2010年5月5日水曜日

「エフェソの信徒への手紙」について 4章25~32節 

新しい生き方のための指針 4章25~32節

ようやく具体的な指針を明示する時が来ました。
実は、それらについてはとくに説明する必要がありません。
これらの指針の内容は、ユダヤ人たちにとってはさほど目新しいものではない、というのが多くの研究者の意見です。
この箇所は倫理的に自明なことを取り扱っている、とみなす人もいるほどです。
それはその通りだろうし、あとやるべきなのは、これらの戒めに実際に従いながら生きることです。
実はそのときに、真の困難がはじまるのです。
いくつかの細部にここでふれておくのは、意味があるでしょう。
      
26節は「怒ること」を容認しているわけではありません。
「怒りなさい。しかし、罪を犯してはなりません」というのが、この箇所の直訳です。
この御言葉の背景にある詩篇4篇5節は説明が難しい箇所です。
その考えは意図的に意表をつくような謎を秘めています。
「罪をおかさずに、いったい誰が怒ることができると言うのだろうか」という意味ではないでしょうか。クムランのユダヤ人グループの中には、(信仰の)兄弟に対して怒ることは禁じられていました。
とりわけ、イエス様は「隣人に怒ることは隣人愛でもなんでもない」ということを示してくださいました(マタイによる福音書5章22節以降)。
クムランで仙人のような生活を送っていた者たちが自分の怒りの感情を否定したといって、それが、純正な愛をもたらしたとは限りません。
それはちょうど、現代のクリスチャンが自分の怒りをみせかけの義人の「衣装」で包み隠しているのと同じようなものです。
ここで基本的な問題であるのは、「私たちは自分の怒りのかわりに、純正な愛を必要としている」ということです。
このことを考えるとき、せめて「太陽が沈んでもまだ怒りつづけることがない」ように、私たちは努力するべきではないでしょうか。
そうすれば、悪魔が私たちの内向した怒りの根につけこんで、それを拡大して大災害を生むような隙をつかれたりはしません。
聖書のこれらの御言葉は、クリスチャンの間でも絶えず破られています。
最悪の場合には、その怒りを誇示することさえあります。
         
もうひとつここで取り上げたいのは、クリスチャンの言葉がいかに重い意味を持っているか、ということです。
私たちが互いに対してどのように話しているかは、どうでもよいようなことではないのです。 
私たちは、まさに言葉によって人をひどく傷つけ、神様の民がかつて落ち込んだのと同じ罪をおかしてしまいます。
すなわち、聖霊様を嘆き悲しませることになるのです(イザヤ書63章10節)。
聖霊様は敏感な霊であり、うそをついたり、悪口を言ったり、争いを巻き起こしたりするところには、滞在されることを好まれない、ということを覚えておくべきでしょう。