2012年6月28日木曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 17章7~18節 淫婦の幻についての天使の説明(その2)


  
淫婦の幻についての天使の説明 17718節(その2) 
 
 
9節では、淫婦が七つの山に座っているとあり、
18節では、淫婦は地上のあらゆる支配者を統治する都市である、
と言われています。
七つの山についての記述が当てはまるような都市を
地図で探す試みがこれまでなされてきました。
七つの丘の上に建てられたローマが候補として挙げられ、
またモスクワやニューヨークも有力視されました。
しかし、9節は
ある特定の都市を指しているものとして理解されなければならない、
というものではありません。
山は力強さと安定感をあらわしています。
ですから、この節のメッセージは次のように要約できるかもしれません、
「淫婦は悪魔の帝国とその首都をあらわしており、
この帝国は強大で堅固に見える」、と。
「ヨハネの黙示録」は「都市バビロン」について語ります。
それは悪魔の帝国を意味しています。
「淫婦」は、悪の帝国がどのようなものか、よくあらわしています。
そこには、第六戒を地に踏みつけにする態度が、
他のさまざまな不義と密接に連携しつつあらわれます。
悪魔の帝国を「淫婦」と名づけるのは、
そこでは活ける神様を礼拝しないことを想起させます。
もっとも別の「神々」ならその国にもいるかもしれません。
しかし、そこではそれら「神々」が、真の神様を斥けてしまっています。
すでに前に論じたように、聖書では「姦淫を行う」という言葉で、
偶像礼拝を指す場合があるのです。
  
14節は、強固に見えた悪魔の帝国がどういう結末を迎えることになるか、
明らかにしています。
悪魔は確かにキリストとキリストに属する人々とに対して戦って、
勝利を得るかのように見えます。
「ヨハネの黙示録」が以前に数え切れないほど何度も確証してきたように、
ここでも天使は、イエス様が敵を打ち砕かれることを確証しています。
私たちは今まだ、
イエス様を「王の中の王」として実際に目にしているわけではありませんが、
そうであると信じています。
なぜなら、聖書がそう言っているからです。
  
この章の終わりは、神様の大きさと悪魔の小ささについて語っています。
獣は「同盟者たち」と共に淫婦に怒り、滅ぼします。
つまり、獣は悪魔に仕える者でありながらも、悪魔の帝国を攻撃するのです。
こういうことが起きるのは、神様がそうお決めになったからです。
神様は、御自分の目標のために悪さえも奉仕させるほど、大いなるお方です。
悪魔は、自分の手下が自分とその取り巻きに対して戦うのを見るのは、
さぞかし不満なことでしょう。
しかし、神様の決定されたことを妨げることはできません。
神様は天地のすべての権威を持っておられるからです。
  
20世紀には、悪魔の二人の僕が互いに争う様が見られました。
すなわち、ヒトラーのドイツとスターリンのソ連とが争い合いました。
その結果は周知の通りです。
ヒトラーの帝国は根絶やしにされました。
赤軍の勝利は、神様が大いなるお方であることを示す一例です。
神様は悪魔の僕たちが互いに争い合うように仕向け、
一方がもう片方を滅ぼすようになさいます。
悪魔の帝国が最終的に打ち砕かれる「終わりの時」にも、
神様はこのようになさるのです。
 

2012年6月18日月曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 17章7~18節 淫婦の幻についての天使の説明(その1)


 
淫婦の幻についての天使の説明 17718節(その1)
 
  
幻についての説明が与えられているという点で、
淫婦についての描写は「ヨハネの黙示録」での独特な幻となっています。
実のところ、この説明も幻であり、
それを理解するためにはさらに説明を加えなければなりません。
  
幻の中にあらわれた獣は
「昔はいたが、今はおらず、やがて深淵から上ってくる」、
とヨハネは言います。
何度となくこうしたことは繰り返されてきました。
「ヨハネの黙示録」に描かれている獣のように活動した
国家、思想、あるいは支配者は倒れました。
そして、その度に、
「今はもう大丈夫だ」と思われました。
ところが、獣が倒れてからまだそれほど日もたたぬうちに、
おそらく前とはちがう装いで、
しかし同じ目標をもって、
獣は再び頭をもたげ、戦いを始めました。
何度となく悪魔はキリストの教会を滅ぼそうとしてきました。
この目的のために悪魔は、
何度倒されてもまた起き上がってくる獣を使います。
  
13章の説明で言ったように、
「ヨハネの黙示録」において獣は、
特に反キリストをあらわしています。
おそらく天使たちのメッセージは、
かつて活動した獣と反キリストが非常によく似ていることを、
伝えているのでしょう。
  
912節に書いてあることは、聖書釈義者たちの興味を惹きました。
ここで「ヨハネの黙示録」が語っている内容に対応する
支配者の一群を捜し求めて、発見したと自負する人は大勢います。
例えば、八人の王は、
八人のローマ皇帝か、あるいは、八人の不義の法王を指している、
と考える人々がいました。
これらの解決案は、
天使の説明と完全には合致しないという点で問題を抱えています。
「ヨハネの黙示録」が、
かつていたか、あるいはこれからあらわれるであろう
「八人の支配者」のことを描いている、という考えを
私たちは完全に否定するものではありません。
私自身は、
ここでも象徴的なことが語られている、という説明のほうが
より真実に近いと思っています。
「七人の王」や「獣」や「十人の王」は、
「新しい支配者、新しい思想、また新しい国家が次々に登場し、
悪魔に仕えて、獣の目印を満たす」、という意味でしょう。
第八の、すなわち最後の王は、特に「獣」と名づけられています。
おそらくこれもまた反キリストを指しています。
この王は、最悪の形で獣の目印を満たし、
多くの支配者を味方につけ、
イエス様の再臨の前にあらわれる最後の獣です。

2012年6月12日火曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 17章1~6節 獣の背に乗る淫婦


 
「ヨハネの黙示録」17

獣の背に乗る淫婦 1716
  
 
前章で、ヨハネは、
神様の怒りの杯を地上に注ぎ尽くす
七人の天使について語りました。
今、彼らのうちの一人がヨハネの許に来て、
「大淫婦とその受ける裁きとをこれからお前に見せよう」、
と言います。
天使は淫婦の様子を描写します。
それによると、
彼女は「多くの水の上」に座っています。
15節には、
それらの水は大群衆のことである、
という天使の説明があります。
つまり、
淫婦は大群衆の只中に座っており、
彼らを支配しているのです。
大群衆は淫婦に(おそらくは嬉々として)仕えています。
ヨハネは幻の中で荒野に移動し、淫婦を目にします。
彼女は獣の背に乗り、綺麗な服を着ています。
彼女の手には金の杯があり、
それは淫婦をあらわす不義で満ちています。
淫婦は酔いしれています。
しかし、その酔いはぶどう酒のせいではなく、
キリストに属する人々の血によるものでした。
つまり、淫婦はキリスト教会を迫害し、
神様に属する人々を殺したのです。
淫婦は、
多くの支配者や大群衆が彼女と同じことをするよう
扇動しました。
2節は、そういう意味でしょう。
ローマの淫婦は、
額に淫婦の名を記したバンドをつける慣習がありました。
バンドはこの淫婦にもあり、そこには、
「大バビロン、世の淫婦たちと憎むべきものたちとの母」
という彼女の名が記されています。
 

2012年6月11日月曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 16章12~21節 その時が来た(その2)


 
前述の悪霊たちは、神様に対して戦いを挑みます。
これは、ふつう私たちが理解する意味での「戦争」なのでしょうか。
それとも「ヨハネの黙示録」は、
悪魔が神様と神様に属する人々とに対して仕掛ける戦い
について話しているのでしょうか。
「ハルマゲドンの戦い」は後者の意味の戦いである、
と私自身は考えています。
悪魔は部下と共に、神様と神様に属する人々を攻撃してきます。
この戦いがどのような形で行われるかについては、書いてありません。
ただし、一番大事なことは語られています。
つまり、神様が戦いに勝つ、ということです。
神様は敵対者を打ちのめし、
悪魔の権力を倒し、
御自分の全能性を示されます。
  
19節には都市「バビロン」がでてきます。
この言葉がどの都市を意味しているか、
さまざまな憶測がなされてきました。
前にも触れたことが、
ここでも語られているのではないかと思われます。
つまり、
バビロンは悪魔の帝国とその首都を表しており、
それを滅ぼす、と神様はここで約束してくださっているのです。
これが実現する時が、この世の終わりです。
神様は権力を掌握され、
敵を最終的に打ちのめされるのです。
バビロンの滅亡については、
次章以降でより詳しい描写がなされます。
  
「ヨハネの黙示録」16章は、
他の幾つかの章と同じく、
世の終わりの描写で閉じられます。
しかし書物自体は続きます。
次章からは、再び時間をさかのぼり、
最後の日の前に起きる出来事が語られていきます。
 

2012年6月8日金曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 16章12~21節 その時が来た(その1)


  
その時が来た 161221節(その1)
  
 
第六の天使が杯を傾けて空にするとき、
ユーフラテス川が涸れてしまいます。
ここでは字義通りのユーフラテス川を意味しているとは限りません。
「ユーフラテス川」は、ローマ帝国の領土の境界線であり、
その向こう側には
軍隊を有する無数の恐るべき民族がいることが知られていました。
川が干上がるということは、
今まで守られていた境界線が消えることを意味します。
日の昇る方から来る王たちに道が開かれるわけですが、
彼らは、アジアの諸帝国の支配者たちを指しているというより、
むしろ、キリストの再臨直前の時に、
この世を守る境界線が消えたため
世界に騒乱を自由に起こせるようになった悪の諸力
を意味していると思われます。
13節の「汚れた霊」と14節の「悪霊(デーモン)たちの霊」
という表現からもそれがわかります。
それらは竜の口、獣の口、また偽預言者の口から出てきます。
つまり、悪魔とその部下たちの手先なのです。
  
第七の杯、つまり最後の杯が傾けられる前に、
イエス様はもう一度御許へと招き、警告なさいます。
「時」が来ようとしています。
その「時」には、もはや悔い改めて
清潔な衣をいただくことは間に合いません。
それゆえ、目を覚まし、
「終わりの日」に不意を撃たれないように、
心構えをしておくべきです。
イエス様が何時戻って来られるかわかりません。
ですから、衣を清く保たなければなりません。
それは、
日々イエス様の血によって清められ、
イエス様の御声を聴きながら、
イエス様の近くで生きていく、
という意味です。
そうすれば、
終わりの日は悪い日にはなりません。
神様の怒りが不義の世界に下る時、
来るべき最大の嵐の中でも、
イエス様は御自分に属する人々の面倒を見てくださる、
と約束してくださったからです。
 

2012年6月6日水曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 16章1~11節 七つの怒りの杯(その3)


七つの怒りの杯 16章1~11節 (その3) 
 
 
最後の災いも、神様の叱責のあらわれです。
神様は、
御自分を無視している者たちが(悔い改めて)御許に来るよう、
招かれます。
私たち人間が神様の言われることを聴こうとしないので、
神様は厳しいやり方で叱責するほかないのです。
それに対して人々がどんなことをするか、
読むに耐えないほどです。
彼らは神様の御許に向かいません。
それどころか、
神様を侮辱し、
神様からの招待を無視します。
それはおそらく、
悔い改めが
彼らには受け入れがたい恭順な態度を要求するからでしょう。
災害に関しては、
神様を責め立てるほうが、
自分の悪い行いを悔いて、それを告白し、
罪を捨てるよりもはるかに容易なことです。
   
神様は全能です。
このことは、「ヨハネの黙示録」の無数の箇所が証しています。
神様や神様に属する人々と戦う獣には権力があり、
神様に属する人々は戦いに負ける側のように見えます。
ところがそうではありません。
神様はこの世の支配権を掌握なさっています。
そして、世界の歴史は、神様の御計画の通りに進んでいきます。
これについて語っているのが、10節です。
神様の僕たちは、一つの杯を獣の玉座にすっかり注ぎかけます。
それを獣は妨げることができません。
全能者は、文字通り、あらゆる権能を有しておられます。
神様が「時が満ちた」と判断なさる時、
獣の帝国は闇に包まれます。
神様は勝利者であり、
悪魔はその手下もろとも敗北することがすでに決まっています。
皆がそれをいつ目撃することになるかは、
ただ時間の問題にすぎません。


2012年6月4日月曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 16章1~11節 七つの怒りの杯(その2)


 
七つの怒りの杯 16111節(その2)
 
 
5節には「水の天使」という
謎めいた表現がでてきます。
「ヨハネの黙示録」は、
風をつかさどる天使(「ヨハネの黙示録」71節)や、
火をつかさどる天使(「ヨハネの黙示録」1418節)
について語っています。
神様は、天使たちに
自然に関係する仕事を
分担させておられるように見えます。
彼らは自然を守り、
その世話をし、
自然の中で彼らが行うよう
神様から命じられたことを実行します。
「水の天使」は、
自然界の水脈の責任を担当する
神様の僕であると思われます。
   
前の幻で天国に入った人々と同様に、
天使たちも
神様がなさることをそのまま受け入れ、
神様に感謝します。
たとえ神様の裁きが厳しく残酷なものに感じられるとしても、
神様の御業はそれでもやはり正しい、
ということを彼らも知っています。
これは、
神様が裁きを実行せずには済ませられないほど、
多くの悪がこの世の中には存在する、
ということです。

2012年6月1日金曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 16章1~11節 七つの怒りの杯(その1)


  
「ヨハネの黙示録」16
  
七つの怒りの杯 16111節(その1)
 
  
神様の怒りの七つの杯の幻は、
この世の終わりについて語っています。
すでに七つのラッパは最後のさまざまな出来事を告げるものでした
(「ヨハネの黙示録」89章)。
杯の幻の中で語られている出来事は、
時間的には、
七つのラッパの告げた出来事よりもさらに後の出来事を指しています。
杯の幻は、
この世での出来事の最後のグランドフィナーレを飾るものです。
つまり、キリストの再臨の直前に何が起きるか、ということです。
幻の中で語られているこれらの数字や量に
どれほど象徴的な意味があるのか、
私たちは知りません。
はっきりしているのは、
キリストが帰ってこられる前に
多くの悪い災いがこの世を襲う、
ということです。
それらの災いを通して、
最後まで神様は
人類を御許へ招こうとなさるのです。
  
七つの天使は、
ひとりずつ順番に杯を地上に傾けて空にしていきす。
ヨハネが目にするのは、
かつてエジプトを襲った災いに似たものです
(「出エジプト記」710章)。
ラッパの幻に比べると、
ここでの災害ははるかに大規模です。
もはや地と海の三分の一が滅びるのではなく、
災害は世界全体に及びます。
これは、文字通り「この世の最後の瞬間」なのです。
神様の忍耐は今や消えようとしており、
「恵みの時」も終わりを告げようとしています。