2013年2月28日木曜日

「ヨハネによる福音書」ガイドブック 7章1~13節 イエス様の仮庵の祭への参加の有無


  
命の水
  
「ヨハネによる福音書」7
  
イエス様の仮庵の祭への参加の有無 7113節 
 
  
仮庵の祭は、歴史家ヨセフスによれば、
ユダヤ人のあらゆる祭の中でも最大規模で特に神聖な祭でした。
祭はモーセの律法の規定に従って、
第七の月の第一日、すなわち9月~10月の時期に行われました。
それは収穫を豊かに実らせる雨が降る時期でした。
この喜びに満ちた祭は8日間続きました。
  
祭の概要は「レビ記」232344節に説明されています。
祭の時期に人々は葉を集めて作った仮庵に住みました。
これは、エジプトを出てから約束の地に着くまでの旅の間、
イスラエルの民には一時的な住いしかなかったことを覚えるためでした。
「ゼカリヤ書」914章は、仮庵の祭と「主の日」を互いに結びつけています
(特に141621節)。
「ゼカリヤ書」は、
主の日には、「生きた水」がエルサレムから流れ出し(148節)、
主の働かれる日には、ダヴィデの一族とエルサレムの住民に
「罪と汚れを取り除く泉」が開かれる(131節)、
という約束を伝えています。
このように仮庵の祭は、
「終わりの時」への待望に満ちた感謝祭という性格をもっています。
ロバの子に乗る王についての「ゼカリヤ書」の予言は、
まさにこのことに関係しています(99節)。
  
イエス様の兄弟たちは、
イエス様を信じようとはしませんでしたが、
イエス様に親切な助言をしました。
終わりの時への待望でごったがえっている仮庵の祭こそが、
イエス様が始めた運動を大いに広めるのにふさわしい機会だ、
というのです。
ところがイエス様は、
運動を指導し展開していく上で適切と思われるこの助言をあっさりと受け流し、
神様の与えてくださる正しい時を待ち続けられます。
そして、それより前に行動を起こすことを拒まれます。
イエス様のこの言葉からは
「ヨハネによる福音書」によく見られる二重の意味が読み取れるかもしれません。
イエス様は、「祭へ上って行かない」、とお答えになります。
それはまた、「天の輝きの中にも昇っては行かない」ことも意味していました。
ところが、イエス様は祭へと上って行かれました。
ただし、公けに聖地巡礼の一団の注目を浴びながらではなく、
ひそかにひっそりと。

2013年2月25日月曜日

「ヨハネによる福音書」ガイドブック 第6回目の質問(6章)


  
「ヨハネによる福音書」6
  
6回目の質問
  
 
1)イエス様は聖餐式について
「ヨハネによる福音書」では直接的にはまったく話しておられません。
にもかかわらず、この6章ではまさに聖餐式について語っておられます。
こうした福音書の記述の仕方には何か理由があるのでしょうか。
  
2)1500年代の聖餐をめぐる教義論争において一番重要な聖書の箇所は、
ルター派にとっては聖餐式の設定辞
(「マタイによる福音書」262628節、
「マルコによる福音書」142225節、
「ルカによる福音書」221920節、
「コリントの信徒への第一の手紙」112326節)であり、
改革派にとってはこの「ヨハネによる福音書」6章でした。
ルター派の教義を整えた当時の神学者たちの聖書的な根拠を、
今日の私たちは理解することができるでしょうか。
  
3)旧約聖書に知悉しているユダヤ人たちにとって、
イエス様が何千人もの人々に食べ物を分け与えられた奇跡は
どのような意味をもっていましたか。
  
4)620節を字義通りに訳すと、
イエス様は、「私はある。おそれてはいけません」、と言っておられます。
イエス様は旧約聖書のどの箇所を指しておられるのでしょうか。
    
5)「マタイ、マルコ、ルカによる福音書」は
イエス様の奇跡を短く報告しています。
「ヨハネによる福音書」では、奇跡の後に対話や説明が続きます。
この章の食べ物の奇跡の場合でも、
説明はすくなくとも三つの層をなしています。
それらはどのようなものですか。
  
6)62627節でイエス様は、
何千人もの人々にパンを分け与えるのは
その時に同時に起きていたより偉大な出来事にくらべれば
副次的なものにすぎないことを明らかになさいました。
この「より大切なこと」というのは何でしょうか。
  
7)「ヨハネによる福音書」において、しばしばイエス様は
奇跡が起こるのを待望している人々のことを批判なさいました。
現代のキリスト信仰者の生活で奇跡がもつ意味は何でしょうか。
私たちはまちがったやり方で
奇跡の意味を過大評価したり、
あるいは過小評価しているのでしょうか。
  
8)632節におけるパンについてのイエス様の話を聞いた人々は、
それをどのように理解しましたか。
この御言葉は本来ならばどのように理解するべきだったのでしょうか。
  
9)65259節は、
「ヨハネによる福音書」の中心的なテーマを再び取り上げています。
それは、
イエス様は人々にとってたんなる道ではなく、唯一の道である、
ということです。
この信仰にしっかりと留まるのは難しく感じられますか。
これらの御言葉によるならば、
ムスリムの人々(イスラム教徒)は救われることになりますか。
無神論者はどうでしょうか。
天国と地獄は存在するのでしょうか。
これらの問題は、
私たちキリスト信仰者の伝道生活にとってどのような意味をもっていますか。
  
10)665節を読んでください。
人は自分からすすんでイエス様を信じることができるのでしょうか。
人はこのために何かできるのでしょうか。
それとも、何もできないのでしょうか。
 

2013年2月15日金曜日

「ヨハネによる福音書」ガイドブック 6章60~71節 荒野で不平を言うイスラエルの民


 
荒野で不平を言うイスラエルの民 66071
  
 
食べ物の奇跡は
人々に信仰を形成するどころか、
逆に破壊することになりました。
民は大勢でイエス様の御許に押し寄せましたが、
今彼らは同じように大勢でどこか別の方角へと去っていきます。
イエス様の「命のパン」の話が
それを聞いた人々を傷つけ追い払うことになったのでした。
自分からすすんで御自分の御許に来る人はひとりもいないので、
彼らを無理に引き止めても無駄であることを、
イエス様は御存知でした。
十二弟子さえ躊躇しました。
しかし、ペテロはきっぱりとイエス様への信仰告白をします。
その一方では、彼らの中に裏切りの影が忍び寄ってきています。
「マルコによる福音書」によく出てくる「メシアの秘密」というテーマは、
「ヨハネによる福音書」にも共通するものです。
神様の御計画は主の御心通りに実現しようとしています。
   

2013年2月13日水曜日

「ヨハネによる福音書」ガイドブック 6章22~59節 イエス様は命のパン 



イエス様は命のパン 62259
  
 
「ヨハネによる福音書」が奇跡の出来事を語るのは、
奇跡が人々の興味を引くからではありません。
イエス様のなさった「しるし」の目的はいつも、
奇跡の表面的な興味深さよりも
深く大いなることがらに関わっています。
ここでも、それはあてはまります。
食べ物の奇跡の後には、命のパンについての話が続きます。
ひどいことに、これほど壮大な奇跡をなさったにもかかわらず、
またしてもイエス様は人々から誤解され拒絶されることになります。
  
この内容豊かな箇所から、
私たちは幾つかのことを取り上げるのに留めましょう。
イエス様が命のパンについて語られる時、
そこには少なくとも三つの層が見出せます。
 
1)この話の背景には、食べ物の奇跡があり、
パンはまったく普通のパンを意味しています。
ユダヤ人たちは、命のパンを決してなくならない
(この世的な意味での)パンのことだと理解します。
 
2)この話の背景には、「箴言」9章(特に16節)があり、
そこには「知恵」が行う祝宴が描かれています。
「ヨハネによる福音書」のプロローグでは、
「知恵」=「ロゴス」=「御言葉」が肉となり、
人々の間に住まわれたことが語られています。
イエス様こそが、この「人となられた知恵」です。
この「知恵」は、
人々が間違った生き方を捨てて、
御自分の諭しを受ける道を歩みだすよう、
呼びかけています。
 
3)この話の背景には、新しい契約の食事、主の聖餐があります。
「ヨハネによる福音書」はこのことについて、
直接的にではないものの、十分明確に語っています。
キリストの肉を食べることと永遠の命についての話は、
まさに聖餐に結びついています。
11節での言葉遣いが、
聖餐式の設定の流れとほぼ一致しているとみなせることからも、
それがすでにわかります。
  
ここで起きた食べ物の奇跡は、
イエス様の教えによれば、二次的なものでした。
パンを求めてイエス様をさがすのは意味がありません。
イエス様の真の使命は、人々に神様の恵みをもたらすことでした。
そして、すべての核心にあるのが、キリストの死でした。
全世界の罪のために、イエス様は御自分を殺させたのであり、
世の罪を帳消しにするために、その血を流してくださったのです。
こうしてイエス様は、自ら「命のパン」となられました。
イエス様において、「知恵」が祝宴へと招待しています。
神様は人々を、
暗闇から救い出されて御自分の光の中で生きるように、
召してくださいました。
この祝宴に招かれた者は、死から命へと移っているのです。
  
この箇所が最高潮に達するのは、5259節です。
実は、それは「ヨハネによる福音書」の一番の核心となる
真理のおさらいでもあります。
つまり、人には
完全な救いがキリストの中にあり、またキリストの中にしかない、
ということです。

2013年2月11日月曜日

「ヨハネによる福音書」ガイドブック 6章16~21節 人々に顕現される神様 6章16~21節


 
人々に顕現される神様 61621
  
 
イスラエルの民がエジプトでの奴隷状態から解放された時には、
マナの奇跡(荒野で飢えたイスラエルの民に
神様が天からマナと呼ばれる食べ物を与えられたこと)と、
救いの奇跡(紅海がイスラエルの民の前で二つに分かれて
追っ手のエジプトの軍隊から救われたこと)とが、
互いに結びついていました。
このように聖書は、
キリストがこれらの奇跡に対応する奇跡を再び繰り返したこと
を証しているのです。
この奇跡に関して、
「ヨハネによる福音書」とその他の三つの福音書との記述は、
明らかに一致しています。
「ヨハネによる福音書」は、
イエス様が水の上を歩く奇跡とは別の奇跡についても語っています。
それは、
弟子たちの舟が岸から56キロほどの地点でイエス様に遭遇した後
すぐに目的地についた、という奇跡です。
  
イエス様は実に不思議なことを言われました。
この「私はある」という言葉は、
モーセが神様の御名前をお尋ねした時に彼に与えられた啓示
(「私はある、という者です」)を思い起こさせます
(「出エジプト記」314節)。
この出来事のメッセージは、
イエス様は湖を越えるために近道された、ということではなく、
全能なる神様が顕現された、ということです。
そして、まさにこれは
「ヨハネによる福音書」の1章冒頭の「ロゴス賛歌」のテーマです。

2013年2月8日金曜日

「ヨハネによる福音書」ガイドブック 6章1~15節 多くの人に食べ物を分け与える奇跡



多くの人に食べ物を分け与える奇跡 6115

数百年前には、
イエス様が本当に何千人もの人々に食べ物を分け与えられたという考えは、
学識のある人々には受け入れられるものではありませんでした。
彼らによれば、
第一に、そのような奇跡は自然に反することであり、
奇跡は決して起きないはずからです。
第二に、パンを次々と懐から出して配るような手品師などよりも
イエスは偉大なはずだからです。
イエスは実際にはパンの数量を増やしたのではなく、
自分の示した模範にしたがって
人々がめいめい自分のパンを
お腹のすいている他の人に分けるようにさせたのだ、
と彼らは説明しました。
  
実のところ、
この奇跡について読む人は、旧約聖書をひもとく必要があります。
「列王記下」44244節の出来事の流れは、
そこでの会話も含めて「ヨハネによる福音書」の内容とほぼ一致しています。
そして、
この奇跡のゆえに人々がイエス様を預言者とみなしたことがわかります。
はるか昔、神様が御自分の民の只中で行われた偉大なみわざが、
今再現されたことになるからです。
そして、
目に見える形での神の国の到来を人々が熱心に待ち望んでいた時代に、
イエス様の奇跡がどのような意味をもっていたか、もわかります。
  
おそるべきことに、
この大成功した奇跡は、一方では不幸ももたらしました。
人々は奇跡を見て、それを行ったのが神であることを認めました。
しかし、この時に彼らは神様の御子のことは拒んだのです。
イエス様は、パンを与える救世主(メシア)ではありませんでした。
表面的に快適な生活を送ることを目的として
イエス様をさがすべきではなかったのです。
奇跡もまた、
人々の心をイエス様への信仰で満たすことを、
その目的としていたからです。

2013年2月6日水曜日

「ヨハネによる福音書」ガイドブック 6章 祝宴に招く「知恵」


 
祝宴に招く「知恵」

「ヨハネによる福音書」6
  
  
今まで見て来たように、「ヨハネによる福音書」は、
多くの箇所で他の三つの福音書とは異なったやり方で、
イエス様のみわざを記述してきました。
しかし、この6章に至って、四つの福音書の記述は一挙に合流します。
多くの人々に食べ物を分け与える奇跡の後に
イエス様が水の上を歩かれる記述は、
「マルコによる福音書」でも共通しています。
他にも共通する点がいろいろとあります。
例として、
人々はイエス様から「しるし」を要求します
(「マルコによる福音書」81113節)。
ペテロはイエス様をキリストであると信仰告白します
(「マルコによる福音書」827節)。
「マルコによる福音書」(62738節)でも「ヨハネによる福音書」でも、
キリストの歩まれる道は、今はっきりと恥辱と下降へと向かっていきます。
  
「ヨハネによる福音書」が聖餐式の設定については語っていないことを
覚えている読者にとって、この6章の内容は困惑を招くでしょう。
確かにこの福音書は、聖餐について、直接には一度も言及していません。
にもかかわらず、
この6章は、聖餐式の施行について語っているものと考えないと、
まったく理解できなくなります。

「ヨハネによる福音書」が聖餐や洗礼について
ヴェールで覆うような書き方ばかりしている理由を、
研究者たちは説明できませんでした。
「ヨハネによる福音書」は、該当事項の記述に関して、
他の三つの福音書(とりわけ「マルコによる福音書」)に
信頼して任せたのかもしれませんし、
すでに聖餐や洗礼について基礎知識をもっている人々に対して
語りかけたかったのかもしれません。
あるいは、神様の御国の奥義を
すべての人には明かしたくなかったのかもしれません。
    
6章の意味は、5章との関連で明らかになります。
5章の終わりで、イエス様は、
すでにモーセが御自分について証していた、
と語られます。
ユダヤ人たちは、この証を旧約聖書から見つけることができませんでした。
にもかかわらず、キリストのみわざとペルソナは、
すでに旧約聖書の端々に見出されるものです。
大勢の人に食べ物を与える奇跡と、
イエス様が水の上を歩かれる奇跡とは、
まさにこのことに関連しているのです。