2016年3月18日金曜日

「ローマの信徒への手紙」ガイドブック 13章1〜7節 この世を支配する公的権力の意味(その1)

この世を支配する公的権力の意味 1317節(その1)

前回とりあげた12章の終わりで、パウロは
キリスト信仰者が他の人々の間でどのように生活するべきか
について語りました。
彼は愛の意味を強調し、個人的に復讐しないように要請しました。
今パウロは13章のはじめで
隣人愛の具体的な応用例を扱っています。
すなわち、
キリスト信仰者がこの世を支配する公的権力に対してとるべき態度についてです。

この箇所でパウロの伝える御言葉は妥協の余地がない明確なものです。
これらの指示はその後二千年にわたって
時の権力者に対するキリスト信仰者のとるべき基本的な態度定めてきた
とも言えます。

指示の内容は以下の通りです。

世を支配する公的権力は「神様の僕」であり、
神様御自身が定められたものです。
公的権力と良好な関係を保ちたい人は皆、正しく善いことを行いなさい。
悪を行う者は恐れなさい。
なぜなら、神様はこの僕に剣の所持を、
すなわち法律を破る者を処罰する権利を授けておられるからです。
それによって、
善そのものなる神様のお定めになった秩序が
この世でも力強く維持されて行きます。
キリスト信仰者はこの世を支配する公的権力を
「神様の御手」と見なすべきです。
この御手の支配下にある者として忠実に行動しましょう。
しかし、私たちがそうするのは
それが主の御旨だからであって、
そうしなければ犯罪者として扱われるからだけではありません。


2016年3月14日月曜日

「ローマの信徒への手紙」ガイドブック 終わりのメッセージ(12章)

終わりのメッセージ(12章)

恵みの上に恵みを加えて

神様の恵みの豊かに溢れ出る源から、
救いの賜物と宝物のすべては私たちのもとへと流れ込んできました。

まったくの恵みから、
自分の行いではなく主の御業に基づく愛のゆえに、
神様は私たちに救い主として御自分の独り子を賜りました。

まったくの恵みから、
神様は私たちをこの愛する御子において受け入れて、
すでに世の基の置かれる前から
「御自分のもの」として選び出してくださいました。

まったくの恵みによって、
神様は私たちをあがなうために十字架で流されたキリストの血のゆえに
私たちのすべての罪を日々赦してくださいます。

まったくの恵みのゆえに、
神様は私たちを聖別して「新しい人」にふさわしく
御言葉に従順な生活を送れるように聖霊様を私たちに賜ります。

このようにして、
神様の豊かな恵みのゆえにすべてが私たちに与えられ、
贈り物として届けられるのです。

私たちから求められているのは、
私たちが「恵みを恵みとして認めること」です。
これは、
今まで述べたすべてのことを信仰によって
「神様からの贈り物」として無代価で受け取ることであり、
自分の行いによる功績によっては
決してそれらを取得しようとは試みないことです。

私たちは自らの功績などは一切無視し、
自分にできることや自分の罪からも目を閉ざして、
あふれるほど豊かな恵みをキリストにおいて啓示してくださる
神様の御言葉のみを見つめることを学ばなければなりません。


F. G. Hedberg

2016年3月9日水曜日

「ローマの信徒への手紙」ガイドブック 第10回目の質問


10回目の集まりのために

「ローマの信徒への手紙」12

 義認とそれをめぐる問題を詳細に説明した後で、
パウロは「キリスト信仰者の日常生活」へと話題を移します。
この12章の核心は
キリスト信仰者が互いに一致して共に活動することへの勧めです。

1)パウロによれば、キリスト教会は活動する一つの生命体であり、
一人一人のキリスト信仰者は皆が同じ身体を構成する成員です。
キリスト信仰者にはそれぞれ自分の使命があります。
嫉妬や劣等感がキリスト信仰者の間で
神様の御旨の実現をどれほど妨げていることか、
考えてみてください。

2)教会では
牧師の周りにすべての活動が集中してしまう傾向がしばしば見られます。
牧者の教職は教会に与えられた大きな賜物であり、大切にするべきものです。
しかし、私たち教会員が責任を分担し合って
共に活動する一つの信徒の群れとなることを学ぶためには、
どうすればよいのでしょう。

そのために自分の家庭ではいったい何をすることができますか。

定期的に家庭礼拝の時をもつことはできていますか。

神様への賛美を歌う集会をもつために
自宅を他の人たちにも開放する人はいますか。

洗礼を受けた子どものキリスト信仰者としての霊的な成長を支える
「教保」(ゴッドファーザーやゴッドマザー)としての責任を
あなたは果たしていますか。

3)愛することと神様の戒めを守ることはよく対比されます。
「愛は律法の条項に目を向けたりするはずがない」
という考えかたがその背景にあります。
しかし、
「私たちが自分の愛について責任を取るよりも
はるかにちゃんとしたやりかたで、
神様は御自分の言葉について責任を取ってくださるのではないか」
とも言えるのではないでしょうか。

4)「悪をもって悪に報いることがないように」
とパウロは苦境に立たされているキリスト信仰者たちに警告しています。
これはキリスト教大迫害の際に
「キリスト信仰者の行動原則」として提示された教えでもありました。
悪は善によって勝つべきであり、裁きは神様の御手に委ねるべきなのです。

信仰のために自宅が焼き払われたり
公的権力によって拷問を受けたりすることはない国に住んでいる
現代の私たちの場合にはそれとは別の種類の試練があります。

生活福祉が機能している社会にも
職場には諍いがあるし、隣人関係が冷えきってしまう場合があるのです。
また、家庭内にも様々な問題が生じてきます。


これらのことに身に覚えのある人は皆さんの中にどれだけいるでしょうか。

2016年3月2日水曜日

「ローマの信徒への手紙」ガイドブック 12章のまとめ

まとめ(12章)

この章の教えのまとめとして短いたとえ話をしましょう。
キリスト教徒は大まかに二つのタイプに分けられます。

一つのタイプのキリスト教徒は、
「靴職人」として認められたくて靴を作り続けているような人々です。
彼らは
「私が一人前の靴職人とみなされるためには
大小様々な形の靴をどれだけ大量に作らねばならないのだろうか」
とずっと思い悩んでいます。
このタイプのキリスト教徒の人生は
良心の呵責を覚えながら仕事を続けているようなものです。

もう一つのタイプのキリスト教徒は
「自分は靴職人なのだから靴を作れるのは当たり前だ」
という考えかたをします。

それに対して、
次のように考えるキリスト信仰者は正しい順序で物事を見ていると言えます。
すなわち、
「キリストが私を神様の子どもにしてくださったのだから、
そのような私の受けている使命は
神様の子どもとしてふさわしい生き方をすることである」
ということです。
どのような生き方をしても、
どのような仕事をやり遂げても、
またいくら涙を流したところで、
あなたは自分を「神の御国に属する者」にすることができません。
それを実現してくださったのは、
あなたのためにゴルゴタの十字架で死なれたキリストなのです。