2010年11月12日金曜日

「コリントの信徒への第一の手紙」3章10~17節 

  
説教者の使命 3章10~17節
  
パウロはここでも比喩を用いています。
教会は「神様の建物」です。
コリントに到着した後、パウロは「建築家」になって、建物にしっかりとした土台を置きました。
そして、神様のもうひとりの働き人、つまり誰か他の説教者がパウロの置いた礎石の上に建築工事を続けました。
しかし建物自体は、「パウロのもの」でも「もう一人の建築家のもの」でもなく、「神様のもの」でした。
パウロはコリントで、「自分が置いた礎石とはちがう礎石の上に誰も教会を建てたりしないように」、と厳しく警告しています。
そのパウロの置いた礎石とは、「キリストとその十字架の死」でした。
これこそが、揺らぐことのない唯一の基底なのです。
この基底の上に、働き人は皆それぞれ、さまざまな建築材料を利用しつつ技量のかぎりを尽くして教会を築いていくことができます。
その建物がちゃんとした耐久性をもっているかどうか、最後の裁きの時に火によって試されます。
裁きの日に、ある説教者の働きが実は無価値であったことが明るみになる場合もあるかもしれません。
言い換えれば、その説教者が労苦して築き上げた建物、たとえばコリントの教会、が裁きの時に燃えて灰となり誰も救われない、などという事態にもなりかねないのです。
ただし、神様の働き人がキリストという岩の上に教会を建てた場合には、建て方がどんなに下手であったとしても、彼自身は救われます。
とはいえ彼は、あたかも火の中をくぐりぬけるようにして、何ももたずに神様の御国に入っていくことになります。
この箇所は(カトリックの教えでいう)煉獄について語っているわけではありません。
またこの箇所は平信徒一般についてではなく、牧者についてのみ語っています。
牧者とは、神様の教会について責任をゆだねられている人のことです。
しかし、こうしたちょっとびっくりするような(聖書の提供する)イメージをここで確認しておくのは、牧師だけではなく、すべてのクリスチャンにとっても有益です。
最後の日に(神様の)裁きは「神様の部屋」、すなわち教会から始まります。
その時、建物が持ちこたえるかどうか、明らかになります。
パウロの言葉に、コリントの教会の教師たちへの、うっすらとヴェールに包まれた警告を見て取るべきでしょう。

パウロはさらにもうひとつの警告の言葉を発しています。
彼がコリントに建てたのは、ありきたりの建物ではなく、そこに主の御霊がお住まいになっている「神様の神殿」でした。
「神様の神殿は聖なる不可侵の場所であり、誰もそれを滅ぼし去ることができない」、と旧約聖書は何度も強調しています(「詩篇」125、129、132篇)。
もしも今誰かがコリントの教会を訪れて、教会が正しい教えから離れるように仕向けるならば、悪い結果を生みます。
もしも誰かが神様の神殿を破壊するならば、神様はその人を滅ぼします。
この章全体からわかるのは、クリスチャン全員が有している「霊的な牧師としての資格」に加えて、それとは別に「牧師職」というものが存在するということです。
牧者(教会の牧師)は教会の責任者であり、彼が教会で行ってきたことについても責任を負っています。