2022年6月15日水曜日

「ヤコブの手紙」ガイドブック 真の知恵と幻想の知恵(その2)

 真の知恵と幻想の知恵(その2)

「ヤコブの手紙」3章13〜18節

 

ヤコブは二つの異なる知恵を提示します。

それらの知恵は互いに異なる源に由来し、

人間の振る舞いに対して相反する影響を及ぼし、

それらがもたらす最終的な結果も対照的なものになります。

 

真の知恵は神様から与えられるものです(3章15節)。

それによって人は良い人生を歩めるようになります(3章13節)。

真の知恵は良い実を結びます。

 

「しかし上からの知恵は、第一に清く、次に平和、寛容、温順であり、

あわれみと良い実とに満ち、かたより見ず、偽りがない。」

(「ヤコブの手紙」3章17節、口語訳)

 

上掲の箇所に挙げられている良い実の数々は

パウロの「ガラテアの信徒への手紙」5章22〜23節にある

霊の実の一覧表とよく似ています。

 

それに対して、

この世的な偽りの知恵は悪魔や悪霊に由来するものです(3章15節)。

この知恵の結果として党派心や恨みや妬みが生じてきます(3章14節)。

最終的にそれは「混乱とあらゆる忌むべき行為」(3章16節)を実らせます。

 

妬みや恨みは人間の心の中にある最も破滅的な感情であるとも言えます。

これらはすべてのことを悪い方へ悪い方へと変えてしまうので、

どのようにしてもこれらの感情を落ち着かせることができなくなります。

 

それとは対照的に、

平和は祝福を自分にだけではなく隣り人にももたらしてくれます。

 

「義の実は、平和を造り出す人たちによって、

平和のうちにまかれるものである。」

(「ヤコブの手紙」3章18節、口語訳)

 

教会史は神学論争などの様々な争いがきっかけとなって

教会が多くの分派や異端に分断されてきた歴史であるとも言えます。

すでに最初期のキリスト教会においても

互いに異なる神学的な見解が相争う状態になっていました。

その中でヤコブ自身もまた教会形成に携わっていたのです

(「使徒言行録」15章13〜21節)。

不幸にして教会が分裂してしまうときに、

どの分裂が人間同士の不毛な争いから生じたものであり、

どの分裂が聖書に忠実な教義を保つために止むを得ず起きたものなのか

ということを見極めるのは決して容易ではありません。

ともあれ、

誰かがそれまで自分が所属してきたキリスト教会の内部あるいは外部に

独自の分派を立ち上げようとするとき、

それに対しては注意深く慎重な態度をとる必要があります

(「ヤコブの手紙」3章14節)。

 

上掲の3章17節には「上からの知恵」のもたらす様々な実が記されており、

知恵は「かたより見ず、偽りがない」という二つの否定文で終わっています。

「かたより見ない」という表現はギリシア語では「アディアクリトス」といい

「疑念を抱かない」という意味です。

ヤコブはこの言葉で宗教的な疑念のことを指しているのではありません。

口語訳での「かたより見ず」というのは適切な訳であると言えます。

なぜなら、疑念を一切伴わない強靭な宗教心ではなく、

正義や公正さそのものがここでのテーマになっているからです。

このような知恵は

例えば「箴言」(3章27〜35節)で描写されている知恵とよく合致します。

そして「偽りがない」という表現は、

人が正直であろうとすることや、自分のありのままの姿を飾らずに示すことを

意味しています。

私たちはともすると他の人々から好感をもってもらえるように

うわべを取り繕って振る舞うことが賢明であるかのように

思いがちなのではないでしょうか。

ところが、ヤコブは私たちにこの点でも正直であるように奨励しています。

もちろんヤコブが以前に指摘したように、

正直さとは

他の人について自分が考えていることをそのまますべて口に出してしまう

という意味ではありません。

ヤコブが言いたいことは、

私たちが実際に自分で考えているのとはちがうことを口にするべきではない

ということです。

2022年6月8日水曜日

「ヤコブの手紙」ガイドブック 真の知恵と幻想の知恵(その1)

 真の知恵と幻想の知恵(その1)

「ヤコブの手紙」3章13〜18節

 

多くの現代人にとって「深い知恵」と「高い知能」は

ほぼ同義語になっているのではないでしょうか。

しかし聖書の考え方はそれとは異なるものです。

例えば旧約聖書には「知恵文学」と呼ばれる書物群があります。

その一つである「箴言」において「知恵」とは

人生についての深い体験や洞察を含むものです。

「ヤコブの手紙」も次のように教えています。

 

「あなたがたのうちで、知恵があり物わかりのよい人は、だれであるか。

その人は、知恵にかなう柔和な行いをしていることを、

よい生活によって示すがよい。」

(「ヤコブの手紙」3章13節、口語訳)

 

聖書の意味する「知恵」は人間の知能の程度によってではなく

態度や振る舞いによって測られるものです。

ヤコブが強調しているのはまさにこのことです。

真理が心の中に宿っていることが

知恵ある人としての必要不可欠な条件であることを次の聖句は教えています。

 

「しかし、もしあなたがたの心の中に、

苦々しいねたみや党派心をいだいているのなら、

誇り高ぶってはならない。

また、真理にそむいて偽ってはならない。」

(「ヤコブの手紙」3章14節、口語訳)

 

抜け目のなさや他の人を自分の目的のために利用することは

真の知恵などではありません。

「箴言」は知恵の源について次のように述べています

(なお「箴言」2章1〜19節には

「知恵」についてのより詳しい説明があります。)。

 

「主を恐れることは知識のはじめである、

愚かな者は知恵と教訓を軽んじる。」

(「箴言」1章7節、口語訳)

2022年6月2日木曜日

「ヤコブの手紙」ガイドブック 少しのパン種でも粉全体をふくらませる

 少しのパン種でも粉全体をふくらませる

 

「また船を見るがよい。

船体が非常に大きく、また激しい風に吹きまくられても、

ごく小さなかじ一つで、操縦者の思いのままに運転される。

それと同じく、舌は小さな器官ではあるが、よく大言壮語する。

見よ、ごく小さな火でも、非常に大きな森を燃やすではないか。」

(「ヤコブの手紙」3章4〜5節、口語訳)

 

上掲の節には船の航路を決める「ごく小さなかじ」や

大火事を引き起こす「ごく小さな火」が出てきます。


これらのイメージは古典古代のギリシア語文献ではよく知られたものであり、

そこでは人間の魂や精神の力が自然の力よりも優れていることを

表現するために使用されています。


それに対して「ヤコブの手紙」はこれらのイメージによって、

ごく小さいことが大きな害を招く場合があることを示そうとしています。


私たち人間を外側から汚そうとする「悪」があります。

しかし、私たち人間に内在している「悪」もあるのです。

このことを言葉の使用による罪は私たちに思い起こさせます

(「マタイによる福音書」15章10〜29節も参考になります)。

イエス様は「おおよそ、心からあふれることを、口が語るものである。」

と言っておられます(「マタイによる福音書」12章34節より、口語訳)。

 

人がキリスト信仰者として生きていくことは、

たんにその人の生活の一部に限定されるものではなく

全人生にかかわるものです。

そのことをヤコブは読者に伝えようとしています。

 

言葉の使用に関するヤコブの教えは、

人が日常の中で話していることが

その人のキリスト信仰者としての本当の質を表している

という考えに通じるものです。

 

「神は彼らを祝福して言われた、

「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。

また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。

(・・・)主なる神は人を連れて行ってエデンの園に置き、

これを耕させ、これを守らせられた。」

(「創世記」1章28節、2章15節、口語訳)

 

旧約聖書冒頭の天地創造の記述で強調されているように、

神様によって人間は被造物世界を指導し支配する地位に任命されています。

人間と他の生物たちとの間には本質的な相違があります。

それをわかりやすく示しているのは、

人間が言葉で話すことができるという点です。

 

「しかし、あなたの目が悪ければ、全身も暗いだろう。

だから、もしあなたの内なる光が暗ければ、その暗さは、どんなであろう。」

(「マタイによる福音書」6章23節、口語訳)

 

上掲の箇所で言われているように、

神様からいただいた素晴らしい賜物を神様の御意思に反する目的で使用するとき、

人間は深い闇に覆われてしまいます。

この闇は神様に敵対する者に由来しています。

言葉を話せるという賜物についても同じことが言えます。

 

「舌は火である。

不義の世界である。

舌は、わたしたちの器官の一つとしてそなえられたものであるが、

全身を汚し、生存の車輪を燃やし、自らは地獄の火で焼かれる。」

(「ヤコブの手紙」3章6節、口語訳)

 

上掲の箇所に出てくる「地獄」とはギリシア語原文では「ゲエンナ」といい、

旧約聖書では「ケデロンの谷」を指しています。

この谷ではユダのシデキヤ王の時代に

人間の子どもたちが偶像への生贄として焼かれたのです

(「エレミヤ書」32章35節)。

 

上掲の箇所にある「生存の車輪」という言葉

(ギリシア語では「ホス・トゥロコス・テース・ゲネセオース」)で

ヤコブは何を言いたいのでしょうか。


例えばヒンドゥー教ではこのような表現には

「魂の輪廻転生」といった意味が付与されています。


それに対して、ヤコブの神学においてこの言葉は

「人間の全人生における歩み」を比喩的に表している

と理解することができるでしょう。

 

「わたしたちは、この舌で父なる主をさんびし、

また、その同じ舌で、神にかたどって造られた人間をのろっている。」

(「ヤコブの手紙」3章9節、口語訳)

 

この箇所の最後でいくつかの自然からとった具体例によって

ヤコブが示しているのは、

同じひとりの人間が祝福の言葉と呪いの言葉とを同じ口から発するのは

決して正常な状態ではないということです。

 

「わたしの兄弟たちよ。

いちじくの木がオリブの実を結び、

ぶどうの木がいちじくの実を結ぶことができようか。

塩水も、甘い水を出すことはできない。」

(「ヤコブの手紙」3章12節、口語訳)

 

「創世記」1章11〜12節にもあるように、

それぞれの木はその種に特有な実を結びます。

また、汚水の入った大きな容器の中身は、

たとえそこに一リットルのきれいな水を加えても飲めるものにはなりません。

その一方で、

一リットルの汚水をきれいな水のたくさん入った容器に加えると、

容器内の水は飲めないものになってしまいます。


例えば、

私たちが互いに異なる二通りの態度を相手に応じて使い分けていることを

他の人々が気づいた場合に、

彼らはいったいどちらが本来の私たちの姿を表しているのか判断できずに

困惑することになるのではないでしょうか。

残念なことに、上の汚水の例と同じく人間の場合にも、

ごく少量の悪い部分が他のたくさんの良い部分も汚染してしまうのです。


またその逆のケースとして、

ある人にたとえ少しばかり良い部分があったとしても、

それによって他の大量の悪い部分を打ち消すことはできません。