2010年9月17日金曜日

「コリントの信徒への第一の手紙」 パウロとコリントの信徒との間の手紙のやりとり

   
パウロとコリントの信徒との間の手紙のやりとり
  
私たちの手元に残されているのは、パウロとコリントの教会との間の手紙のやりとりのうちの一部にすぎません。
「コリントの信徒への第一の手紙」の1章11節と7章1節には、パウロがコリントの教会から手紙を受け取ったことが記されています。
5章9節では、パウロは以前自分がコリントの信徒に送った手紙についてふれています。
「コリントの信徒への第一の手紙」を書く前に、パウロは、コリントの教会には何か問題があるということを知らされました。
パウロはコリントの教会にテモテを派遣しましたが(4章17節)、テモテも教会の秩序を正すことができませんでした。
それで、パウロはこの手紙を書くことになりました。
ところが、パウロの手紙でさえも、状況をすぐに変えることはできなかったのです。
使徒パウロに残された唯一の方法は、自分自身で実際にコリントに赴くことでした。
このコリント訪問について、パウロは「コリントの信徒への第二の手紙」の13章2節で語っています。
このパウロの二度目のコリント訪問は完全に失敗に終わったようにみえます。
その後で彼にできることは、全力を注いで非常に厳しい火の出るような手紙をコリントの教会に送りつけることだけでした(「コリントの信徒への第二の手紙」2章4節、7章8節)。
この手紙はコリントの信徒たちの心を砕きました。
彼らは神様の御心にかなう仕方で悲しみ、悔い改めたのでした。
「コリントの信徒への第二の手紙」では、パウロはこの都市の教会に宛てて愛情と仲直りの気持ちを込めて書いています(7章6~13節)。
   
パウロとコリントの教会との間の手紙のやり取りの過程や、意見の食い違いの原因について、私たちにはわからないところがあります。
ともかくも、パウロはコリントの教会で強い影響力をもっている異端の教師たちに対して苦しい立場に追い込まれ、自分に与えられた使徒の任務が正当なものであることを自分で弁護しなければならなくなりました。
コリントの教会に宛てた最初の手紙は、エフェソで聖霊降臨日(五旬節、ペンテコステ)の頃、つまり春に書かれています(「コリントの信徒への第一の手紙」16章8節)。
パウロの生涯に起きたほかの出来事と照らし合わせてみると、手紙が書かれたのは西暦54年か55年であったと推定できます。
「コリントの信徒への手紙」の読者は、パウロがコリントの教会ととても難しい関係になっていることに気がつきます。
しかし、パウロの努力はむだにはなりませんでした。
コリントの信徒たちは、一世紀の終わりになってもまだ牧会の難しいやっかいな群れでした。
このことについては、使徒教父文書のひとつ、「クレメンスの手紙」に語られています。
ところが、後の時代になって、コリントは正しいキリスト教の信仰を守り続ける堅固な砦となったのでした。