2014年11月28日金曜日

「ローマの信徒への手紙」ガイドブック 6章1〜4節 聖めの基としての洗礼(その6)


聖めの基としての洗礼 614節(その6)

洗礼を埋葬になぞらえるパウロの言葉の背景を探って、
全身を水に浸して洗礼を受ける慣習が
元々あったことを読み取る研究者もいれば、
それとは逆に、
こうした洗礼のやり方は、
パウロの言葉を具体的に視覚化するために
後から実施されるようになったものだ、とする研究者もいます。

Jukka Thurén (ユッカ トゥレン)という
フィンランドの新約聖書学の教授は、
初期の洗礼が全身浸礼であったという慣習は、
当時一般的だった入浴のやり方がその背景にあった、
とする立場を取っています。
当時は、水の中に立っている者の上に、
他の人か自分自身が水を注ぎかけて入浴したからです。

洗礼の際に用いる水の量がその洗礼を質的に規定する決定的な要因である、
とみなされたことは、キリスト教の伝統の中では今まで一度もありません。
それゆえ、
洗礼を実際に授ける際の具体的なやり方について、
争い合うべきではないのです。

一番大事なのは、
洗礼を通して神様がくださる限りない恵みの素晴らしさについて、
はっきりと教えることです。

2014年11月21日金曜日

「ローマの信徒への手紙」ガイドブック 6章1〜4節 聖めの基としての洗礼(その5)


聖めの基としての洗礼 614節(その5)

自分は洗礼を受けている、という自覚が、
私たちを皆、罪との戦いに赴かせます。
私たちは神様の側に属しています。

キリストは私たちの罪を、
ゴルゴタの丘へと携えて行って、
十字架に釘付けにしてくださいました。

そういうわけですから、私たちは、
神様とその御言葉に対して
従順を貫いて生きなければならないのです。


これは、現代に生きる私たちにとって、
猛省すべきことがらです。
私たちがいかにキリスト信仰者としてだらしがないか、
神様はよくご存知です。
礼拝よりも他のことを優先させたり、
キリスト信仰者としてふさわしくない生き方をしたりしています。

せめて、洗礼の伝えるこの福音が、
私たちを再び十字架の木に打ちつけて、 
罪と戦い始める力を私たちに与えてくれるように、
願わずにはいられません。

まずは次のことから始めましょう。
定期的に皆で集まって、この戦いで必要な栄養を補給しましょう。
すなわち、礼拝と主の聖餐に皆で共に与りましょう。

2014年11月12日水曜日

「ローマの信徒への手紙」ガイドブック 6章1〜4節 聖めの基としての洗礼(その4)


聖めの基としての洗礼 614節(その4) 

ここまで述べてきた洗礼についての教えでは、
人が自分の罪深さを悲しまずに好き勝手に生きるのを
容認してしまうことになりはしまいか、
という危惧感を抱く人たちもいます。
もしも洗礼を受けている者は誰でも皆救われるというのなら、
人々は神様のことも、天からの恵みである洗礼のことも、
気に留めなくなるのではないか、
というのです。


パウロはここで、彼の伝える教えがどのような帰結をもたらすか、
細かく計算したり、あれこれ思い悩んだりはしません。
パウロは、
罪の赦しの恵みをこの上なく近づきやすい形で伝えているので、
誰であれ罪人は、
この恵みを自分に当てはめて受け入れる勇気がもてるようになっています。

しばしばパウロは「ローマの信徒への手紙」の中で、
自分の罪を悲しまない者や、間違った確信を抱いている者たちの
髪の毛を引っ張っては懲らしめていますが、
今この洗礼についての箇所では、とりわけそれが顕著になっています。

洗礼は、
私たちに罪の生活を続ける許可を与えるものでは、
全くありません。

パウロがここで洗礼を全面に打ち出すのは、
キリスト教徒なら自由に罪を行ってもよいとする
間違った教えを粉砕するために他なりません。

私たちがキリストの死の中へと洗礼を受けているのは、
私たちがキリストと共に新しい生き方をするためなのです。
私たちを罪から解放するために、キリストは十字架で死なれたのです。

それゆえ、 
あたかも何も起こらなかったかのように、
私たちが以前と変わらない罪の生活を続けることは、
許されないのです。