2021年7月7日水曜日

「ヨナ書」ガイドブック 最後の問題

最後の問題 

「ヨナ書」ガイドブックを閉じるにあたり、最後に次の問題を考えることにしましょう。

 

(問題)船乗りを憐れに思ったヨナがニネヴェの人々を憐れに思わなかったのはなぜか?

 

1章でヨナが船乗りたちの悲惨な状況に同情したことをここで思い出しましょう。

ヨナは「船乗りたちも私もろとも海の底に沈むがよい!」と

非情に考えることもできたはずです。

ところがヨナはそれとは反対に、

嵐が収まり乗員全員が船まるごと救われるために、

船乗りたちに彼だけを海に放り投げるよう促したのです。

 

しかし、ヨナはニネヴェの人々に対してはまったく憐れみのない態度で接しました。

 

どこからこのような相違が生じたのでしょうか。

確実な答えを用意することは私たちにはできません。

聖書は答えを明示していないからです。

とはいえ、なんらかの説明を考えてみることなら私たちにもできるでしょう。

 

思いつく理由は

「乗船中にヨナはなんらかのかたちで船乗りたちとすでに知り合いになっていた」

というものです。

もはや彼らはヨナにとって「見ず知らずの他人」というわけではありませんでした。

冷淡な批判的態度をとるのは、

知らない人々に対してのほうが知り合いの人々に対してよりも容易であるものです。

 

人間のもつこのような傾向を別の角度から検討してみましょう。

キリスト教の福音伝道の集会に参加した人々の中から、

普段はキリスト教関係の集会には参加しない人々を特に選んで実施した

アンケート調査によれば、

彼らのうちの大部分(80〜90%)は

「自分の知り合い、友人、親戚、同僚に誘われたから集会に参加した」

と答えました。

集会について新聞、雑誌、インターネットなどを通じて告知することも大切ですが、

キリスト教信仰についてあまり知識がない人たちや

キリスト教信仰をまだ受け入れていない人々を集まりに招くためには

個人的なコンタクトを通じて行うのが

最善のやりかたであることがこの調査からは伺えます。

 

また別のある調査によれば、

キリスト教信仰とは何の関わりもなく生活している人々には

身近に熱心なキリスト信仰者がひとりもいないケースが多い

ということがわかりました。

だからこそ、

キリスト信仰者は自らの殻に閉じこもらずに、むしろ「不正の富」によって友だちを得る

(「ルカによる福音書」16章9節)くらいの意気込みが大切であるとも言えます。

 

ヨナがふたつの異なる状況でそれぞれちがう態度を示したことは、

それぞれの状況に関わった人々の数の大小にも関係があったのかもしれません。

船に乗っていたのは数十人か、多く見積もっても二百人くらいだったでしょう。

それに対して、

ニネヴェには十二万人以上もの住民がいました(「ヨナ書」4章11節)。

 

私たちも「自分の国全体や全世界を相手に福音を伝えたい」という大望を抱く場合には、

志半ばで疲れ果て、落胆し、

結局は伝道への熱意や希望をまったく失ってしまうのではないでしょうか。

むしろ

「この人やあの人に福音をしっかり伝える」とか

「このグループやあのグループにイエス様について語る」といった

具体的な目標を段階的に設定していくやり方のほうがよいのではないでしょうか。

 

私たちは神様の御計画の中に「自分の場所」を見つけるべきなのです。

おそらく私たちに与えられる使命は

ヨナに与えられた使命ほど不思議な奇跡のようなものではないでしょう。

しかし、私たちにとって最良の使命が何であるか、

全知全能の神様はよくご存じなのです。

 

おわり。

2021年6月30日水曜日

「ヨナ書」ガイドブック 唐胡麻の木の教え 4章4〜11節(その2)

唐胡麻の木の教え 4章4〜11節(その2)

自分のことしか念頭になくなったヨナは自らの死を望みました。

これはもうすでに二度目です(8節)。

しかし神様はヨナの希望を受け入れてはくださりませんでした。

それを見てヨナは神様に対してさらに失望したことでしょう。

 

ヨナの怒りに対して神様はふたたびお答えになりました。

今回はヨナも神様に言葉を返しています(9節)。

 

「しかし神はヨナに言われた、

「とうごまのためにあなたの怒るのはよくない」。

ヨナは言った、「わたしは怒りのあまり狂い死にそうです」。」

(「ヨナ書」4章9節、口語訳)

 

最良の教育のやり方とは、

生徒が学ぶべきことを自分で学べるようにすることであり、

自分の頭を使って気がついたり発見したりできるようにすることです。

ヨナが神様の教えてくださったことにどのように反応したのか

「ヨナ書」には何も記されていません。

しかし、何を神様が伝えようとされたのか、ヨナにはわかったと思います。

唐胡麻の木を通して神様がヨナを教育なさるやり方は、

バト・シェバ事件をめぐる預言者ナタンとダヴィデ王との対話を思い起こさせます。

以下に引用するこの対話のおわりでダヴィデ(口語訳ではダビデ)は

自分で自らの罪深さを認めてそれを断罪することになります。

 

「主はナタンをダビデにつかわされたので、彼はダビデの所にきて言った、

「ある町にふたりの人があって、ひとりは富み、ひとりは貧しかった。

富んでいる人は非常に多くの羊と牛を持っていたが、

貧しい人は自分が買った一頭の小さい雌の小羊のほかは何も持っていなかった。

彼がそれを育てたので、その小羊は彼および彼の子供たちと共に成長し、

彼の食物を食べ、彼のわんから飲み、彼のふところで寝て、

彼にとっては娘のようであった。

時に、ひとりの旅びとが、その富んでいる人のもとにきたが、

自分の羊または牛のうちから一頭を取って、

自分の所にきた旅びとのために調理することを惜しみ、

その貧しい人の小羊を取って、これを自分の所にきた人のために調理した」。

ダビデはその人の事をひじょうに怒ってナタンに言った、

「主は生きておられる。この事をしたその人は死ぬべきである。

かつその人はこの事をしたため、またあわれまなかったため、

その小羊を四倍にして償わなければならない」。

ナタンはダビデに言った、

「あなたがその人です。イスラエルの神、主はこう仰せられる、

『わたしはあなたに油を注いでイスラエルの王とし、

あなたをサウルの手から救いだし、あなたに主人の家を与え、

主人の妻たちをあなたのふところに与え、

またイスラエルとユダの家をあなたに与えた。

もし少なかったならば、わたしはもっと多くのものをあなたに増し加えたであろう。

どうしてあなたは主の言葉を軽んじ、その目の前に悪事をおこなったのですか。

あなたはつるぎをもってヘテびとウリヤを殺し、その妻をとって自分の妻とした。

すなわちアンモンの人々のつるぎをもって彼を殺した。

あなたがわたしを軽んじてヘテびとウリヤの妻をとり、自分の妻としたので、

つるぎはいつまでもあなたの家を離れないであろう』。

主はこう仰せられる、

『見よ、わたしはあなたの家からあなたの上に災を起すであろう。

わたしはあなたの目の前であなたの妻たちを取って、隣びとに与えるであろう。

その人はこの太陽の前で妻たちと一緒に寝るであろう。

あなたはひそかにそれをしたが、

わたしは全イスラエルの前と、太陽の前にこの事をするのである』」。

ダビデはナタンに言った、

「わたしは主に罪をおかしました」。

ナタンはダビデに言った、

「主もまたあなたの罪を除かれました。

あなたは死ぬことはないでしょう。

しかしあなたはこの行いによって大いに主を侮ったので、

あなたに生れる子供はかならず死ぬでしょう」。」

(「サムエル記下」12章1〜14節、口語訳)

 

神様は全能です。

このことをヨナの乗った船の船長は全能なる神様への信仰を告白し

(「ヨナ書」1章6節)、船乗りたちも信仰告白しました(「ヨナ書」1章14節)。

ニネヴェの王も同じ信仰告白をしました(「ヨナ書」3章9節)。

そしてヨナ自身も信仰告白するほかありませんでした(「ヨナ書」2章10節)。

ここで主の使徒パウロが神様の全能性について記した以下の箇所も参考になります。

 

「では、わたしたちはなんと言おうか。

神の側に不正があるのか。

断じてそうではない。

神はモーセに言われた、

「わたしは自分のあわれもうとする者をあわれみ、

いつくしもうとする者を、いつくしむ」。」

(「ローマの信徒への手紙」9章14〜15節、口語訳)。

 

神様が全能なることの具体的なあらわれとして、

神様にはニネヴェを「救うこと」も唐胡麻の木を「滅ぼすこと」も実現なさる

権能をお持ちであることを、ヨナは信仰告白するほかありませんでした。

 

「列王記下」14章25節が語るところによると、

ヨナはユダの領土が将来拡大すると予言しました。

そしてこの予言はユダの王アマジヤの治世に実現することになります。

ところがこの箇所でのヨナは

ユダの敵であるアッシリアに益をもたらすような伝道活動をする立場に

自分が置かれていることに気がついたのです。

ヨナは自分の以前の予言に反するような行動を強いられていたことになります。

きっとこのことはヨナの心を苦しめたことでしょう。

「神様はいったい何をなさろうとしておられるのか」

とヨナは訝しげに思ったことでしょう。

 

おそらくヨナは唐胡麻のケースから、

どれほど強大な大国であったとしても

国は瞬く間に興隆する場合もあれば衰退する場合もある

ということを学んだのではないでしょうか。

まだしばらくの間は繁栄を続けるユダ王国が最終的には滅亡することを

預言者ヨナは知っていました。

そして、いずれはアッシリアもまたユダと同じ経過をたどることになるのです。

ユダとアッシリアを滅ぼしたのは同じくユダ王国の敵であるバビロニアでした。

2021年6月23日水曜日

「ヨナ書」ガイドブック 唐胡麻の木の教え 4章4〜11節(その1)

 唐胡麻の木の教え 4章4〜11節(その1)

 

ヨナは神様の御心が変わることを期待しつつニネヴェの東側に移動し、

この都市がこれからどうなるか見届けるために待つことにしました。

 

「今回だけは、神様はいつもとはちがうやり方をなさるのではないか」とか

「たぶん私に対してだけは、神様は例外的な態度をとってくださるのではないか」

という期待を込めた憶測は、

時には私たちにも魅力的に映ることがあるのではないでしょうか。

しかし、神様が御言葉を通して明らかに啓示されている御心に反するやり方で

活動なさることはありません。

その意味では、神様が心変わりするのをヨナが期待したのは無駄でした。

 

キリスト教会の歴史をみるとわかりますが、

おびただしい数の様々な異端の集団が荒野にひきこもり

「神様をないがしろにする彼ら以外の人々」が滅びるのを

今か今かと待ち受けたケースが今までたくさんありました。

異端の信奉者たちの態度には、

福音を伝えてあらゆる人々を分け隔てせずに

救いへと招きたいという情熱がまったく欠けています。

彼らは「神様をないがしろにする人々」からできるだけ遠ざかり、

彼らが滅ぶのを冷ややかに傍観する態度をとりました。

私たちはキリスト教会がこのようなまちがった方向に進まないように

祈りたいと思います。

 

ヨナはニネヴェの行く末を我が目で見届けるために待ち続けることにしました。

これはヨナ自身にとって無意味な時間ではありませんでした。

神様はヨナに大切なことを教える機会としてその時を利用してくださったからです。

 

ヨナは見晴らしの良い場所に座りました。

神様が成長させた唐胡麻の木はヨナに涼しい日陰をつくってくれました(6節)。

ヨナは唐胡麻の木とその木陰のことを喜びました。

 

ところが、次の日になると神様は虫によって唐胡麻の木をだめになさいました。

唐胡麻の木のことでヨナはふたたび神様に対して怒りを発しました。

 

これと似たような出来事は私たちの人生でも起こったことがあるでしょうか。

何が人生で一番大切なことかがわからなくなり混乱してしまうことは

私たちにも身に覚えのあることではないでしょうか。

神様の恵みや大いなる愛についてあまり神様に感謝もせず、

むしろごく些細なことについて神様にいちいち腹を立てていることがありませんか。

私たち人間は小さな事柄にばかり気を取られ木を見て森を見ないことがよくあります。

 

ヨナは唐胡麻の木が枯れたことを残念がりました。

なぜなら、その木はヨナ自身にとって有益なものだったからです。

ここにも預言者ヨナの自己中心的な心があらわれています。

私たちも、自分と神様との間の関係ばかり考えて

自分と隣り人たちとの間の関係を忘れてしまうと、

結果的には神様との関係も歪んでしまい、自己中心的な傾向が強まるものです。

「人間と神様との関係においては、

神様と人間との間の「垂直関係」と人間同士の「水平関係」という両方の関係が

同じように大切である」と言われることがありますが、

れは的確な指摘であると思います。

「最も重要な戒めは神様のことを他のすべてよりも深く愛することであり、

この戒めと同様に重要なもうひとつの戒めは

自分自身を愛するのと同じように隣り人を愛することである」

とイエス様も教えておられます。

 

「さて、パリサイ人たちは、イエスがサドカイ人たちを言いこめられたと聞いて、

一緒に集まった。

そして彼らの中のひとりの律法学者が、イエスをためそうとして質問した、

「先生、律法の中で、どのいましめがいちばん大切なのですか」。

イエスは言われた、

「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。

これがいちばん大切な、第一のいましめである。

第二もこれと同様である、

『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。

これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている。」」

(「マタイによる福音書」22章34〜40節、口語訳)

2021年6月16日水曜日

「ヨナ書」ガイドブック 「ヨナ書」4章 ヨナを諭される神様 ニネヴェの恩赦を承認しないヨナ 4章1〜3節

「ヨナ書」4章 ヨナを諭される神様

ニネヴェの恩赦を承認しないヨナ 4章1〜3節

 

自分が伝えたメッセージをニネヴェの人々が受け入れてくれたわけですから、

本来ならヨナは満足するべきところです。

ところが、ヨナの反応はそれとはまったく逆のものでした。

ヨナは喜ぶどころか怒り出したのです。

 

2節でヨナは自分がタルシシに逃げ出した理由を明かします。

ヨナは神様がニネヴェを憐れまれることを望まなかったのです。

 

「(ヨナは)主に祈って言った、

「主よ、わたしがなお国におりました時、この事を申したではありませんか。

それでこそわたしは、急いでタルシシにのがれようとしたのです。

なぜなら、わたしはあなたが恵み深い神、あわれみあり、

怒ることおそく、いつくしみ豊かで、災を思いかえされることを、

知っていたからです。」

(「ヨナ書」4章2節、口語訳)

 

神様が憐れみ深いお方であることを認めてそれを公に告白する一方で、

神様のその憐れみ深さを好ましくないと思っているヨナの態度はいかにも奇妙です。

 

1980年代の終わり頃、大学生向けのある雑誌に、

若くしてキリスト教徒からイスラム教徒に改宗した

フィンランド人女性のインタヴューが載りました。

彼女は自分が改宗した理由として次の二つの点をあげました。

 

1)イスラム教ではどのような生き方をすべきかについて

明確な指針が与えられているが、

キリスト教では自分自身で物事を決定していかなければならない。


2)イスラム教では罪は赦されない。

それに対して、キリスト教徒は「神は憐れみ深い」と知っているがために

罪を行うことができる。

 

神様が罪を赦すことを許すことができない人間は

何もこの女性ひとりだけではないでしょう。

しかし、こういう人のうちの多くは

神様が他の人々の罪を赦すことは承服できないくせに、

自分自身の罪を赦してもらえることは問題だと思っていません。

 

4章2〜3節のヘブライ語原文には

「私」という言葉が動詞の主語や所有名詞などの形でなんと9回も出てきます。

ヨナがいかに自己中心的に考えていたのかがよくわかる箇所です。

神様がニネヴェを憐れもうとされることを喜ばないヨナの態度には

「神様の恵みは自分や自分の属する国民にだけ与えられるべきだ」

と考えるヨナの本音が見え隠れしています。

 

幸いなことに、

私たち人間は神様の恵みの及ぶ範囲を勝手に制限することができません。

 

神様の憐れみ深さに対してヨナは「自らに死を望む」という態度で応じました(3節)。

自らの死を願うヨナの姿は、

次に引用する「列王記上」の預言者エリヤを彷彿とさせます。

ただし、エリヤの場合は

王妃イゼベルがエリヤの命をつけ狙っていたのが自らに死を望む理由でしたが。

 

「自分は一日の道のりほど荒野にはいって行って、れだまの木の下に座し、

自分の死を求めて言った、

「主よ、もはや、じゅうぶんです。

今わたしの命を取ってください。

わたしは先祖にまさる者ではありません。」

(「列王記上」19章4節、口語訳)

 

おそらくヨナが怒ったのは彼の予言が実現しなかったせいでもあったでしょう。

ヨナは自尊心が傷つけられたと感じたのではないでしょうか。

2021年6月9日水曜日

「ヨナ書」ガイドブック ニネヴェの恩赦 3章10節

ニネヴェの恩赦 3章10節

「神は彼らのなすところ、その悪い道を離れたのを見られ、

彼らの上に下そうと言われた災を思いかえして、これをおやめになった。」

(「ヨナ書」3章10節、口語訳)

 

神様が御自分の預言者たちの活動を通していったい何を目指されていたのか

この節からわかります。

神様が預言者たちを遣わされた目的は、

御自分の民を断罪する裁きの宣告を下すことではありませんでした。

そうではなく、

御自分の民が悔い改めて

まちがった道から神様の御許に立ち戻るようにさせることだったのです。

このことについて主は「エレミヤ書」で次のように言っておられます。

 

「ある時には、わたしが民または国を抜く、破る、滅ぼすということがあるが、

もしわたしの言った国がその悪を離れるならば、

わたしはこれに災を下そうとしたことを思いかえす。」

(「エレミヤ書」18章7〜8節、口語訳)。

 

イスラエルやユダに遣わされた主の預言者たちは

彼らの宣教が実を結ぶのを実際に目にする機会がほとんどまったくありませんでした。

それとは異なり、

ヨナの伝えたメッセージはニネヴェの人々に受け入れられたのです。 

 

このことを考慮に入れると

「ヨナはよい預言者でもありダメな予言者でもあった」

と言ってもよいのではないかと思います。

ヨナの予言した「主の裁き」は実現しませんでした。

にもかかわらず、ヨナの預言者としての活動には深い意味が隠されていたからです。

 

10節の英語の翻訳を見てみると

"repent"(神様は悔いた)という訳もあれば

"relent"(神様は和らいだ)という訳もあります。

 

人間はまちがったことを行ってしまったときには「悔いる」ものですが、

神様はこのような意味では、人間のようには「悔い」ません。

これは適切な翻訳が難しい箇所ですが、

次に引用する「ペテロの第二の手紙」3章9節が参考になるのではないでしょうか。

 

「ある人々がおそいと思っているように、

主は約束の実行をおそくしておられるのではない。

ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、

あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。」

(「ペテロの第二の手紙」3章9節、口語訳)

 

神様の御心に違反することがどのような結果を招くのかを

神様は教えてくださいました。

神様に従いたいのか、それとも従いたくないのか、

このどちらを選ぶのかは人間の側の問題になります。

人間が何を行うかにはかかわりなく、

神様は常に御自分の聖なる御心に従って活動なさいます。

これについては次に引用する「ヨシュア記」の箇所が参考になるでしょう。

 

「それゆえ、いま、あなたがたは主を恐れ、

まことと、まごころと、真実とをもって、主に仕え、

あなたがたの先祖が、川の向こう、およびエジプトで仕えた他の神々を除き去って、

主に仕えなさい。

もしあなたがたが主に仕えることを、こころよしとしないのならば、

あなたがたの先祖が、川の向こうで仕えた神々でも、

または、いまあなたがたの住む地のアモリびとの神々でも、

あなたがたの仕える者を、きょう、選びなさい。

ただし、わたしとわたしの家とは共に主に仕えます」。

その時、民は答えて言った、

「主を捨てて、他の神々に仕えるなど、われわれは決していたしません。

われわれの神、主がみずからわれわれと、われわれの先祖とを、

エジプトの地、奴隷の家から導き上り、

またわれわれの目の前で、あの大いなるしるしを行い、

われわれの行くすべての道で守り、

われわれが通ったすべての国民の中でわれわれを守られたからです。

主はまた、この地に住んでいたアモリびとなど、すべての民を、

われわれの前から追い払われました。

それゆえ、われわれも主に仕えます。

主はわれわれの神だからです」。

しかし、ヨシュアは民に言った、

「あなたがたは主に仕えることはできないであろう。

主は聖なる神であり、ねたむ神であって、

あなたがたの罪、あなたがたのとがを、ゆるされないからである。

もしあなたがたが主を捨てて、異なる神々に仕えるならば、

あなたがたにさいわいを下されたのちにも、

ひるがえってあなたがたに災をくだし、あなたがたを滅ぼしつくされるであろう」。

民はヨシュアに言った、

「いいえ、われわれは主に仕えます」。

そこでヨシュアは民に言った、

「あなたがたは主を選んで、主に仕えると言った。

あなたがたみずからその証人である」。

彼らは言った、

「われわれは証人です」。ヨシュアはまた言った、

「それならば、あなたがたのうちにある、異なる神々を除き去り、

イスラエルの神、主に、心を傾けなさい」。

民はヨシュアに言った、

「われわれの神、主に、われわれは仕え、その声に聞きしたがいます」。

「ヨシュア記」24章14〜24節、口語訳