2013年10月30日水曜日

「ヨハネによる福音書」ガイドブック 17章20~26節 教会についての祈り(その3)



教会についての祈り 172026節(その3)


イエス様の大祭司としての祈りは、読者を深淵へと連れ去ります。
聖書の講義ではこの深淵に軽く触れるぐらいのことしかできません。
神様と共に活きていく実際の人生こそが、
私たちにこのことを本当に教えてくれる「大学」だ、
と言えるでしょう。
この人生の中で、キリストは
神様の聖なる御名を人々に告げ知らせ、その意味を教えてくださいます。
新約聖書学者ユッカ・トゥレン教授は次のように説明しています。
「それなら、なぜイエス様は、
何度も繰り返して神様の御名、すなわち、神様の真の本質を
教え続けなければならないのでしょうか。
それは、
神様の中で歩む信仰者の生活が
静止したものではなく、
いろいろなことが起こる現実の人生そのものだからです。
神様のことを知る、といっても、
それはある種の認識に到達した「状態」のことではありません。
私たちは、
しばしば驚愕すべき新たな状況の中で、
神様のみわざの影響を見分ける術を
絶えず学んでいかなければなりません。
もしも一度それを、
イエス様の十字架の死を通して、ちゃんとはっきりと学んだなら、
その後でもイエス様が神様の愛を教えてくださることを、
私たちは期待してよいのです。
イエス様はその愛を、
この世が無意味な苦しみとか、せいぜい神様の怒りとしか
見なさないような出来事を通じて、
私たちに教えてくださいます。
十字架刑を前にしてイエス様は、
「キリスト信仰者のうちには、
あなた(天の父)が私(キリスト)に示されたのと同じ愛が留まる」、
と言われます。
イエス様に怒りの杯を与えたのは、
イエス様を愛される天の父なる神様でした。
キリスト信仰者は、
「一度神様の愛を受け入れた後でも、
その愛を何度も繰り返して見出すように」、
また、
「死ぬ時にも神様の愛に信頼するように」、
という教えを生涯ずっと受け続けることによって、
神様の愛がその人のうちに留まることになります」。

2013年10月28日月曜日

「ヨハネによる福音書」ガイドブック 17章20~26節 教会についての祈り(その2)


教会についての祈り 172026節(その2)


このイエス様の祈りのふたつの点が、
私たちの間でも問いかけを生むことを、私たちは期待するものです。

まず第一に、
もしもただひとつの教会が存在することが神様の御心なのだとしたら、
ルーテル教会、ローマ•カトリック教会、ギリシア正教会、
バプテスト教会、ペンテコステ教会などが存在している現実は、
一体どういうことなのでしょうか。
しかも、教会の他にも、
モルモン教、エホバの証人、その他諸々の団体などが存在しています。
たくさんの教会が存在している原因はひとつだけ、すなわち罪です。
人々が神様の真理を捨て去っていることに由来しているのです。
といって、
教会間の垣根を無造作に取り払うことや、
何でもかんでも容認して受け入れることによっては、
決して教会の真の一致を実現できません。
真の一致はキリストの中にあり、その御言葉の中にあります。
ルーテル教会はその信条の中で、
唯一の聖なる使徒的な教会が存在する、
という信仰を告白します
(例えば、ニケヤ信仰告白やアウグスブルク信仰告白第七条「教会」など)。
ルター派の教会は、
それが聖書に書かれている神様の御言葉にしっかり根付いて、
人間が自分で案出した諸々の意見を矯正していく場合には、
教会の真の一致のために、考えられうる限り最高の貢献をすることになる、
と私たちは信じています。


第二に、イエス様は、
御自分に属する者たちが立派な家や高級車を得るようには祈りません。
御自分が御父の栄光の中にいらっしゃるのと同じ場所に、
彼らもまた最終的には居れるようにと、イエス様は祈ります。
結局、キリスト教の信仰において大切なのは、ただひとつのことだけです。
すなわち、私は、
自分の罪を抱え込んだまま神様と別れ別れになり、地獄へ落ちるか、
それとも、
キリストからいただいた恵みのゆえに、
神様とずっと一緒にいられる永遠の命と幸いな救いの中に入るか、
そのどちらかである、ということです。

2013年10月24日木曜日

「ヨハネによる福音書」ガイドブック 17章20~26節 教会についての祈り(その1)



教会についての祈り 172026節(その1)


イエス様の祈りの最後の言葉は、
弟子たちだけに向けられたものではありません。
この言葉は、キリストの教会全体に対するものでもあります。
すなわち、歴史全体を通じて、
イエス様の弟子たちが伝えてきた御言葉を信じた人々や、
それをさらに次の世代へと伝えてきた人々全員にも
向けられているのです。
イエス様は、ふたつのことを祈ります。
第一に、イエス様に属する人々が「ひとつ」であるように、
第二に、彼らがいつかはイエス様の御許(すなわち、神様がおられるところ)
にいられるようになることです。
御自分に属する者たちが「ひとつ」であるように、
という主イエス様の祈りは、
「ヨハネによる福音書」が書かれた当時にもあった
心が痛む問題を示唆しています。
すなわち、
ユダヤ人キリスト教徒と異邦人キリスト教徒との間に緊張があり、
様々な異端の分派が教会全体の一致をひどく傷つけていたのです。
しかし、イエス様は、
御自分に属する者が皆ひとつの生命共同体を形成して、
御父と御子が同質であるのと同じように
「ひとつ」となるように、と祈られます。
この世には、
イエス・キリストが御自分の花嫁として用意してくださった
唯一つの教会しかありません。
教会が無数に離散している現実は、
人間が惹き起こしたものであり、
その原因は人間の罪深さにあります。