2010年5月26日水曜日

「エフェソの信徒への手紙」について 5章6~20節 

5章6~20節 この箇所は、「間違った生活を送っている者」をさしていますか。それとも、「間違ったことを教えている者」をさしていますか?

「エフェソの信徒への手紙」は、よりいっそう厳しい警告を続けます。
たとえば、「愚かな話」をする者たちとは何も一緒に行ってはならないのです。
ここで問題になっているのが、「間違った生活」についてか、あるいは、「間違った教え」についてか、見分けるのは容易なことではありません。
これは解釈者によって説明が異なる箇所です。
今問題となっているのが、「ある行いが罪かどうかなどはどうでもよく、人に罪をおかさないように警告する必要もない」などと教えている者たちのことだ、とは言えるでしょう。
初代教会の頃には、このように教えていた者が大勢いました。
彼らは自分の考えをさまざまなやり方で正当化しようとしました。
コリントの教会では、すさまじい霊的志向と節制のない肉欲とが、理解を絶するやり方で、一体化していました。
コリントの信徒たちに対しても、前にあげたような人たちとは何も一緒にやらないように、という指示が与えれていました。
ただし、この指示は、「実生活で自分の信仰を無視しているクリスチャン」についてのみ当てはまり、いわゆる「この世の人々」に対しては適用されない、という留保が付いています。
グノーシス主義者たちは、「人間の魂が肉体の牢獄ではなく栄光に属している」という「知識」に基づき、肉体に峻酷な節制を課したり、逆に完全な自由を与えたりしました。[1]
「エフェソの信徒への手紙」は、「このようなメッセージに気をつけるように」、と厳しく警告しています。
    
光の子は光の子にふさわしく生きるものです。
ヨハネの第1の手紙1章を読んでみてください。
ここで、「エフェソの信徒への手紙」の初めの部分を思い出してみることにしましょう。
最初の3章では、クリスチャンはいかに生きるべきか、については何も言われていません。
それらの章では、天国への道、義認について、手紙は的をしぼって語りました。
それに対して、この第5章は「聖化」を非常に強調しています。
これからわかるのは、義認と聖化は信仰生活の中心的なことがらであり、そのどちらも忘れてはならないものだ、ということです。
ただし、それらの相互関係は常に正しく位置づけられなければなりません。
まずはじめに、罪人がキリストの十字架のみわざのゆえに義と認められ、そしてそのあとに、その結果として聖化が来るのです。

[1] 「おもに正統キリスト教を攻撃した秘教的な宗教運動。最盛期は2~3世紀。ほとんどの宗派が、キリスト教を自称しているが、初期の教会の信仰とはかけはなれていた。グノーシスという名称は、ギリシャ語で「知識」を意味する。 グノーシス主義の信奉者は、この思想によって神の国のかくれた知識があたえられると信じていた。最高神の火花や種子が、至高の世界から悪の支配する物質界に転落し、人間の体にとじこめられた。人間の内にあるこの神的要素は、知識によってふたたびめざめ、至高の精神的世界にある元の場所にかえることができるとする。(・・・)グノーシス主義の本質は二元論である。それは、人間をまどわせ抑圧する邪悪な世界から、人間の内にある魂を解放しなければならないという思想である。 」(http://jp.encarta.msn.com/encyclopedia_761564139/content.html)