2016年8月29日月曜日

「ローマの信徒への手紙」ガイドブック 14章13〜23節 互いに配慮し合うようになること(その3)


互いに配慮し合うようになること 141323節(その3)


他のキリスト信仰者のことをしっかり配慮するように、
とパウロは力を込めて勧告しています。
他のキリスト信仰者のためになるなら
自分のもっている自由をあえて行使しない、
という態度も場合によっては必要になります。
こうして、自由なキリスト信仰者は、
自らの自由を捨てて、皆に仕える者となります。

「このようにしてキリストに仕える者は神様に喜ばれ、
人々の評価も得られます」(1418節)
というパウロの言うことは確かに正しいのです。
このようなキリスト信仰者は
他のキリスト信仰者たちと仲良く教会生活を送り、
周囲に平和を広め、
互いの成長を支え合います。

要するに、
どのようなことに関しても
自分の頭で考えたことに頼って生きるのはよくないことなのです。
むしろ、
私は自分のもっている自由をあえて行使しないほうが望ましいのです。
なぜなら、
すべてのキリスト信仰者に対して益となることだけを、
私は望んでいるからです。

14節でパウロは、
私は主イエスにあって知っており、また確信しています。
それ自体、汚れているものは一つもありません。
ただ、それが汚れていると考える人にとってだけ汚れているのです
と言います。
これはイエス様の教え(「マルコによる福音書」715節)と一致するものです。
ですから、パウロがイエス様の教えを知っていたのは確かだと思われます。

2016年8月24日水曜日

「ローマの信徒への手紙」ガイドブック 14章13〜23節 互いに配慮し合うようになること(その2)

互いに配慮し合うようになること 141323(その2)

他の人々ならあえて行わないようなことも良心が咎めずに行える人、
すなわち信仰において「強い」者たちに対しても、
パウロは警告を発しています。

人が自由な心で生活し、
神様からいただいた賜物について感謝を捧げるのは、
何も悪いことではありません。

しかし、ある人が意のままに振る舞うと、
その人と同じようには良心が自由ではない
他の人たちの信仰の躓きになってしまう、
という危険があるのです。

このような人たちは、他の人の自由な振る舞いによって、
深く苦しむことになるかもしれません。
最悪の場合には、
彼らは他の人の振る舞いの根拠を知らないまま、自己の良心に反してまで
その人のやり方に盲従することになってしまうかもしれません。
その結果、
他のキリスト教徒の人生を楽しむやり方をあまり考えずに真似した人が、
ふと気がついてみると、
神様に反抗的な生き方をするようになってしまっている場合もあるでしょう。

あるキリスト教徒が取るに足りない快楽を求める生き方をしたために、
それに影響を受けた他のキリスト教徒の人生の基盤が歪んでしまったのです。 

2016年8月19日金曜日

「ローマの信徒への手紙」ガイドブック 14章13〜23節 互いに配慮し合うようになること(その1)

互いに配慮し合うようになること 141323節(その1)

神様の大いなる裁きの日を待ちながら、
私たちは他の人々を裁くことに熱中するべきではありません。
むしろ、どうすれば互いを信仰的に躓かせないように生きて行けるか、
ということに関心を集中するべきなのです。
まさにこのことに私たちが興味を向けるように、パウロは促しています。

イエス様は、どのような食べ物もすべてそれ自体は清いものである、
と宣言なさいました(「マルコによる福音書」71419節)。
それとまったく同様に、
いかなるものもそれ自体汚れているわけではない、とパウロは言っています。
ここで、いかなるものもそれ自体は悪ではない、
と言われているのではないことに注意する必要があります。
モーセの律法が食べ物に関して設けた規定のように、
いかなるものもそれ自体は「汚れている」わけではない、
とパウロは言っているのです。
彼は、これらの問題に関して裁きを下す高い立場にあるものとして、
人間の良心と相互愛とを挙げています。


パウロによれば、人は各自、自己の良心に従うべきです。
良心が警告を発していることをあえて行うのは間違いです。
良心に反することを行うのは、
無垢この上ないと思われることでさえも罪となります。
人は各自、
自分の感じることを無視してまで他の人の例に倣う真似はやめて、
自己に課せられた信仰の戦いをしっかり戦い抜いていくべきです。
たとえば、他の人たちの飲酒の習慣は、
もしもそれに従った場合に良心の呵責を感じる場合には、
私たちにはまったく模範にはなりません。

良心の声を沈黙させてはいけません。
そのようなことをすると、本当にすっかり沈黙してしまうこともあるからです。

2016年8月8日月曜日

「ローマの信徒への手紙」ガイドブック 14章1〜12節 他の人の信仰の確信を傷つけてはいけない(その3)


他の人の信仰の確信を傷つけてはいけない 14112(その3)


パウロはここで肉を食することと祝祭の日について話しているだけです。
どちらの問題も私たちにとっては辛く困難なものではないでしょう。
しかし、このテーマを適用できる範囲は非常に広いのです。

キリスト信仰者は皆、
何かに関して絶対的な態度を取る者でなければならないものでしょうか。

キリスト信仰者は喫煙してよいでしょうか。

テレビをキリスト信仰者の家に置いてもよいのでしょうか。

正式に結婚している夫婦が避妊することについては
どのような態度を取るべきでしょうか。

キリスト信仰者にふさわしい趣味とは
一般的にいってどのようなものなのでしょうか。

信仰生活を真剣に考えるキリスト信仰者なら、
いずれこうした問題と向かい合わざるを得なくなります。
わずか数分の間で答えを下すことはできません。
人生の全時間を使ったとしても、
ちゃんとした答えを探し求めるためには短すぎるほどです。

これらの問題を考える際の基準については、すでに学んだ通りです。
すなわち、
神様の御言葉に反したことを決して行ってはいけないし、
他の人の良心の問題に関してその人を見下して裁いてはならない、
という姿勢が大切になります。

何らかのことに関して絶対的な態度を取る者は、
そのような態度を捨てるように厳しく要求された場合に、
その結果として今までの自らの立場を捨てることになるかもしれません。

しかし、もしもたとえばその人が今まで酒を一切飲まなかったのに、
たがが外れて飲酒に溺れるようになってしまう場合には、
このことについて一体誰が責任を取ってくれるというのでしょうか。

家にいる若者たちを規則で縛りつけて
家の中に行儀よく座らせておくこともやろうとすればできるでしょう。
しかし、彼らが親の命令に素直に従わなくなる年齢になったら、
いったいどうなるのでしょうか。