最後の問題
「ヨナ書」ガイドブックを閉じるにあたり、最後に次の問題を考えることにしましょう。
(問題)船乗りを憐れに思ったヨナがニネヴェの人々を憐れに思わなかったのはなぜか?
1章でヨナが船乗りたちの悲惨な状況に同情したことをここで思い出しましょう。
ヨナは「船乗りたちも私もろとも海の底に沈むがよい!」と
非情に考えることもできたはずです。
ところがヨナはそれとは反対に、
嵐が収まり乗員全員が船まるごと救われるために、
船乗りたちに彼だけを海に放り投げるよう促したのです。
しかし、ヨナはニネヴェの人々に対してはまったく憐れみのない態度で接しました。
どこからこのような相違が生じたのでしょうか。
確実な答えを用意することは私たちにはできません。
聖書は答えを明示していないからです。
とはいえ、なんらかの説明を考えてみることなら私たちにもできるでしょう。
思いつく理由は
「乗船中にヨナはなんらかのかたちで船乗りたちとすでに知り合いになっていた」
というものです。
もはや彼らはヨナにとって「見ず知らずの他人」というわけではありませんでした。
冷淡な批判的態度をとるのは、
知らない人々に対してのほうが知り合いの人々に対してよりも容易であるものです。
人間のもつこのような傾向を別の角度から検討してみましょう。
キリスト教の福音伝道の集会に参加した人々の中から、
普段はキリスト教関係の集会には参加しない人々を特に選んで実施した
アンケート調査によれば、
彼らのうちの大部分(80〜90%)は
「自分の知り合い、友人、親戚、同僚に誘われたから集会に参加した」
と答えました。
集会について新聞、雑誌、インターネットなどを通じて告知することも大切ですが、
キリスト教信仰についてあまり知識がない人たちや
キリスト教信仰をまだ受け入れていない人々を集まりに招くためには
個人的なコンタクトを通じて行うのが
最善のやりかたであることがこの調査からは伺えます。
また別のある調査によれば、
キリスト教信仰とは何の関わりもなく生活している人々には
身近に熱心なキリスト信仰者がひとりもいないケースが多い
ということがわかりました。
だからこそ、
キリスト信仰者は自らの殻に閉じこもらずに、むしろ「不正の富」によって友だちを得る
(「ルカによる福音書」16章9節)くらいの意気込みが大切であるとも言えます。
ヨナがふたつの異なる状況でそれぞれちがう態度を示したことは、
それぞれの状況に関わった人々の数の大小にも関係があったのかもしれません。
船に乗っていたのは数十人か、多く見積もっても二百人くらいだったでしょう。
それに対して、
ニネヴェには十二万人以上もの住民がいました(「ヨナ書」4章11節)。
私たちも「自分の国全体や全世界を相手に福音を伝えたい」という大望を抱く場合には、
志半ばで疲れ果て、落胆し、
結局は伝道への熱意や希望をまったく失ってしまうのではないでしょうか。
むしろ
「この人やあの人に福音をしっかり伝える」とか
「このグループやあのグループにイエス様について語る」といった
具体的な目標を段階的に設定していくやり方のほうがよいのではないでしょうか。
私たちは神様の御計画の中に「自分の場所」を見つけるべきなのです。
おそらく私たちに与えられる使命は
ヨナに与えられた使命ほど不思議な奇跡のようなものではないでしょう。
しかし、私たちにとって最良の使命が何であるか、
全知全能の神様はよくご存じなのです。
おわり。