満ち正しいことや、皆がイエス様の生き方や教えのとおりに教え生きるのが望ましいことを、よく知っています。しかし、彼らは、イエス様が私たちにとって、「賜物と模範」という二つの意味をもった存在であることを理解していません。そして、このことにまだ気が付いていない人は迷子になっています。

「イエス様が私たちにとって賜物である」というとき、次のことを意味しています。イエス様は私の罪を取り去って、私を神様の子供にしてくださいました。私はそのようなことをしていただくには値しない者なのに、イエス様がゴルゴタの十字架で私の悪い思いや言葉や行いを取り去ってくださったおかげで、私は罪のないきれいな存在でいられるのです。さらにイエス様は、私の人生の日々の生活の中で私の傍らを共に歩んでくださいます。イエス様は私の世話をすることや、つまずいた私を立ち直らせることや、私に罪の赦しを与えることに疲れてしまうようなことはありません。洗礼盤のほとりで、主の聖餐の台で、ざんげの執行に際し、神様の御言葉をひもとくとき、私はこの賜物をあがめます。私からは何も要求されていません。私は神様からたくさんのものをいただこうとしているのです。

「イエス様が私たちにとって模範である」というとき、次のことを意味しています。私たちのために御自分の命を差し出すために、神様の栄光から汚れに満ちたこの世に来られたとき、イエス様は御自分に従う者たちひとりひとりに模範を示してくださいました。私を救ってくださるときに、イエス様は御自分の命をまったく惜しまれませんでした。それゆえ、私は「自分の使命は自分だけを大切にすることではなくて隣人を愛することにある」、と理解するのです。この愛はたんなる思想ではなく、十字架のイエス様をたえず模範とするものです。十字架でイエス様は罪人のためにすべてを犠牲にし、しかも御自分を虐待する者たちのために祈られたのでした。私は本当にたくさんの罪を赦していただいたので、私には誰かと憎しみ合ったり、誰かを見下したりする権利はないのです。「私たちは愛し合います。なぜなら、イエス様がまずはじめに私たちを愛してくださったからです。」(ヨハネの第1の手紙4章)。

このようにイエス様は賜物でもあり模範でもあります。多くの人はイエス様を模範とみなそうとしています。しかし、イエス様が私たちにとってまずなによりも賜物であることを理解しない限りは、イエス様を模範とみなしても何の益もありません。仏教徒もイエス様の模範を褒め称えています。にもかかわらず彼らは真のイエス様を見出せないままでいるのです。イエス様のペルソナは人間の私たちにとって謎です。聖霊様がイエス様を私たちにとっての賜物であることをはっきり示してくださるときにはじめて、この謎が解けます。そして、そのあとでイエス様御自身が私たちにとって模範にもなるのです。

イエス様は私たちにとってまず第一に賜物であり、そしてその次に模範なのです。もしも人がイエス様をたんなる模範とみなすなら、その人は真のイエス様を理解してはいませんし、クリスチャンでさえありません。私は「クリスチャン」です。「キリストと共に十字架につけられた者」です。なぜなら、キリストが私をクリスチャン、「神様のもの」にしてくださったからです。そして、私の残された全人生は、私の偉大な模範(師匠)に学び従っていくという、心躍るチャレンジにほかなりません。

2007年12月7日金曜日

私たちは聖餐について何を信じていますか?

今回はクリスチャンの特権である聖餐式の意味について考えてみることにしましょう。


私たちは聖餐について何を信じていますか?

ヤリ・ランキネン

「主の聖餐について私たちの諸教会(ルーテル教会)はキリストのからだと血とは聖餐の中に本当に存在しており、聖餐を受ける者たちに対して分け与えられます。私たちの諸教会はこれとは異なって教える者を峻拒します」(アウグスブルク信仰告白第10条)。

「これは私のからだです。(中略)これは私の血です」(マタイによる福音書26章26~28節)。この御言葉によって主イエス様が言われたいのは、「御自分が聖餐式の中に、ほとんど見えないかたちをとりながらも、本当に、他の場所よりはっきりと、存在しておられる」ということです。

ある人から「牧師が聖餐について正しく教えているか、どうしたら知ることができるか」とたずねられたルターは、その人が牧師に対して次のような質問をしてみるように命じました、「あなたが聖餐を分け与えているときに、あなたの手に持っているものは何ですか?」。もしも牧師が聖餐がどれほどすごいことであるかわかったならば、その牧師は「私は手にイエス様を持っています」と答えることでしょう。

イエス様はパンとぶどう酒の中におられます。それゆえ、牧師は祝福された聖餐のパンとぶどう酒を高く持ち上げて、それからそれらに対してひざまずくことがあるのです。あるいは、礼拝出席者たちが「神の小羊(イエス・キリストのことです)」に祈り歌うときに、牧師が聖壇の傍らに退いて、聖壇の中央にある聖餐のパンとぶどう酒の中におられるイエス様のみが、会衆の賛美の対象となるようにすることもあります。

どういったところからイエス様を見つけることができるでしょうか?病人が癒されたり、人が霊に満たされて倒れたり、などと特別なことが起きているところに、イエス様はおられるのでしょうか?それとも、イエス様の存在を体感できる集会とか、まれに見る優れた説教者がいるところに、イエス様はおられるのでしょうか?イエス様はそういったところにもおいでかもしれません。しかし、少なくとも、イエス様は聖餐の中に確実に存在しておられます。なぜなら、イエス様御自身がそのように約束してくださったからです。あなたは聖餐式に行きなさい。そうすればあなたはイエス様と会うことができます。あなたのかかえている事柄を聖餐のテーブルに携えていきなさい。そして、それらの重荷をイエス様にあずけなさい。そうすればイエス様はあなたに、あなたが必要としているものをくださいます。イエス様に会いたい他の人たちも聖餐のテーブルにつらなるようにさそいなさい。

「「神の子」(イエス・キリストのこと)がパンとぶどう酒の中に存在している」というのは、ナイーヴな迷信的な考えに感じられるかもしれません。「天国で父なる神様の右の座におられるイエス様が、聖餐の中におられる」こととか、「イエス様はいろいろな場所で行われている聖餐式に同時に存在されている」ということを、私たちの理性はおそらく理解しないことでしょう。こうした事柄を信じるのが難しいのは、聖餐式で「イエス様にお会いしている」とは感じられないからでもあります。「イエス様がおられるならそれを感じるはずだ」と私たちは考えがちなのです。私たちの理性や感情がどうであっても、神様の御言葉が何を言っているか、見つめて、それを信じるべきです。このようにして私たちは信仰を殺してしまう理性の乱用から守られ、私たちの信仰が自分の感情に左右されてしまうことからも守られます。信仰は神様の御言葉に基づくべきものです。すなわち、「私たちは聖書が言っていることを信じます」ということです。こうすれば、私たちの信仰は堅く保たれます。神様の働きは私たちの感覚や理解には依存していません。

「イエス様が本当に聖餐の中に存在している」ことを信じるのが難しい場合があるのは、聖餐式がとても地味なものだからでもあるでしょう。聖餐を配るのは不完全な人間であり、天から音が響き渡るわけでもないし、聖餐にあずかるのも罪人の群れです。ルター派の教会の信仰の教えは、「十字架の神学」と呼ばれます。神様はこの世では御自分の力を隠しておられます。そして、神様が働かれているのは、そうは見えないところにおいてこそなのです。

私たちが信じるか信じないかにはかかわりなく、イエス様は聖餐の中におられます。私たちの信仰が聖餐をつくりだすわけではありません。聖餐をつくりだす(つまり聖餐を聖餐たらしめる)のは、神様の御言葉です。

いかにしてイエス様がパンとぶどう酒の中におられるか、私たちは無理やり説明しようとしたりはしません。なぜなら、聖書はそれについて何も語ってはいないからです。私たちの好奇心がそれについてもっと知りたいと思っていても、聖書が言っていることだけを言うことで満足すべきです。

パウロは、聖餐はイエス様とのつながりである、と書いています(コリントの信徒への第1の手紙10章16節)。私たちと、私たちの罪を帳消しにしてくださるお方との間につながりが生まれるとき、私たちは「自分たちの罪がすでに帳消しにされている」という恵みを実際に我が身に受け取ることができるようになります。すなわち、私たちはそのとき罪の赦しをいただくのです。ルターは「聖餐にはどのような益があるか」という問題にこう答えています、「この聖礼典(「サクラメント」、ここでは聖餐をさしています)において私たちに罪の赦しが与えられています」。

聖餐式は罪の赦しの恵みをつくりだしませんが、そのかわり、すでに用意されているその恵みを分け与えます。聖餐式はイエス様をくりかえし犠牲としてささげる場ではなく、イエス様が一度限りの十字架の犠牲によって確保してくださった恵みを提供する場なのです。

とりわけこのことを理解するのは容易ではありません。聖餐式で人は聖壇のもとに来てひざまずき、祝福された聖餐のパンとぶどう酒を受け、罪の赦しをいただきます。「神様の恵みがこんなに容易に得られるはずがない」と、私たち人間は考えがちなのです。人間には罪が隅々まで染み付いているので、人間が考えることは、信仰にかかわる事柄については正しく教えない「欺きの声」なのです。イエス様のみもとに自分の罪をもってきて、罪の赦しを乞う人は、すべて赦されます。「まさにこのように恵みは簡単なことなのだ」と聖書は言っているのです。

聖餐式の最も難しいところは、その簡単さにあると言えるでしょう。私たち人間は、「あらゆることは、それを得るために自分で働いたその報酬として受け取るべきだ」という考え方に慣れています。私たちは、こうした考え方を神様の恵みに対してもあてはめがちなのです。「自分の生活から一番悪い罪だけを取り除くことができたら」、「少なくとも数日間はいつもよりよい人として生活することができれば」、「十分に深く罪を悔いることができたなら」、「悪い行いの償いをしたら」、「長く熱心に祈るなら」、「そうすれば私は神様のみもとに行くことができるし、神様は私のことを憐れんで下さる」などというように、人は考える傾向があります。しかし、神様の恵みは商売の取引の品とは違います。それは「ただ」(つまり「無代価」)なのです。神様の恵みを「買う」必要はまったくありません。それを受け取るのにまったくふさわしくないような人も、それをいただくことができます。もしも私たちが神様の「ただの恵み」について何か理解したのなら、それによって私たちは自分の信仰に堅固な基盤を得るのです。「信じている」という感情が消えてしまったり、「私はどうしようもない」とか「自分の信仰は非常に弱い」と感じるときでも、神様の恵みは変わらずに有効です。私たちは自分を恵みに完全にゆだねてよいのです。恵みにゆだねて弱い罪人である私たちは居心地よく生活していけます。恵みにゆだねて私たちは前にすすむ力が与えられ、天国に入って行きます。

これは「神様の恵みが聖餐の食卓にのみある」という意味ではありません。恵みはまた、宣教された福音や罪の赦しの宣言や洗礼の中にもあります。神様の恵みは豊かです。この同じ恵みが、神様が選ばれた多くの手段を通して、私たちのところにやって来ます。私たちはこれらのすべての手段を必要としています。なぜなら、「神様の恵みが十分であるかどうか、疑う」という不信仰が私たちの中にしつこく残っているからです。

聖餐式は罪の赦しをいただく場所です。それゆえ、聖餐式へと心を整える正しい方法は、自分の罪に気が付いて、悔い、それを告白し、罪の赦しを乞うことです。悔いることには、「私たちが罪から解放されるための力を真剣に神様に願い求める」ことが含まれています。

「あなたがたは、このパンを食べ、この杯から飲むたびごとに、主の死を宣べ伝えているのです」(コリントの信徒への第1の手紙11章26節)。聖餐式はイエス様の死を宣べ伝えることです。それは、イエス様の十字架について語る説教と同じように働きかけます。すなわち、十字架の意味がはっきりと示され、信仰が強められます。私たちは、どのようにして聖餐式がこのような働きかけをするのか、わかりません。「私たちの理解力に触れることがらだけが私たちの信仰を強める」と、私たちは考えがちなのです。にもかかわらず、聖餐式ではこのようなことが起きています。説明のしようがない方法で、聖餐式は信仰を養ってくれます。主の死を宣べ伝えることは、信仰について証することをも意味しています。日曜日の朝に教会に行き、そこで聖餐にあずかるとき、あなたはあなたの主を証しているのです。

誰が聖餐式に連なることができるのでしょうか?イエス様は聖餐の食卓におられ、みもとに来るように呼んでおられます。2000年前に、イエス様にとって悪すぎる人は誰もいなかったし、イエス様を必要としないほどよすぎる人もいませんでした。これは今でも同じです。

驚くほど多くの人はこう考えています、「自分が聖餐式によりふさわしい存在になってから、聖餐式に行こう」。しかし、ルターはこう書いています、「もしもあなたが本当に自分の義や清さを見つめて、もはや何もあなたを誘惑しない状態に達するために努力するつもりなら、あなたは決して聖餐式に連なることはできないでしょう」。悪魔は人にその人の罪を示します。なぜなら、悪魔は「人がイエス様から離れたままでいる」ことを望んでいるからです。聖餐式というのは、人が目を自分から完全に背けて、イエス様を見つめることにほかなりません。このイエス様から人は、神様の子供が生活し天国に入るために必要なすべてのものを、贈物としていただくのです。

「キリストのからだであることをわきまえないで聖餐を食べまた飲む者は、自分に対して裁きを食べまた飲むことになります」(コリントの信徒への第1の手紙11章29節)。聖餐の食卓からキリストや恵みを求めない者もまた、キリストのからだと血を得ます、ただし、それらを自分の裁くものとして得るのです。それゆえ、聖書が聖餐式について教えていることを軽んじる者は、聖餐式にあずかるべきではありません。それほど聖餐式は聖なるものなのです。
子供が聖餐式をほかの食べ物から区別して、「聖餐式はイエス様とお会いすることだ」と知っているなら、その子供に聖餐を配ることができます。こうした問題について子供からあまり要求しすぎてはいけません。

初期のキリスト教会では、ひどい罪を行っている者に対しては聖餐をあずからせないようにすることがありました(コリントの信徒への第1の手紙5章5節)。このようにすることで、「人が罪を悔い改めようとはしない場合には、どこへ落ち込んで行くか」について、教会は教えてきたのです。罪を悔い改めようとはしない人は、神様の恵みがない場合に当然の報いとして受けるべき場所へと行くほかないのです。ですから、教会は今でも同じように教え実行するべきです。そうすることは、滅びへの道へとさまよいこんだ多くの者にとって必要であり、十分に真剣な警告であり、また、「その人のことを本気で心配している」ことを示すことにもなるでしょう。そうすることはまた、私たちが滅びの存在を本当に信じていることを示すことにもなります。

婦人牧師の配る聖餐式は正しい聖餐式でしょうか?私はこのことをあるビショップ(フィンランド福音ルーテル教会の指導者のひとりだった人)に尋ねたところ、彼はこう答えました、「私はわかりません。神様のはっきりした御言葉に反して牧師になった人間(女性)が施行したり配ったりする聖餐式を、神様が祝福してくださるかどうか、私は知りません。私は確実な道を選びます。だから、私は確実に聖餐をいただける聖餐式に連なるし、他の人たちにもそうするように忠告しています」。