2008年12月31日水曜日

マルコによる福音書 第6回目の終わりのメッセージ

終わりのメッセージ

目に涙を浮かべて地獄へ

ヘロデ王は洗礼者ヨハネが死んだあとで、もう一度神様からのはっきりとした招きを受けました。イエス様が活動をはじめられ、イエス様の不思議な御言葉と御業とを耳にして、ヘロデの良心が目覚めました。彼は心が落ち着きません。夢の中でもヘロディアの娘が洗礼者ヨハネの血まみれの頭を盆に載せてもってきたときの有様がまざまざと浮かび上がりました。おびえた彼は言いました。「洗礼者ヨハネが死者の中からよみがえったのだ。」ふたたびヘロデは前と同じように心をノックする力強い音を聞いたのでした。今彼は死者の中からよみがえったヨハネのことを前よりもいっそう恐れていました。しかし、イエス様がヨハネのよみがえりではないことがわかると、まもなく彼の心は落ち着きを取り戻したように見えます。その安堵感は実はよくないことでした。ヘロデはふたたび罪や不信仰の中に眠り込んだからです。ヘロデは前とちっともかわらなかったどころか、前よりもかたくなになり、聖霊様の働きかけをまったく受け入れないようになってしまったのです。

イエス様が捕虜としてヘロデの前に連れ出されたとき、「イエス様をみることができて、ヘロデは喜んだ」と聖書は語っています。「喜んだ」ということは、ヘロデにはそのときまだ敏感な良心が残っていたのでしょうか。彼は、長い間心を苦しめてきた罪をイエス様に告白するつもりだったのでしょうか。ところが、彼が期待していたのは、イエス様が彼の目の前で何か奇跡をおこなうことにすぎませんでした。ヘロデの質問に対してイエス様は一言もお答えにはなりませんでした。イエス様が沈黙されるとは、おそろしいことです。ヘロデの地獄行きの準備は今や完全に整いました。このときヘロデはまだ地上にいたとはいえ、彼のための「罪の赦しの恵みを受ける時期」はすでに過ぎ去ってしまいました。「ヘロデはイエス様を侮辱して立ち去らせた」と聖書に書いてあるとおりです。

今聖霊様に心をふれていただきながら神様の御言葉を喜んで聞いているあなた、多くのことについて自信がなくなってきたあなた、福音の説教者を大切に思っているあなた、このようなあなたにもヘロデのようなことが起きるのでしょうか。涙を浮かべたままで地獄へと落ちていくつもりですか。愛する友よ、あなたはそんなところにいく必要はないのです。あなたはあがなわれています。イエス様の血によって罪ののろいからすでに解放されているのです。神様に受け入れていただくにはふさわしくない者として、そのような者を神様にふさわしい存在にかえてくださるお方を信じなさい。聖霊様はあなたが福音を信じるようにと招いておられます。

K.V.タンミネン (「よい守りの中で」)

マルコによる福音書について 第6回目の質問

第6回目の集まりのために

マルコによる福音書6章

イエス様は故郷のナザレで拒絶されます。洗礼者ヨハネは処刑されます。一方では、イエス様は福音を伝えるために弟子たちを派遣なさり、御自身も大きな奇跡を行われます。

1)マルコによる福音書は、イエス様が処女マリアからお生まれになったことについては語っていません。とはいえ、6章1~6節に基づけば、イエス様の誕生についてどのような結論を導き出すことができますか?

2)イエス様は故郷のナザレでは受け入れられませんでした。イエス様はそこでは昔から知られすぎていた人物だったからです。

現代の人々の間では、新しくあらわれた宗教的なさまざまな流れは、キリスト教よりも多くの興味と関心を集めているように見えます。ちょうどイエス様がナザレでそうだったように、キリスト教もまた現代の人々(とりわけクリスチャン)にとってあまりにも周知のことになってしまっているのでしょうか?

3)イエス様は弟子たちを、人間的に見ればたいした旅の用意もないままの状態で、派遣されました(6章7~13節)。財布ももたず、パンもなく、袋もないままで、弟子たちは福音を伝えるために派遣されたのです。私たちも同じようにして自分の身近な人たちのところに出かけていくことができますか?あるいは、海外宣教に行くことについてはどうですか?

4)ヘロデは新約聖書の中で、誕生日を祝う会を催したと伝えられる唯一の人間です。このことは私たちにとって何か意味をもっているでしょうか?誕生日には何をお祝いするのでしょうか?また少し歳をとったことでしょうか?それともそれは、神様の賜物と導きについて神様に感謝する時なのでしょうか?

5)ヘロデは洗礼者ヨハネを処刑したものの、心には依然として平安がありませんでした。死んだ後もなお人々の心を揺り動かしているような、教会史の中に登場する人物たちを、あなたがたは知っていますか?

6)旧約聖書のどの箇所に、大勢の人に食べ物を与える奇跡について記されていますか?

7)大勢の人に食べ物を与える奇跡の出来事には、とても大きな象徴的な意味もありました。これは特にマタイによる福音書において顕著です(マタイによる福音書14章15~21節)。イエス様は五つのパンと二匹の魚を祝福して、大群衆にも十分足りるような食べ物とされました。

私たちもまた飢餓で苦しんでいる世界の人々に対して、幾つかのパンと魚を差し出して、イエス様に祝福していただくことができるでしょうか?

8)イエス様が水の上を歩いたという奇跡は、多くの人にとってどうにも信じられないことがらです。「実はイエスは浜辺の岩の上を歩いたのだ」と説明する人たちが昔いました。今の多くの学者は「この出来事は作り話である」とためらいもなく断言しています。

こうした考え方は、このように主張する人々が聖書やあるいは一般的に超自然的な世界に対して取っている態度について、どのようなことを示していますか?

マルコによる福音書について 6章45~56節

湖の上を歩かれるイエス様 6章45~52節

群集に食事を与えた奇跡の後、イエス様は一時的に弟子たちから離れました。夜明け頃、舟にいた弟子たちはイエス様が彼らのところに歩いてこられるのを目にしました。恐れ切った弟子たちはわめきはじめました。イエス様は弟子たちを落ち着かせ、船に乗り込まれました。この出来事も、たんに奇跡のゆえに福音書に記されているわけではないのです。イエス様の奇跡はいつも御自身にゆだねられている権威についての「しるし」です。しかも、イエス様の多くの奇跡は旧約聖書のさまざまな奇跡の「現代版」だったのです。この箇所でもまた私たちは、今の奇跡の中に対応する旧約の時代の奇跡を思い起こすことができます。イスラエルの民は皆、葦の海の底を通って渡りました(出エジプト記14章)。この民は後にヨシュアの指導の下、ヨルダン川を渡りました(ヨシュア記3章)。エリヤとエリシャは自分の外套でヨルダン川を打つと、そこから水が左右に分かれました(列王記下2章8、14節)。同じような奇跡がイエス様を通してさらに大規模な形で繰り返されるのを読むとき、旧約聖書について知識のある読者は、「神様がふたたび御民の只中で目に見えるような形で活動されている」ことを理解することでしょう。ここでもうひとつ注目すべきことは、弟子たちの鈍くなった心です。一般の人々、さらにはイエス様のすぐそばにいた弟子たちの不信仰と神様をないがしろにする態度は、マルコによる福音書を貫いているとても重要なテーマです。


病人の癒し 6章53~56節

ゲネサレでは今まで何度も繰り返されてきたのと同じことが起きました。イエス様はたくさんの民を集めて、彼らに教え、また彼らを癒されたのでした。こうして神様の御国はますます拡大していきました。群集も増えていく一方でした。ガリラヤ全体にイエス様の活動は影響を及ぼすようになったのです。群集の規模が大きくなるにつれて、イエス様の活動に反対する人たちも多くなっていきました。次回ではイエス様と律法学者やファリサイ人たちとの間の激しい議論がもちあがります。

2008年12月18日木曜日

マルコによる福音書について 6章14~44節

福音の証人としての使命のおわり 6章14~29節

マルコによる福音書は、福音の証人たちが伝道旅行に出発したことを告げる一方で、福音の証人がはじめて殺害されたことについても記しています。洗礼者ヨハネはヘロデ王にとってはおそらくただでさえ好ましくない人物だったのでしょう。ヨハネが説教して、ヘロデが神様の御言葉に反した形で結婚をしていることを大胆にも叱ったため、ついにヘロデはヨハネを牢獄へ投げ込みました。しかし、ヘロデはヨハネを殺すことはできないまま、ヨハネの力強い宣教に喜んで耳を傾けていました。ここからの話は有名です。洗礼者ヨハネを憎んでいたヘロディアは、ヘロデの誕生日の祝会の席で自分の娘が浴びた賞賛をヨハネ殺害の口実にしたのです。この娘の名前はサロメ、紀元前10年頃生まれた彼女は例のヘロデの誕生会の時には20歳をやや下回る年齢の女性であり、踊りを披露しました。しかし、当時、王女が人前で踊ることはスキャンダルとみなされていたのです。
ヘロデ王の悪徳の宮廷では娘の踊りは酔いの回った人々の間で喝采を浴びました。ヘロディアの策略によりヨハネは首を切られ、こうして王と王妃の前からはついに邪魔者が取り除かれたかのように見えました。ところが、イエス様が神様の御国について説教なさったことを聞いて、ヘロデは自分の良心によって責められ、「イエスは、死者の中からよみがえったヨハネはないか」と怖れました。これでわかるように、ヘロデは自分が殺させたヨハネのことを心の中では忘れることができなかったのです。マルコによる福音書はこの矮小な王がどのような人生の結末を迎えたか、記していません。ヘロデは権力を失い、国外逃亡を強いられ、皆から忘れ去られて死にました。イエス様と洗礼者ヨハネがいなかったならば、ヘロデ王について耳にする機会は今の誰にもなかったことでしょう。


大群衆に食べ物を与える最初の奇跡 6章30~44節

使徒たちは伝道の旅から帰ってきました。イエス様は彼らを孤独になれるさびしいところに連れて行こうとされました。しかし、周りにいた群衆がイエス様から離れようとはしません。昔、イムラの子、預言者ミカヤが見たように(列王記上22章17節)、イエス様もまた民が「牧者のいない散り散りの羊の群れ」のようになっている有様を御覧になりました。イエス様は群集を避けずに、夕方まで彼らを教えられました。不意に何千人もの人々がイエス様の御許に集まってきていたこの状況では、食事のことなどは計画されてはいませんでした。イエス様は民のために食事を用意するように命じて、五つのパンと二匹の魚を祝福されました。こうして旧約聖書の奇跡が繰り返されることになったのでした。荒野を歩むイスラエルの民に対しては、十分なマナが与えられました。エリヤの時代にザレパテに住む寡婦に対しては、十分なかめの粉とびんの油が与えられました。エリシャもまた大勢の人に食べ物を与える奇跡を行いました(列王記下4章42~44節)。このように、福音書のこの箇所のメッセージは「何千人もの人々が食べて満ち足りた」ということだけではありません。イエス様のみわざは、「神様は御自分の救いのみわざをイエス様を通して繰り返しておられるのであり、しかもこの救いのみわざは、以前(旧約聖書の時代)のものよりもさらに偉大なものである」ということを意味していました。

2008年12月16日火曜日

マルコによる福音書について 6章1~13節

最初の宣教旅行

マルコによる福音書6章1~56節


ナザレ 不信仰の巣窟 6章1~6節

これまでイエス様は主にガリラヤの田舎の村々や小さな町で活動なさってきました。故郷の町ナザレではイエス様は教えなさいませんでした。ようやく今ナザレの番になったのです。イエス様がシナゴーグで教えると、すぐさま聴衆はイエス様の権威について議論し始めました。いったい誰が彼に、他の教師たちとはまったく違って、偉大な権威をもって心に響くように教える権能を与えたのだろうか?なぜほかならぬ彼を通して大いなる奇跡が起きているのだろうか?これらの疑問に人々は答えを求めました。答えはひとつしかありません。この町で生まれ育ったこの男の人は、驚くべきことに、「神の人」だ、ということです。しかしナザレの住民たちはこうは結論せず、逆にイエス様を拒みました。ナザレ出身のイエス様は昔から町の人々の知り合いだったからです。周りからイエス様は「マリアの子」と意地悪く呼ばれていました。ふつうだったら男の人は自分の父親の息子として呼ばれるものでした。たとえば、「ヨナの子シモン」(ペテロのこと)というように。「マリアの子」という呼び名には、「イエス様の本当の父親が誰であるかわからない」ことを揶揄する侮蔑が含まれていました。ナザレのユダヤ人たちと後のクリスチャンたちとは少なくともひとつの点で意見が一致していました。すなわち、ヨセフはイエス様の本当の父親ではない、ということです。このように、イエス様はナザレで受け入れられませんでした。これで害をこうむったのは、イエス様ではなく、ナザレの人々だったのです。故郷の人々の不信仰に驚きつつも、イエス様は人々を教えたり癒したりしながら他の地方へと旅をつづけられました。


福音の宣教 6章7~13節
弟子たちをはじめて福音の宣教のために派遣することは、マタイ、マルコ、ルカによる福音書において大きな意味をもっている大切な出来事でした。この段階でイエス様の教えが文字通り全土に広がり始めます。ユダヤ人の慣習によれば、ものごとの真偽を確証するためには、ふたりの証人が必要でした。たぶんそういうわけで、12人の使徒たちはふたりずつの組に分けられて、十分な持ち物も携えずに伝道の旅へと出発したのでした。「人は皆、神様の御許へと方向転換しなければならない」というメッセージを伝えるために、彼らはお金もパンもカバンももたずに出て行きました。弟子たちは、「不信仰の人々に対してはその証として、あなたがたの足についた塵を払い落としなさい」(11節)というイエス様の教えを実行に移さざるを得ないこともあったでしょう。しかし一方では、悪霊は斥けられ、病人は癒され、福音は聞き手に受け入れられました。

2008年12月12日金曜日

マルコによる福音書 第5回目の終わりのメッセージ

終わりのメッセージ

主は低くし、また高くされます。(サムエル記上2章7節)

信仰ってなんてすばらしいんでしょう!考えてもみてください。信仰をいただいたあとで、信仰をもったり、信仰を保ったりすることが、私たち自身の力にかかっているとしたら!すべてはもちろん信仰によって決まります。悪魔や死も信仰をみて逃げ出します。しかし、どのように私は信仰をいただいてそれを保つのでしょうか。答え。神様は信仰を与えたり取り去ったり、信仰を弱めたり強めたりすることを、自由に御心のままにおこなうようにお定めになりました。神様を正しくしるようになるために、私たちも、すべての聖なる信仰者と同様に、このことを身をもって体験することができました。このように神様は、一瞬のうちに私に大きな信仰をくださることがあるし、また、気がつかないうちに私たちの信仰を弱らせる一方で、大きな罪人に信仰をお与えになることもあるのです。

でも、どうして神様は聖徒に強い信仰を絶えずくださらないのでしょうか。それは、彼らが自分の中から信仰がでてくるかのように錯覚し、自分があたかも神になったかのように考えて、尊大になったりはしないためです。神様は聖徒が「御自分が神様である」ことを学ぶようにし、「自分自身をしる」ようにさせて、へりくだったままになさいます。このことを神様は私たちや聖徒ひとりひとりに要求なさっています。聖徒は皆、神様の御前でひれ伏すべきだし、「私は取るに足らない存在です。私には何もできません。」と、心を込めて告白するべきです。私たちは皆、神様の御前では平等です。財産や才能などの賜物は人それぞれですが、それらもすべて神様からいただいたものなのです。

マルティン・ルター (「神様の子供たちに与えるマナ」)

2008年12月8日月曜日

マルコによる福音書について 第5回目の質問

第5回目の集まりのために

マルコによる福音書4章35節~5章42節

マルコによる福音書はイエス様がなさった多くの奇跡について語っています。そして、それらの奇跡はイエス様の権威を示しています。
 
1)私たちは今回の箇所で、イエス様の権威に関する問題にくりかえし遭遇します。

イエス様が嵐の湖を鎮めることができたことに、私たちは今でも驚きますか?この出来事は現代では、どのような人たちの心に響くでしょうか?この箇所の他の奇跡の出来事についてはどうでしょうか?

2)マルコによる福音書は、ある奇跡がゲラサで起きたと記しています。しかし、ゲラサはゲネサレト湖から遠く離れています。この「矛盾」を解消するために幾つかの新約聖書の写本はゲラサの代わりにゲダラという地名を記しています。また、聖書に通暁していた教父オリゲネスはゲルゲサという地名を提案しています。しかしながら、奇跡が起きたのは、まず間違いなくゲラサでした。しかもその近くには、豚の大群が溺れ死んでしまうほど大きな湖はありません。

このような説明の難しいことがらは、私たちの聖書に対する関係にどのような意味をもっているでしょうか?これらのことを乗り越えて、「聖書は神様の御言葉です」とあなたは言えますか?

3)どうして悪霊の名前はレギオンだったのでしょうか?ローマ帝国のレギオンには何人ぐらいの兵士がいましたか?

4)悪霊から解放された男はイエス様の弟子たちの仲間に入ることは許されませんでした。彼は自分が悪霊から解放されたことについて自分の身近にいる人々に語る使命を与えられました。

私たちは「イエス様について話す」という使命を、身近にいる人たちや自分の家族や親戚や友人たちの間で、どのように果たしてきたでしょうか?

5)なぜイエス様は娘の両親に対して娘が生き返った奇跡について誰にも話さないようにと命じられたのでしょうか?

6)血が流れ続ける病気から癒された女の信仰はどのようなものだったのでしょうか?
なぜイエス様はその女を捜されたのでしょうか?

7)ヤイロの家でイエス様は御自分が「死の上に立つ主」でもあることを示されました。

このことは私たちにとってどのような意味をもっているでしょうか?あなたがたは、自分自身の来るべき死についてどのような思いをいだいていますか?

2008年12月1日月曜日

マルコによる福音書について 4章35節~5章43節

奇跡

マルコによる福音書4章35節~5章43節


再び、イエス様の権威について 4章35~41節

いろいろなたとえを話された後で、イエス様は弟子たちを舟に連れて行き、彼らと共に向こう岸に向かわれました。嵐になり、一行はおぼれそうになりました。すさまじい嵐の中でイエス様は眠っておられました。しまいにはおびえきった弟子たちが眠っているイエス様をゆり起こしました。主は起き上がって風と荒れ狂う海とを叱りました。すると嵐は鎮まりました。イエス様は弟子たちを叱りました。たぶん彼らは今や嵐の時以上に恐れをなしていたことでしょう。自然界の力さえも従わせることができるこの先生は、いったいどのような権威の後ろ盾によって活動なさっているのでしょうか?自然界に命じてそれを従わせることができるのは、すべてを創り保たれるお方しかいないはずです!


レギオンを処罰する 5章1~20節 

イエス様は湖の反対側、ゲラサという町に来ました。この地名がここで登場するのは謎めいています。というのは、ゲラサはゲネサレ湖畔から約60キロメートル離れたデカポリスという地域に位置していたからです。ここで町の名前が挙げられているのは、ゲラサがデカポリス最大の町であり、また福音書が異邦人の土地については大雑把な地理で十分だとみなしていたからではないでしょうか?この箇所でイエス様を出迎えたのはデーモン(悪霊)によって苦しめられていた男でした。デーモンはレギオンと名乗りました。ローマ帝国のレギオンは約6千名の男たちによって構成された軍隊の単位です。イエス様はデーモンの群れをその男から追い出して、近くにいた豚の群れに入ることを許されました。約2千頭の群れは崖の下めがけてなだれこみ、失われました。男はデーモンから解放され、正気に戻り、ちゃんと服を着てイエス様に従い、その場に座っていました。その男を以前から知っていたその地方の人々は皆驚きました。彼らはイエス様が立ち去ってくれるように頼みました。デーモンから解放された男は、自分の町でこの奇跡について周りの人に語るという使命を受けました。

この出来事を福音書でさらっと読むとき、同時によくわからない点が出てきます。そもそもなぜマルコによる福音書にこの出来事が取り上げられているのでしょうか?たぶん2千頭の豚の群れが湖になだれこむ光景がそのひとつの理由でしょう。もうひとつの理由として、モーセの律法によれば、豚は汚れた動物であり、ユダヤ人たちにはそれを食べることが許されていなかったことが考えられます(レビ記11章7節)。しかし、この出来事でも中心的なテーマはイエス様の偉大な力です。目に見える形で悪霊たちを人から追い出すことができるこの方はふつうの人間ではないし、それを自分の権威に基づいて行ったはずもありません。

2008年11月28日金曜日

マルコによる福音書 第4回目の終わりのメッセージ

終わりのメッセージ

天の御国は人が取って自分の畑に蒔く一粒のからし種のようなものです。
(マタイによる福音書13章31節)

人が自分の畑に蒔くいろいろな種が一粒ずつ私たちの目の前にあると、想像してみましょう。それらの種を大きさの順に並べます。じゃがいもの大きさの種、親指の先の大きさの種、小指の先の大きさの種、ボタンの大きさの種。そして、列の最後にあるのがからし種です。そして、多くの人の目には、まさにそのようなものが天の御国なのです。

この御国の王様をごらんなさい!この王様の誕生をみつめさい。この方は動物小屋でお生まれになりました。この王様の生き方をみなさい!この方が地上で生きておられた間、取税人や罪人がこの方の栄光をあらわしている一隊です。この王様の死をみつめなさい。この方は十字架で「悪をおこなった者」とみなされ死にました。この御国の臣民をみなさい!イエス様はこう言われます。
「お父様、私はあなたを賛美します。あなたはこれらのことを賢く理解力のある者たちから隠して、子供のような心の持ち主に告げてくださいました。お父様、そうです、これはあなたの御前であなたの御心にかなうことでした。」(ルカによる福音書10章21節)
パウロはこう言っています。
「兄弟たち、自分の召された状態を思い出してごらんなさい。人間的にみて賢かったり、権力があったり、身分の高い者はあまりいませんでした。それとは逆に、神様はこの世の愚かな者を選ばれました。それは、賢い者を恥じ入らせるためでした。神様はこの世の弱い者を選ばれました。それは、強い者を恥じ入らせるためでした。神様はこの世で身分の低い者や軽んじられている者、つまり無に等しい者を選ばれました。それは、有力な者を無力にするためでした。」(コリントの信徒への第1の手紙1章26~28節)
このような者が「天の御国の臣民」なのです。

この天国の活動に目を留めなさい!あそこでは幼子が洗礼を受けています。この子は神様の御国の臣民として受け入れられるのです。数滴の水の雫が目に見える手段です。あそこでは聖餐式がおこなわれています。キリストのからだなるパンと、キリストの血なるぶどう酒が配られています。聖餐は御国の臣民を敵との戦いのために強めます。多くの人はこれら取るに足りなく見える手段(洗礼での水と聖餐でのパンとぶどう酒)を軽んじてつまずきます。

なによりもまず、この王国は御言葉をとおしてはたらきます。御言葉を宣べ伝えることが御国のもつ武器です。その武器とは、罪についての証と、キリストにおける神様の恵みについての証、悔い改めの説教、罪の赦しの宣教です。「神様はキリストにおいて世を御自分と和解させ、彼らの罪過を彼らに負わせることをしないで、私たちに和解の福音をゆだねてくださいました。」(コリントの信徒への第2の手紙5章19節)
キリストはすべての人を御自分の血によってあがなってくださいました。そして、このことについてふさわしい時に宣べ伝えるようにと、命じられました。神様の御国が活動するところでは、十字架につけられたキリストについて説教されています。キリストが帰ってこられるまで、キリストの死が宣教されつづけるのです。

K.V.タンミネン (「よい守りの中で」)

2008年11月24日月曜日

マルコによる福音書について 第4回目の質問

第4回目の集まりのために

マルコによる福音書4章1~34節

イエス様は神様の御国についてたとえを話されます。

1)イエス様がたとえを用いることで、神様の御国を聴衆の大部分に対して隠しておられるのは、不意を衝かれる思いがします(4章11~12節)。イエス様にはこうなさるどのような権利をおもちなのでしょうか?イエス様は今でも同じようになさることがありうるでしょうか?この問題について、私たちは何を考えるべきでしょうか?

2)現代では、どのような人たちが、どのような状況で、御言葉を聞いてもすぐに忘れてしまうものでしょうか?

3)現代では、どのような人たちが、御言葉を聞いてそれを受け入れても、すぐにそのあとそれを捨ててしまいますか?

4)現代では、どのような人たちが、この世的な欲望のせいで神様の御言葉を忘れてしまうものでしょうか?イエス様は富について厳しく警告しておられます。それは私たちにとってどういう意味があるでしょうか?

5)種蒔きの人のたとえは、神様の御言葉に対してどのような意味を与えていますか?聖書は、私たちの所属しているそれぞれの教会において、それにふさわしい位置づけがなされているでしょうか?

6)「ともし火を入れ皿の下に隠し置いてはいけない」とイエス様は言われています。私たちは神様の御言葉を周りの人たちに公に伝えることを恥ずかしく思っていますか?しかし、そうすることで、神様が私たちを罰して私たちから御言葉を取り去られるとしたら、どうですか?

7)神様の御言葉には4章26~29節のたとえも関係しています。このたとえのメッセージは何でしょうか?

8)神様の御国を待ち望んでいたクリスチャンたちの他にも、まったく新しい世界を待望していた人たちがいました。現代において、より公正で平等な新しい世界を望んでいる人々と、私たちクリスチャンの間には、どのような共通点と相違点があるでしょうか?

9)4章30~32節を読んでください。どの国が今現在における大国であり、誰がこの世の運命を握っているように見えますか?神様の御国は「からし種の木」のように私たちの目には「小さく取るに足りないもの」に見えるのでしょうか?この聖書の箇所に基づいて、私たちの信仰について、何か具体的な結論を導くことができますか?

2008年11月21日金曜日

マルコによる福音書について 4章24~34節

成長させてくださる神様 4章24~29節

イエス様は神様の御国や御言葉について語られます。イエス様はたとえを説明はなさいません。しかし、たとえ自体は容易に理解されるはずです。農夫が種を蒔きました。その後は長い間何もすることがありません。種は芽を出し、まったく自然に茎を伸ばし、それから穂をつけ、さらに穂の中に実をならせます。ようやく収穫のときになって、農夫は畑に向かいます。このたとえでは農夫は神様であり、畑は世であり、種は神様の御言葉です。つまり、神様はこの世では御言葉を通して働きかけられているのです。神様が望まれることを実現するのは、御言葉です。信仰が人々の間に広がっていくのは、人間の業績ではなく、神様の奇跡です。時が来て、神様は御言葉を人々に与えてくださいます。また、「神様の時」が来ると、神様は刈入れをするために使者を派遣されます。ここで「刈入れ」は最後の裁きを意味していると思われます。


小さな種から大きな木へ 4章30~34節

私たちに馴染み深いからし種の木はとても小さく取るに足りないものに見えます。それは蒔かれるとぐんぐん成長して、終いには大きな木になります。麦の実よりもずっと小さい種も驚くほど大きく成長するわけです。これと同じように、神様の御国もこの世では非常に小さく取るに足らないような存在に見えます。しかし、それはどんどん成長して強くなり、ついには全国民に避けどころを提供するほどまでになります。大きな木の陰に巣を作る空の鳥たちのたとえは、ダニエル書への引用です(4章16~19節)。その箇所ではネブカドネザルの強大な権力が「いたるところに枝を伸ばしている木」にたとえられています。ダニエルはネブカドネザルに対して、神様がこの「大木」すなわちバビロン帝国を倒すことを予言しているのです。これとは反対に、小さくて取るに足りないように見える神様の御国は大きく強く成長していくわけです。

2008年11月17日月曜日

マルコによる福音書について 4章13~23節

たとえの説明 4章13~20節

弟子たちは今やっとたとえの説明を聞くことができます。たとえのキーポイントは、「蒔かれる種は神様の御言葉だ」ということです。この鍵が見つかりさえすれば、後は説明の必要もなくたとえ全体の意味が明らかになります。種は神様の御言葉であり、さまざまな土地はさまざまな人々をあらわしています。種のさまざまな成長の仕方は、神様の御言葉がさまざまな仕方で人の中で影響を与えることを意味しています。

道端に落ちた種は、聞く耳を持たない聴衆に語られた神様の御言葉のようなものです。彼らは御言葉を聞きはするものの、それに気にも留めません。サタンが御言葉をすぐに取り去ってしまうので、それが「芽を出す」暇もありません。聞かれたと思ったらすぐに忘れれてしまいます。神様の福音が彼らの心に触れることもありません。

岩場では種はすぐに芽を出しますが、太陽に照らされて乾ききり、実をならせるにはいたりません。ここで描かれているのは、神様の御言葉を喜んで受け入れるものの、それをあっという間に捨ててしまう人たちのことです。彼らが御言葉を捨てる理由として、イエス様は困難や迫害などの外面的なことがらを挙げておられます。もちろん人間の外側ばかりではなく内側にも御言葉を捨て去る原因が見出せます。多くの人はいともたやすく疲れ果て、もう神様の福音を必要とはしなくなるのです。

茨の茂みに蒔かれた種は芽を出し、長く生きます。ただし、この芽にはひとつ一番大切なものが欠けたままです。それは収穫の実です。実を得るためにこそ種は蒔かれたのです。このような土地は、御言葉を受け入れてその生徒ととして留まりはするものの、最終的にはこの世的なものに飲み込まれてしまう人たちを描いています。富や心配やさまざまなこの世的な欲望が人を振り回すため、その人は実がならないままに終わるのです。

よい土地に落ちた神様の御言葉の種はちゃんと本来の目的を果たします。人は神様の御言葉の忠実な生徒として最後まで留まりつづけます。神様が御言葉について説教させるのは、このことが御言葉を聴く人のなかで起こるようにするためです。他のケースでは、御言葉を教えたとしても、聞き手の人にとっては無意味で無駄なことになってしまいます。


福音を公に 4章21~23節

前のたとえは、「どうすれば神様の御言葉を正しく聴くことができるか」についてのイエス様の教えが関係しています。神様の御言葉の光を心にいただいた者は、それを隠していてはいけないのです。ロウソクに火を点した者は、そのロウソクを入れ皿で覆ったりはしません。火のついたロウソクは、部屋全体を明るくするように、できるだけよい場所に置かれるものです。これと同じように、神様の御言葉は世界全体に向けられています。御言葉には恥ずべきことや隠すべきことは何もありません。マルコによる福音書の続きの箇所もまたこのことに関係しています。御言葉は注意深く聴かれるべきものだし、さらに先へと伝えられていくべきものです。先へと伝えていくべき御言葉が多ければ多いほど、神様はそれだけ多くの御言葉についての理解力を、御言葉を伝える人に与えてくださいます。それにひきかえ、御言葉を恥じ覆い隠す人からは、その人がもっていたわずかばかりの御言葉を理解する力も奪われてしまいます。

2008年11月14日金曜日

マルコによる福音書について 4章1~12節

神様の御国

マルコによる福音書4章1~34節

マルコによる福音書の4章には、神様の御国に関するイエス様のたとえ話が多く取り上げられています。イエス様のたとえ話は物語としてもすばらしいものばかりです。時代は移りゆきますが、たとえ話はいつの時代にも働きかける新鮮さを保っています。それらは、たとえばヨーロッパの国々の国民の言葉遣いに、消えることのないはっきりとした痕跡を残しつづけています。


謎めいた話 4章1~9節

「種蒔きの人のたとえ」は、イエス様の「かわった教え方」をよく示しています。イエス様はたとえを話され、それについて説明なさいませんでした。その意味を理解しなかった者はまもなくイエス様の御言葉を忘れてしまったにちがいありません。たとえの意味を理解した者は、生涯にわたって考えてゆくべき教えをいただいたのでした。
イエス様は種蒔きに出かけた男について語っています。イエス様がこの世で生きておられた時代には、人々は種蒔きを可能にする雨を長いこと熱心に待ちつづけることがよくありました。ようやく雨が降ると、種を蒔く人が仕事を始めます。はじめに土を耕すのではなく、まず種が蒔かれ、それからそれを土によって覆います。いくつかの種は道端に落ちました。これらの種は芽を出す暇もなく、鳥にあっという間に食べられてしまいました。いくつかの種は岩の上に落ち、すぐに芽を出しましたが、まもなく枯れてしまいました。いくつかの種は茨の茂みの中に落ちました。そこで種は芽を出し伸び始めましたが、覆いかぶさるようにして茂る茨がその成長を阻み、実をつけるには至らせませんでした。残りの種はよい土地に落ちて、種を蒔いた人の期待通りの収穫をもたらしました。うまくいった場合にはもとの10倍の実を得ることができました。100倍の重さの収穫を得るのは、ほぼ実現不可能な夢にすぎませんでした。もっとも、ひとつの籾には平均的に約35個の実が入っており、非常によい条件の下では100個の実が得られることもありました。


メッセージの意図的な隠蔽 4章10~12節

イエス様はたとえを聴衆全員には説明なさいませんでした。たとえの意味がわかった人もいれば、忘れてしまう人もいました。たとえを理解したのは、イエス様こそ神様がその到来をあらかじめ約束されていたキリストにほかならないことを理解した人たちのみでした。弟子たちはたとえの意味をイエス様にたずねました。イエス様は、「神様の御国を聴衆から隠すためにたとえで語るのです。」とはっきり言われました。これは神様の民の歴史の中で初めてのことではありません。主の御言葉のひとつの目的は、民の大部分をかたくなにし、御言葉が彼らの傍らを素通りすることだからです。神様は預言者イザヤを遣わして御自分のメッセージを民に伝えさせました。すでにイザヤが召命されるときにイザヤが見た幻の中で、神様のメッセージが民に受け入れられないことが告げられています(イザヤ書6章)。このイザヤの言葉をイエス様はここで引用し弟子に語られたのでした。この福音書の箇所では、今まで何度も触れられてきた「メシアの秘密」はおそらくもっとも明瞭で、しかもおそるべき様相を呈しているのではないでしょうか?

2008年11月5日水曜日

マルコによる福音書 第3回目の終わりのメッセージ

終わりのメッセージ

弟子たちのうちの多くの者は、これを聞いて言いました。
「これはひどい言葉だ。誰がこんなことを聞くに堪えうるだろうか。」
(ヨハネによる福音書6章60節)

この御言葉は私たちを慰めるために書かれています。「福音が世にどんどん広まっていくときに、福音を広めるのに最適とも思える人たちの中から福音を捨て去る者たちが意外にもあらわれる。」ということを私たちが知るために、この御言葉は与えられているのです。私がしばしば困惑したのは、御自分の弟子たちの中で説教職を務められるときに、キリストがあまりにも弱々しいため、悪魔が強気に出て、福音伝道の最前線に立っている者たち(ここでは弟子たち)さえも皆そろって福音を捨て去るような事態に立ち至らせる、ということです。「友よ、こんなに変なことが起きるようでは、先生の教えは正しいのだろうか。神様の御手は先生と共にあるのだろうか。」と誰しも考え込まずにはいられないことでしょう。
ここで私たちはすぐに目をつむってこう言わなければなりません。「立ちつづけることができないものは倒れるがよい。それでも真理は真理でありつづけるのだから。こんなことは驚くにはおよばない。主キリスト御自身にも同じことが起きたではないか。キリストも見捨てられたではないか。」
私たちも皆、耐えつづけることができますか。信仰を捨て去る者が増えようが、迫害が来ようが、かまいはしません。この教えを抹消することなど決してできないのですから。これからも福音は、権力や学者や貴族以外のものにその基礎をおいているのですから。

マルティン・ルター (「神様の子供たちに与えるマナ」)

2008年10月30日木曜日

マルコによる福音書について 第3回目の質問

第3回目の集まりのために

マルコによる福音書3章7~35節

イエス様は12人の使徒を召されました。またイエス様の評判がまわりに広がっていきました。それと共に、イエス様に反対する人たちも増えてきました。

1)人々は様々な方角からイエス様の御許に集まって来ました。それを地図で確かめてみてください。すでにこの段階でユダヤやエルサレムからも来ていた人たちがいた、というのは、この福音書の続きの部分と何か意味深いつながりがあるでしょうか?

2)なぜイエス様は使徒をちょうど12人だけ選ばれたのでしょうか?

3)「新しい12使徒がこの地上に存在しており、人々に誤謬なく教えている」と信じるグループがあります。あなたがたはこれについてどう思いますか?

4)イエス様の身内の者たちはイエス様を信じませんでした(3章21、31、35節)。なぜマルコによる福音書はこのことを包み隠さずにはっきりと述べているのでしょうか?

5)新約聖書が「主の兄弟」ヤコブについて何を語っているか、調べてください。ヤコブはマルコによる福音書6章3節で「イエス様の弟」として言及されています。おそらく彼もまたイエス様を家に連れ戻そうとしたグループに入っていたことでしょう(マルコによる福音書3章20~21節)。彼は自分の不信仰をもあらわにしました(ヨハネによる福音書7章1~10節)。ところが、イエス様が復活され昇天された後の状況を描き出している聖書の「使徒の働き」では、ヤコブはペテロの後任としてエルサレムの原始教会の指導者になっています(使徒の働き12章17節、15章13節、21章18節)。パウロはヤコブのことを「柱」と呼ばれる、教会の中心的な人物たちの一人として挙げています(ガラテアの信徒への手紙1章19節、2章9節)。
ヤコブの回心については新約聖書には記述がありません。この問題に関連した唯一の説明は、コリントの信徒への第1の手紙15章7節です。この箇所からどのようなことがわかるでしょうか?

6)「聖霊様を侮蔑すること」は、霊的、信仰的なことがらにかかわるカウンセリングでの話し合いの中でしばしば取り扱われるテーマのひとつです。それは、せっかく神様が人に仕事(使命)を与えようと招いてくださっているのに、その人がそれを軽んじて拒絶することです。つまり簡単に言うと、「不信仰」です。この不信仰の結果、神様なる聖霊様はその人を招くのを止められます。
聖霊様が人の中で仕事を止めてはおられないことを、私たちはどこから知ることができますか?何が聖霊様の使命でしょうか?たとえば、ヨハネによる福音書15章26節、16章12~15節を参照してください。

7)イエス様は御自分の母親や弟たちや妹たちと話すために出てこられようとはなさいませんでした。そして、神様の御心を行っている人皆が、御自分の母であり、弟であり、妹である、と言われました。
この御言葉は、誰に対して苦々しいものでしたか?誰に対して明るく喜ばしい教えでしたか?また私たちに対して、それはどのような意味を持っているでしょうか?

2008年10月27日月曜日

マルコによる福音書について 3章22~35節

何の権威によって? 悪魔の親玉の権威によって? 3章22~30節

これまでにも私たちは何度もイエス様の権威についての質問に出会ってきました。エルサレムからやってきた律法学者たちはある答えをひねり出しました。「イエスは悪魔の親玉ベルゼブルの与えた権威によって活動している。」というものです。「もしも大物の悪魔が権威を与えたのなら、その力によって小物の悪魔が退いたとしても、何の不思議もあるまい。」というわけです。
イエス様はこのような「答え」が的外れであることを速やかにかつ徹底的に示されます。「悪魔は自分の仲間の働きを邪魔したりはしないものです。もしもサタンが自分の仲間を迫害しはじめたのだとしたら、本当に奇妙な状況になるしょう。そうではないのです。悪魔を追い出しているのはサタンなどではなく、サタンに反対する力なのです。それでは、この「力」は何でしょうか?少なくともそれはサタンよりも強い力です。頼りなく弱い何者かが、それよりも強い人をやっつけて何かを奪い去っていくような真似はできません。サタンの支配権は崩れつつあり、それはサタンよりも強いお方が働きはじめている証拠なのです。」

イエス様の権威についての問題は、次のように再び書き換えることができます。
「もしもイエス様に権威を与えた者がサタンではなく、サタンよりも強い存在だったとしたら、それはいったい誰なのでしょうか?」
イエス様は典型的なユダヤ人であり、御自分の質問にはお答えにはなりません。しかし、正しい答えはもちろんひとつだけです。
「イエス様の中では、御自分の権威によってサタンを追い払われる全能の神様が働かれているのです。」

間違った教えを与えたエルサレムから来た律法学者たちに対して、イエス様は非常に厳しい御言葉を向けられました。彼らは神様の御霊とその力を確かに感じていたにもかかわらず、戦略的な理由からイエス様を拒絶し、イエス様と共に働いておられる神様の御霊もを否定したのです。神様の働きを拒絶する者は、聖霊様を侮蔑しており、もはや罪を赦されることはありません。イエス様のここでの警告は、何か不注意な言葉遣いに対してではなく、「イエス様を拒絶すること」について向けられています。
聖霊様に対する罪とは「不信仰」にほかなりません。


イエス様の真の身内の者たち 3章31~35節

イエス様とその身内の者たちについての描写がつづきます。興味深いことに、イエス様の父親はでてきません。しかし、母親と弟たちや妹たちはイエス様に対してある種の義務感から、イエス様のおられた家の外で立ち、イエス様と共に話し合う機会を待っていました。イエス様の権威を認めていなかった彼らは、「イエス様は気が狂った」と思ったのです。イエス様は身内の者たちと話すために外に出てきたりはなさいませんでした。そのかわり、イエス様は周りにいる人たちに対してこう言われました。
「神様の御心を行う者たちは、神様の弟たちであり妹たちでありまた母たちなのです。」
この世で生きておられたときにイエス様は、親戚や家族による保護もなく、ひとりぼっちでした。誰からもイエス様は、御自分の使命をまっとうされるための支えを受けることはなかったのです。

2008年10月24日金曜日

マルコによる福音書について 3章7~21節

強まる反対

マルコによる福音書3章7~35節

前回では、イエス様の活動によって皆がいかにイエス様の権威の偉大さに驚嘆したか、述べました。一方では、イエス様の活動がどのように人々の反対と怒りを生むようになっていったかについても触れました。今回の箇所では、この反対と怒りが強まっていく過程を、私たちは目の当たりにすることになります。


広まっていくイエス様の評判 3章7~12節

イエス様はゲネサレ湖のほとりで仕事をつづけておられました。イエス様は福音を説教し、病人を癒し、悪霊を人々から追い出されました。イエス様は悪霊が御自分について証できないように口を封じられました。イエス様の評判は時と共に広がっていきました。そして、イエス様のはじめられた運動も拡大していきました。ガリラヤだけではなく他の地方からも人々はイエス様の御許に押し寄せてきました。遠く北やユダヤやエルサレムからも、イエス様の話を聞きに、あるいはイエス様に助けを求めに、人々が訪れました。イエス様の周りは人で混み合うようになったのです。


12人の使徒たち 2章13~19節

イエス様は12人の使徒たちと共に山に登りました。イエス様は彼らにまったく特別な使命を用意しておられたのです。イエス様にはこの使徒のグループに属していない弟子たちや親しい友人たちもたくさんいました。

主がちょうど12人の使徒を選んだのは偶然ではありません。彼らがイスラエルの12部族に対応するように選ばれたのは間違いないでしょう。彼らには神様の御国においてまったく独自の使命がありました。彼らはキリストの受難と復活の証人となったのです。キリストの教会は常に「使徒的な信仰」の中に留まっているところにのみ存在してきました。

イエス様に従った人たちをより詳しく調べてみると、いろいろ興味深いことがわかってきます。とくに驚くべきことは、イエス様は「政治的には互いにまったく異なった考え方をしている者たち」をひとつにまとめられた、ということでしょう。カナネ―ウス・シモンは疑いの余地なく「ゼーロータイ」(熱心党)に属する民族解放運動の闘士でした。一方で、同じ使徒のグループには(ローマの手先として働いていた)取税人も属していました。このように、イエス様の使徒たちの中には本来なら互いに最悪の敵同士であるはずの人々がひとつのグループとなり、先生の赴くところならどこにでも従って行ったのでした。


イエス様の不信仰な身内の者たち 3章20~21節

イエス様の周りに集まる人たちの群れはどんどん増えていくばかりでした。マルコによる福音書は予想外の出来事について手短に報告しています。イエス様の身内の者たちは、イエス様の権威を理解せず、イエス様を家に連れ戻すつもりでした。彼らはイエス様の頭がおかしくなったのだと思い込み、イエス様を群集の中から連れ出そうとしました。イエス様の身内の者たちの不信仰については、他の福音書にも記述があります(とりわけヨハネによる福音書7章1~10節)。とはいえ、後になってイエス様の身内の者たちも、イエス様の権威が神様がお与えになった「本物」であることを信じるようになったように見えます。今扱っている箇所でイエス様の身内の者たちがイエス様のことがわからなかったという「盲目さ」は、マルコによる福音書では「メシアの秘密」と呼ばれる大きな全体の流れの中で理解されるべきものなのでしょう。福音書は、意外で残念な出来事であってもそれを無視して素通りしたりはしません。そのようなこともまた「イエス様の主権がどれほど隠されたものであったか」を示しているからです。

2008年10月21日火曜日

マルコによる福音書 第2回目の終わりのメッセージ

終わりのメッセージ

私の中にとどまりなさい

「人はもしも私の中にいなければ、枝のように外に投げ捨てられて枯れてしまいます。それらはひとつにかき集められて、火に投げ込まれ、焼かれてしまいます。」(ヨハネによる福音書15章6節)と、イエス様は言われています。
私は、どうすればキリストの中にとどまって、「生の枝」でありつづけることができるのでしょうか。生きるために幹から流れ出る樹液を取り入れつづける限りは、枝は新鮮さを保ちます。枝は、木の助けを必要としつづける限り、緑の葉っぱと木の実をみのらせます。あなたは、キリストの血による罪の赦しを受けた「ちっぽけで惨めな罪人」でありつづける限り、「枝」でもありつづけるのです。キリストのからだと血とが貧しい罪人の唯一の(天国への)「旅のお弁当」です。あなたは、それらを自分に必要としつづける限りは、生きつづけることもできます。
「わたしのからだを食べ、私の血を飲む者は、私の中にとどまり、私もその人の中にとどまります。」(ヨハネによる福音書6章56節)と、イエス様は言われています。
まさしくこの「とるにたりない罪人の立場にとどまる」という点で、私たちは競い合わなければなりません。なぜなら、この「罪人の立場」にある者にとって、唯一の慰めは罪の赦しだけであり、魂を満たしてくれる唯一のことは十字架にかけられたキリストだけだからです。枝は、木の幹の樹液に依存している限りは、生のままでありつづけます。しかし、幹との関係が切れると、枝は刈り取られ、枯れて、燃やされてしまいます。

主イエス・キリスト様!私たちが「真のぶどうの木」なるあなたの中で「枝」としておいていただけていることを感謝します。あなたがすでに洗礼で私たちを御自分に結び付けてくださったことを感謝します。私たちがあなたの中にとどまることができるように助けてください。キリストよ、あなたこそが、私たちの心と魂が慕い求める唯一のお方であってくださいますように。あなたのからだと血とが、今日もまた私たちの唯一の「旅のお弁当」であり、私たちの飢えと渇きを癒してくださいますように。主よ、私たちを祝福してください!

K.V.タンミネン (「よい守りの中で」)

2008年10月15日水曜日

マルコによる福音書について 第2回目の質問

第2回目の集まりのために

マルコによる福音書2章1節~3章6節

奇跡と前代未聞の権威によるイエス様の活動

1)2章1~11節の箇所では、罪の赦しの宣言につづいて起きた奇跡について語られています。ここで奇跡は何についてのしるしなのでしょうか?

2)ダニエル書7章11~14節を読んでください。「人の子」とは誰ですか?そして、それはどういう意味でしょうか?

3)神様の永遠の御国についての話は、私たちにとってどのような意味を持っているでしょうか?どのようなことがらが、私たちに対してこの話を疎遠にしてしまうでしょうか?あるいは、大切な愛すべきものにするでしょうか?

4)この章で扱った箇所ではじめて、征服者(ローマ)に協力して働く「取税人」が登場します。私たちが知る限り、スパイ行為や虐待や暗殺といった血塗られた手段を利用しない独裁者はひとりもいませんでした。これは人間の本質について何を語っているでしょうか?

5)ファリサイ人とは誰でしょう?私たちは、どの点で彼らの二の舞にならないように気をつけるべきでしょうか?また、どの点で彼らから学ぶべきでしょうか?

6)「私は、罪のない人たちではなく、罪人たちをさがしにきました。」とイエス様は言われています(2章17節)。このことについて私たちは十分に話し合ってきたでしょうか?

7)イエス様は、「私の弟子たちは、私が彼らと共にいないときに、断食します。」とはっきり言われています(2章20節)。ルター派の教会では、灰の水曜日[1]からイースターまで長い断食をし、アドヴェント[2]からクリスマスまで短い断食をします。こうして大きなお祝い(イースターとクリスマス)に備えるのです。 

8)あなたがたは「断食」についてどう思いますか?なぜ伝統的な教会の習慣である断食が現代では廃れてしまったのでしょうか?どのようにすれば、断食を再び意義深く実行できるでしょうか?

9)私たちクリスチャンの休日は安息日(土曜日)ではなく、イエス様が復活されたお祝いの日である日曜日です。それゆえ、礼拝は毎回イエス様の復活を祝う集まりなのです。私たちにとって日曜日はその本来の意味を帯びているでしょうか?日曜日に何をしてよく何をしてはいけないのでしょうか?どのようにすれば、日曜日の意味を大切にすることができるでしょうか?

[1] 灰の水曜日は、復活祭(イースター)の46日前で四旬節の初日にあたります。
[2] 教会暦を用いるルター派教会ではこの日から教会暦の一年が始まります。第一アドヴェント主日から3週間後の第四主日が、クリスマス直前の日曜日にあたります。

2008年10月13日月曜日

マルコによる福音書について 2章18節~3章6節

新しい信仰、新しい習慣 2章18~22節

ユダヤ人たちにとって「断食」は信仰生活の中心的な位置を占めていました。断食は、罪の告白、祈り、貧しい人の援助などとあいまってなされました。断食のやり方や習慣には、ユダヤ人のグループによってかなりのばらつきがありました。イエス様とその弟子たちは断食しませんでした。そして、このことは周りにいた一部の人たちの関心を集めました。

断食について質問を受けたイエス様の答えは次のようにまとめることができます。
「古い部分と新しい部分を集めてそれらを一緒に結び合わせることはできません。古い服を新しい布によって修繕はできないし、新しいぶどう酒を古い皮袋に注ぎいれることはできません。」
断食の問題を解く鍵は、「イエス様が共におられる」という点にあります。イエス様が「御自分のものたち」と共におられるときには、彼らはお祝いの席に連なっているのであり、お祝いの最中には断食などはしないものです。イエス様が共におられない場合には、状況がまったく異なります。


安息日を破るふたつの犯罪? 2章23節~3章6節

イエス様がこの世で生きておられた時代には、ユダヤ人たちのもっともよく知られている宗教的な特徴は、割礼[1]であり、安息日の遵守でした。安息日(土曜日)はモーセの律法によれば「休みの日」です。その日を仕事を行うことによって破ったり汚してはいけないのです。この規定をめぐって、「安息日に何をしてよく何をしてはいけないか」について多くの解釈が生まれました。前述したように、これらの解釈の背景には、神様の律法を破らないようにと、極度に細心の注意を払うという姿勢があります。今ここで扱っている福音書の箇所で、イエス様はふたつの主要な解釈に反して活動されたため、律法学者の怒りを買いました。

この箇所の前半で、イエス様の弟子たちは麦畑を通り過ぎるときに麦の穂をつんで手でもみ、実を食べて飢えをしのぎました。この行為は決して「盗み」ではなかったものの(申命記23章25節)、「仕事」として解釈される行いでした。先生は生徒たちの振る舞いについて責任を取るものです。それで、ファリサイ人たちはイエス様にくってかかりました。イエス様は旧約聖書の中にある例をもちだして(サムエル記上21章)、より普遍的な教えを与えられました。
「安息日は人のためにあるのであって、人が安息日のためにあるのではありません。休みの日はふつうの場合でも神様から人々への賜物なのであって、人を束縛する手かせ足かせなどではありません。さらに、人の子は安息日の主なのです。」
イエス様を犯罪者として責めはじめたとき、実は、律法学者たちは「越権行為」を犯してしまっていたのです。

この箇所の後半は、病人の癒しについて語っています。癒しも「仕事」としてみなされるべきものでした。それで、イエス様が何をするか、周囲は厳しく見つめていたのです。伝統的なユダヤ人のやり方に従って、イエス様はファリサイ人たちとヘロデ党の人々に対して、直接教える代わりに「質問」を提示なさいました。その質問は答えるにはあまりにも難しく、彼らは黙っていました。それから、イエス様は病人を癒されました。そして、それがどのような結果を招くか、まったく気にも留めませんでした。病人の癒しを通じて、ファリサイ人たちの怒りが次第につのりはじめました。この怒りが、最終的にイエス様を十字架につける結果を招きます。マルコによる福音書はイエス様の死をすでにここで予告しているのです。この福音書が「長大な序章を備えた(イエス様の)受難史」であるといわれるのは、このためでもあります。
[1] 割礼(かつれい)とは、男子の性器の包皮を切除することです。創世記17章9-14節には、アブラハムと神様との間の永遠の契約として、男子には生まれてから8日目に割礼を行うべきことが記されています。

2008年10月9日木曜日

マルコによる福音書について 2章13~17節

お金を捨てた取税人 2章13~17節

ライ病の人の他にも当時の社会組織から疎外されていたグループがありました。たとえば、当時のユダヤ国家を武力で鎮圧支配してきた者たちと密接な関係にあった人々のグループです。ユダヤ人たちから特に嫌われていたのは、「取税人」と呼ばれる、ユダヤ人たちが税金をローマに納める仲立ちをする職業に就いているユダヤ人たちでした。ローマ人たちには単純で厳しいシステムがありました。どの属州で誰が税金を徴収するかについて、ローマでは競札が行われ、競りに勝った者は国に約束の金額を支払い、自分の担当になった属州から私益を吸い上げたのです。属州の担当者は自分で方々の町や村に出かけていくような真似はもちろんせずに、直接税金を集める仲介者を大勢採用したのです。競りに勝った者は、これら仲介者たちに税金を徴収する権利を貸与しました。このシステムの流れの中で各人は本来の税金に加えて不当な私益をせしめることに余念がありませんでした。このシステムの末端に位置していたのが、町や村でこうした汚職を行っていたユダヤ人たち(取税人)でした。そして、彼らの不当な税金の取り立て方が問題になることはほとんどありませんでした。こうした理由から、取税人は他のユダヤ人たちから憎まれ嫌われていたのです。この取税人とはまったく異なるタイプのグループを形成していたのが「ファリサイ人」と呼ばれる人たちです。高度に組織化された、厳しい規律の枠組みの中に生活するこのグループの信仰生活の核心をなしていたのは、神様がモーセにお与えになった律法に厳格に従うことでした。ファリサイ派は祭司階級や教養人たちの間から生まれましたが、時が経つにつれてあらゆる階層のユダヤ人からも強い支持を受けるようになりました。このグループの目標は、全国民がモーセの律法に従うようになることでした。彼らはこの律法に詳細な注釈を施し、「神様の命令を柵によって守る」ことを、すなわち聖なる命令を少しでも破る危険を犯さないように用心することを、求めました。ファリサイ派は細部にわたる規則を定め、それらを知悉し、教授したのですが、それは、一方では「宗教的な傲慢」を、また他方では神様の御前での真の罪悪感を、彼らの中に生み出しました。クリスチャンの多くはファリサイ人に対して非常に否定的なイメージを抱いているため、聖書が彼らについて与えている全体像を考えてみようともしません。他のいくつかのグループとは異なり、ファリサイ人たちはイエス様を侮蔑して遠ざかったりはしませんでした。イエス様はファリサイ人の家の食事会に招待されてもいます(ルカによる福音書7章36~50節)。彼らはイエス様と話し合いました。もっともそれはニコデモのようにひそかになされたこともあったでしょう(ヨハネによる福音書3章)。そして、激しく議論が交わされました。イエス様の復活の後で、何千人ものファリサイ人たちが、「イエス様がキリストであった」ということに確信を持ったのは間違いありません(使徒の働き15章5節、21章20節)。確かにイエス様はファリサイ人たちの偽善的な面を厳しく批判して、「ファリサイ人たちの義は神様の御前では十分ではない」と言われましたが(マタイによる福音書5章20節)、私たちクリスチャンが神様の真理を聞き学んで行こうとする姿勢は、ファリサイ人たちの熱心さにも到底及ばないものでしょう。

イエス様はレビを他の弟子たちと同様に召されました。レビは座っていた商売机を置き去りにしてイエス様に従いました。新しい弟子レビは盛大な祝会を催して、自分の友人たちを招待しました。取税人たちが多く集まっているこの祝会には、ふだんは神様について何の関心も持たない人たちも参加しました。こうして奇妙な構図が生じました。イエス様はその夕べを地方のもっとも有名な罪人たちとともに過ごされたのです。こうしたイエス様の行動をにがにがしく感じたファリサイ人たちに対して、イエス様は短くお答えになりました。「医者が要るのは健康な者ではなく、病人です。」
イエス様がお召しになるのは、罪のない人ではなく、罪人なのです。

2008年10月1日水曜日

マルコによる福音書について 2章1~12節

これから第2回目の集まりのためのテキストがはじまります。


「あなたの罪は赦されます。」

マルコによる福音書2章1~3章6節

イエス様の権威の大きさ 2章1~12節

すでに1章で私たちはイエス様の権威についての問題に出会いました。イエス様はどうして病人を癒すことができたのでしょうか?イエス様はどのようにしてサタンの不遜をくじき、汚れた霊を追い払うことができたのでしょうか?2章のはじめはこの問題をさらにつきつめています。イエス様は再びカペルナウムで教えていました。イエス様のいた家の周りにはたくさんの人たちが集まっていました。家の中にはもはや場所がなく、入り口に近づくことさえかないません。窮地に立たされたある人たちは極端な手段に出ました。当時の家の建物の屋根はとてもこわれやすいものでした。それを利用して、イエス様の頭上で突然何かが起こりはじめました。屋根がはがされ、そこにできた穴からイエス様のいるところへと身体の麻痺した人がつり下ろされてきたのです。イエス様はすぐにその男の人に「罪の赦し」を宣言しました。その場にいた律法学者たちにとってこれは認めがたいことでした。「ひとり神様のみが罪を赦すことがおできになる。もしも人間が「罪の赦し」を宣言するならば、それは神様を侮辱する行為だ。」というわけです。イエス様は律法学者たちの心の中の批判を読み取り、それに対してひとつの質問を投げかけることで応答されました。イエス様は彼らが答えることを期待していたわけではありません。イエス様の言われたかったことは、「もちろんこの世の中には大言壮語がまかり通っている。しかし、それに付随する「大きなわざ」がなされることはほとんどない。」ということです。イエス様が身体の麻痺した人を立ち上がらせ健康にして自分の家に帰らせたときには、皆はさらに大きな驚嘆に包まれました。

このようにイエス様の権威は「秤にかけられた」のでした。「ただ神様のみが罪を赦すことがおできになる。ただ神様のみが身体の麻痺した人を癒すことがおできになる。もしもイエスが罪の赦しを宣言することで神様を侮辱したのなら、病人はどうして癒されたのだろう?神様は御自分を侮辱する者が大いなる奇跡を行うことをお許しにはならないはずではないか?しかし、もしもイエスが神様の権威によってその人の罪を赦したのであれば、この人はいったい誰なのだろうか?」

マルコによる福音書ではじめて「人の子」という言葉がここで登場します。新約聖書ではこの言葉はイエス様についてのみ用いられています。しかも、ほとんどの場合イエス様御自身がそれを口にされています。この言葉をイエス様以外の人が用いる例外は、ステファノ(使徒の働き7章56節)と、不思議そうに尋ねるユダヤ人たち(ヨハネによる福音書 12章34節)ぐらいしかありません。「人の子」の背景には、ダニエル書にある「天からやって来る大いなる支配者」についての言及が関係しています。そして、この「支配者」は、神様がお立てになった者として、すべての国民をたゆまずに支配しています(ダニエル書7章13~14節)。

2008年9月26日金曜日

マルコによる福音書 第1回目の終わりのメッセージ

終わりのメッセージ

罪を悔い改めることについて

新約聖書は律法に与えられている職務を守り、実行します。パウロは「神様の怒りが天からすべての人々の上にのぞむ」と言い(ローマの信徒への手紙1章)、さらに、「神様の御前で、全世界は罪にまみれており、義なる人はひとりもいない」(ローマの信徒への手紙3章)とも言っています。キリストは「聖霊様は世をその罪深さのゆえに告発する」(ヨハネによる福音書16章)と言われています。

これは「神様の雷(いかずち)」です。それによって神様は公然と罪をおかしている者たちや偽善者たちをいっしょくたになぎたおされます。神様は誰も自分が義しいなどと思いこませたりはなさらず、皆を恐怖におとしいれ、にっちもさっちもいかなくさせます。これは「斧」です。この斧についてエレミヤ書は「私の御言葉は岩を打ち砕く斧である」と語っています。これは人間が自分でひねりだした後悔などではなく、真心からの苦悩であり、死にそうになるほどの苦い体験なのです。

このようなことが本当の悔い改めのはじまりです。人は次の宣告を耳にしなければなりません。「公の罪人であろうと聖人であろうと、あなたがたは別人になって今とはちがうやり方で生活し行動するようにならなければなりません。仮にあなたがたがどんなに偉大で賢く権勢を誇り聖なる人間であったとしてもです。ここには義なる人などはひとりもいないのです。」

この律法に与えられている職務を果たしたあとで、新約聖書はすぐに福音の慰めにみちた恵みの約束を宣べ伝えてくれます。この約束は信仰をとおして受け取らなければなりません。それで、キリストは「方向転換して、福音を信じなさい」(マルコによる福音書1章)と言われます。それは「変わりなさい。今までとはちがうやり方で行動しなさい。そして、私の約束を信じなさい。」という意味です。キリストの前にこの世に来た洗礼者ヨハネも方向転換の説教者と呼ばれたりします。しかし、それは罪の赦しへの準備を整えるためでした。ヨハネはすべての人を叱って彼らが罪人であることをはっきりさせなければなりませんでした。それは、神様の御前にでるということがどういうことか彼らがしるためであり、自分たちが滅ぶべき存在であることに気づくためであり、そうして彼らが主に対して用意が整っている、つまり主から罪の赦しの恵みを待ち望み受け入れる心構えができているようになるためでした。これと同じことをキリスト御自身も「私の御名によって世界中で方向転換と罪の赦しについて宣べ伝えられなければならない」(ルカによる福音書24章)と表現されています。

ところが、律法が今まで述べてきた職務をすべてひとりで引き受けてしまう場合には、福音が前面にでてこないどころか、そこには死や地獄が待ち受けていることになります。そして、人はサウルやユダのように絶望におちいってしまいます。聖パウロも「律法は罪の助けを借りて殺す」と言っています。一方、福音は慰めと罪の赦しを与えてくれます。それもただひとつのやり方によってではなく、御言葉とサクラメントをとおしてです。罪の過酷な牢獄と釣り合いをとるものとして、詩篇130篇にあるように、神様の御許には「ゆたかなあがない」がなければならないからです。

フレドリック・ガブリエル・ヘドベルグ (「唯一の救いの道」)

マルコによる福音書について 第1回目の質問

第1回目の集まりのために

洗礼者ヨハネの説教、イエス様の受洗、イエス様の活動の始まり

1)洗礼者ヨハネはイエス様の前を歩んだメッセンジャーでした。マルコによる福音書は洗礼者ヨハネを神様が旧約聖書でお与えになった「約束」に無理なく結び付けています。

私たちも旧約聖書をそれにふさわしく位置づけているでしょうか(新約聖書との密接な関連)?

2)洗礼者ヨハネの洗礼はどういう意味を持っていましたか?それはキリスト教的な意味での洗礼だったでしょうか(使徒の働き19章1~7節を読んでください!)?なぜイエス様は洗礼をヨハネからお受けになったのでしょうか?

3)地図でガリラヤ、ユダヤ、ナザレ、カペルナウムをさがしなさい。

4)どのようにイエス様はあなたを召されましたか?人は「何時」自分が信仰に入ったかについて知らなければならないのでしょうか?このようなことを強調する場合、どのようなよくない問題がでてきますか?

5)1章23~27節は、マルコによる福音書がデーモンや悪霊について語っている最初の箇所です。私たちはこれら(デーモンや悪霊)についてどのように考えるべきでしょうか?

6)「病人の癒し」は現代でも起きるでしょうか?このような奇跡が起きること、あるいは起きないことについて、どのような「しるし」がありますか?イエス様は御自分の奇跡について「誰にも話してはいけない」と命じられました。この禁止は私たちにとって何か意味がありますか?

2008年9月19日金曜日

マルコによる福音書について 1章29~45節

病人たちの癒し 1章29~34節

イエス様の権威には「病人たちの癒し」という出来事も関係しています。シモン(ペテロのこと)の舅やほかの多くの病人は、「イエス様はまことの主が遣わされたお方であり、命を与えてくださる神様の代表者である」ことを目の当たりにしました。ここで再び、「デーモンはイエス様について証することを許されなかったこと」が語られます。これはいわゆる「メシアの秘密」に関係しています。[1] 


「イエス様の運動」の拡大 1章35~39節

イエス様のたった一日の活動によって、カペルナウムは騒乱に陥りました。皆イエス様を捜し求めましたが、無駄でした。イエス様は祈るために孤独な場所に引きこもられたのです。弟子たちがイエス様を見つけたとき、イエス様は彼らを隣村に連れ出し、そこで福音を説教されました。悪霊は退き、病人は癒されました。こうして「神様の火」がその地方に燃え広がって行きました。

この神様の火が燃え広がっていった最初の場所がガリラヤ地方の小さな町や村であったのは注目に値します。ガリラヤの大きな中心部でも、もちろんユダヤでも、イエス様はまだこの段階では説教なさってはいませんでした。


ライ病人の清め 1章40~45節

イエス様の時代のパレスチナには社会組織の外部に追いやられた人々がいました。私たちは、マルコによる福音書を通して、多くのこうしたグループに出会うことになります。
それらのうちのひとつはライ病人のグループです。ライ病はやっかいな不治の皮膚病とみなされていました。この病気に罹った者はほかの人たちから隔離・追放されました。後代のラビたちの教えを調べてみると、この追放は徹底的になされました。ときにはライ病人に対して石を投げつけるという手段もとられました。「人は何かの「罪」の結果としてライ病に罹るのだ」と人々は考えました。たとえば、「高慢な目、嘘をつく舌、罪のない者の血を流させる手、神様をないがしろにしたひどい考えを好む心、悪い行いへと急ぐ足、証人の立場にありながら恥知らずな嘘をつくこと、兄弟の間に怒りの火を掻き立てること」などという罪です。

イエス様はこのようなライ病の男を見て癒されました。こうすることでイエス様は「病人は他の人々よりも罪深く侮蔑されるべき存在だ」という考えを斥けられたのでした。「この癒しについて誰にも話してはいけない」という絶対的な禁止がここでも語られます。またしても「メシアの秘密」です!癒された男はイエス様の命令を無視して、イエス様の奇跡について皆に話して回りました。その後、イエス様は当時の町々の狭い道端で活動していくことをお止めになりました。人々があらゆるところか御自分に会いに来れるように、イエス様は荒野に留まるようになったのです。

[1] これについては序を参照のこと。

2008年9月15日月曜日

マルコによる福音書について 1章14~28節

福音の始動 1章14~15節

ヘロデ王は洗礼者ヨハネを投獄し、後に殺させました(6章14~29節)。しかし、ヘロデ王は「神様の声」を沈黙させることはできませんでした。ヨハネが黙すると、今度はイエス様が活動を始められたのです。イエス様の教えの中には、人々を悔い改めへと導くことを目標としている「預言者たちの説教」が響いています。そこにはしかし、まったく新しい面があらわれています。すなわち、今や「神様の時」は満ちました。神様はまもなく革新的に公然と活動されます。神様の御国はこのように近くに来ているのだし、今までの長い間にわたる「待ちの時期」は過ぎました。「時が満ちる」という話は何百年もの間イスラエルの人々が待ち続けていたことがらに関係しています。預言者たちは大胆に人々の前に現れ、キリストと主の御国にかかわる神様の約束を伝えてきたのです。今やその約束が実現する時が来ました。イエス様の説教がどれほど力強く、豊かな内容に満ちていたのか、私たちの理解を超えています。


最初の弟子たち 1章16~20節
 
イエス様は人生の大部分をガリラヤで過ごされ活動されました。そこで最初の弟子たちをも召されました。イエス様がいかに率直に「ある人々」を御自分に従うように召されたかについて、福音は語っています。弟子たちはそれまでの自分の職業をその場で捨てました。猟師であった彼らの網は他の人にゆだねられました。イエス様のペルソナには、弟子たちをイエス様と行動を共にさせるような理解しがたい何かがあったのです。こうしてペテロやアンデレ、またヤコブとヨハネはイエス様と共に出発したのでした。彼らは、イエス様に最も近しい弟子として、後の教会が賞賛し模範とするような「召し」を受けたのです。12人の使徒たちには、はっきりとした特別な地位がありました。


カペルナウムでのイエス様 1章21~28節

ガリラヤ地方に位置するカペルナウムという町のシナゴーグ(集会堂)でイエス様は、マルコによる福音書が記している最初の「しるしのみわざ」を行われました。ユダヤ人たちには唯一の神殿がありました。それはエルサレムにありました。そこでのみ神様に犠牲をささげることが許されていました。エルサレム神殿のほかに、あちこちにたくさんのシナゴーグが存在し、そこでは安息日ごとに「律法と預言者」[1]が読まれました。ユダヤ人の男は、聖書の箇所を読んでその内容を説明することが許されていました。カペルナウムのシナゴーグを訪れたイエス様はこのやり方を利用したのです。イエス様の説教は聴衆に大きな驚嘆を惹き起こしました。そこには律法学者たちの教えとはまったく異なる権威が反映していました。イエス様が律法学者の伝統には属していないことは、聞き手にとってあきらかでした。さらに大きな驚嘆を巻き起こしたのは、説教と関係して、もうひとつの権威が示された時でした。すなわち、イエス様は汚れた霊を人から追い出されたのです。

汚れた霊、すなわちデーモンを人から追い出すことは、ユダヤ教文献には遅くとも紀元前200年前には現れ始めます。汚れた霊とは、神様の敵サタンが人の中に送り込んだものです。イエス様の生きておられた時代には、霊を操ることを職業とする者たちが大勢いました。そしてその大部分はユダヤ人であり、ギリシア人やローマ人にはあまりいませんでした。そのようなユダヤ人たちはその秘術を持ってローマの指導者層の人々、とりわけ、後に皇帝となるティトゥス・ヴェスパシアヌスやその諸侯を驚嘆させました。

イエス様が汚れた霊に取り付かれた男と出会ったとき、力と力の真の戦いが起きました。イエス様はイエス様の真の本質を見抜いたデーモンを沈黙させました。デーモンはイエス様の厳しい命令に従うことを余儀なくされ、驚くべきことに、取り付いていた男から出て行かざるを得なくなりました。ここでの福音の核心は、イエス様の「権威」にあります。それを反映しているのはイエス様の力強い説教であり、とりわけデーモンを追い出されたことです。人はサタンを軽蔑したりそれに反抗したりはできません。それができるのは神様のみです。イエス様がデーモンと戦うという大胆な行動を取ったのはどうしてでしょうか。そして、デーモンがイエス様に負けて「2番」に甘んじたのは、どうしてでしょうか。答えはひとつだけです。すなわち、イエス様は神様の権威によって活動されたのです。この出来事が生んだイエス様についての評判はガリラヤ全体に広まりました。

[1] 旧約聖書のことをさす。

2008年9月3日水曜日

マルコによる福音書について 1章1~12節

時は満ちた

マルコによる福音書1章

福音書の見出し 1章1節

マルコによる福音書は単純にしかも当時としてはめずらしい仕方で始まります。福音書の最初の節は福音書全体の見出しでもあるのです。そこでは、キリストの死と復活の時にようやくあきらかにされるべく創造の余地を残して伏せられていたことがらが、直接に語られているのです。それは、ナザレ人イエスが「キリスト」であり「神様の御子」でもある、ということです。福音書の使命はキリストの福音、喜ばしきメッセージについて語ることです。

「福音」という言葉にはたくさんの意味があります。私たちはマルコによる福音書とかマタイによる福音書などという表現に慣れています。しかし実はただひとつの福音があるのです。それは神様から人々へのメッセージです。新約聖書では福音はマタイ、マルコ、ルカやヨハネによって語られています。それぞれの福音書の視点はお互いに異なっていますが、メッセージはすべてに共通して「罪人たちに向けられた神様からの喜びの便り」です。


洗礼者ヨハネの説教 1章2~8節

新約聖書の魅力的な登場人物たちの中でも洗礼者ヨハネは見るものの目を釘付けにするような存在です。ヨハネの容姿も説教も旧約聖書の預言者たち、とりわけエリヤを思い起こさせます。洗礼者ヨハネの生活は厳しい節制と質素に貫かれていました。そしてこのような生活を送っている者にふさわしく、彼の説教もまた厳しさにみなぎっていました。その説教は大勢の民衆をひきつけました。洗礼者ヨハネについては福音書記者のほかにも当時のユダヤ人歴史家ヨセフスもまた書き記しています。イエス様の多くの弟子たちはもとはヨハネの弟子であったことを私たちは知っています。同様に、ヨハネの弟子たちは後にキリスト教会と競合するようなグループを形成し、「ヨハネが来るべきキリストであった」と信じていたことも、知られています。

マルコによる福音書は他の福音書と同様にヨハネ自身にはさほど注意を払わずに、むしろヨハネがキリストの先駆者であり新約と旧約の間のつながりを示している点に注目しています。イエス様の活動は旧約聖書がすでに語っていた神様の活動における「新しい局面」を意味していました。これを示しているのがまさしくヨハネの登場でした。彼はイザヤ書(40章3節)やマラキ書(3章1節)が予言していた、偉大なる主の到来を告げる使者なのです。神様の約束された救いのみわざはヨハネの活動をもって実現し始めました。ヨハネの宣教は厳しい悔い改めの説教でした。その影響によって民は自分の罪を告白し、その印として洗礼を受けました。ヨハネの洗礼は罪の赦しを保証するものではなく、父と子と聖霊の御名によるものでもありませんでした。それは罪の告白であり、神様の憐れみに寄り頼みつつ神様の御手に自分をゆだねることでした。それと同時に、神様がこの世の出来事の推移に対して革新的にかかわりをもって活動されることをも民は望んでいました。


イエス様の受洗と試練 1章9~12節

マルコはイエス様がどのようにヨハネから洗礼を受け、その後どのような試練にあわれたかについて飾り気なく語っています。イエス様が洗礼を受けられたのは非常に不思議なことです。ヨハネの洗礼は罪の告白を意味し、また神様の裁きの下に服することでもあったからです。他の福音書ではヨハネはイエス様が彼から洗礼を受けようとするのを妨げようとしたとも語っています。ともかくもイエス様が洗礼を受けられた瞬間に何か決定的に新しいことが起こりました。天が大きく開き、聖霊様が鳩のようにイエス様の上に降られ、神様の声が皆の前で証して「あなたは私の愛する子、あなたは私の心に適っている」という御言葉を告げたのでした。このようにマルコによる福音書の読者はすでにこの段階で、当時その場にいた人たちにとっては想像の域を出ずまた後でも人々の間で意見が対立することになる「ことがら」を知ることができます。すなわち、イエス様はたんなる人間ではなく、神様の御子であり、神様の権威に基づいて御父から与えられた使命を果たすためにこの世に来られた、ということです。

初期のキリスト教会の中には、「イエスははじめから神の子だったのではなく、神が彼を受洗の時に養子としたのだ」と教える者たちがいました。この聖書の箇所について今でもこのような説明を支持する聖書学者が多いです。しかし、聖書に書かれている以外のことをテキストから無理やり「深読み」しないことが大切です。ヨハネによる福音書の1章で「キリストは時の始まる前からすでに存在しておられた」ことが語られています。

イエス様の受洗についての大切な点は、「神様の御子が神様の御前で罪を告白された」ということです。「唯一の罪なきお方である神様の御子がヨハネの洗礼において私たちの罪の重荷を御自分の上に担い、それと同時に私たちの罪過についての責任を引き受けてくださった」と私たちは信じます。ここに福音の核心があります。すなわち、罪のないお方が罪人となられ、罪人である人間がこのお方のおかげで罪のない存在になるのです。
イエス様の試練についてはマタイやルカによる福音書により詳しく語られています。神様の多くの恵みの約束はほかでもない「荒野」にかかわっており(たとえばイザヤ書35章)、イエス様の受けられた40日間の試練の期間は、疑いなくイスラエルの民の40年間にわたる荒野での旅を反映しています。イスラエルの民が試みに負けたのとは異なり、イエス様は御父様に対して忠実を貫かれました。

マルコによる福音書について 序 その3

福音書の内容の区分け

マルコによる福音書はその舞台となっている地域に基づいて区分けするのが最良のようです。はじめの部分(1章1節~8章26節)は主にガリラヤにおけるイエス様の活動について語っています。次の部分(8章27節~10章)はエルサレムとゴルガタへと向かわれるイエス様の道を描いています。最後の部分(11章~16章)はエルサレムにおけるイエス様の受難と復活について語っています。

2008年8月21日木曜日

マルコによる福音書について 序 その2

福音書の特徴

マルコによる福音書は「受難のキリスト」について語っています。十字架につけられた神様の御子についての話しが当時の古代世界の人々をどれほど傷つける受け入れがたいものだったか、私たち現代人にはとうてい理解しがたいことです。十字架刑は考えうる限り最も屈辱的な死に方でした。初代教会の多くのクリスチャンがイエス様の十字架を恥じたのは、無理もありません。ところが、こうした恥じはマルコによる福音書には痕跡すらありません。福音書の約半分はイエス様の受難について語っています。イエス様が捨て去られることを暗示する暗雲はすでに福音書のはじめのほうに見えます(たとえば3章22~30節、6章1~6節)。イエス様がこの世に来られたのは、周りから仕えられるためではなく、辱めを受け十字架で殺されるためでした。このように、福音は十字架の神学に基づいて読まれるべきなのです。

マルコによる福音書のもうひとつのはっきりとした特徴は、いわゆる「メシアの秘密」と呼ばれるものです。イエス様は御自分が本当は誰であるかについて決して誰にも告げないように、悪霊に対してばかりではなく御自分の弟子たちに対しても命じられました。イエス様の真のお姿はすでに洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになった瞬間に顕示されましたし(1章11節)、わずか少数の目撃者のいる中で「栄光の山」においても示されました(9章7節)。これらの例外的な時を除けば、イエス様がキリスト(つまりメシア)であることは長い間非常に注意深く隠されていました。どのような権威によってイエス様が活動されているか、いろいろな人たちが時には怪しみつつまた時には怒りながら問いただしました。しかし、答えを得ることはありませんでした。これはいまだにマルコ福音書の研究における難問です。ともかく、「メシアの秘密」は祭司長たちと全議会の前であきらかにされます(14章55節以降)。そこでイエス様は大祭司の質問に明確にお答えになりました。イエス様は神様の御子でありキリストなのです。このことをイエス様の死の際にローマの百人隊長もまた公に告白します(15章39節)。おそらく「メシアの秘密」によって福音書は私たちに「イエス様が真のキリストであることは、辱めを受け私たちのために十字架にかけられたお方としてのみはっきり示される」ことを教えているのでしょう。多くのユダヤ人たちはキリストが政治的な解放者とか目に見える具体的なかたちの神の国の創始者になってくれることを勝手に期待していたのです。このように「メシアの秘密」もまたマルコによる福音書の十字架の神学の一部なのです。

マルコによる福音書の3番目の特徴は、福音書がイエス様の奇跡について非常にたくさん言及していることです。これは、人々が奇妙な出来事についてなら喜んで読むからだ、というわけではありません。旧約の民の只中で偉大な奇跡を行ってくださった同じ神様は、奇跡が再び繰り返される「新しい救いの時」がこれから到来することを聖書の中で約束してくださったのでした(たとえばイザヤ書35章)。イエス様の働きの中で旧約聖書に語られている多くの奇跡が繰り返されました。それらの奇跡は「ナザレのイエスは神様の権威に基づいて活動し、御自分の民を新しい時代に移された」ことを示していました。

2008年8月20日水曜日

マルコによる福音書について 序 その1

マルコによる福音書を読むためのガイドブック

読者へ

この本は聖書研究会、とりわけ信徒がグループの中心となるような集まりでの活用を想定して書かれています。ガイドブックはその都度読まれる聖書の箇所についての説明と質問と終わりのお祈りを含んでいます。

エルッキ・コスケンニエミ (日本語版翻訳編集 高木賢)


序 マルコによる福音書について

福音書を書いた人物、書かれた場所と時期

古くからあるキリスト教の伝承は、福音書記者マルコがペテロの通訳者としてキリストの弟子たちの長であるペテロに従ってあらゆるところに行った」と語っています(「パピアスの断片集」[1])。そして最後にはローマでペテロの語ったイエス様の教えを書き留めたというのです。パピアスの証言などの伝承の信憑性を疑う学者は多くいました。それはともかく、マルコによる福音書はしばしばペテロの視点から書かれている、という点は注目に値します。この福音書にはイエス様の実弟でありエルサレムの初代キリスト教会の後の指導者でもあったヤコブについてはその名前さえ述べられていません。ペテロの第1の手紙5章13節は、ペテロとマルコが一緒にローマにいたと語っています(その箇所で「バビロン」はあきらかにローマをさしています)。ルカとマタイがマルコによる福音書からその大部分をそれぞれの福音書に引用した後でもなお、初代教会はマルコによる福音書を大切に保存しました。マルコの背後には非常に信頼のおける伝承の継承者がいたのはまちがいありません。こういうわけで、ペテロとマルコの間にはなんらかの関係があった、と自然に推定することができます。

福音書の書かれた場所と時期を正確に決定するのは困難です。前述のようにローマで書かれたという説が古くからあります。この福音書はユダヤ人に対してというより異邦人に対して書かれています。書かれた時期はおよそ西暦70年頃、エルサレムが崩壊する少し前かあるいは崩壊した後まもなくのことであるのはまちがいなさそうです。
[1] パピアス断片集については次のリンクがあります。
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/urchristentum/papias.html
そこにエウセビオス〔260/65-339〕が残した、パピアスのマルコスについての以下の証言があります。「これも長老が言っていたことだ。マルコスは、ペトロスの通訳者(hermeneutes)であって、記憶しているかぎりのことを、精確に書いた、ただし、主によって言われたことにしろ為されたことにしろ、順序立ててではない。なぜなら、主から〔直接〕聞いたのでもなく、これに付き従ったのでもなく、〔彼が付き従ったのは〕わたしが謂ったように、後になって、必要のために教えを広めたペトロスであって、主の語録のいわば集成のようなことをしたのではなかった、その結果、マルコスはいくばくかのことを思い出すままに書いたが、何らの過ちも犯さなかった。というのは、聞いたことは何ひとつ取り残すことなく、あるいは、そのさいに何らか虚言するもないよう、その一点に配慮したからである」。 

2008年5月23日金曜日

クリスチャンと同性愛

エルッキ・コスケンニエミ (日本語版翻訳編集 高木賢)

1.どうしてこのテーマをとりあげるのでしょうか?

フィンランドの教会では1970年代には「同性愛」についておおむね次のように考えられていました。「私たち人間には皆、脱することが難しい独自の罪、悪い習慣があり、私たちはそれらと戦わなければならない。同性愛もまたこうした傾向のひとつである。クリスチャンは、自己の悪習がどんなものであれその悪習と戦っている他の人たちを、愛をもって支えていかなければならない。たとえば、飲酒の欲、不機嫌、貪欲、同性愛はそうした悪習である。同性愛の傾向のあるクリスチャンにとって、その傾向は努力して戦っていかなければならない事柄であり、人はそうした罪の傾向に支配されてはいけないのだ。」

しかし、1970年代以後、状況は変わりました。一般の意見は大きく変わり、もはや同性愛を罪とはみなさず、医学関係者たちも同性愛をたとえば人間の左利きと同じようなレベルで扱うようになったのです。

こうした一般の潮流と軌をひとつにして、教会の内部でも変化が起きました。たとえば、1990年代には同性愛者の学生たちの聖書研究会が活動し、教会の総会では、「教会が同性愛を異性愛と同等にみなすことを宣言すること」を要求する案が提出されたりしました。

2000年代に入り、隣のスウェーデンのルーテル教会では同性愛者同士が教会で結婚式を挙げることができるようになり、そのための式文も用意されています。また、同性愛者の結婚を司式することを拒む牧師は職を得るのが難しくなってきているようです。ここフィンランドでも教会の押し流されている方向はあきらかにスウェーデンと同じであり、そうしたことから言っても、このテーマを今取り上げることは時宜に適っています。

私たちクリスチャンのキリスト教の信仰を理解するためには、新約聖書の書かれる以前の時代に遡って問題を検討する必要があります。たとえば、古代ギリシア・ローマ文明や、とりわけ旧約聖書がどのように同性愛に対して接しているか。しかし、その前に、医学的な見地からこの問題に少し触れることにしましょう。


2.医学はどう言っていますか?

同性愛をめぐる議論を支配してきたのはいわゆるKinseyの報告書[1]です。それによると、男性のうち約4パーセント、女性のうち男性よりもやや少ない比率の人間が、同性愛の性交のみを行っている、というのです。現代ではこの報告書は厳しく批判されています。なぜなら、調査の対象となったのは一般の社会人のグループではなく、そこには犯罪の経歴のある人たちが不自然なほどの高い比率で入っていたからです。新しい研究によれば、男性のうち同性愛者は約1パーセントです。

同性愛についてははっきりした定義がありません。同性愛を異性愛と同等に扱おうとするあるグループは、当然ながらあいまいな定義を捏造します。それによると、同性愛とは、同じ性別の人間同士の互いに対する感情やファンタジーや行動のことです。そして、それらがどのように実現されようとそれが同性愛であることにはかわりがないこととされます。この「定義」は意図的に若者たちの強い友情の絆と同性愛との違いをなくそうとしています。私たちはここでは一義的な定義づけを行うことは控え、聖書は同性愛を「同性愛の性交」としてのみ捉えていることを挙げておくにとどめます。聖書は、同性愛の思想とか感情とかについては一切語っていません。

医学的な研究は同性愛の理由を説明することができずにいます。同性愛者たち自身、彼らの行動が彼らの性的な成長があるレヴェルでストップしてしまったためであるという説明をはっきりと拒絶しています。もともと生まれつきか、あるいは周りの環境の影響から、ある種の人たちは同性愛的な行動をとる傾向があります。これに加えて、すくなくともバイセクシュアル(異性愛と同性愛を両方とも行うこと)は学習の結果生じる現象である、ということを押えておくべきでしょう。このことは、バイセクシュアルという現象がどの程度一般的かは、同じ文化文明の中でも時代によってまちまちであることからもわかります。そして、ある民族の遺伝的な因子がそれほどまちまちに変化していくというのは、考えられないことです。


3.旧約聖書

よく知られているように、トーラー(モーセ5書、旧約聖書のはじめの5つの書物をさす)の同性愛に対する態度は無条件に厳しいものです。
「あなたは女と寝るように男と寝てはなりません。これは憎むべきことです。」(レビ記18章22節)
「女と寝るように男と寝る者は、両者ともに憎むべきことをしたのだから、必ず殺されなければなりません。」(レビ記20章13節)
町が滅ぼされる前に、ソドムの住民たちは、ロトのもとを訪れた神様の御使いたちに、ホモセクシュアル的な暴力を振るうために襲いかかろうとしました(創世記19章)。

多くの人は、同性愛を完全に拒絶するこうしたトーラーの姿勢を緩和するような例を旧約聖書の中から無理やり読み取ろうとしてきました。
たとえば、ダヴィデとヨナタンの間の強い友情を同性愛とみなそうとする人がいつの時代もいました。
「私の兄弟ヨナタン、あなたのため私は悲しみます。あなたは私にとって愛しい者でした。あなたが私を愛するのは世の普通のようではなく、女の愛にもまさっていました。」(サムエル記下1章26節。戦いに倒れたヨナタンを悼むダヴィデの言葉)
こうした「解釈」は、同性同士の真に深く強い友情がどれほどしばしば誤解されてきたかを物語っています。そしてこれはダヴィデやヨナタンの問題ではなくて、「解釈者」の誤謬なのです。
「旧約聖書は普通の同性愛についてではなく、カナン人たちのいろいろな宗教に付随したホモセクシュアルの職業的売春について批判しているのだ」と主張する人たちもいます。旧約聖書の同性愛に対するよく知られた嫌悪が当時の周辺世界の異教の儀式に関係していたことはまちがいありません。そうしたひどい儀式には、偶像モロクに子供を犠牲としてささげることや、男女間の猥雑な性的行動も含まれていました。
しかし、聖書の否定しているあること(同性愛)が、聖書の否定しているもうひとつ別のこと(異教の儀式)に結びついているからといって、「それゆえ、それら両方ともが許容されていて、神様の御心に適ったことである」などと結論することはもちろんできるはずがありません。

テキストを暴力的に曲解しようとはしない限り、旧約聖書が同性愛を許可したり、少なくとも同性愛を否定しないようにすることは到底不可能です。イエス様の時代のユダヤ教は当然ながらすべての点においてトーラーの規定に従っていました。資料の成立年代を決定するのは容易ではないとはいえ、少なくとも後になって文書として記録保存された伝統によれば、もしも同性愛を強制された者が12歳以上であった場合には、同性愛を行った者たちは双方とも石で打ち殺されなければなりませんでした(サンヘドリン7,4)。一方では、イエス様の時代のユダヤ人たちは同性愛と戦わなければなりませんでした(レヴィの遺言17、ナフタリの遺言4)。同性愛という現象はすでに当時存在していたのです。そして、ユダヤ教はそれを厳しく禁じ、それと戦っていたのでした。


4.ギリシア・ローマ文明

古代ギリシア世界では、人がバイセクシュアル(異性愛と同性愛の両方を行うこと)であることは非常に一般的であり、多くの場合承認された生き方でもありました。前古典期および古典期におけるギリシア(紀元前480~330年)は「男の世界」であり、そこでは同性愛は適当な生活様式でもありました。レスボス島の大女流詩人サッフォーの有名な詩はある種の性的な行動に名前を提供しました。他の多くの叙情詩人たちもまたホモセクシュアル的な愛をほめ歌っています。同性愛的な生き方にとくに重要な意味をもたせていたのはスパルタです。そこでは、若い男の子たちの年齢階層はこの「国民的な教育」とあいまって定められていました。共に戦っている者たちを結びつけていたのは、しばしばホモセクシュアル的な絆でした。アテナイでは、職業売春に基づくぺデラスティア[2]は制限されました。当時、ホモセクシュアルについて「それは自然に反した行為ではないか」という倫理的な疑問を投げかける人もいました。同性愛は新しい命の誕生を目的とするものではなく、人間を欲望の奴隷とするものであるからです(プラトン 法律1,636C)。しかし、たとえばプラトンの対話篇「饗宴」では、同性愛はまったく自然なことであるかのように取り扱われています。同性愛がどの程度の「不道徳」とみなされたかについては、ホモセクシュアルな者たちの間の三角関係から生じた喧嘩に関して、リュシアスの書いた法廷でのスピーチからうかがい知ることができます。法廷で事件の関係者は自分の欲望を審判者たちの前であきらかにしなければならなくなって少し恥ずかしくなります。しかし、そこで問題になっているのは、「自分の肉体の欲望に身を任せてよいか」という哲学者たちが警告していたことがらにすぎず、同性愛自体はさほど深刻に取り扱われてはいません。それはちょっとした悪習以上のものではなかったのです。
羊飼いの詩で有名なテオクリトスは、それから何百年か後のギリシア社会では、同性愛がすでに当たり前のこととみなされていたことを証拠立てています。

ローマ文明の黎明期に生きた喜劇作家プラウトゥス(紀元前254年頃~約184年頃)は同時代の民衆の言葉を用い、彼らの生き方や考え方を作品に反映させています。彼はまだ同性愛を「ギリシア人の慣習」と呼んでいます。
しかし、それから約百年後には状況がまったく変わっていました。大詩人の中ではカトゥッルス、「正しい人」と称えられているヴェルギリウス、またホラティウスなどは同性愛をまったく自然なことがらとみなしています。道徳的な詩の中でホラティウスは、「若い男たちは奴隷の少年か少女を手に入れるまでは、妻を得たりしないように」と忠告しています。辛らつなマルティアリスは、ホモセクシュアル的な行動の中にいろいろと笑いを誘うような特徴のある人たちのことをあげつらっています。
紀元後1世紀においても同性愛に対する人々の態度は以前と変わらなかったように見受けられます。理論的にも実生活でもホモセクシュアルとバイセクシュアルは、ヘテロセクシュアル(男女間の性関係)と同様に承認されていました。つまり同性愛は人々から完全に認められた生き方だったのです。そして、このような世界の只中で新しく生れたキリスト教が躍進を始めたのでした。はたしてキリスト教はこの同性愛という問題に対してどのような態度をとるのでしょうか?


5.新約聖書

同性愛に対する新約聖書の一番重要な姿勢は、よく知られているように、ローマの信徒へのパウロの手紙の中にあります(1章24~28節)。1章18~32節でパウロは、異邦人たちが神様の御前で罪人であることを示しています。異邦人たちは、神様の創造のみわざを目にしていながらも、神様を創造主として崇拝しようとはしませんでした。それどころか、彼らは神様の栄光を人間と動物の像のかたちに代えてしまいました。異邦人たちが「活きておられる神様」を捨てたため、活きておられる神様もまた彼らをお捨てになりました。パウロによれば、たとえば異邦人たちがどれほどひどく神様から離れ去っているか、まさにホモセクシュアルの問題にはっきりあらわれています。
「それゆえ、神様は彼らを侮蔑すべき情欲にお渡しになりました。すなわち、彼らの中の女性は、その自然な性的関係を不自然なものに代えてしまいました。同様に、男もまた同じように女性との自然な性的関係を捨てて、互にその情欲の中で燃え、男性は男性に対してみだらな行為をし、そしてその迷妄の当然の報復を自分の身に受けています。」(1章26~27節)
使徒パウロを通して与えられている神様のこの御言葉の背景には、旧約聖書とパウロの時代のユダヤ教とのホモセクシュアルに対する変わることのない嫌悪があります。
同性愛の傾向のある人たちと、異性愛の傾向があるにもかかわらず自然な傾向を他のものに「代えた」人たちとを区別することによって、パウロの考え方を救い出そうとする試みもあります。しかし、このような試みは、ユダヤ人たちの最高法院を原子力の反対派と賛成派に分けるのと同じくらい「自然」なことといえるでしょう。つまり、このような区別はパウロにとって思いもよらないものです。
パウロは、当時の異邦人たちが深い迷妄に陥っていることを示す絶好の例を見つけたのでした。つまり、異邦人たちにとって自然で、美しく、洗練されたことがらは、神様の啓示と、選び分かたれた民の確信とに基づけば、不自然で、不道徳で、ひどいことなのです。

同性愛は、「悪い行い」として初代キリスト教会が挙げている「一覧表」の中に少なくとも3回は登場しています。
コリントの信徒への第1の手紙6章9節では、アルセノコイタイ(同性愛の性交において能動的な側)とマラコイ(同性愛の性交において受身の側)が区別されています。双方について「このようなことを行う者たちは神様の御国を継ぐことはできない」と言われています。「あなたがたは知らないのですか」というパウロの言葉は、このことがコリントの信徒たち皆にとって周知であることを示しています。
初代教会では、人々が洗礼を受けるときに新約聖書の中にある「何が悪い行いか」を列記したリストの内容について教えを受けていたのは、まずまちがいありません。このように、初代教会は、異性愛の乱用や窃盗と同じように、同性愛もまたクリスチャンにはふさわしくない生き方であることを教会に属する者ひとりひとりがはっきりと知るように、取り計らったのでした。
他の箇所は、テモテへの第1の手紙1章10節と、フィリピの信徒へのポリュカルポス[3]の手紙5章3節です。後者の手紙にはコリントの信徒への第1の手紙からの直接の引用が含まれています。これらの箇所は初代教会の考え方をはっきり示しています。すなわち、(結婚生活における)異性愛は神様の創造のみわざに適った振る舞いであり、それを通して神様は御自分の賜物を分け与えてくださいます。それに対して、同性愛は自然に反したことであり、いかなる場合であってもクリスチャンにはふさわしくない生き方です。


6.教会の歴史

歴史的に見ると、ヨーロッパではキリスト教が広まっていくにつれて、人々の性的な行動も変わっていきました。同性愛は公共の場から消し去られ、禁じられたおぞましい振る舞いであるとみなされるようになりました。にもかかわらず、同性愛は決して消えることがありませんでした。それをよく物語っているのが、クリスチャンの国々における同性愛に対する厳しい罰則規定です。しかし1900年代に入ってから、状況が変わり始めました。この変化がはたして真の福音を見つけたことによるものか、それとも新たなる異邦化(反キリスト教化)の力が強まってきていることのおそるべき証拠であるか、私たちはそれぞれ見極めていく必要があります。


7.結論

ルター派の教義学は、それが御言葉の堅い基盤のみによって支えられていることを誇りとしています。人間的な考え方はどんどん変わっていきます。しかし、神様の御言葉は決して変わることがありません。ルター派では、倫理あるいは信仰にかかわる問題は昔から二つのグループに分けられてきました。ある事柄については聖書にはっきりと指示を与える御言葉がありますが、また別のことがらについては聖書は沈黙しています。ある問題について聖書が沈黙を守り、明瞭な聖書の箇所に直接基づいた指示を見出せない場合には、こうした問題は「どちらでもよいこと」(アディアフォラ)と呼ばれます[4]。こうした問題については、クリスチャンは、愛に留まりつづけることを忘れない限り、自己の良心に従って活動してもよいのです。ところが、聖書が何かの問題について語っている場合には、その問題はあらゆる時代のすべてのクリスチャンにとって、すでに「解決済み」なのです。これが伝統的なルター派の理解です。私は誇りをもって私たちの教会の伝統を告白し支持します。このような立場からみるとき、聖書はすでに同性愛という問題についても疑問の余地なく解決を与えていると、私は理解しています。もちろん、同性愛で苦しみ、それと戦っている人たちの心のケアのためには特別な知恵が要求されますが、それについてはここで触れることはできません。

私は1984年にこのテーマについて神学生たちに話をしたことがあります。約束どおり「ホモセクシュアルのクリスチャンのための聖書研究会」からも話を聞きに来た人たちがいました。盛んな議論が交わされました。その聖書研究会のグループの学生たちは、自分たちの弱さを認めてもらうことを周りから要求しませんでした。彼らの意見によれば、同性愛はクリスチャンにとって何の悪いことでもないのです。彼らの議論の根拠になっている考え方は教会でなされてきた女性牧師制についての議論の展開と同じでした。すなわち、「聖書は同性愛について語ってはいないか、あるいは、仮に語っているとしても旧約聖書だけだ。もしも新約聖書も同性愛について語っていることを認めなければならない場合でも、見なさい、イエスはこの問題について一度も語っていないではないか。パウロはたんなる人間だった。聖書を文字通りに受け取ってはいけないのだ。人が天国へ行くのは、その人がヘテロセクシュアルだからではなく、人が地獄へ行くのはその人がホモセクシュアルだからというわけでもない。」
彼らとの議論はすべてまったくむだだったように思えます。彼らにとって聖書の御言葉には何の価値も権威もないのです。

おそるべきことに、フィンランドの教会の神学者たち自身が、大学やメディアを通じてこのような「論理」を学生たちにも一般の教会員にも教え込んできたのです。同性愛の問題は、女性牧師制や離婚した人の再婚を教会で司式することや制度としての同棲を教会として容認することと同じように、上記に挙げたような議論のやりくちで片付けられてきました。同性愛の危険についての聖書の教えを無視して教会員に「違うこと」を教えている者たちは、「羊の群れの中にいる、羊のなりをした狼」です。もしも私たち牧師や神学者が神様の御言葉を軽蔑するように人々に教えるならば、私たちはこの国民が聖書の神様の語りかけを聴くことができなくしてしまうのです。この国(フィンランド)には神様の律法によって自己の良心をとがめられ、キリストが十字架で確保してくださった恵みに感謝して満ち足りるような「罪人」がもはやほとんどいないのではないでしょうか。それは非常に危険な状態です。

 あるリベラルな聖書学者は「同性愛と聖書の問題」というテーマを掲げました。こうした問題設定はある意味で本質をついています。まさしく具体的な聖書の箇所について、私たちが本当に「聖書的」であるか、それともたんなる「保守的」であるにすぎないのか、が試されます。私たちクリスチャンの使命は、「岩」の上に教会を築くこと、神様の御言葉という決して裏切らない基盤に立つことです。このようにしてのみ、教会の最も貴い宝、キリストの血の福音が混じりけなく純正に保たれるのです。
[1] たとえば、”Sexual Behavior in the Human Male”(1948).
[2] 成人の男と若者の男との間の性的な教育関係をさす。
[3] 使徒教父のひとり。
[4] 詳しくは、ルーテル教会信条集・一致信条書の中の和協信条・根本宣言第10条を参照のこと。

2008年4月29日火曜日

イスラエルとは何でしょうか?

エルッキ・コスケンニエミ  (フィンランド福音ルーテル協会牧師、神学博士)


1.神様はアブラハムと契約を結び、彼を御自分の民として育んでくださいました(創世記15章)。この民にモーセの十戒が与えられました。そして、唯一この民「イスラエル」のみが「神様の所有の民」となったのでした(出エジプト記19章3~5節)。他のすべての異邦の民は偶像を崇拝していました。ただイスラエルのみが真の神様に仕えていたのです。神様のすべての約束はイスラエルに対してのみ向けられていました。一方では、神様がひとつの民を選ばれたのは、神様がすべての民に近づかれたことを確かに意味していました(出エジプト記19章5~6節)。

2.イスラエルは神様に対して絶えず反抗していました。神様はそのようなイスラエルを懲らしめました。しかし、再び御自分の民を憐れまれ、預言者たちを派遣してくださいました。預言者たちはイスラエルに悔い改めるように説教しました。そして、真の王国を築き上げる「来るべき王キリスト」について預言しました。

3.キリストがこの世にやって来られた時、神様の民はキリストを受け入れないどころか、この方を十字架につけることを要求しました。しかし実は、このようにして神様の隠された御計画が実現したのです。それは、ゴルゴタの十字架でイエス様が成し遂げてくださったこと、すなわち、「人を罪ののろいから救い出す」というあがないのみわざでした(イザヤ書53章)。キリストは死者たちの中からよみがえられたとき、すべての民を御自分の弟子とするために使徒たちを派遣されたのでした(マタイによる福音書28章18~20節)。このようにして今や神様は、御自分の所有の民イスラエルだけではなく、すべての民に近づいてくださったのでした。

4.イスラエルの立場は今はどうなっているのでしょうか?最も大切な聖書の箇所はローマの信徒への手紙9~11章です。ここから私たちは3つのことを学びます。

1)イスラエルはキリストを見捨て、神様から離れ去りました。こうして神様の恵みをいただく権利を完全に失ったのでした(ローマ10章21節)。イスラエルの代わりに、神様は異邦の民を招かれました(ローマ9章24~25節)。この新しい民は「神様のイスラエル」と名づけられています(ガラテアの信徒への手紙6章16節)。

2)しかしながら、イスラエル全体が神様から離れ去ったわけではありませんでした。なぜなら、そのうちの何人かはキリストを信じたからです。こうして神様は、イスラエルの父たちにお与えになった約束を忠実に守られたのでした(ローマ11章1~5節)。

3)神様はこれから再びイスラエルを招いてくださることになっています。そして、時の終わりに、この招待は受け入れられるのです。こうして神様は御自分の民を憐れんでくださることになるのです(ローマ11章25~26節)。

今私たちは、イスラエルとユダヤ人とをいろいろな角度から見ることができます。イスラエルは「神様の所有の民」であったし、今もそうです。しかし、彼らは今はまだ心をかたくなにしたままでいます。もしもキリストを受け入れず拒むならば、たとえ「神様の所有の民」に属していても、救われることはありません。
私たちは、神様が御自分の約束を思い出して、イスラエルをキリストのみもとへと方向転換させてくださるように、祈ります。

5.私たちは、イスラエルの歴史を調べることで、多くを学ぶことができます。神様は、イスラエルにたくさんのことを与えてくださいましたが、イスラエルは、キリストを拒んだときに、そのすべてを失ってしまいました。私たちが神様の子供であり、キリストの教会、すなわち「神様の新しいイスラエル」に属しているのは、神様からいただいた恵みによるのです。一方で私たちは、「もしも神様が生来の枝を惜しまれなかったのならば、あなたのことも惜しまれはしないだろう」という警告も受けています。キリストにおいてのみ救いがあります。そして、キリストを捨て去る者たちの受ける分は滅びです。

(日本語版翻訳編集 高木賢 フィンランド福音ルーテル協会職員、神学修士)

2008年4月11日金曜日

原罪 あらゆる罪の源



原罪 あらゆる罪の源

パシ パルム


「悪い人などはいない。ある人はほかの人より弱いだけだ」とある詩人は言いました。今でもこうした考えに同調する人は多いようです。赤ちゃんの洗礼式に参加する人の多くは、だっこされている赤ちゃんの「罪深さ」について話す牧師の言葉に戸惑いを覚えます。自分が受け入れた「宗教的な教え」に従って、自分を「罪のないよい存在」に変えようといくら努力してもうまくいかないために、絶望してしまう人もいます。これらの例は、原罪についての聖書の教えが理解されていないか、あるいは認められてはいないことを示しています。

最初の人間たちの堕落の結果として、人間全体が罪の支配下に陥ってしまいました。人は皆、このように霊的に死んだ、不信仰と悪い欲望にまみれた状態の中へと生まれてきます。つまり、人は神様とその御心に反抗する態度をもって、生まれてくるのです。このような状態にある人間は滅びるほかはありません。ところが、人が洗礼と信仰を通して新しく生まれる場合には話が変わってきます。クリスチャンは、「罪の赦し」を信仰によって「自分のもの」としており、洗礼においてそれを賜物として与えられているがゆえに、原罪のもたらす「罪悪感」から解放されています。しかし、この世で生きている限り、原罪による「腐敗」はクリスチャンの中にも依然として残存し続けます。そして、原罪による腐敗は、さまざまな「行いによる罪」として、日常生活の中ですべての人の考えや話や行いの中に例外なく噴出してきます。



原罪を否定するいくつかの意見があります。

1)人は根本的には悪ではありえない。なぜなら、人は多くの自己犠牲的なよい行いをすることができるからだ。

2)聖書は原罪について何も言っていないではないか。原罪についての教えは、教会が「幼児洗礼」を正当化するために捏造したのさ。

3)もしも神様が「人が自分で行ったわけではないこと」のゆえに、その人を裁くというのなら、神様は公正ではない。



これらの主張に対する答えは次のとおりです。

1)人は神様の御創りになった存在であり、もともとは(神様にそのままで受け入れていただけるような)「義」なる存在でした。人間全体の罪の堕落の後も、人はどうにかこうにか「外面的な義」(たとえば、仕事をし、家族を養い、困っている人たちを憐れむことなど)を実現することができます。しかし、人の中には、神様の御前にして(自分を正当化できるような)「心の義」はないのです。


2)「聖書には原罪についての教えがない」というのは正しくありません。なるほど聖書は「原罪」という言葉を用いてはいませんが、その存在を前提としています。たとえば、マタイによる福音書1519節、ヨハネによる福音書36節、詩篇517節、ヨブ記144節、ローマの信徒への手紙3912節、51819節、エフェソの信徒への手紙213節を読んでください。

3)神様は公正なお方です。それに対して、人が腐敗しているのです。犯罪者が裁判官を批判する立場に立つのは不可能です。どんなにそうしたいと思ってもです。人はアダムと同じ状況に置かれた場合には、誰でも皆アダムと同じように行動したことでしょう。私たちはこの問題に関しても「聖書の生徒」であり続けたいと思います。

4)だっこされている赤ちゃんのことを考える場合には、「罪はたんに行いのみではない」ことを思い起こしましょう。行いは考えから出てきます。そして、考えもどこからか出てくるのです。人は、悪い行いをするから、罪人なのではなく、逆に、人は、罪人であるがゆえに、悪い行いをするのです。

2008年3月19日水曜日

イエス様の十字架刑

今回は受難週の意味を考えましょう。その核心はもちろん十字架です。


エルッキ・コスケンニエミ (日本語版翻訳編集 高木賢)

イエス様の十字架刑には周到な精神的かつ肉体的虐待が用意されていました。茨の冠はイエス様の頭を血だらけに引き裂いていました。退屈な一日を紛らすためにローマの軍隊たちは、本来人を打ちたたいて懲らしめるために用いられる棒を「王笏」としてもたせ、赤い道化の王様のマントを身にまとわせて、イエス様を「ユダヤ人の王」に仕立て上げてからかいました。こうして彼らはまた普段から侮蔑してきたユダヤ人たちに嫌がらせをしたのでした。このことはピラトが書かせたイエス様の死刑の理由(「ユダヤ人の王」)からも伺えます。当然のことながら王様は真ん中の十字架に付けられ、王の臣下たち[1]はその両脇にはりつけになりました。

真昼になってのどの渇きに苦しんでいる人に「飲み物」として差し出されたのはすっかりすっぱくなったぶどう酒でした。イエス様は異常なほど厳しく鞭打たれていました。おそらくまさにそのせいですでにたくさんの血を失っていたイエス様は精神的な苦しみとあいまって十字架上で力を失い、驚くほど早く死なれたのでした。(死期を早めるために)イエス様の脛骨を打ち砕く必要はありませんでした。というのは、死んで不自然に捻じ曲がったイエス様の身体は専門家だけではなく普通の人が見てもイエス様がすでに死んでいたことを告げていたからです。何の気なしに兵士がイエス様のわき腹を槍でつついたときに、そこから水と血が流れ出ました。現代の医学によると、死んだばかりの人のわき腹からは水と血が湧き出ることがありうるそうです。ローマの処刑者たちは「イエスは死んだのではなく実は気を失っていただけだ」と主張する者たち(そういう人たちがいるのです)に対してまともに取り合ったりはしないことでしょう。彼らは十字架上で死んだひとりの男を目にしました。この人の死の中に高貴さとか美しさとか素晴らしさなどを見出した者は誰もいませんでした。「ユダヤ人の王」として通報された者が苦しみの最期を遂げたのです。

十字架の血の福音

イエス様が復活された後、人々を罪ののろいから救い出す福音はあらゆるところへと伝えられていきました。多くの者は「十字架で殺された神様の御子」についての話を愚かしく思いました。十字架刑を一度でも見たことがある者なら誰でもそれがどのようなものであるか知っていました。十字架に付けられたキリストについての話はそれについて聞いていた人たちを躓かせました(コリントの信徒への第1の手紙1章23節)。すでに初期のクリスチャンたちの中にもイエス様には本来似つかわしくないようなひどい死に方について沈黙しようとする人たちがいました。「イエスが苦しんだのは外見だけで、実は肉体は苦しまずにすんだのだ」などと言い出す者たちもいました。

こうした考え方とは反対に、イエス様の弟子たちはまさにイエス様の十字架の死の中に信仰の核心を見ました。イエス様は神様の愛の御意志に対して最後まで忠実であられました。イエス様は十字架上で神様に見捨てられのろわれたものとなりました(ガラテアの信徒への手紙3章13節)。イエス様は侮られさげすまれるために「あげられました」(ヨハネによる福音書3章14~15節)。まさにこのようにしてイエス様は御自分の上に私たちの罪の懲罰を身代わりにお受けになったのです。私たちはイエス様と「もちもの」を交換することが許されました。すなわち、イエス様は私たちが報酬として受けるのが当然である神様の怒りをかわりに担ってくださいました。私たちはイエス様が報酬として受けるはずの神様の愛をかわりにいただきました(コリントの信徒への第2の手紙5章21節)。
[1] イエス様と共に十字架につけられた二人の強盗たちをさしています。

2008年3月14日金曜日

天国の広場で

今回のテーマは「罪人はどうすれば救われるか」です。
それと関係してこの世の終わりに訪れる「最後の裁き」について学びましょう。



天国の広場で

エルッキ・コスケンニエミ (日本語版編集 高木賢)


1.問題の所在

「広場」とはラテン語でforumといい、「裁きの座」を意味しています。言い換えればこの表題は「大いなる裁きの座」をあらわしています。このテキストで私たちは「神様が人々の前で裁きを行われること」について語っている聖書の箇所を調べることにしましょう。


2.さっさと私を裁きなさい!

多くの人は神様の裁きを避けようとしています。しかし、少なくとも聖書の中の登場人物の一人は自分自身に関して神様の裁きがなされることを祈り求めています。ヨブは神様が裁きの座に出てくるように要求しました(とりわけヨブ記23章1~12節)。もしも公平な裁判ならば、ヨブは神様が彼に対して行ったわざに関して神様を有罪とし、「ヨブが正しく、神様が間違っている」ということがあきらかにされたことでしょう。ヨブの友人たちは本当のことや正しいことを話しているし、ヨブと共に部分的には調子をそろえています。しかし、ヨブの友人たちはヨブの考え方や態度を変えさせることはできませんでした。最後にようやく主がヨブにあらわれて、ヨブは「よりよい神学」を学びました。つまり、ヨブは神様の裁きの座の前で黙ることを学んだのです。しかし、神様の御言葉がこれと同じ奇跡を今でも私たちの只中で行えるように私たちは御言葉を学んでいるでしょうか。


3.旧約聖書から

ゼカリヤ書3章1~7節は、神様の民が自分たちの罪に対して裁きと懲罰を受けた時期について語っています。エルサレムは破壊され、神殿はもはやなく、民は捕囚となりました。神様が御自分の民を彼らに与えた土地に連れ戻されたとき、主は預言者ゼカリヤが大祭司ヨシュアが神様の御前で民全体の代表として立っているのを「見る」機会をお与えになりました。裁きの座でヨシュアは憐れみを受けて釈放されました。なぜなら、この男は「火の中から取り出された燃えさし」(ゼカリヤ書3章2節)だったからです。こうしてヨシュアは憐れみを受けた者として生きていくことを許されました。「天国の広場」での裁決は悪魔を沈黙させました。

詩篇143篇は「人が自分の罪を悔いる」というテーマを扱っています。敵のゆえに命が危うくなっているダヴィデが地面に伏して全能の主の助けを求めて叫びます。それと同時にダヴィデは自分の罪のせいで助けをいただけないのではないかと恐れます、「主よ、あなたの僕を裁きの座に引き出さないでください。あなたの御前では誰ひとりとして義とされないからです」(2節)。天国の広場では罪人に対して罪の重荷から解放する裁定が待っています。あるいは、「天国の広場では裁判そのものがまったく始まらない」と言ってもよいでしょう。


4.大いなる裁き

新約聖書は世界史全体のしめくくりとして次のような状況を提示しています、「生きている者も死んだ者も、大きい者も小さい者も、大いなる白い裁きの座の前に立ち、書物が開かれます。その「命の書物」の中に名前がある者は命の世界に入ることができ、命の書物に名が記されていない者は死の王国に落ちていくほかないのです」(ヨハネの黙示録20章11~15節)。
天国の広場が人で一杯になる時が来ます。すべての人がそこにいるのです。

罪人に残された唯一の可能性は、パウロがテサロニケやアテナイで教えた基本的なことをきちんと復習することです。神様の怒りが世界を覆う時が来ます。「神様が死人の中からよみがえらせた神様の御子、すなわち、私たちを来るべき怒りから救い出してくださるイエス様が、天から下って来られるのを」私たちは待つようになりました(テサロニケの信徒への第1の手紙1章10節)。同じ教えはパウロのアレオパゴスでのスピーチの中にも見えます(使徒の働き17章)。    

「義認」(義と認められること)、すなわち、人が大いなる裁き主の御前で罪を赦され認めていただけることは「人がよりよい存在になる」という意味ではありません。義認とは、「人には心にやましい罪がない」という意味ではありません。義認は、「罪が罪とはみなされない」ということです。パウロは、ふたつの異なる義について語っています。ひとつは人間自身の「行いによる義」で、人はそれを捜し求めますが決して見つからないものです(ローマの信徒への手紙9章30~33節)。もうひとつの義はキリストのゆえに賜物としていただける義です。これに関して最も大切な聖書の箇所はとりわけローマの信徒への手紙4章3節、22~25節、および、ガラテアの信徒への手紙3章6節です。真っ白な裁きの座の御前で私たちの「避けどころ」となるのは、自分自身の義ではなく、私たちの罪を帳消しにしてくれる「キリストの義」です。


5.いくつかの選択肢

いままで述べてきたことは、「どのように人が救われるか」についていくつかのはっきりとした「境界線」を引かなければならないことを私たちに教えます。

神様の怒りと永遠の裁きについての教えをまったく受け入れない人たちがいます。彼らは、「イエスは神が怒ってはおらず今まで怒ったこともないことを教えにきたのだ」と主張します。これは誤りです。
「天国の広場」ではいつか必ず大規模な集会が開かれます。もしもそのときにキリストから賜物としていただいた義が「避けどころ」となってくれなければ、人は永遠の命の中へ入ることができません。

「義認とは人がこの世での人生の間に義なる存在に変化することだ」と主張する人もいます。「神が人の中にその力を注ぎ込み、その結果として人は次第によりよい存在に変わっていく」と言うのです。これも間違いです。
なぜなら、「私がクリスチャンである」ことは私によって決まることではなく。どこか天の岸辺の向こうでいつか将来に実現することでもないからです。キリストはゴルガタの十字架で罪人である人間と聖なる神様の間に平和をもたらしてくださいました。キリストは聖なる洗礼において、私に御自分の義を着せてくださいました。キリストは聖霊様によって、すべての人に贈ってくださっている救いを私が自分のものとして受け取るようにしてくださいました。信仰は確かに人の人生を変えます。
しかし、それはここで扱っていること(人はどのようにして神様に義と認められ、救われるか)とはまったく別のテーマです。信仰により人の人生が変わるのはキリストの愛の力によってであり、人自身の業績(よいほめられるべき行い)とは関係がありません。

救われるという確信を自分自身の心から探しまわって、種々の精神的な鍛錬によって自分を高めようとする人たちもいます。しかし、どれほど熱心に信仰にかかわることがらに集中してみたところで、土曜日の夜には真実味を帯びていたことも次の月曜日の朝にはそれが本当だとは感じられなくなってしまったりするものです。心がキリストに対して熱く燃え続けることもありません。
それに対して、私の「救われるという確信」は次の二つのことに基づいています。
まず、神様のすばらしい救いのみわざは、私がまだ生れる前にすでに成就していました。次に、私は義とされています。なぜなら、神様はキリストの救いのみわざによる報酬を私にも分け、私の名前を命の書に書き込み、私を裁きにかけるようなことはなさらないからです。

2008年2月29日金曜日

神様から来るリヴァイヴァル

「人が霊的に目覚める」というのはどういうことか、考えてみましょう。


神様から来るリヴァイヴァル

エルッキ・コスケンニエミ


「あなたがたは主にお会いすることのできるうちに、主を尋ねなさい。近くおられるうちに呼び求めなさい。悪しき者はその道を捨て、正しからぬ人はその思いを捨てて、主に帰りなさい。そうすれば、主はその人をあわれんでくださいます。私たちの神様に帰りなさい。主は豊かに赦しを与えてくださいます。私の思いはあなたがたの思いとは異なり、私の道はあなたがたの道とは異なっている、と主は言われています。天が地よりも高いように、私の道はあなたがたの道よりも高く、私の思いはあなたがたの思いよりも高い。天から雨が降り、雪が落ちてまた帰らず、地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、種まく者に種を与え、食べる者に糧を与えます。このように、私の口から出る言葉もむなしくは私のもとに帰りません。私の喜ぶところのことをなし、私が命じ送ったことを実現します。あなたがたは喜びをもって出てきて、安らかに導かれて行きます。山と丘とはあなたの前に声を放って喜び歌い、野にある木はみな手を打ちます。いとすぎは、いばらに代って生え、ミルトスの木は、おどろに代って生えます。これは主の記念となり、また、とこしえのしるしとなって、絶えることはありません。」(イザヤ書55章6~13節)

このイザヤの言葉を聞いたのは、バビロン捕囚の下に置かれていた神様の民でした。この民は主の戒めをひどく破り、すべてを失ったのでした。エルサレムは荒れ果て、もはや自分たちの王はいませんでした。主の聖なる神殿は汚され、壊されていました。ところが、それから何十年も経った今になって、この民に神様の御言葉がおとずれ、新しい恵みの契約へと招待したのです。「民は喜びの中に自分たちの土地に帰ることができる」と、主は約束してくださいました。神様は御言葉をむなしく送られたわけではありませんでした。神様のくださった雨が、すべてが実を結び成長するように働きかけるのと同じように、御言葉もまた働きかけます。御言葉は、主がそれに与えた使命を正確に実現します。上に挙げたイザヤ書の御言葉もその通り実現し、神様の民は自分たちの土地へ帰ることができたのでした。

歴史は私たちに、神様の御言葉にはすごい力があることを教えてくれます。この力は今日でもちゃんと御言葉に保存されているのです。それゆえ、私たちはリヴァイヴァル(多くの人がある時に霊的に目覚めること)を祈り、「神様はそれを今でも私たちに与えることがおできになる」と強く信じています。


神様から来ていないリヴァイヴァルもあるのでしょうか?

確かに、神様から来ているとは言えない「リヴァイヴァル」もあります。私たちはすべての霊的なことがらを神様の御言葉によって評価しなければなりません。真のリヴァイヴァルは神様の御言葉の中に留まります。人々が自分の罪を告白して、自分の力ではなくイエス・キリストのゆえに、「自分が聖である」ことを信じて、神様の御言葉に従って活きて行くように人々を導く者は、神様の御心に適うことを行っているのです。本物のリヴァイヴァルの伝道者は、自分の心の不幸なほどののろさや冷たさを嘆いている人に対しても、何かよいメッセージがあるはずです。神様の恵みは、はるか彼方から降ってきて、ひどく冷え込んでしまった心の持ち主に新しい愛と力を与えるものでなければなりません。

一方では、私たちは、自分たちの用心深さのせいで、リヴァイヴァルの火を消してしまうことがないように注意しなければなりません。リヴァイヴァルでは、常識では考えられないようなことが起こるので、それに付随して、本来のリヴァイヴァルではないようなことが起きるのもさけがたいのです。たとえば、信仰の核心がちっともわかっていないままで、周りから注目を浴びようとする人たちも混ざってきます。霊的な力を経験した人が、他の人も皆自分と同じ経験をするように激しく要求する場合もあります。自分の教えの内容が、実は聖書とは違う何か他のものに基づいていることに、気が付かない人もいます。
このような状況の中で、私たちはどこか安全な場所に逃げ込んで、そこから決定的なパンチを繰り出す、というやり方もありうるでしょう。
もうひとつの方法は、パウロのように、今起きているリヴァイヴァルについて認めることができる点はちゃんと認めて、相手の使い慣れた言葉を用いて、相手の弱い点を忍耐しつつ、しかし同時に、神様の真理をはっきりと前面に打ち出す、というやり方です。
私たちも、リヴァイヴァル運動に参加してきた信仰の兄弟姉妹の中にリヴァイヴァルとは相容れない面や間違っていることがあった場合にどのようにして彼らと出会い付き合っていくべきか、あらかじめ心の準備をしておくべきでしょう。
神様の御言葉は、私たちがそれにしっかりつながっている限り、リヴァイヴァルを整え導きます。神様も私たちに対して忍耐され、私たちに真理を学ぶ時間を与えてくださっているのです。私たちも隣人に対して同じようにしない理由があるでしょうか?


リヴァイヴァルの核心とは何でしょうか?

ローマの信徒への手紙3章

どんなリヴァイヴァルでも神様から来ているというわけではありません。この世には、神様の真理から何光年も離れているような熱狂的な運動がたくさんあります。「宗教的」であることが、キリスト教にとって最悪の敵となるさえあります。どうすれば私たちは、真のリヴァイヴァルを見分けることができるのでしょうか。

神様の与えてくださった本物のリヴァイヴァルは、聖書にしっかりと基づいています。そこでは人は、自分の本当の状態に気が付きます。今の世の中では、神様をまったく必要としていないかのように思い込んでいる人たちが大勢います。彼らは、信仰のことがらを考えることがあったとしても、それはせいぜいロウソクを点して聖なる雰囲気を味わったり、美しく飾られたクリスマス礼拝に参加したりする程度のものでしょう。彼らにとって教会は雰囲気を提供する場にすぎません。罪と恵みについての話は彼らにとってちんぷんかんぷんです。「私は銀行強盗をしたこともないし、誰も殺したことがないのだから、何も怖がる必要はないだろう?」確かに人々の前では何も恐れる必要はないかもしれませんが、神様の御前ではそうではありません。
ローマの信徒への手紙3章は、人は各々神様の御前で罪深い存在である、と教えています。人にはいつも悪い考えや悪い言葉や悪い行いが伴っている、ということは、「人は、神様の栄光を受けられなくなっている」ということを意味しています(23節)。つまり、人は神様の栄光へと入っていくことができないのです。人の本来行くべき場所は、永遠の滅びです。

このことについて多くの人たちは、家に火がついて煙が立ち昇り始めているのにぐっすり眠り込んでいる人と同じくらい、無頓着なままです。そういうときには本当なら目を覚まして危険を察知するべきなのです。私たちを罪のまどろみの中から起こしてくれるのは、神様の御言葉です。これによって私たちは、自分たちが神様の怒りと裁きを受けるのが当然であることを、知ります。そしてこうしたことがわかるようになるのは、人が理性的に自分の頭で考えたからではなく、神様が与えてくださった大きなプレゼント、聖霊様の働きのおかげなのです。

私たちが絶望のうちに死ぬことがないように、神様は働きかけてくださいます。聖書にこう書いてあります。
「すべての人は罪を犯して、神様の栄光にあずかれなくなっています。彼らは、価なしに(ただで)、神様の恵みにより、キリスト・イエスにおけるあがないを通して、義とされているのです。」(ローマの信徒への手紙3章23~24節)
私たちの罪は神の小羊イエス様の血によって赦されています。これが私たちにとって唯一の「避難所」です。信じ始めたばかりの人にとっても、また、ヴェテランの信仰者にとっても。この守りの城砦は決して揺るがず、私たちを裏切ることもありません。

このように真のリヴァイヴァルとは、「罪と恵みを知ること」です。それは、はじめからおわりまで聖霊様のみわざです。「聖書は聖霊様の働きかけによって生れた」ことを、私たちは信じます。それゆえまた、「今もなお、聖書は聖霊様に反対して語ることは決してない」と私たちは信じます。真のリヴァイヴァルは、「偉大な神様と御言葉を前にして畏れる心をもって歩むこと」を人々に伝えていくものです。


リヴァイヴァルを体験する必要があるのでしょうか?

人はその人生の中で「リヴァイヴァル」(あるいは「新しく生まれる」とか、「信仰に入る」とか、いろいろな言葉がありますが)を体験することが絶対に必要である、と考えるクリスチャンがいます。「人は心の底から自分を主にお渡しし、霊によって満たされることが必要だ。もしもそうでなければ、誰も神様のものではありえない」というのです。

私たち人間は、自分で決めた要求を自分に課すのに慣れています。そして、「他の人も皆、自分と同じように体験するべきである」と要求しがちです。しかし、とりわけこうした問題については、人は神様の御言葉を超えて何か勝手なことをやってはいけません。もしも人がキリストを受け入れるのならば、すべてはそれで大丈夫なのです。自分の考えに頼って神様のみもとに行ける人はひとりもいません(たとえば、コリントの信徒への第1の手紙2章14節)。それはいつも聖霊様のみわざです。私たちは皆それぞれ異なっています。敏感な人もいれば、そうではない人もいます。敏捷な人がいれば、のろい人もいます。天の父なる神様は御自分の子供たちをよく御存知です。お父様は私たちをどのような道に沿って導いていかれるか、よく御存知です。自分の罪や心の冷たさを悲しんでいる人は、それが実は聖霊様が与えてくださった賜物であることを知りなさい。自分の希望をキリストに託す人は、救いの道を歩んでいます。私たちには、私たちのあがない主なるキリストがおられる、ということで十分なのです。イエス様は、私たちを聖なる洗礼において「御自分のもの」としてくださいました。イエス様は、私たちに御自分の恵みを主の聖餐で分け与えてくださいます。イエス様は、神様の御言葉の中で、あなたを愛しておられることを誓っておられます。

私たちは自分の人生の中で、ある特殊な体験や決まったパターンを必要とはしていません。私たちが必要なのは、イエス・キリストです。もしも私たちにイエス様がおられるならば、実は私たちにはすべてがあるのです。もしも私たちにイエス様がおられないならば、私たちには何もないのです。たとえ私たちがどれほど「宗教的」であったとしてもです。


リヴァイヴァルを経験した人は、いつも目を覚ましているのでしょうか? 

一度リヴァイヴァルを体験した人が、おわりまで「目を覚まし続けている」とは限りません。キリストは御自分の民が目を覚まし続けているようにと、忠告なさっています。私たちが出会う危険は大きいのです。神様の子供は、神様からいただいたものを、いともたやすく失ってしまいます。 滅びの道を歩んでいる者にとって、一度若いときに経験したリヴァイヴァルは、たいした役に立ちません。自分の力に頼る限り、私たちは、ゲッセマネにいた弟子たちと同じようなありさまです(マタイによる福音書26章)。キリストは弟子たちを何度も起こさなければなりませんでした。にもかかわらず、弟子たちはいつも深い眠りにとらわれました。それゆえ、私たちは、リヴァイヴァルを神様に絶えずお願いして、こう祈ります。「主よ、あなたの教会を眠りから起こしてください。そして、それを私からはじめてください!」




2008年2月13日水曜日

私は正しく生きているでしょうか。

何がクリスチャンとして正しい生き方か、どうすればそのように生きられるか、今日はこのことを考えてみたいと思います。


私は正しく生きているでしょうか。


ヤリ・ランキネン


神様は人を「御自分のかたち」に創られました。それは、神様は人をあることがらについては「神様と似たもの」となさった、という意味です。「神様のかたち」は、神様が知っておられるのと同様に、何が正しくて何がまちがっているか知っていました。神様のかたちとして人は「悪を避け正しく行動しなければならない」ことを理解し、また常に正しく行動しました。神様のかたちとして創られたということは、自分の行いについて神様に対して責任をもつということでもあります。神様は御自分のかたちに対して「神様のように生きていたか、正しいことを行ってきたか」について厳しいチェックを要求なさいます。ところが、はじめの人(アダムとエバ)が罪に堕落するということが起きてしまいました。その結果として人は「正しく生きるという能力」を失ってしまいました。罪の堕落が起きたため、私たち人間はするべきではないことを行い、しかもそれをせずにはおられなくなってしまいました。たとえそうすることが間違っているとわかっている場合であっても。たとえどんなに違った生き方をしようと努力しても。罪の堕落のもうひとつの結果として人は何が正しく何が間違っているかを知る能力がひどくあいまいになってしまいました。私たちの心の奥底も罪の堕落のために罪に汚されてしまっているため、正しいことを間違ったこととし、間違っていることを正しくみなしてしまうことがあるほどゆがんでしまっています。しかも実際にしばしばそのように行ってしまうのです。それゆえ、何が正しく何が間違っているかについての知識を私たち自身の「外側」から得る必要が私たちにはあります。確かに罪の堕落が起きてしまったとはいうものの、私たちは依然として「神様のかたち」なのです。私たちには正しいことと間違っていることについての理解が、たとえそれがどんなに曇ってしまっているとしても、残っており、私たちは自分の行なったことについて神様に対して責任を負うことになるのです。

罪の堕落は人を御自分のかたちとして創られたお方を汚しはしませんでした。創り主なる神様は何が正しく何が間違っているか、人の罪の堕落の前も後もかわりなく御存知で、常に正しく働かれています。神様は正しいことと間違っていることについての知識を御自分のものだけに留めてはおかれませんでした。神様はこれらについても私たちに御自分の御言葉をお与えになることによって語っておられます。それは次のふたつのことを意味しています。
1) 神様は聖書を与えてくださいました。神様の選ばれた人々が、神様が御自分で創られた人間に対して言われたいことを書き取りました。聖書には正しいことと間違っていることとについて聖書の立場を明瞭にしている箇所が数え切れないほどたくさんあります。それらは、何が正しく何が間違っているか正確に御存知である神様御自身の立場の表明なのです。それゆえ、正しいことと間違っていることとの感覚が曇ってしまっている私たち人間はそれらを注意深く聴いていくべきです。
2) 神様御自身がこの世に来られました。イエス様が人としてお生まれになったときにこのことは実現しました。イエス様は神様の御言葉であられ、神様御自身であられます。イエス様の中で「天地の主」が話し、教え、活動し、働きかけておられます。それゆえ、イエス様が正しいことと間違っていることとについて教えておられることは「神様の教え」なのです。私たちは「何が正しいか」を問うときには、「イエス様はどのように考えておられるか」について問うべきです。もしもそれを知るならば、私たちは神様の立場を知ることになります。イエス様のお考えについて私たちは聖書から知ることができます。聖書はまさしくイエス様についての書物なのですから。

聖書が何が正しく何が間違っているかについて語っていることは、人間が心の中でぼんやりと理解していことがらに対応しています。聖書が命じたり禁じたりしていることを聞くときに、あたかも私たちの心の中で誰かが「これは本当だよ」と言っているかのように感じるものです。たとえ人がそのあとで聖書の教えに反抗することになったとしてもです。これはどうしてでしょうか。それは、聖書が私たちの創り主の書物であり、私たちが私たちの創り主のかたちであるからです。人間ひとりひとりの中にある「何か」が、私たちの創り主が正しいことと間違っていることについて語っておられることがらに対応しているのです。このことは、私たちが聖書の命じていることがらをまわりにもはっきり語って、またそれに従って活動するように励ましてくれることでしょう。

ソヴィエト連邦では聖書の命じていることがらを教えることが禁止されました。聖書は廃棄され、また聖書の教えは人間たちが自分で考え出したいろいろな教えに取って代えられました。それらの新しい教えは聖書よりもずっと優れていると感じられたのです。さあ、何が起きたでしょうか。国民は盗んだり嘘をついたり周りの人を無視して生活することを学んでしまいました。国の経済もめちゃくちゃになり、前の「敵国」からの援助なしには立ち行かなくなりました。もっとも援助があっても厳しい状況はつづきましたが。自然もひどく破壊されました。ソヴィエト連邦ではこういう結果になりました。聖書やその命じていることが無視されているところではどこであれ、それと同じようなことが起こります。聖書は人間に最上の生活の教えを与えています。たとえば携帯電話など何か装置を使用するときに、その製造元が与えた装置の使用法を無視していると、その装置はまもなく壊れてしまいます。聖書ではこの世界の「製造元」が話しているのです。そしてこの「製作者」は、自分が創った世界でできるかぎり多くのものができるかぎりよい状態を保つためにはどのように生きていくべきなのか、よく知っています。

正しいことと間違っていることについての聖書の教えはすべて「愛の二重命令」に言い尽くされています。「心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、主なるあなたの神様を愛しなさい。自分を愛するように、あなたの隣り人を愛しなさい。」(マタイによる福音書22章37、39節)。「愛さなければならない」ということについては、間違いなく私たち人間は皆同じ意見でしょう。しかし、「愛とは何か」という点に関してはいろいろな意見があります。「愛とは何であり、様々な状況でどのように愛を実現していくべきか」ということについては、私たちの「外部」から説明してもらえない限り、私たちは知ることができません。そして聖書の中でその説明がなされています。聖書の中にある他の命令は「愛の二重命令」を補足説明するものなのです。十戒は愛の命令をすでにかなり広範にわたって説明しています。第一戒から第三戒までは「神様を愛するとはどのようなことか」を説明しています。つまり、私たち人間が他の神々(偶像)に仕えたりしないこと、神様の御名をいたずらに用いたりしないこと、安息日を聖とすることです。第四戒から第十戒までは「隣り人を愛するとはどのようなことか」を説明しています。つまり、両親を敬うこと、殺さないこと、姦淫をしないこと、盗まないこと、偽証しないこと、他の人のものを欲しないことです。

聖書には他にもたくさんの命令があります。それらもまた「神様や他の人を愛するとはどういうことか」ということを説明しています。聖書は人がすべてのことについて神様に感謝するように命じています(テサロニケの信徒への第1の手紙5章18節)。それは神様に感謝することは神様を愛することだからです。聖書は「税金を払わなければならない」と教えています(ローマの信徒への手紙13章5~7節)。たとえそれが高すぎると感じられる場合であってもです。税金をごまかして申告をするのは他の人たちに対する愛の欠如のあらわれなのです。

イエス様が地上で何を行われたか、どのように活動されたか、何を話されたか、ということから私たちは「神様と隣り人を愛することがどういうことであるか」を知ります。イエス様の中で神様御自身が活動なさいました。そして神様は愛の命令を破ったりはなさいません。私たちだったらこうはしなかっただろうと思われるような状況の中でもイエス様は愛してくださり、正しく活動されました。「何が愛であり、どのように活動すべきか」考えるときに、「イエス様だったらこのような状況の中でどのようになさるだろうか」考えてごらんなさい。イエス様と同じように行いなさい!もしそうするなら、あなたは愛しているのです。

私の友人はあるとき不倫についての教会の見方についてインタヴューを受けました。質問者は3度も違う表現と違う根拠を持ち出しては自分自身が行っている不倫を正当化しようとしました。私の友人が「聖書には第六戒がある」と3度繰り返して答えたところ、その質問者は傷ついて、「あなたたちの中にはもっと事情に通じている専門家はいないのか」と尋ねました。不倫についての聖書の取る立場があまりにも嫌だったので、質問者はそれを斥けて、もっと自分にとって都合のよい答えを聞きたくなったのでした。聖書の 多くの命令は、それらがまさしく「私たちが聞きたくないようなメッセージ」であるため、私たちにとって受け入れるのが難しいものなのです。なぜなら、聖書が言っていることとは違うことを私たち自身が行っているからです。そういうわけで「もうこのような聖書の命令は従う必要がないだろう」としばしば言われたりするのです。

聖書の中には「古びた命令」があるのでしょうか。つまり現代の世界ではもはや従う必要がなくなった命令があるのでしょうか。私たちよりも優れた回答者である「神様の御子」が正しい答えを教えてくださっています。
「私はあなたがたにまことのこと[1]を告げます。天地が消え去るまでは、すべてがなるまでは、律法から一点[2]、一画[3]もすたることはありません。」(マタイによる福音書5章18節)。聖書は神様の御言葉です。神様は変わりません。神様が言われたことも変わりません。神様が罪と定められたことは罪です。それは罪であったし、今も罪であるし、これからも罪です。たとえ私たちが「どうしてそれがもはや罪ではないか」よい説明をこしらえたとしても。あるいは、たとえ私たちが行っていることがあまりにも一般的でもはやそれが罪とはみなされてはいなかったり、少なくとも悪質の罪であるとはみなされていない場合であっても。神様をうそつき呼ばわりするのは神様を侮蔑することです。「(自分たちにとって都合の悪い)神様の御言葉のこの部分とあの部分はもはや有効ではない」などと考えている者は、神様をうそつき呼ばわりしています。大切なのは、「私たち人間は罪に堕落した存在であり、それゆえ正しいことと間違っていることとについての私たちの理解はおかしくなっていること」を強調することです。人間とは違って、神様は堕落なさったりはしませんでした。「神様は小さい罪と大きな罪とを分け隔てはなさらない」ということも覚えておいたほうがよいでしょう。神様の命じておられることを破るとき、私たちはいつでも大きな罪を犯しているのです。それがたとえ私たち自身にとってはどんなにとるに足りない些細なことに感じられたとしてもです。「地獄の火に投げ込まれるのが当然なのは人殺しだけではなく、他の人を馬鹿と言う者もそうである」とイエス様は教えてくださいました。神様の目には小さい罪も大きな罪です。そして、その逆ではありません。

聖書には私たちクリスチャンには直接かかわりがないことがらも確かにあります。かつて神様は旧約に属しイスラエルの民のみが従わなければならなかったいろいろな命令をお与えになりました。犠牲をささげることについての多くの規定はそのような命令であるし、「血を避けよ」という聖書の禁止命令も旧約の民に与えられた命令です。聖書自身「新約が結ばれた以上、これらの規定はもはや私たちにはかかわりがない」と言っています[4]。なぜなら、これらの規定には実はたったひとつの目的があるからです。それは人間を罪の呪いから解放して人間に義をもたらすことです。神様の御子が十字架で死んで、世界全体をその罪の呪いから解放し、皆のために義を備えてくださいました。それゆえ、モーセの律法の多くの規定にはもはや従う必要はなく、また従ってはいけないのです。それらに従うことはイエス様の死を侮蔑することです。なぜなら、それは自分自身の行いによって救いを得ようとする試みだからです。しかし、「救い」はイエス様が私たちにすでに確保してくださったのであり、救いを得るために私たちが何かを行うことなどまったくなしに、イエス様が私たちに賜物として与えたいと望まれているものです。

楽園で悪魔は人間が神様の御言葉を疑うように仕向けることに成功しました。悪魔は神様の明瞭な命令を迂回する言い訳を捏造し、人間が罪を行うようにさせました。同じように悪魔は今でも働きかけています。なぜ神様の御言葉のこれこれの箇所はまじめに受け取る必要がないか、悪魔は説明をひねりだします。聖書を軽んじたり、聖書が言っていることと異なることを行うように助言する「声」は悪魔の声です。たとえその声が教養があり理性的で愛に満ちているように感じられるものであったとしてもです。この問題の核心には「悪霊との戦い」があります。私たちは神様の聖霊様に聞き従っているでしょうか、それとも、悪魔の言うことを聞き入れてしまっているでしょうか。神様の霊は私たちを聖書に結び付けようと欲しています。それに対して、悪魔は私たちを聖書から引き離そうとします。 

命じられていることや禁じられていることが「すべて」聖書に基づいているわけではありません。人間が自分で作り出し、私たちがそれらに従うように強制してくる「言い伝え」が今もたくさんあります。もしも人間たちが作った命令が神様の御言葉と同じレヴェルに置かれ、それらに従うことを要求される場合には、神様の御言葉が侮蔑されていることになります。なぜなら、そのときには「人間の意見」が神様の御言葉と同等のものとみなされているからです。あなたが何かをやるように要求されたり、何かをやらないように禁じられたりするときには、聖書のどの箇所でこのように命じられているか、尋ねなさい。もしもそのような箇所が見つからない場合には、そのような命令に従う必要はありません。

神様の命令を破ることは危険です。それには3つの理由があります。
1)神様は聖なるお方です。神様の御言葉を無視することは神様の聖性を傷つけます。神様は長い間人間たちの愚かな行いを耐えてこられました。しかし、遅かれ早かれ神様はお怒りになります。神様の怒りはすでにこの世において人に個人的に向けられることもあれば、ある国民全体に向けられることもあります。しまいには、この世が終わり皆が神様の御前に立ち裁きが始まるときに、神様の怒りは神様の命令を侮蔑する者たちに向けられることになります。
2)神様の命令を破ることによって人は神様から引き離されていきます。罪が人の良心を汚し、やましい良心で生きている者は神様を避けるようになります。人間は神様の命令を破れば破るほど、それだけ遠く神様から離れていきます。それは人間に起こりうる最悪の事態です。なぜなら、本来人は神様と共に生きるために創られたからです。神様の命令を気にもかけない態度は神様から人間を最終的に隔離してしまいます。これが「滅び」と呼ばれるものです。
3)神様の命令は「命の律法」です。もしもそれらに従うならば、従わない場合よりもよりよくこの世で生きていくことができます。

神様の律法は「どうすれば正しく生きられるか」について語っています。それに加えて命令にはもうひとつの大切な使命があります。それらは「私たちがどのような存在であるか」をありのままに示す「鏡」のようなものです。「どのように私は生きるべきであるか」について聞くときに、「私は正しく生きているか」という難しい問題の前に立たされます。正直に自分とその生活を省みる人は誰でも、「自分が正しくは生きてこなかった」ことを認めるほかないでしょう。ある人はあるやり方で、またある人は他のやり方で、また各人が多くのやり方で神様の命令を破ってきたのです。神様はこうしたことを憎んでおられます。それゆえ、私たちは皆それぞれが神様の裁きを受けるのが当たり前の存在なのです。

「フィンランドには罪人が少ないね」と、日本で伝道していたある宣教師がフィンランドに帰ってきた折に言いました。これは「私たちフィンランド人はあまりにもよい人になったため、もはや罪人とは呼べない」という意味ではありません。その人が言いたかったのは「フィンランド人は自分自身を罪人とはみなしてはいない」ということです。その宣教師はフィンランド国内を伝道してまわったときに、人々が福音に対して驚くほどわずかしか興味を示さないことに気が付いたのでした。「この国では人々が自分の悪さを理解せず、それゆえ恵みも必要とは感じていないためだからだろう」とその人は結論しました。「フィンランドには罪人があまりにも少なく、それゆえ福音を求めている人もとても少ない」ことがどうしてか、私はわかるような気がします。神様の律法について宣べ伝えられることがあまりにも少なすぎるのです。あるいは、あたかも人は自分の力で神様の命令を完全に守ることができるかのような誤解を招く仕方で、神様の律法が宣べ伝えられているからです。律法の使命は、人を捕らえてその罪をあらわにし、その人も他のすべての人と同様に罪人であり滅びるのが当然であるような存在だということを明瞭に示すことです。そして、このことを理解した者は福音を渇望するようになります。

「神様の命令を宣べ伝えてはいけない。必要なのは「優しい福音」だけだ」と考えている人たちもいます。これは正しくありません!もしも神様の御言葉が私たちに正しい理解を教えてくれなければ、正しいことと間違っていることについて私たちの理解は前よりもいっそうあいまいになってしまいます。私たちは毎瞬間イエス様を必要としているのであり、とりわけこのことを理解するために、私たちは神様の命令が必要なのです。律法なしでは私たちは「自分がその生き方によって神様を喜ばせることができるほどよい人である」かのように思い込むようになります。しかし、このような思い込みのすぐそばに滅びが待ち受けているのです。律法はこの思い込みをなぎ倒し、私たちについての真実の状態、私たち自身の悪さ、を明らかにします。そして、私たちが自分の罪の赦しを願い求めまたそれをいただくように、私たちをイエス様のみもとに追いやります。

律法は必要です。しかし、律法は誰も救いません。なぜなら、神様に受け入れていただけるほど「十分に」神様の律法を完全に実行できる人は誰もいないからです。それでは、何が救ってくれるのでしょうか。それは「福音」です。神様の福音はイエス様と十字架についてのメッセージです。神様の御子は裁きを受けました。それゆえ私たちは裁かれません。イエス様は御自分を犠牲としてささげられました。それゆえ私たちはそのすべての罪を神様から赦していただきました。イエス様は神様の律法をはじめからおわりまで完全に実行なさいました。このゆえに神様は「イエス様に避けどころを求める者」を御自分にふさわしい者とみなしてくださいます。彼らは自分たちの生き方に基づくならば神様に対してふさわしい者などではありえないのにです。イエス様は私たちに御自分の死によって神様の恵みを確保してくださいました。それが私たちの守りとなり、私たちは聖なる神様の御前で耐え切ることができるのです。神様の恵みは「キリストのもの」である者にとって守りなのです。「キリストのもの」というのは、キリストに所属するものとなるべく洗礼を授けられ、キリストを信じている人のことです。救いは「賜物」です。私たちはそれを何かの「報酬」として受け取ることはできないしその必要もありません。その賜物は、それを受け入れたい人なら誰でもただでいただけるものです。「人がどんな存在であり、人は何を行うことができるか」ということとはまったく関係なしにです。自分が罪人であり裁きを受けるのが当然であることを理解した者は、罪の呪いから解放してくださったお方についての福音を受け入れます。律法は、それがどのように宣べ伝えられようとも、イエス様への信仰を生み出したりはしません。それを可能にするのは福音のみです。私たちは信仰を通して救われますが、その信仰を強めてくれるのは、律法ではなく福音です。

私はどこから神様の御意思を満たす力を得るのでしょうか。「どのように生きるべきか」について正確に厳しく知らされても、私にはそんな元気は出ません。力を与えてくれるのは福音です。すなわち、「どれほどたくさん神様は私を愛してくださったか、また愛してくださっているか」、ちゃんと私は知っているということです。神様から賜物として永遠の命をいただく人は、神様に感謝するものです。神様に感謝するということは、生活の中で神様の御心を実現することです。福音から、すなわち「神様の恵みのみによって私は救われる」ということから、私は「神様の御心に適う生き方をしたい」という力と意志とをいただきます。私に対して信じられないほどよいお方、「私の御父様」に対して私は忠実でありたいです。それと同時に、「私たちは決して完全になることなどはありえないこと、また完全に近づくことすらありえないこと」を心に刻んでおく必要があります。

信仰が生活を「制限」するのは確かです。クリスチャンとして生きることは「神様を畏れること」です。神様を畏れることは「私が神様に完全に依存している」こと、すなわち「私の命は神様が私に何を与えてくださるか、神様は私に対して憐れみ深いだろうか、によって完全に左右されている」ということを理解することです。それゆえ私は神様を怒らせたいなどとは夢にも思いません。もしも私が神様を怒らせて悔い改めないままでいるならば、神様は私を認めたりはなさらないでしょう。そして私にはありとあらゆる悪いことが起こるでしょう。神様は御自分の御言葉が無視されることを憎んでおられます。それゆえ私には神様の御意志を無視して生きていくような真似はとてもできません。そんなことをすれば聖なる神様を怒らせることになるし、それを私は恐れているからです。このように信仰は私たちの生き方に制限を与えます。私は自分が生きたい放題の生き方をすることはできません。しかし、神様の命令が定めている限界は「よい限界」なのです。それらは命を守っています。もしもそれらに従うなら、多くの悪を避けることができます。  



[1] 原語では「アーメン」。
[2] 原語では「イオータ」(ギリシア語の小さなアルファベット。英語のiに相当)。
[3] 原語の意味はアルファベットに付けられる「小さな飾りの記号」。たとえばイオータ・スブスクリプトゥム(ある種の長母音のアルファベットの下にくっついている非常に小さなイオータ記号のこと)。
[4] たとえばヘブライの信徒への手紙10章。

2008年2月4日月曜日

信仰について子供にどのように教えればよいのでしょうか?

ヤリ・ランキネン

信仰について子供にどのように教えればよいのでしょうか?


子供たちに信仰について長年教えてきた私のある友人はこう言いました、「子供の心はイエス様の種まきのたとえ(マタイによる福音書13章)にでてくる「よい土地」と同じようなものです」。子供は心を開いており、教えられたことを素直に受け入れます。人は成長すると、心を閉じ、信仰の事柄を受け入れるのは、はるかに難しくなります。もちろん、神様に不可能なことは何もありませんが、こうした理由から、まさしく子供たちに神様について話すのは、本当に大切なことなのです。

子供の頃聖書の教えを心に蒔いてもらった人たちの多くは、たとえ大人になってから他の道に迷い込んでしまった場合でも、やがてそれらが間違っていることに気が付いて、信仰の道へと戻ってくることがしばしばあります。もっとも、その人の両親は自分の子供の悔い改めを見ることもなく、子供が不信仰の生活を送っていることを悲しみつつ、先に死んでしまうかもしれませんが。信仰者の家庭に育った子供たちは、信仰の中に活きます。彼らは、信仰の中に生活していない場合でも、「自分のしていることは間違っている」というやましい良心をもっており、何が正しいか実は知っている自分の良心にいつまでも逆らい続けることはできないものです。こういうわけですから、私たちも子供たちに信仰について熱心に教えようではありませんか。

現代の子供たちは、他のいろいろなことをたくさん学んでしまいます。たとえば、信仰の事柄は脇へ追いやられるか、禁じられます。子供の心は何か他のものでいっぱいになったりします。あるいは、信仰の事柄が作り話や他の宗教とごちゃ混ぜになったりします。とりわけテレビやインターネットなどのメディアが、子供にこのようなことを教えます。


「教える」とは、どのようなことですか?

私たちは子供を教会に連れて行ったり、子供と一緒に夜のお祈りをしたり、子供にときどき神様について話したりします。これらのことは、確かに大切ですが、まだ「教える」ことではありません。もしも子供に算数を教えるならば、子供の脇に座って、子供と一緒に問題を解きます。これと同じように信仰についても教えるべきです。時間を用意し、子供の脇に座り、子供と一緒に神様について話し、子供が理解したかどうか、質問します。

私たちは、息子ユホが学校に通うようになる前に、「十戒と使徒信条と主の祈りを学び覚えることにしよう」とユホと一緒に決めました。私たちは春と夏、何回にも渡って、一緒に座り、これらの事柄を学びました。私はひとつひとつ声に出して言い、息子はそれを繰り返して、暗唱しました。そしてそれから、今学んだことはどういう意味か、話し合いました。このようにして私たちは一緒に、信仰についてさまざまなたくさんのことを考えることができました。息子は注意深く聞き、また質問しました。息子は学び理解したと、私は信じています。息子はまた、父親である私に大切なことを教えてくれることがありました。私たちが第六戒(「あなたは姦淫してはならない」)を学んでいるとき、その命令がどのような意味か息子に尋ねたところ、ユホは少し考えてこう答えました、「もしも結婚して、結婚相手に気に入らないところがあるとわかっても、相手を捨ててはいけない、という意味でしょう」。信仰の大切な事柄を自分の子供に、たとえばこんな風にして、教えてみたらどうですか?少なくとも、たっぷり時間の余裕をとって子供と一緒に信仰について話し合ってください。こうすることで、信仰の事柄が子供にとって、他のことと同様、自然なことになります。


楽しいひととき

フィンランドでは戦時中にこういうことがありました。何人かの従軍牧師たちは、戦地で御言葉と祈りの集いが開かれている間、その場にいる兵士たちが配給のタバコを楽しむことができるよう願い出て、許可されました。そこには深い知恵がありました。私たち両親もそれと似たような次のことをしました。
私たちは、礼拝で説教が始まるときに、息子たちの手にお菓子の箱を渡しました。信仰について説教されている時について「楽しいひとときだった」という思い出が残るのは、大切です。こうすることで、御言葉が心に入りやすくなります。しかし、もしも説教を聞いているときに、苦しい圧迫されるような印象が子供に残るようだったら、逆効果です。

大き目の子供たちが御言葉の説教を聞くように強制することはできません。でも、聞くひとときが楽しくなるように工夫することはできます。お菓子などの手段を少しぐらい使ってもかまわないと思います。どんな理由から御言葉の説教を聞くことになるにせよ、神様の御言葉は子供や大人の心の中で働いてくださいます。


夜の聖書とお祈り

あなた方の家では夜の聖書とお祈りのひとときをもっていますか?それは別段手の込んだものである必要はありません。たとえば、居間か子供部屋で聖書か子供聖書かお祈りの本を読み、主の祈りを一緒にお祈りして、賛美歌を歌います。これらのひとときを通して、イエス様が言われるあの「よい種」が蒔かれるのです。御言葉を子供がちゃんと聞いているかどうか、おぼつかない場合でも、これは同じです。そして、この蒔かれた御言葉の種は、時が来れば芽を出します。夜の聖書とお祈りのひとときには、信仰やその日の出来事についても話し合うことができるように、時間を用意しておきましょう。また、今読んだ聖書の箇所について質問してみましょう。子供たちからしばしば驚くようなすばらしい答えが返ってきますよ。


何を教えるべきなのでしょうか?

子供は正直ですし、また相手からも正直であることを要求します。すでに教えたことをないがしろにしてはいけません。もしもそうするなら、「信仰についての話はすべてうそだったのか」と、子供は心の中で疑うようになります。「滅び」が存在することを教えた後で、「誰でも皆天国に行ける」と、子供に言ってはいけません。まさにこのことについて正直であるのは難しいものです。私が言いたいのは、イエス様とはまるで関係がないように生活していた隣人が死んだとき、「あの人は間違いなく滅びに落ちた」と子供に言わなければならない、ということではありません。「正直である」ということは、「あの人がどうなったかは、私たちにはわからない。あの人のことは神様の御手にゆだねよう。神様はあの人を、御自分がよいと思われるように裁かれるだろう。しかし、私たちはイエス様を信じている。だから、絶対に天国にいける」と子供に言うことです。

子供にも律法と福音を教えるべきです。神様の御命令がなんと言っているか、子供に語りなさい。罪を憎まれる聖なるお方、偉大なる神様について話しなさい。「イエス様は私たちのために死んでくださった。すべての罪は赦されている。イエス様の死のおかげで、私はそのままで神様に認め受け入れていただける」ということを語りなさい。私たちを愛し、憐れみ、天の家へと導いてくださる神様について、子供に話しなさい。


神様に話しなさい。

ある友人は私にこう言いました、「私の父は家にいることがほとんどなくて、この信仰を私に教えてくれる暇がありませんでした。でも、父が旅行中私のためにたくさん祈ってくれていたことを、私は知っています。私が今信じているのも、父の祈りの影響が大いにあると信じています」。もしもあなたがなんらかの理由で神様について子供たちに話せないときには、子供たちについて神様に話しなさい。それにも奇跡のような効果があります。

2008年1月22日火曜日

「結婚前の性的関係、同棲、結婚」と聖書

エルッキ・コスケンニエミ

とりわけクリスチャンの若者の間で一番興味をもたれまた大切なテーマは、聖書は結婚前の性的関係について、婚約について、またいつ結婚が正式に始まるかについて何を教えているか、ということです。
これから旧約聖書と新約聖書の背景、すなわち神様の御言葉をふまえて、このテーマを考えてみることにしましょう。

フィンランドの現在の状況を考えるために、その歴史的背景を知っておく必要があります。フィンランドでは「同棲」が社会的制度として認められています。それは1960年代までは非常にまれだったものの、その後急速に増え広がりました。この一般的な状況の変化とともに、教会の一般的な教えは「結婚前の性的関係が罪である」ことに対して確信を失ってしまいました。議論の的となったのは「結婚が正式に始まる瞬間」です。
「結婚に基づく性的関係は本当に結婚式での「牧師のアーメン」の後から始まるのだろうか。結婚前に一緒に生活することを試してみてもよいのではないか。外面的な「結婚式」という儀礼などなくても。その代わりに当事者同士で交わされた約束で十分ではないか」などという主張がなされました。


1.旧約聖書

旧約聖書は「結婚」を非常に敬い大切にしています。このことはすでに創世記の2章にあらわれており、結婚が社会における基本的な単位を構成していることを告げています。興味深いのはこのことを裏付ける次の規定です。婚約したばかりの男性は戦争に参加してはならず、自分の妻のそばにいなければなりませんでした。

「女性と婚約して、まだその女性と結婚していない者があれば、その人を家に帰らせなければなりません。そうしなければ、彼が戦いで死んだ場合に、他の人が彼女と結婚するようになるでしょう。」(申命記20章7節)

旧約聖書の世界では多くの点で家族の父親が中心的な役割を担っています。中近東での一般的な慣習と同様に、イスラエルでも両親が自分の子供の結婚式の準備をしたと思われます。もっともモーセの律法はこのことについては何の規定も設けてはいませんが。

旧約聖書の世界では「結婚する時に花嫁は処女でなければならない」ことは自明でした。結婚する時に花嫁が処女ではなかった場合について、申命記22章20~21節は花嫁に対して死刑を定めています。この規定は創世記38章のユダとタマルの出来事にも関わっています。

重大で死刑にあたる犯罪としては他に「姦淫の罪」がありました。これは結婚している男性が他の人の妻と性的関係を持つことを意味しています。一方で、旧約聖書には男たちが道端の娼婦と性的関係をもちながらも罰せられなかったように見える記述があります(たとえば前述の創世記38章のユダの振る舞い)。このように旧約聖書は中近東の(男性と女性に対して別々の)「二重道徳」を浮き彫りにしていますが、モーセの律法にはそのような二重道徳を正当化するような規定はまったくありません。


2.新約聖書

A) どのように人々は結婚しましたか。

ユダヤ人たちの結婚はおそらくすでにイエス様の時代に三つのことなる段階を経て実現しました。まずはじめに「婚約」です。人が婚約する時に花嫁と花婿の両親は結婚式について話し合って決めます。この後に花嫁の家で証人を前にして結婚の誓約がなされ、花婿は花嫁に贈物を届けます。性的な肉体関係はまだ許されていませんでしたが、この段階では結婚を取り消すことはもはやできませんでした。第三番目の最後の段階はおそらくそれから一年たってようやく実現しました。その時にけたたましい歓喜に包まれた結婚式のお祝いの中で花婿と花嫁は最終的に「結婚」しました。その日には友人たちが花嫁を花嫁の家でお祝いの服に着替えさせます。そして花婿の訪れを待ち始めます。花婿が友達と共に姿を見せると、中東的なにぎやかな結婚のお祝いが始まります。そこでは花嫁と花婿は喜びを分かち合っている周りの人たちによって彼らの新居に運ばれていきます。

私たちはこのような「結婚」の仕方に聖書のいろいろなテキストの中で出会います。マリアとヨセフは婚約していました。しかし、ヨセフはマリアに生れようとしている子どもがヨセフの子ではないことを知っていました。なぜなら、結婚前に性的関係をもつことは許されてはいなかったからです。イエス様は結婚のお祝いを、御自分の再臨や最後の裁きや天国での大いなる喜びを教える譬えのイメージとしてしばしば用いておられます。


B) 御言葉

このテーマに関係している新約聖書のもっとも重要な(ギリシア語の)言葉は「モイケイア」や「ポルネイア」やこれらの言葉と似た意味を持つ他の言葉です。

「モイケイア」は聖書では「姦淫」と訳されることが多くあります。そして「姦淫」は当然罪であるとして裁かれています。たとえばコリントの信徒への第1の手紙6章9~11節には人が神様の御国を受け継ぐことができなくしてしまうようないろいろな罪が挙げられており、姦淫もそのリストの中に入っています。しかしこのことは、旧約聖書がユダヤ人の信仰に与えている背景を知っている者にとっては驚きではありません。

もうひとつの言葉「ポルネイア」は「不品行」と訳されています。「モイケイア」が姦淫の罪に関係しているのに対して、「ポルネイア」は結婚の外部でなされる(男女間の)性的関係を意味する一般的な言葉です。この言葉はまたときには姦淫を意味することもあります。この言葉の基となっているのは「ポルネー」という言葉で、非常に古い歴史をもつある種の職業で自分を養っている女性のことを意味しています。つまりこの言葉の意味にははっきりとした色付けがなされています。そして、これらを聖書は厳しく罪に定めているのです。
さて今度は神様御自身が語られていることを聴きましょう。

「すなわち内部から、人々の心の中から、悪い思いが出て来ます。不品行(ポルネイアイ)、盗み、殺人、 姦淫(モイケイアイ)、貪欲、邪悪[1]、欺き、好色、妬み[2]、誹り、高慢、愚痴。」(マルコによる福音書7章21~22節)

「それとも、あなたがたは正しくない者たちが神の国を受け継ぐことはないのを知らないのですか。まどわされてはいけません。不品行な者たち(ポルノイ)、偶像を礼拝する者たち、姦淫をする者たち(モイコイ)、男娼となる者たち[3]、男色をする者たち[4]、盗む者たち、貪欲な者たち、酒に酔う者たち、そしる者たち、略奪する者たちは、いずれも神様の御国を受け継ぐことはないのです。」(コリントの信徒への第1の手紙6章9~10節)

「不品行(ポルネイア)を避けなさい。人の犯すすべての罪は、からだの外にあります。しかし不品行をする者は自分のからだに対して罪を犯すのです。「あなたがたのからだは神様からいただいてあなたがたの内に宿っておられる聖霊様の神殿であって、あなたがたは自分自身のものではない」ということをあなたがたは知らないのですか。あなたがたは大きな代価を払って買いとられたのです。それだから、自分のからだをもって神様の栄光をあらわしなさい。」(コリントの信徒への第1の手紙6章18~20節)

「私が再びそちらに行った場合、私の神様があなたがたの前で私をへりくだらせることにならないでしょうか。そして、前に罪を犯していた多くの人たちが、その汚れと不品行(ポルネイア)と好色の中に活動を続け、それらを悔い改めもしないので、私は悲しむことになりはしないでしょうか。」(コリントの信徒への第2の手紙12章21節)

「肉の働きは明白です。すなわち、不品行(ポルネイア)、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、自分中心のグループを作ること、違った考え、異端、ねたみ、泥酔、度を過ごしたパーティー、またそのたぐいのことです。私は以前も言ったように、今も前もって言っておきます。このようなことを行う者は神様の御国を受け継ぐことがありません。」(ガラテアの信徒への手紙5章19~21節)

「また、不品行(ポルネイア)やあらゆる汚れや貪欲については、あなたがたの間では口にすることさえしてはなりません。そうするのが聖徒にふさわしいことだからです。」(エフェソの信徒への手紙5章3節)

「神様のみこころは、あなたがたが聖くなり、不品行(ポルネイア)を避け、各自、気をつけて自分のからだ(スケウオス、器)を聖く尊く保つことです。」(テサロニケの信徒への第1の手紙4章3~4節)

上に挙げた聖書の箇所の言い方には非常に厳しいものがあります。「不品行」を行う者(男性も女性も)について、彼らは神様の御国を受け継ぐことができない、と何箇所かで言われています。性的肉体関係は結婚にのみ属することです。ヘブライの信徒への手紙13章4節で言われている通りです。

「結婚はあらゆる点で尊いことです。また夫婦の寝床は汚れなく保たれるべきです。なぜなら、神様は不品行な者たち(ポルヌース)や姦淫をする者たち(モイクース)をお裁きになるからです。」(ヘブライの信徒への手紙13章4節)


C) クリスチャンではない人たちの結婚

興味深くまた大切なのは、聖書に根ざしている教会でその初期から今に至るまで続いている考え方です。海外宣教を行っている教会はクリスチャンではない人たちの結婚をまじめに受け止めてきました。コリントの信徒への第1の手紙7章は「夫婦のうち片方がクリスチャンでもう片方がクリスチャンではない場合、信仰者の方が信仰者ではない方を見捨ててはいけない」と明瞭に指示しています。この教えは、結婚がたんに人間の信仰に基づくものではなく、神様御自身が結婚を設定なさったことに基づいています。こうした理由から、たとえばクリスチャンになった夫婦を再び教会で結婚させることはありません。たとえば他の宗教のどのようなやり方で結婚式がもたれたにせよ、彼らはすでに「結婚」しているのです。


3.私たちは?

神様を見出した人たちにとって、結婚前の性的関係や結婚の外部での性的関係は重い罪です。現代どれだけ多くの人々が私たちの周りでそうしたことを行っているとしても、それらが罪であることはかわりません。

聖書が「結婚という制限を越えた性的関係」を拒絶している理由を、「神様はこの世界に結婚の外部で生れた子どもたちを望まなかったからだ」と説明付ける人たちがいます。「しかし、避妊の技術が発達した今、もはや以前と同じ問題はない」と言うのです。しかし、このように神様のお定めになったことの「背後」からこの問題を理解するための理由を探り出そうとするのは、非常に危険なことです。イエス・キリストは昨日も今日も永遠に同じです。この御言葉はもともとの文脈(ヘブライの信徒への手紙13章8節)の中では、「主はいつも同じなので、クリスチャンに与えられている規定もまたかわることがなくいつまでも同じだ」ということを意味しています。

それでは、私たちクリスチャンの結婚はいつ始まるのでしょうか?牧師が「アーメン」と宣言したときでしょうか?この世にはどうとでも解釈できることがらがいろいろあります。
しかし、「人が結婚しているかしていないか」ということはそうではありません。結婚は社会的なことがらであり、役人や法律家や結婚している本人がちゃんと知っていることです。人は結婚しているかしていないかのどちらかです。私は牧師としてたくさんの夫婦の結婚式の司式をしてきましたが、「結婚した」のは一回だけ、自分の結婚だけです。結婚式を司式するときに、結婚するのは私ではなく、結婚しようとしている夫婦です。私は彼らが互いに相手を結婚相手として受け入れ、結婚の責任と義務とを担う意志があるかどうか、彼らにたずねます。もしも彼らがそうする意志がある場合には、彼らは結婚したのです。牧師としての私の責任は祈ることであり、結婚式のあとで賓客を祝会のほうへと導くことです(もしも結婚式のときに「花嫁ミサ」を執り行わない場合には)。「同棲」は、それがたとえ社会制度的に認められている場合であっても、クリスチャンにとっては結婚前の性的関係にほかならず、罪なのです。

この小文の目的は、聖書が「結婚前の性的関係や同棲や結婚」について何を教えているか、はっきりさせることでした。こうした問題に関係して実際に起きてしまっている「混乱」に対してどのように対処していくべきかについては、また別に考える必要があります。こうした「混乱」を悪化させたのは、フィンランドの教会内にあるこのテーマに関する間違った教えです。「聖書によれば結婚前の性的関係は間違ったことであり罪である」ことを知っている人が今やいったいどれほどいるでしょうか。

主イエス様が罪人たちに対して、とりわけこの問題の領域で間違った道を歩んでいた人たちどのような態度を取られたか、ここで思い起こしましょう。いろいろな男たちにもてあそばれた女性がファリサイ派の家におられたイエス様のみもとに来て、それまでの自分ののろわれた人生と間違った生き方を涙と共に注ぎだしました。イエス様は彼女がそうするままになさいました。そして彼女を追い払うようなことはなさいませんでした。

「そして、(イエス様は)その女性に、「あなたの罪[5]は赦されました[6]」と言われました。すると同じ食事の席に連なっていた者たちが心の中で言いはじめました、「罪[7]を赦す[8]ことさえするこの人は、いったい何者だろう」。しかし、イエス様は女性にむかって言われました、「あなたの信仰があなたを救ったのです[9]。平和の中に行きなさい」。」
(ルカによる福音書7章48~50節)

以下の註は訳者によるものです。
[1] ここまでは複数形です。
[2] 「妬み」を直訳すると「悪い目」です。妬みの心は確かに目つきを悪くしますね。
[3] 「マラコイ」は男性の同性愛での受動的な役割の側を指します。
[4] 「アルセノコイタイ」は男性の同性愛での能動的な役割の側を指します。
[5] 複数形。
[6] 受動態完了形。
[7] 複数形。
[8] 現在形。
[9] 完了形。

2008年1月7日月曜日

「恵みの賜物」について聖書は何と言っていますか?

たとえばコリントの信徒への第1の手紙12章には「御霊の賜物」あるいは「恵みの賜物」についての教えがあります。今回はこの「恵みの賜物」について学びたいと思います。

「恵みの賜物」について聖書は何と言っていますか?

ヤリ・ランキネン


私たちは聖書を大切にしたいと思っています。聖書は「恵みの賜物が存在する」と言っています。神様の御霊は私たちルター派の信仰にとってなじみの薄い賜物や必要ないと思われるような賜物も与えてくださいます。もしも私たちが聖書的であるならば、私たちはこのような賜物を否定したり軽んじたりはしません。またこれらの賜物を用いることに反対したりもしません。

一方では、恵みの賜物を間違って用いないように忠告することも「聖書的」です。恵みの賜物を重視しすぎないように忠告することもそうです。聖書は、恵みの賜物自体は認めていますが、それらを間違って用いないように忠告してもいるのです。

ですから、あなたも神様の御言葉を前にして、心を開きなさい。聖書が言っていることを読みなさい。この問題についても実際にはどういうことであるか、聖書に説明してもらいなさい。聖書に反していることは拒絶しなさい。聖書が教えていることを受け入れ身に着けなさい。たとえその教えがあなたにとって新しく、あなたが以前考えていたこととは違っているとしてもです。このように行うのは本当に難しい場合があります。しかし、それは「安全な道」です。神様の御言葉は私たちを間違った道へと迷わせたりはしません。

私たちは皆それぞれ互いに異なっています。信仰を感情に結び付けて、信仰生活の中でのある種の体験の大切さを強調する人たちがいます。信仰にかかわることがらを理性的に考えて、個人的な体験はそれほど求めていない人たちもいます。私たちの人生の背景もそれぞれ異なっているし、今信仰の道のどのような局面を歩んでいるかも、人によって違います。そして、こうした違いは人が恵みの賜物に対してどのような態度を取るかにも影響を与えます。この違いは認めなければなりません。神様の御言葉もそれを認めています。この違いは神様の教会の中の「豊かさ」でもあります。ただし、神様の御言葉に従ってすべての人は信じまた働かなければなりません。


恵みの賜物とは何でしょうか?

恵みの賜物にはいろいろなものがあります。聖書から私たちは多くの例を見出します。病気を癒す賜物、知識を分ける賜物、いつ神様の御霊が話しておりいつ何か他の霊が話しているかを見分ける賜物、異言で話す能力、預言すること、教えること、他の人たちに仕える意欲、教会を指導する能力、自分のものを提供する意欲、貧しい人たちを助ける意欲、などです。これらのものは恵みの賜物についてのいくつかの例です。聖書は恵みの賜物の完全なリストを提供しようとはしていません。神様の教会を築き上げ、それがこの世でその使命を遂行することができるように助ける能力は、すべて「恵みの賜物」だと言えるでしょう。賜物の中には私たちがもともともってはいないものもあります。たとえば異言で語ることです。私たちの創造主が私たちをおつくりになったときに、私たちに与えてくださった賜物もあります。賜物を受けた者はそれを教会に仕えるために利用することができます。そしてそのような場合には恵みの賜物は正しく用いられていることになります。たとえば音楽の才能はこのような賜物です。あるいは指導したり教えたりする能力もそうです。あなたにも賜物がきっとありますよ。それは普通の生活にかかわる地味なことかもしれません。その賜物によって神様の御国の働きに仕えなさい。それが恵みの賜物です。

「恵みの賜物」という言葉自体、それがどのようなものであるかを語っています。それらは人の業績によって分けられたりはしません。もしもそうならそれは業績の報酬になってしまいます。聖霊様はそれらの賜物を御自分のお考えに従って「与えたい」と思われる人にお与えになります。私たちはその神様のお考えを知りません。ですから教会において「誰にどんな賜物があり誰にないか」という基準によって人々に優劣の序列をつけるのはよくないことです。パウロは「神様の御霊は恵みの賜物をそれらを受けるのにもっともふさわしくないような人たちに与えてくださるものだ」と言っています。「神様は教会でほとんど評価されていない会員たちを栄光によって覆い包んでくださる」とパウロは言います。一般に人に重んじられるような「恵みの賜物」のない人たちは実はそれを必要ともしていません。そして彼らは教会で「欠くことのできない存在」なのです(コリントの信徒への第1の手紙12章24節)。


恵みの賜物は正しい信仰を保証するものではありません。

三位一体なる神様が知られていないか、あるいは拒絶されているところでも、異言で話したり病気が癒されたりする現象がおこることがあります。悪魔も奇跡を行うことができるからです。悪魔は自分の働きが神様の働きに似ているところでこそもっとも巧妙に人々をたぶらかすことができます。また、ときには神様は奇妙なやり方で働かれることがあります。人々が幾つかの点で御言葉に反して信じたり生活したりしているところにも神様は恵みの賜物をお与えになることがあるのです。コリントの教会はこのよい例です。パウロはコリントの教会にはいろいろな恵みの賜物がたくさんあることをほめています。そして、それらの賜物が神様からのものではないとは言っていません。しかしながら、パウロはコリントの教会が神様の御言葉から逸脱していることがらを、はっきり問題にしています。そして「教会がこれらの問題について悔い改めなければ、主が再び帰ってこられるときに裁きを受けることになる」と警告しています。「恵みの賜物があらわれるところではすべてが正しくよい」などという考えに目をくらまされてはなりません。あるいは「神様は恵みの賜物を与えてくださったのだから、何か御言葉に反したことを行っていてもそれを神様は認めてくだるだろう」などと考えてもいけません。また、恵みの賜物があらわれているからという理由で、幼児洗礼を認めない再洗礼派の人たちと共に活動することがあってはなりません。彼らには神様が生み出してくださった恵みの賜物があるかもしれませんが、彼らは洗礼について神様の御言葉に反して教えています。「もしも恵みの賜物が私たちの目をくらませ神様の御言葉に反して教えたり活動したりするようになれば、私たちは裁きを受けることになる」と神様の御言葉は私たちにも警告しています。


恵みの賜物は真の信仰の前提条件ではありません。

「恵みの賜物があるところにのみ、あるいは何か恵みの賜物をもっている人にのみ、真の信仰がある」というわけではありません。十字架につけられたイエス様についての福音には何も付け加える必要がありません。福音は恵みの賜物を必要とはしていません。救われて神様の子供として生きていくためには「福音」だけで十分なのです。このことを、とりわけ神様が恵みの賜物を分け与えなさっているところで、強調しなければならないでしょう。また、ある種の恵みの賜物をもっていない者が、周りからそれをもつようになるようそれとなく要求され、自分をだめな存在だと思い込んでしまうような環境でも強調するべきでしょう。たとえあなたが恵みの賜物を何ももってはいなくても、またそれについて何も知らなくても、あなたはイエス様を信じてよいのです。そして、十字架につけられた主イエス様への信仰の中に、あなたは「神様の子供として生きて、天国に入るために必要なすべてのもの」をすでにもっているのです。

聖書は「恵みの賜物を求めなさい」と命じています。聖書は単純な真理を言っています。すなわち、恵みの賜物をこいねがう者はそれをいただくのです。求めない者は得ません。この「求めること」は、強制ではありません。神様や他の人たちが強制するものではありません。それはへりくだった熱心な祈りです。私たちは恵みの賜物を求めてきたでしょうか?これからは信仰者の集まりで神様が私たちに教会が必要としている賜物を与えてくださるように声に出して祈るようにしたらどうでしょうか?こうすれば、恵みの賜物が教会の信徒たちにとって「自然な」ことになるでしょう。そして、祈りは恵みの賜物を正しく用いる道を開いてくれるでしょう。また、祈りは自分が祈っている内容に深くかかわっていくことでもあります。もしも私たちが恵みの賜物を神様から願い求めたのならば、私たちは「そんな賜物はいらない」とは言えないし、「その賜物を用いたくない」とも言えなくなります。私たちが本当に必要としていると神様が御存知なものを、神様が私たちに与えてくださるように願い求めるのが、知恵あるお祈りだと思います。その賜物は、もしかしたら自分では考えもしなかったようなものであるかもしれません。

聖書は恵みの賜物を用いないで隠しておくことを禁じています。ですから賜物を用いなさい。たとえあなたが自分の賜物を恥ずかしく思っていたり、他の人たちがそれを評価していなくてもです。神様は賜物をむなしくお与えにはなりません。教会はそれを必要としているのです。

私たちの信仰の中心は「ゴルゴタの十字架」です。そこだけに頼り避難することを学びなさい。あなた自身に頼ったりしないように。神様があなたの中で働いてくださっていることに気が付いて、それを誇ったりしないように。自分が受けた恵みの賜物やそれを用いることに振り回されないように。これはなかなか難しいことです。だから、学ぶ必要があるのです。ゴルゴタの十字架こそが決して揺るがない唯一の基です。自分の中に何もよいものがないと思ったり、恵みの賜物が弱ったり消え失せたりするような場合でも、ゴルゴタの十字架は立ち続けています。そのようなときでも、ゴルゴタの十字架には、私が救われるために、また神様の子供として生きていくために必要なすべてのものが含まれています。もしも私たちの信仰が何か他のものに基づいている場合には底が抜けてしまいます。しかもあっという間にあっけなく。

もしも恵みの賜物が信仰生活を支配するようになって、十字架以外の何かが一番大事なものになってしまうとき、恵みの賜物は間違って用いられています。実際にそうなる場合があるのです。その一方では、多くの人にとって恵みの賜物がその人とイエス様との関係を新たにし、イエス様の十字架を前よりもいっそう愛しいものにしてきたことも事実です。

パウロはコリントの信徒への第1の手紙の中で「恵みの賜物はそれ自体に価値があるわけではなく、それらのなかにまたそれらを通して、「愛」が、イエス様が私たちを愛してくださったのと同じ愛があらわれる場合には価値があるのだ」と教えています。人は恵みの賜物を間違って用いることで、他の人たちを自分より下に圧迫したり忘れ去ったり、自分の利益を求めたりするようになります。しかしそれは、パウロによれば、誰かが時々思い出したようにドラムを打ち鳴らすのと同じことです。多くの人はドラムの音を聞きますが、何の役にも立ちません。うるさくて耳が痛くなるだけです。

あなたに与えられている賜物はあなたがよりいっそうしっかりとゴルゴタの十字架に頼り避難するように導いてくれますか?その賜物は他の人たちをも十字架につけられた主のみもとに導きますか?あなたはその賜物によって愛していますか?あなたはその賜物を他の人たちの状態をよりよくするために用いていますか?もしもあなたがその賜物をそのように用いてこなかったのならば、悔い改めなさい。あなたはその賜物を隠してはいけません。これからは、あなたがその賜物によってイエス様の十字架を愛しその栄光を輝かせることができるための技能と謙遜を神様から願い求めるようにしなさい。取るに足りないと感じられる賜物によっても、十字架を愛してその栄光を輝かせることができます。そのとき、その賜物は最高に価値があるのです。それとは逆に、際立つ立派な賜物が何か他のことのために用いられることもあります。そして、そのような賜物には何の価値もありません。

へりくだって用いられた賜物は教会を最良のやり方で築き上げます。傲慢や自分を他の人の上に置く態度は教会をあっという間に崩壊させます。

「聖霊様をいただいているクリスチャンは彼らがクリスチャンである証として何か恵みの賜物をもっている」という教えがあります。そして「その賜物とは異言で話すことだ」と主張する人が多くいます。「聖霊様をまだいただいていない人たちは神様の御霊をいただけるようなレヴェルにがんばって到達しなければならない」という教えも聞かれます。このような教えを私たちは受け入れません。なぜなら、聖書はこのようなことを何も教えてはいないからです。すべての「神様の子供」には聖霊様がおられます。人が神様の御霊をいただいている「しるし」は「その人がイエス様を信じている」ということです。聖霊様なしには誰もイエス様を信じることができません。聖書が語っている意味での「御霊に満たされること」というのは「私たちの中にお住みになっている神様の御霊が私たちの中でより大きな場所を支配するようになる」ということです。私たちの中でもこうなるように願い求めましょう。

「神様のもの」として生きることは、力とか奇跡ではなくて、十字架を担うことです。十字架を担うことは、弱さであり、病気であり、難問であり、軽蔑の対象になることであり、期待していた奇跡が起きないことでもあります。「このような人生を送っている人たちは、とくに他の人たちより劣っている神様の子供だ」というわけではありません。神様の御言葉によれば、実は彼らこそ、神様にとって特別に愛らしい子供たちなのです。

恵みの賜物は他の人たちも同じようにするようにいざないます。一方で、それは別の他の人たちを追い払います。私のある友人は人々が異言で話し預言している集会に出くわしたことがあります。そして「もしもイエス様への信仰がこのようなものならば、私は信仰などとはかかわりたくない」と言いました。このような集会は周りの人にこうした反応を惹き起こす可能性があるのを、パウロも知っていました。それゆえ、彼は「恵みの賜物を熟慮した上で用いるように」と命じているのです。私たちは誰もイエス様のみもとから追い払ってはいけません。それゆえ、ある種の賜物は細心の注意を払いながら用いるべきですし、ときにはまったく用いないでおくことも必要です。まずはじめに人が賜物に慣れて怖がらずにすむように賜物についてちゃんと話し教えるべきです。教えた後ならばそれらを用いてもよいのです。

神様は聖書で言われているとは反対のことをお話にはなりません。預言は書かれている神様の御言葉を覆すことはできません。聖書に反した預言があれば、それは神様からのものではありません。しかも、信仰者とか信頼できる聖書の教師と私たちがみなしている人でさえ、そのような「預言」をすることがありえます。私たちの中にある罪はこのような形でもあらわれるのです。そのような偽りの「預言」を引き合いに出して聖書に反した行いをする者は人間を神様の地位にまで引き上げているのです。そして、天国への道からさまよい出る危険な状態に陥ります。

聖霊様は聖書の御言葉の中におられ、その中で働かれています。それゆえ、神様の御霊が生み出してくださった真の恵みの賜物は人々をよりいっそうしっかりと御霊が住んでおられる神様の御言葉へと結びつけるものです。「あなたにとってその賜物が神様の御言葉をよりいっそう愛すべきものとしているかどうか」ということは、その賜物が神様からのものであるかどうか、賜物が正しく用いられているかどうか、見分けるよい指針になります。賜物が人を神様からどんどん遠ざけてしまうというケースもあるのです。そのような「賜物」は神様からのものではありません。また、神様の与えてくださった賜物が御心とは異なるやり方で間違って用いられているケースもあります。