2022年11月24日木曜日

「ヤコブの手紙」ガイドブック 「ヤコブの手紙」5章19〜20節 キリスト信仰者は傍観者であってはいけない

 キリスト信仰者は傍観者であってはいけない

「ヤコブの手紙」5章19〜20節

 

「わたしの兄弟たちよ。

あなたがたのうち、真理の道から踏み迷う者があり、

だれかが彼を引きもどすなら、かように罪人を迷いの道から引きもどす人は、

そのたましいを死から救い出し、かつ、多くの罪をおおうものであることを、

知るべきである。」

(「ヤコブの手紙」5章19〜20節、口語訳)

 

この節の「真理の道から踏み迷う者」とは

本来のキリスト教ではない異端にまきこまれてしまった人のことか、

あるいは道徳的に堕落してしまった人のことを指していると思われます。

どちらの場合でも

人は神様との生き生きとした結びつきを失ってしまうことになります。

 

キリスト信仰者をこのような危険から正しい道へと立ち戻らせることは

教会で働いている牧師のみの責任ではありません。

これはキリスト信仰者各人の義務でもあります。

パウロは次のように教えています。

 

「兄弟たちよ。

もしもある人が罪過に陥っていることがわかったなら、

霊の人であるあなたがたは、柔和な心をもって、その人を正しなさい。

それと同時に、

もしか自分自身も誘惑に陥ることがありはしないかと、反省しなさい。」

(「ガラテアの信徒への手紙」6章1節、口語訳)

 

上節でパウロは「その人を正しなさい」と言っています。

ギリシア語の動詞「カタルティゾー」は、

古典古代の医学では「関節から外れた体の部位を元どおりの位置に戻す」

という意味をもっていました。

この箇所にもその意味が込められています。

すなわち、迷子になったキリスト信仰者を

本来その人が属しているはずの場所

すなわち神様の御意思の下に連れ戻すことです。

 

「罪人を迷いの道から引きもどす人は、

そのたましいを死から救い出し、

かつ、多くの罪をおおうものである」

という上掲の「ヤコブの手紙」の御言葉は

「箴言」10章12節や

「ペテロの第一の手紙」4章10節の御言葉と同様に、

愛は多くの罪を覆うものであることを強調しています。

 

ある人たちはこの教えを

「よい行いは悪い行いを帳消しにしてくれる」

というように理解しました。

しかしこれでは

「よい行いと悪い行いとの関係が

それを行う人間の永遠の世界における命運を定める」

というイスラム教による救いの考え方と同じものになってしまいます。

 

それとは異なり、この箇所の教えは

「愛は罪の大きさには目を留めないものである」

と理解することもできます。

イエス様は

御自分のことを愛する者たちのみを愛してくださるのではありません。

むしろ、イエス様は

御自分の愛に相応しくないような者たちをこそ愛しておられるのです。

2022年11月16日水曜日

「ヤコブの手紙」ガイドブック 「ヤコブの手紙」5章13〜18節 祈り 〜 神様の御手を動かす力

 祈り 〜 神様の御手を動かす力

「ヤコブの手紙」5章13〜18節

 

これから扱う箇所についてはあらかじめ読者が知っておくべきことがあります。

それはヤコブは模範的な「祈りの人」であったということです。

ヤコブは真摯な信仰者であったため、

ユダヤ人キリスト信仰者たちは彼をエルサレム教会の指導者として受け入れていた

という面もあったのかもしれません。

古くからのキリスト教会の伝承によれば、

ヤコブはあまりにも熱心に祈る人だったために

彼の膝はラクダのもののようになっていたそうです。

 

「あなたがたの中に、病んでいる者があるか。

その人は、教会の長老たちを招き、

主の御名によって、オリブ油を注いで祈ってもらうがよい。」

(「ヤコブの手紙」5章14〜15節、口語訳)

 

上掲の箇所に基づいてローマ・カトリック教会は

「終油」あるいは「病者の塗油」と呼ばれる

秘跡(サクラメント)を設定しました。

直接的にはこの箇所は魂の救いではなく

病者の癒しについて述べているにすぎませんが、

新約聖書の原典のギリシア語の単語(「ソーゾー」)には

そのどちらの意味もあります。

 

油を塗布することは旧約聖書の時代にも用いられていた病の癒し方です

(「イザヤ書」1章6節)。

イエス様の弟子たちも人々を癒すときに塗油を行なっていました

(「マルコによる福音書」6章13節、「ルカによる福音書」10章34節)。

しかし、この箇所でヤコブが強調しているのは祈ることの大切さです。

実のところ、塗油ではなく祈りこそが癒しの鍵なのです。

 

現代では高度に発達した医学が

癒しという恵みの賜物や病人のための祈りにとってかわった

という主張もなされています。

たしかに医学の進歩は

神様が人類に与えてくださった最大の賜物のうちのひとつです。

しかしその一方では、

最先端の医学をもってしてもすべての病を治すことはできない

というのも事実なのです。

私たち人間は神様のこの世に対する働きかけを制限することができません。

医学の分野に関してもそれは同じです。

 

「悩みの日にわたしを呼べ、

わたしはあなたを助け、

あなたはわたしをあがめるであろう。」

(「詩篇」50篇15節、口語訳)

 

この有名な詩篇の箇所は「神様への電話番号」などと呼ばれることもあります。

神様は人が諸々の困難に直面するのを容認なさる場合が少なからずあります。

そうしなければ、多くの人は神様の御許に自ら来ようとはしないからです。

 

キリスト信仰者の人生も実に多様な困難に遭遇します。

しかしそれらの試練は神様が彼らを見捨てた証拠などではありません。

 

「エリヤは、わたしたちと同じ人間であったが、

雨が降らないようにと祈をささげたところ、

三年六か月のあいだ、地上に雨が降らなかった。

それから、ふたたび祈ったところ、天は雨を降らせ、地はその実をみのらせた。」

(「ヤコブの手紙」5章17〜18節、口語訳)

 

ここでふたたびヤコブは旧約聖書の例を引き合いに出しています。

預言者エリヤはまったく普通の人間でしたが、

その一方では、力にあふれた祈りの人でもありました。

祈りによってエリヤはバアルの預言者たちに対しても勝利を収めたのです

(「列王記上」17〜18章)。