2015年12月18日金曜日

「ローマの信徒への手紙」ガイドブック 12章3〜8節 キリストの身体の諸部分(その1)


キリストの身体の諸部分 1238節(その1)


教会がキリストの身体であることを読者に思い起こさせつつ、
パウロは話を続けます。
深い内容を含んだこのイメージは聖書の他の多くの箇所にも登場します
(「コリントの信徒への第一の手紙」12章、
「ガラテアの信徒への手紙」327節、
「エフェソの信徒への手紙」52232節、
「コロサイの信徒への手紙」119節)。

私たちは洗礼を通してキリストに結びつけられています。
これによって、
私たちたくさんの人間がキリストの身体という
一つの活ける存在になっているのです。
この事実は私たちが教会の中で共に生きていく上での基点となります。
私たちは皆が一緒に機能する個体なのです。
私たちの使命は、同じ目的のために一致団結して綱を引っ張ることです。

私たちには皆それぞれ賜物が与えられています。
私たちは皆それぞれちがう個性を持っており、
人間的な弱さの故に自分にとって都合のよいことを大切にする傾向があります。
その一方では他の人たちの傾向や希望には理解を示そうとしません。

パウロが語っているように、
人は神様から何か特別な恵みの賜物をいただくと、
いとも容易に驕慢になり、
自分とはちがう他人のことを理解しようとする努力を
やめてしまうことが多いものです。
たとえば牧師の仕事や、特別な恵みの賜物、聖書会を継続する力など、
神様から委ねられている職務や使命は人によって様々です。
これらの使命を実行する立場にある人たちは
教会員皆の最善を考えて行動するべきです。

キリストの教会では、
ひとりで目立つ働きをしてよい場合もありますが、
教会の成長と宥和に資するように皆が互いに仕え合うのが
その本来のあり方です。

2015年12月14日月曜日

「ローマの信徒への手紙」ガイドブック 12章1〜2節 世に歩調を合わせることなく、神様に仕える生きかた


世に歩調を合わせることなく、神様に仕える生きかた 1212


キリスト信仰者の生き方に関する指針に従うように、
とパウロは厳かに勧告します。

神様が私たちを愛して憐れんでくださったのだから、
私たちのほうでも自らを活ける供え物として
神様に差し出さなければなりません。

キリストがすべての人を罪から救い出すために
自らを顧みることなく十字架にかかり
死者の中から復活なさったのですから、
人間もまた自己中心的な生きかたをやめるべきなのです。

御旨を伺いながら喜んで神様に仕える時が到来しました。
神様の御言葉が私たちにどのような責務を課しているか、
私たちは絶えず問いていく必要があります。

これとは別の生きかたの例として、
「この世に歩調を合わせる」(2節)態度を挙げることができます。
これがどういう意味かは簡単に理解できるでしょう。
「一般の人にとっては神様とその御言葉には意味がないのに、
どうして自分だけが時流に逆らう生き方をしなければならないのか」
といった思いに人がとらわれたとしても、当然であるように思えます。

それでもなおパウロは、
「この時流に逆らった生き方をするように」と私たちに勧告しています。
キリストを礼拝する者は、
否応なく時流に背を向けざるを得なくなるものだからです。

2015年12月9日水曜日

「ローマの信徒への手紙」ガイドブック 12章 同じ身体の一部として

同じ身体の一部として

「ローマの信徒への手紙」12


ここまででパウロは義認論とそれに直接関連する諸問題の説明を終えました。
その内容を復習しましょう。
第一に彼は、べての人間が神様の御前で罪深い存在であることを
示すことに重点を置きました。
次に彼は3章以降で、信仰による義について語りました。
「教会とユダヤ人」と題された前回では、
イスラエルのかたくなな不信仰が引き起こす諸問題が取り上げられました。
それは、
「信仰を通して異邦人を義となさった神様は
御自分の民を捨ててしまわれたのか」
という問題です。

今やそれらについての説明が一通り済みました。
ここから先パウロはこれまでとはまったく異なる話題、
すなわち、キリスト信仰者の生き方についての考察に移ります。

パウロの手紙ではこの手紙に限らず
次に述べるような順序で内容が提示されることが多いです。
まず彼は、私たちが神様からどのような賜物をいただいているか、語ります。
その後でおもむろに彼は、キリスト信仰者の生き方について語り始めます。
「エフェソの信徒への手紙」や「ガラテアの信徒への手紙」でも
同じ構成をとりますが、これはただの偶然ではありません。
私たちの善い行いはそのどれもが、
神様がまず私たちを愛してくださったことが反映した結果に過ぎません。
ひとえに神様の恵みにより、キリストの死のゆえに、
私たちは罪の赦しと神様の子どもの地位をいただきます。
このことをキリスト信仰者の正しい生き方と混同してはいけません。
しかし、救いについての教えが基本からきちんと説明された後でなら、
キリストの愛がそれを受けた私たちに何をするよう諭しているか、
思い起こすのが当然です。
次の順序は大切です。
「私たちは愛します。なぜなら、キリストが私たちを愛してくださったからです」 

2015年12月2日水曜日

「ローマの信徒への手紙」ガイドブック 終わりのメッセージ(9〜11章)(その3)

終わりのメッセージ(9〜11章)(その3)

こうした信仰理解を通して、
たとえ全員ではないにせよ、
少なくとも幾人かは救われるし、
実際にはかなりの数の人々が救われることになります。
それとは反対に、
自由に決断する人間の能力を頼りにしている間は、
誰一人として永遠の滅びを免れることができません。
私たちは皆、
最後の一人にいたるまで例外なく
永遠の死の中で苦しむことになるでしょう。

私たちが神様に喜んで受け入れていただける存在であるのは、
自分の善い行いにではなく、
神様が私たちに賜った真心からの御好意に基づいています。

安らかな心で私たちは次のような確信をもつことができます。
私たちの活動があまりにも消極的だったり、
あるいは不手際だったりする場合にも、
神様はそのことを私たちが救われない理由にはなさいません。
父親の愛情を持って、罪を赦し、癒してくださるのです。

キリスト信仰者は皆、
神様にあってこのことを誇りとすることができます。


(マルティン・ルター 「奴隷的意志」)