2022年10月7日金曜日

「ヤコブの手紙」ガイドブック 「ヤコブの手紙」5章12節 キリスト信仰者は誓ってもよいのか?

 キリスト信仰者は誓ってもよいのか?

「ヤコブの手紙」5章12節

 

「さて、わたしの兄弟たちよ。何はともあれ、誓いをしてはならない。

天をさしても、地をさしても、あるいは、そのほかのどんな誓いによっても、

いっさい誓ってはならない。

むしろ、「しかり」を「しかり」とし、「否」を「否」としなさい。

そうしないと、あなたがたは、さばきを受けることになる。」

(「ヤコブの手紙」5章12節、口語訳)

 

多くの人はこの節と「マタイによる福音書」5章33〜37節とに基づいて

「キリスト信仰者はどのような誓いであれ一切誓ってはならない」

と解釈しています。

ヤコブのこの箇所は

パウロの「コリントの信徒への第二の手紙」1章17〜20節とも

かなり似ています。

 

しかしイエス様とヤコブは公の場でなされる宣誓ではなく

個人的に誓うことを禁じているのです。


当時のユダヤ人たちには誓いを頻繁に立てる慣習がありました。

このような宣誓は神様の御名を用いてなされました。

彼らは日常の些細な事についてもいちいち誓いを立て、

その度ごとに神様を「保証人」代わりにしていたとも言えます。

もちろんこれは尊い神様の御名のて適切な使用法ではまったくありません。

 

旧約聖書は特定のケースにおいては

むしろ誓いを立てることを要求しています。

次に一例を挙げます。

 

「双方の間に、隣人の持ち物に手をかけなかったという誓いが、

主の前になされなければならない。

そうすれば、持ち主はこれを受け入れ、隣人は償うに及ばない。」

(「出エジプト記」22章11節、口語訳)

 

預言者エレミヤは偽りの誓いについて述べています。

ということは正しい誓いもあることになります。

 

「彼らは、「主は生きておられる」と言うけれども、

実は、偽って誓うのだ。」

(「エレミヤ書」5章2節、口語訳)

 

「あなたがたは盗み、殺し、姦淫し、偽って誓い、バアルに香をたき、

あなたがたが以前には知らなかった他の神々に従いながら、

わたしの名をもって、となえられるこの家に来てわたしの前に立ち、

『われわれは救われた』と言い、

しかもすべてこれら憎むべきことを行うのは、どうしたことか。」

(「エレミヤ書」7章9〜10節、口語訳)

 

次の例からもわかるように、

パウロの手紙には内容的に誓いであるような箇所も含まれています。

 

「ここに書いていることは、神のみまえで言うが、決して偽りではない。」

(「ガラテアの信徒への手紙」1章20節、口語訳)

 

「わたしは自分の魂をかけ、神を証人に呼び求めて言うが、

わたしがコリントに行かないでいるのは、

あなたがたに対して寛大でありたいためである。」

(「コリントの信徒への第二の手紙」1章23節、口語訳)

 

ここまでみてきたことから

私たちは「公になされる宣誓は正しい」と結論できるでしょう。


それとは異なり、

神様の御名以外によって誓う種々のやり方や、

自分の誓いに信憑性をもたせるために御名を軽率に引き合いに出すことは、

御名をぞんざいに扱うことにほかなりません。