2010年2月10日水曜日

「エフェソの信徒への手紙」について 2章1~10節

2章1~10節 昔と今

「エフェソの信徒への手紙」は、手紙の受け取り手の前の状態と後の状態を互いに反対のものとして位置づけています。
ここで問題になっているのは、彼らが皆、以前は人殺しや泥棒だったのに、今はまったく違う者になっている、ということではありません。
彼らの状態が神様の真理の光の中で、以前はどのように見え、また今はどのように見えるのか、という点がポイントです。

以前は、彼らは自分の罪の中に死んでいた者たちでした。
彼らは神様とはなれて暮らしており、サタンの支配下にありました(「エフェソの信徒への手紙」ではこれよりも優雅に表現されています)。
彼らの生活が彼らの心の中にあることをあきらかに示していました。
このように彼らは「怒りの子供たち」であり、最後の裁きと永遠の滅びを待つばかりの身でした。

実はパウロはここで、「ローマの信徒への手紙」第1章にあるのと同じことを描き出しているのです。「テサロニケの信徒への手紙」1章9~10節も同じことを、「異邦人は偶像を礼拝し、来るべき裁きを待っている」と鋭く簡潔に語っています。

「前」と「今」は激しく対立しています。
憐れみの心に満ちておられる神様は、その大いなる愛のゆえに私たちを愛してくださいました。
そして、私たちを死者の中から目覚めさせ、キリストと共に活きるようにしてくださいました。
また、私たちをただ恵みにより救い出し、キリストと共にいる天国の民としてくださいました。
このように、手紙の受け取り手は、私たちと同様に、
以前は自分たちの罪の中に死んで、神様から離れ去り、滅びへの旅路にありましたが、
今や、キリストのゆえに、彼らは新しい命へと目覚めさせられました。
そして、彼らは「神様のもの」となり、永遠の命へと旅立ったのです。

この二項対立の中に、パウロの神学の核心がすべて短く描き出されています。
ここでは、その対立関係を際立たせて理解するのが大切です。
全世界はひとつの深く暗い罪の吹き溜まりであり、そこには一筋の光も差し込むことはありませんでした。
ところが、神様は、キリストを私たちの罪のために死なせ、また、死者の中からよみがえらせることによって、すべてを変えてくださいました。
ここにこそキリスト教の信仰の心があるのです。

こうして、神様の救いのみわざは人間界にまったく新しい状況をもたらしました。
「前」と「今」という二項対立は、人々の生活の変化にではなく、ただ神様の恵みに基づいていることがらです。
「私たちが神様の子供である」ということは、私たちの生活に多くの変化をもたらします。
しかし、それはここで扱っていることとは別のことがらであり、それについては後で触れることにします。
今ここで大切なのは、
それ(クリスチャンの生活の変化)を神様の恵みのみわざと混同しないことです。
神学的に言えば、聖化と義認とを混同してはならない、ということです。