2022年3月30日水曜日

「ヤコブの手紙」ガイドブック 結び目の強度は一番弱い箇所で決まる 「ヤコブの手紙」2章10〜13節(その2)

結び目の強度は一番弱い箇所で決まる

「ヤコブの手紙」2章10〜13節(その2)

 

 

そもそも本当の意味で自由な人間など存在するのでしょうか。

人が自由であるために満たすべき基本的な条件があります。

それは自分がいったい誰でありどのような存在であるか

正確に把握しているということです。

しかし、自分が何者かを知らない人は

真の意味で自己を実現することができません。

結局のところ、己の何たるかを知らない人は

金銭や権力やその他諸々の事柄によって支配されるようになってしまいます。

 

では、人間とはいったいどのような存在なのでしょうか。

 

人間は「神様の似姿」であると聖書は答えています。

 

「神は自分のかたちに人を創造された。

すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。」

(「創世記」1章27節、口語訳)

 

人間が「神様のかたち」であるように、

律法を含めた神様のすべての啓示も

神様についてのかたちの表れであると言えます。

元々は人間と神様の啓示とは互いに調和していて矛盾がありませんでした。

それゆえ本来ならば律法は「自由の律法」でもありえるものなのです。

 

最初の人間たちが罪に堕落する以前、人間と神様の啓示は調和していました。

ところが彼らが罪に堕落してしまった結果、

人間のうちにある「神様のかたち」が損なわれ、

彼らの子孫である全人類は神様の御心に反抗するようになりました。

それとともに律法は人間生活における憎らしい敵になってしまったのです。

しかし元からそうだったのではありません。

神様が私たちのうちで御業を行われているとき、

律法の善い面が私たちに明らかにされるので

律法に従うのも嫌ではなくなります。

私たちが律法を神様からの素晴らしい賜物とみなすようになるからです。

2022年3月23日水曜日

「ヤコブの手紙」ガイドブック 結び目の強度は一番弱い箇所で決まる「ヤコブの手紙」2章10〜13節(その1)

 結び目の強度は一番弱い箇所で決まる

「ヤコブの手紙」2章10〜13節(その1)

 

「なぜなら、律法をことごとく守ったとしても、

その一つの点にでも落ち度があれば、全体を犯したことになるからである。」

(「ヤコブの手紙」2章10節、口語訳)

 

この節でヤコブが書いていることは、

パウロの「ガラテアの信徒への手紙」5章3節と

内容的には同じですが視点は異なっています。

 

「割礼を受けようとするすべての人たちに、もう一度言っておく。

そういう人たちは、律法の全部を行う義務がある。」

「ガラテアの信徒への手紙」5章3節、口語訳

 

この節でパウロは律法の教義的な側面を強調しています。

もしも律法を通して救われたいのなら、

罪の赦しの恵みを救いの根拠として持ち出すことはできないし、

もしも罪の赦しの恵みを通して救われたいのなら、

どれかひとつでも律法の戒めを完全に守ることを

救いの根拠として持ち出すことはできないということです。

それに対して、ヤコブは神様の啓示の絶対性を全面に打ち出します。

律法の中から自分の気に入った規則だけを守るために選んで

他の残りの部分は無視するのは許されるものではありません。

 

イエス様の山上の説教での律法の厳しい解釈は

「ヤコブの手紙」にとても近い考え方であると言えます。

 

「『姦淫するな』と言われていたことは、

あなたがたの聞いているところである。

しかし、わたしはあなたがたに言う。

だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。

もしあなたの右の目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。

五体の一部を失っても、全身が地獄に投げ入れられない方が、

あなたにとって益である。

もしあなたの右の手が罪を犯させるなら、それを切って捨てなさい。

五体の一部を失っても、全身が地獄に落ち込まない方が、

あなたにとって益である。

また『妻を出す者は離縁状を渡せ』と言われている。

しかし、わたしはあなたがたに言う。

だれでも、不品行以外の理由で自分の妻を出す者は、姦淫を行わせるのである。

また出された女をめとる者も、姦淫を行うのである。」

(「マタイによる福音書」5章27〜32節、口語訳)

 

律法の全てを遵守することが不可欠であるという考え方は旧約聖書にもあります。

 

「『この律法の言葉を守り行わない者はのろわれる』。

民はみなアァメンと言わなければならない。」

(「申命記」27章26節、口語訳)

 

神様の啓示はその全体がひとつのまとまりをなしています。

「ヤコブの手紙」2章11節で十戒のうちの

第六戒が第五戒よりも先に挙げられているのは、

新約聖書が書き記された時代に用いられていた

ギリシア語訳旧約聖書(いわゆる「七十人訳」)が

二つの戒めについてこの順序で書いているからでしょう

(「出エジプト記」20章13〜14節、「申命記」5章17〜18節)。

 

シナイ山で神様はイスラエルの民に御自分を啓示なさいました。

その時に神様はイスラエルの民が自らの神として崇めるための彫像を

何もお与えにはなりませんでした。

そのかわりに神様は彼らが遵守すべきものとして律法を賜りました。

この律法には神様の御意思が具体的に表現されていると言えます。

2022年3月16日水曜日

「ヤコブの手紙」ガイドブック 真の愛は打算的ではない 「ヤコブの手紙」2章1〜9節(その2)

 あなたの生き方が何に基づいているかはあなたの行いにあらわれている

「ヤコブの手紙」2章

 

真の愛は打算的ではない

「ヤコブの手紙」2章1〜9節(その2)

 

キリスト教会の歴史を振り返ると、

ここでヤコブが断罪しているような出来事が実際にあったことがわかります。

例えば、かつてフィンランドの教会には

富裕者のための特別席が設けられていました。

 

残念なことに、これと似たような事例は

私たちの身近な生活の中からも実に容易に見つけることができます。

例えば、ある日曜日の朝、

教会の入り口に有名な芸能人と浮浪者とがやってきたとしましょう。

教会員たちが彼ら二人に対してまったく平等な態度で接する

とは考えにくいところがあります。

「有名人がキリスト教の礼拝に通って信仰を公けに証することは

私たちの教会を宣伝できるまたとないチャンスでもある」などと考えて

自分の差別的な態度を正当化しようとする人も出てくるのではないでしょうか。

しかし、このような態度はその有名人に対しても不適切なものです。

特定の個人の名声のおかげで教会が享受できるかもしれない

何らかの利益に幻惑されて、

その有名人も神様によって贖われたかけがいのない一人の人間である

という最も大切なことがここでは忘れられているからです。

 

ここでヤコブはふたたび

実行が非常に難しく不可能と言ってよい課題を私たちに突きつけています。

すなわち、人間はすべての隣り人を平等に愛することができないという事実です。

 

「私の周りには隣り人が非常にたくさんいるし、

彼らの必要としている助けも多すぎる。

彼らに対して私はいったい何をするべきなのか」

と自問する人もいるかもしれません。

ここで覚えておくべき大切なことは、

神様は誰に対しても過剰な重荷を押し付けたりはなさらないということであり、

私たちは誰一人、すべての人間に対して

「その人の隣り人」となる使命を課されてはいないということです。

 

私はいったい「誰の隣り人」なのでしょうか。

次に挙げる三つの指針は

私たちがこの問題について健全な判断をするために有益であると思います。

 

1)この世における「あなたの使命」が何なのか、

また神様があなたに何を望んでおられるか、自問してください。

 

2)この世における「他の人たちの使命」も尊重してください。

神様は街頭で伝道することや異教徒に福音を宣べ伝えることを

全員に望んでおられるわけではありません。

 

3)福音伝道には様々な活動があります。

大切なのは、それらが互いに支え合えるようなやりかたを見つけることです。

神様の御国のために働くことは個人事業ではなく、

一つの目標の実現だけを目指す改革運動でもありません。

むしろ、それはキリスト信仰者全員による共同作業なのです。

 

私たちの祈りは

「主よ、ここに私はおります。どうか私の兄弟姉妹を派遣してください」

ではなく

「主よ、ここに私はおります。どうか私を派遣してください」

というものであるべきです

(「マタイによる福音書」9章36〜38節)。

 

「あなたがたに対して唱えられた尊い御名を汚すのは、実に彼らではないか。」

(「ヤコブの手紙」2章7節、口語訳)

 

「尊い御名」とはイエス・キリストという御名前のことです。

そしてこの尊い御名が唱えられる特別な「時」としては、

主の御名によって人が洗礼を受ける時を挙げることができます。

2022年3月9日水曜日

「ヤコブの手紙」ガイドブック 真の愛は打算的ではない 「ヤコブの手紙」2章1〜9節(その1)

あなたの生き方が何に基づいているかはあなたの行いにあらわれている

「ヤコブの手紙」2章

 

真の愛は打算的ではない

「ヤコブの手紙」2章1〜9節(その1)

 

「わたしの兄弟たちよ。

わたしたちの栄光の主イエス・キリストへの信仰を守るのに、

分け隔てをしてはならない。

たとえば、あなたがたの会堂に、

金の指輪をはめ、りっぱな着物を着た人がはいって来ると同時に、

みすぼらしい着物を着た貧しい人がはいってきたとする。

その際、りっぱな着物を着た人に対しては、

うやうやしく「どうぞ、こちらの良い席にお掛け下さい」と言い、

貧しい人には、「あなたは、そこに立っていなさい。

それとも、わたしの足もとにすわっているがよい」と言ったとしたら、

あなたがたは、自分たちの間で差別立てをし、

よからぬ考えで人をさばく者になったわけではないか。」

(「ヤコブの手紙」2章1〜4節、口語訳)

 

ヤコブは実践的なキリスト教の教師であったと私たちは断言できます。

上掲の「ヤコブの手紙」2章の冒頭が彼の実体験に基づくものであることは

まちがいありません。

実例を通してヤコブは手紙の読者に教えようとしているのです。

 

この事件が起きたのが教会の礼拝においてなのか、

それとも何か他の状況においてなのかについては、

研究者の間には一致した見解がありません。

後者の状況の例としては

二人の教会員の間で争われる裁判の場を挙げることができます。

「コリントの信徒への第一の手紙」6章1〜7節は

ちょうどこのような事例に該当します。

しかしより自然な「事件現場」は通常の礼拝の場であったと思われます。

 

キリスト教の黎明期である当時、

キリスト教会用の会堂はまだ建造されておらず、

礼拝などの集会は誰か教会員の家で開かれていたと推定されます。

そのような家庭集会に二人の新しい人がやってきました。

一人は金持でもう一人は貧乏人でした。

そして金持は丁重に扱われ、貧乏人はぞんざいな扱いを受けたのです。

 

もちろんこの対比的な描写はかなり単純化されています。

よく知られているように、

最初期のキリスト教会の会員の大部分は貧しく、

奴隷の身分の人々も大勢いました。

貧しい人々が教会を訪れることは当時としては珍しくありませんでした。

ですから彼らが教会の人々からぞんざいに扱われるのは

決して一般的なやりかたではなかったはずです。

しかしその一方で、富裕者が礼拝に参加するのは当時は稀な出来事でした。

このことから、

なぜこのような事件が起きたのかの説明がつくのではないかと思います。

教会員たちは富裕者から教会がどのような利益を受けられるか想像して、

この新たな訪問者に対して大袈裟な歓迎の態度を示したのではないでしょうか。

それとは逆に、新たな貧者の来訪は教会の負担を増すことになります。

教会が面倒を見なければならない人間がもうひとり増えることになるからです。

 

ヤコブはこのような教会員たちの差別的な態度を厳しく裁いています。

そしてその理由を挙げています。

第一に、これは信仰的なことではなくこの世的なことにばかり関心を寄せる

まちがった態度です。

第二に、この態度は神様が自ら示してくださった模範に反しています。

神様は社会の貧しい人々の面倒を親身に見てくださったのだし、

今もそうしておられるからです。

パウロはコリントの信徒たちに次のように書いています。

 

「兄弟たちよ。あなたがたが召された時のことを考えてみるがよい。

人間的には、知恵のある者が多くはなく、権力のある者も多くはなく、

身分の高い者も多くはいない。

それだのに神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、

強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、

有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、

すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。

それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである。」

(「コリントの信徒への第一の手紙」1章26〜29節)。

 

第三に、経済的な豊かさを基準にして人間を差別する態度は、

神様がすべての人々を分け隔てることなく扱ってくださる

公平さと矛盾しています。

このことについて旧約聖書の律法も次のように教えています。

 

「あなたがたの神である主は、神の神、主の主、

大いにして力ある恐るべき神にましまし、

人をかたより見ず、また、まいないを取らず、

みなし子とやもめのために正しいさばきを行い、

また寄留の他国人を愛して、食物と着物を与えられるからである。

それゆえ、あなたがたは寄留の他国人を愛しなさい。

あなたがたもエジプトの国で寄留の他国人であった。」

(「申命記」10章17〜19節、口語訳)。

 

第四に、人を差別する態度は

「自分自身を愛するように隣り人を愛しなさい」という神様の戒めに反しています

(「ヤコブの手紙」2章7節、「レビ記」19章18節、

「マタイによる福音書」22章34〜40節)。

 

しかしもちろん、他の人々を貶めることにならない場合には、

それぞれの人に対して、例えば大統領や首相など国の指導者たちに対して、

彼らにふさわしい敬意を表することはふさわしいことです。

2022年3月2日水曜日

「ヤコブの手紙」ガイドブック  従順さは神様に対する正しい礼拝である 「ヤコブの手紙」1章19〜27節

 従順さは神様に対する正しい礼拝である

「ヤコブの手紙」1章19〜27節

 

ヤコブは御言葉をただ聞くばかりではなく実行する大切さを強調しています。

これは次に引用する箇所からもわかるように

イエス様やパウロとも共通する教えです。

 

「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、

ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。

その日には、多くの者が、わたしにむかって

『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。

また、あなたの名によって悪霊を追い出し、

あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』

と言うであろう。

そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、

『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。」

(「マタイによる福音書」7章21〜23節、口語訳)

 

「なぜなら、律法を聞く者が、神の前に義なるものではなく、

律法を行う者が、義とされるからである。」

(「ローマの信徒への手紙」2章13節、口語訳)

 

一般的にも言えることですが、ヤコブが関心を寄せているのは

「真の信仰からはどのようなことがもたらされるのか」という問題です。

それに対してパウロは

「何が信仰の基礎をなしているのか」という問題を重点的に扱っています。

 

私たちの行いは私たち自身の言葉やメッセージを裏付けるものであるか、

あるいは打ち消してしまうものであるかのどちらかであると言えるでしょう。

もしも私たちが自分で教えていることとはちがうことを行うならば、

私たちの教えは意味も信頼も失ってしまいます。

イエス様はファリサイ派の人々について民に教えて次のように言っておられます。

 

「だから、彼らがあなたがたに言うことは、みな守って実行しなさい。

しかし、彼らのすることには、ならうな。彼らは言うだけで、実行しないから。」

(「マタイによる福音書」23章3節、口語訳)

 

次にヤコブは「完全な自由の律法」について教えます。

 

「これに反して、完全な自由の律法を一心に見つめてたゆまない人は、

聞いて忘れてしまう人ではなくて、実際に行う人である。

こういう人は、その行いによって祝福される。」

(「ヤコブの手紙」1章25節、口語訳)

 

この節に出てくる「完全な自由の律法」という考え方は、

人間によって自発的に採用された一連の追加規則が

「自由の律法」と呼ばれていたエッセネ派あるいはクムラン教団の

共同体規則と関連しているものかもしれません。

ヤコブによれば、

キリスト信仰者は律法を実行することによって救われはしないが、

報酬をまったく相手から期待することなく

自発的に隣り人に仕えることはできるのです。

 

「おおよそ御言を聞くだけで行わない人は、

ちょうど、自分の生れつきの顔を鏡に映して見る人のようである。」

(「ヤコブの手紙」1章23節、口語訳)

 

上節にあるように、神様の御言葉はいわば「鏡」のようなものです。

この鏡は「私たちがいかなる存在であるか」ということと

「私たちはどのような者であるべきか」ということを私たちに教示してくれます。

 

寡婦と孤児を助けることは

最初期の教会における中心的な奉仕の働き(ディアコニア)でした

(「使徒言行録」6章1〜3節)。

これが本当に聖書の教えに対して従順な活動であることは

最後の裁き(「マタイによる福音書」25章26〜43節)についての

イエス様の御言葉の中に最もわかりやすく示されていると思います。

 

次の一節は「ヤコブの手紙」のこの箇所の教えの要約となっています。

 

「そして、御言を行う人になりなさい。おのれを欺いて、

ただ聞くだけの者となってはいけない。」

(「ヤコブの手紙」1章22節、口語訳)