2012年5月30日水曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 第9回目の終わりのメッセージ


 
終わりのメッセージ

働いている人々
 
  
仕事は、人を疲労させます。
多くの人は、仕事人生の半ばで疲れ果てたり、病気になったりします。

救い主は、
「働いている人々や重荷を負っている人々」を招いておられます。
実のところ、これらの言葉は深い意味をもっています。
元々「仕事」という言葉は、仕事で疲れることも意味していました。
イエス様も「旅で疲れた」ことがあります
(「ヨハネによる福音書」46節)。
旅をすることが疲れる仕事である場合もあります。
多くの人は、人生の旅の途中で疲れてしまいます。
目標と意義を人生に見出せない場合には、
人生が重苦しいものになってしまうのです。
  
「重荷を負っている人々」とは、
自分で担うことができないほどの重荷が
肩の上に乗せられている人々のことです。
イエス様の時代の宗教的な指導者たちは、
他の人々の上に「担うのが難しい重荷」を押し付けました。
  
このような重荷を負っている旅に疲れた人々を、
イエス様は御許に招いておられます。
イエス様は重荷を増したりはなさいません。
逆に、彼らの重荷を取り去ってくださいます。
罪の呵責が罪の赦しによって取り去られると、
人生の歩みと重荷は軽いものになります。
イエス様が愛の絆によって彼らを御自分に結んでくださるので、
彼らは歩みつづけることができます。
我が家へと向かって。
   
それゆえ、クリスチャンとして生きていくのはよいことなのです。
 
    
(ラウリ コスケンニエミ 「恵みは近くに」)
 
 


2012年5月28日月曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 第9回目の質問(14~15章)


  
9回目の集まりのために
  
「ヨハネの黙示録」1415
  
 
ヨハネは、
迫害を受けている神様の教会を励ましてくれる幻を見ます。
すなわち、
どのようなことが起きても、イエス様は私たちと共におられる、
という幻です。
それから三人の天使が、
「ヨハネの黙示録」の読者に勧めと励ましと警告を与えます。
14章のおわりに、ヨハネは裁きの日の有様を見ます。
15章は、
神様に属する人々がこの世での圧迫を耐え抜くことができるよう、
励ましています。
将来、彼らには天国と永遠の命が待っています。
ヨハネはそれらを15章で描いています。
圧迫を受けても、信仰を捨ててはいけません。
信仰を捨てるのは、
永遠の命にあずかれなくなることを意味するからです。
  
  
質問

1)シオンの山に立っている小羊と144000人の人々は、
どういう意味なのでしょうか。
1415節の説明を参照してください。
それは、神様に属する人々にどのようなことを約束していますか。
  
2)三人の天使のうちの一人目(147節)は、
神様を畏れるように勧告しています。
「神様を畏れる」とはどういうことですか。
神様を畏れることは、
人間の生活の中でどのようにあらわれますか。
  
3)二人目の天使は、
「滅亡したバビロン」という表現で何を意味していますか。
148節の説明を参照してください。
  
4)三人目の天使は、地獄について警告しています。
天使による地獄の描写をどう思いますか。
地獄は本当に存在するのでしょうか。
愛である神様が、
このようにひどい裁きを下すことがありうるのでしょうか。
  
5)地獄について話し合う機会は多すぎるでしょうか、
それとも少なすぎるでしょうか。
地獄についてまったく話さない場合には、どのような結果を生みますか。
逆に、地獄について話しすぎる場合には、どのような結果を生みますか。
  
6)あなたは最後の裁きの時に、
どのようにして救われるのでしょうか。
1445節とその説明を参照してください。
  
7)1524節におけるヨハネの描写は、
天国についてどのようなことを語っていますか。

8)天国では、神様が裁きを下されたことについて、
神様に感謝が捧げられます(1534節)。
天国では、何について神様は感謝を受けられるのでしょうか。
神様の裁きは、どのようなことを意味していますか。

2012年5月25日金曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 15章1~8節 天国に着いて(その2)


 
天国に着いて 1518節(その2)


天国では、世を裁いてくださった神様に感謝が捧げられます。
多くの人は、このことを残酷だとみなします。
「神様の裁きはおびただしい数の人々が
最悪の滅び(永遠につづく地獄の苦しみ)に遭うことなのだから、
天国に入った者たちがこのことについて神様に感謝するとは、
一体どういうわけだ」、と彼らは訝しがります。
これは確かにその通りです。
しかし、それでもやはり、神様の裁きは公正なのです。
そして、そのことについて、
天国では神様に感謝が捧げられているのです。
天国に着いたときに、ようやく私たちは、
神様の壮大なる聖さを目の当たりにし、
まさしくこのように讃美するのがふさわしいことだったのだ、
ということを理解します。
また、神様がこれほど長い間、裁きの時を延期してくださったことも、
驚嘆して感謝するべきことであるのは確かでしょう。
神様は世の不義と悪を見ておられ、
世が御自分の聖さに対して戦いを挑んでくるにもかかわらず、
神様は罪の赦しを受けることがまだ可能である「恵みの時」を、
世に対して延長してくださいました。
神様が共にいてくださる場所、
それゆえに居心地がよい場所に、
できるかぎり多くの人たちが入ることができるように、
神様は忍耐強く待ちつづけておられるのです。
  
「クリスタルの海」についての記述は、天国の幸福について語っています。
この世には、世界中を震撼させる激しい嵐が巻き起こります。
しかし、天国ではこのような嵐はありません。
天国の海は、クリスタルガラスの表面のように、平穏なのです。
  
それから、ヨハネはあの七人の天使をより詳しく見ます。
彼らの外見は、彼らがお仕えしているお方に似ています
(「ヨハネの黙示録」113節を参照してください)。
ヨハネがすでに前に見たことのある「生き物」
(「ヨハネの黙示録」468節)から、彼らは杯を手に受け取ります。
杯は神様の怒りで満ちている、と言われています。
今や、裁きの時なのです。
裁きを実行する時には、
誰一人、神様の御許、神殿に行くことは許されません。

2012年5月23日水曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 15章1~8節 天国に着いて(その1)


 
「ヨハネの黙示録」15
   
天国に着いて 1518節(その1)
   
 
1節で、ヨハネは神様の七つの怒りの杯の幻を描写し始めます。
彼は七人の天使を見ます。
それらの天使は、世界を震撼させる最後の七つの災いを
実行に移す準備ができています。
しかし、次の節では、怒りの杯の幻はもはや続かず、
ヨハネにもうひとつの幻が示されます。
彼は、天国とそこにいる「獣に勝利した人々、すなわち、
獣の像を拝まず、獣の数字が書いてある印を受けなかった人々」
を目にします。
彼らはモーセと小羊の歌を歌い、栄光を神様に帰します。
元々あらゆる栄光は、神様に属することがらだからです。
  
本来ならば怒りの杯を地に傾けることを描写すべきところなのに、
どうしてもうひとつ別の幻がここで示されているのか、
「ヨハネの黙示録」の読者は不思議に思うかもしれません。
しかし、天国の幻は
この箇所に何かの間違えで示されているわけではありません。
「ヨハネの黙示録」は他の箇所でも、
神様に属する人々がこの世でのさまざまな圧迫に耐え抜くよう、
励まそうとしています。
ここでの天国の幻もそれと同じ意味をもっています。
前述したように、
獣は世で大きな権力をもち、
神様に属する人々を迫害し、
教会を滅ぼそうとします。
そして、もうまもなく、
七つの最後の災いについての衝撃的な描写が始まろうとしています。
「ヨハネの黙示録」が描いているこれらの艱難の只中で、
神様の教会は活動していかざるを得ないのですが、
そのような状況の下で、
「神様のもの」である人は、
「神様の子どもとして生きる甲斐が本当にあるのか、
それは楽な生き方ではないのだから」、
などとふと思うことがあるかもしれません。
この疑問に、天国の幻は次のように答えてくれます、
「それでもやはり、生きる甲斐はあります。
なぜなら、神様の子どもだけが、
その居心地のよい場所(天国)に入ることができるからです」。
イエス様の御名のゆえに困難に陥ることになっても、
諦めてはいけません。
もしも信仰を捨てるならば、
モーセと小羊の賛美歌が歌われている場所には入れません。
そのかわりに、その人は
前章の終わりの箇所が戦慄すべきやり方で描き出した
グループの一員になってしまいます。
最後の災いについて語る前に、
天国の幻はこのことを言おうとしているのです。
それゆえ、この幻はまさにこの箇所にあるのです。
  
天国に入った人々は「モーセの歌と小羊の歌」を歌う、と言われています。
これは、天国に到着したグループには
旧約の聖なる人々も新約の聖なる人々もいることを、思い起こさせます。
この世で生きていた神様に属する人々は皆、
いつかひとつの群れとなり、神様に賛美を歌います。
 

2012年5月21日月曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 14章14~20節 裁判の始まり


 
裁判の始まり 141420
  
 
この章は、世の終わりと最後の裁きについての描写で閉じられます。
「人の子のようなお方」(おそらくイエス様御自分のことです)が
地上に鎌を投げ入れると、天使たちが(任務遂行のため)出て行きました。
彼らがすべての人間を神様の御前に集めると、裁判が始まります。
裁きは恐るべきものです。
世は不義に満ちており、
それゆえ、神様の怒りの力が世に対して全開することになります。
  
「最後の日」に関するヨハネの描写は衝撃的です。
「自分は愛であると言う神様が、世をこのようなむごたらしいやり方で裁く」
ということについて、多くの人は躓き、あるいは不思議がりました。
もちろん、神様は愛です。
しかし、神様は他の面もお持ちです。
神様は聖なるお方であり、罪を憎まれます。
ここでの描写もそれを裏付けています。
私たちは、
神様の聖さと自分自身の悪さ、
および、
自分の罪のために私たちがどのような処罰を受けるのが当然であるか、
に気づくとき、
神様の愛がどれほど偉大か、
また、
「キリスト・イエスにある者にはどのような滅びの宣告も下されることがない」
(「ローマの信徒への手紙」81節)という聖書の約束がどういう意味か、
理解するようになっていきます。
神様は私たちに裁きからの救いを準備して、
皆にそれをプレゼントとして差し出してくださっています。
それほどまでに、神様は私たちを愛しておられるのです。
ですから、もしも神様の贈り物が気に入らないのであれば、
それは人間の愚かさのせいであって、神様の残酷さのせいではありません。
  

2012年5月16日水曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 14章6~13節 三人の天使


   
三人の天使 14613
  
 
ヨハネは三人の天使を見ます。
第一の天使は永遠の福音を伝える、と言われています。
天使のメッセージは、まもなく始まる神様の裁きについての警告です。
裁きの始まる直前に、神様が人々を警告し御許に招かれるのは、
まさに福音です。
神様は皆が救われることを望まれています。
それゆえ、神様は悔い改めるよう勧告する僕たちを世に遣わされるのです。
神様の罪の赦しの恵みが誰に対しても差し伸べられている今なら、
人が悔い改めて裁きを免れることはまだ可能です。
これが、第一の天使のメッセージです。
  
第二の天使は、バビロンが滅んだ、と告げます。
これは、普通の意味での国家とか都市とかいう意味ではないでしょう。
「ヨハネの黙示録」では、
バビロンは悪魔の帝国をあらわしていると思われます。
裁きの日が来ると神様の敵の権勢が瓦解することを、
第二の天使は告知しています。
バビロンの滅亡については18章でより詳しく描かれます。
  
第三の天使は地獄についての警告を発し、
神様に属する人々は、
神様から受けたものをしっかり守り抜くよう、
励ましを受けます。
たとえ今彼らが苦境に立たされており、
世がどれほど強大に見えたとしても、
このような状況はいつか必ず完全に変わります。
その時には、不義の世界は最悪の災いで苦しみ、
神様に属する人々は最上の喜びを味わうことになります。
そういうわけですから、
いかなる場合でも、決して獣を礼拝するようになってはいけません。
そのようなことをすると、「負ける側」につくことになってしまうからです。
神様に仕えることが死を意味する場合であっても、
獣に仕えるようになるよりは、
むしろ死を選ぶべきなのです。
殉教者には死後の安らぎが約束されていますが、
信仰を捨てた者には地獄の苦しみが待っています。

 

2012年5月14日月曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 14章1~5節 私はあなたがたと共にいます(その2)


   
私はあなたがたと共にいます 1415節(その2)
  
  
4節と5節は、天国に入った人々のグループを描いています。
彼らは自分自身を女たちと共に汚すことをせず、
処女のように純潔である、と言われています。
これは、彼らが生涯独身であった、という意味ではありません。
「汚れの無さ」とは、
人が神様に忠実に仕えてきたか、それとも、
偶像に仕えることで活ける神様を追い出してしまったか、という、
人と神様との関係を指しているものと思われます。
旧約聖書は、しばしば「不倫」について語っています。
この言葉は、イスラエルの民の神様に対する不実という意味で用いられています
(例えば、「ホセア書」217節があげられます。
また、「民数記」2515節も参照してください)。
パウロは同じイメージによって、
イエス様に属する人々は忠実に花婿を待ち続ける花嫁のような存在である、
と言いました(「コリントの信徒への第二の手紙」112節)。
天国に入るのは、
イエス様に忠実に仕え続ける人たち、
信仰のゆえに蒙るいかなる艱難の中にあってもイエス様に従い続ける人たち、
イエス様の再臨を待ち望み続ける人たちです。
天国に入った人々は純潔で無傷である、とも言われています。
「ヨハネの黙示録」は、
どうすれば罪人である人間が純潔かつ無傷でありうるか、語ります。
その人の衣が小羊の血によって洗い清められることによって、
そのようになるのです(「ヨハネの黙示録」714節)。
  

2012年5月11日金曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 14章1~5節 私はあなたがたと共にいます(その1)


  
ヨハネの黙示録14
   
私はあなたがたと共にいます 1415節(その1)
   
  
1節には、イエス様が共におられる144000人の人々がでてきます。
7章は、これと同じグループについて語っていました。
その章の説明で言ったように、印を受けている144000人の人々は、
地上で戦っている神様の教会をあらわしているものと思われます。
前章には、
世で荒れ狂い、神様の民に対して戦いを仕掛ける「獣」がでてきます。
シオンの山の上の小羊の幻は、
戦場の只中で存続している教会を励まし慰めてくれます。
イエス様は私たちと共におられ、
御自分に属する人々を見捨てたりはなさいません。
戦いが激しくなっても、
神様の敵とその手下が襲い掛かってこようとも、
神様に属する人々がおびえても、
心配は要りません。
神様が私たちの傍におられるからです。
悪魔が攻撃してくるとき、パウロのようにこう言うことができます、
「もしも神様が私たちの側についてくださっているならば、
一体誰が私たちに敵対できるというのでしょうか」
(「ローマの信徒への手紙」831節)。
  
2節で、ヨハネの視線は天国へと向けられます。
天国にいる者の群れが新しい賛美歌を歌って、神様を賛美します。
3節では、戦う教会に再び大いなる約束が与えられます。
今は地上で苦境に立たされている「神様のものたち」もまた、
いつか天国に入り、
そこで今もうすでに天国で響いている賛美歌を覚えるようになる、
という約束です。
 

2012年5月9日水曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 第8回目の終わりのメッセージ


  
終わりのメッセージ
  
偽りの反映
  
 
小鳥が私たちの夏の小屋のほうに飛んできて、窓に当たりました。
軽いぶつかる音がして、哀れな小鳥はこときれ、地面の上に落ちました。
首が折れたのです。
どうしてこのようなことになったのでしょう。
それは、窓が景色を映し出していたからです。
窓というものを知らない小鳥、ときには大人になった鳥でさえも、
自由な航路を見つけたと思い込み、ガラスに衝突する場合があります。
  
すべての場所を通り抜けることはできません。
人生には「偽りの反映」とでも呼べるものがあります。
それらは、いろいろと大層なことを約束するものの、
実際には何も与えてはくれません。
それには若者も老人も騙されてしまいます。
彼らは自分で自分を欺いてしまうのです。
  
それに対して、神様の御言葉は、
実際には提供しないものを与える約束をしたりはしません。
御言葉は、救い主を通して命を与えてくれます。
御言葉は、未来と希望を与えてくれます。
  
この道では、幸福や順境などは全然ないか、
あったとしても、それほど多くはありません。
しかし、この道を歩めば、
首を折るようなことは決してありません。
  
(ラウリ コスケンニエミ 「恵みはすぐ近くに」)

2012年5月7日月曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 第8回目の質問(12~13章)


 
8回目の集まりのために
  
「ヨハネの黙示録」1213
  
 
「ヨハネの黙示録」12章には竜が迫害する女の幻がでてきます。
おそらくこれは、
天国から投げ落とされた悪魔が攻撃している神様の教会
のことを意味しています。
この章のメッセージは「神様のもの」である人々を慰め励ましてくれます。
すなわち、悪魔ができることは神様が許可される範囲内のことだけなのです。
それゆえ、神様に属する人々は何も動揺する必要がありません。
悪魔の活動については13章でも語られています。
神様を侮り神様に属する人々に戦いを仕掛ける獣をヨハネは目にします。
   
 
質問

1)女と竜についての幻は何を意味していますか。
1216節の説明を参照してください。
この幻が私たちに伝えたいことは何でしょうか。
  
2)12章は悪魔について何を語っていますか。
悪魔はどのような者であり、何をしていますか。
悪魔は「告訴者」である、という経験があなたにはありますか(1210節)。
どのように、また何について悪魔はあなたを責め立てましたか。
  
3)悪魔は天国から地上に投げ落とされました。
その結果、どのようなことが起きているように見えますか。
私たちにはそれを恐れる理由があるでしょうか。
悪魔が天国にはいないことには、どのようなよい点があるでしょうか。
  
4)獣についての幻は何を意味していますか。
13110節の説明を参照してください。
「ヨハネの黙示録」の獣について、
あなたはどのような教えを聞いたことがありますか。
この幻は私たちにどのようなことを教えてくれますか。
  
5)私たちの時代には、
私たちがひれ伏し拝むのを要求してくる「獣」がいるでしょうか。
どこかの国でこのようなことが実際に起きているかどうか、
あなたは知っていますか。
それらの国でクリスチャンはどのような行動をとりましたか。
あなたならどうしますか。
なぜ獣を拝するのは危険なのでしょうか。
  
6)人々が獣を拝するようにさせるもの、また、させてきたもの、
は何でしょうか。
恐怖以外にも何か原因があるでしょうか。
  
7)不思議な出来事は、人々を間違った方向に迷わせる場合もあります。
それはどのように起きますか。
具体的な例を挙げることができますか。
悪魔の力によって不思議なことが起きたケースを知っていますか。
私たちはこうした不思議な出来事に対してどのような態度を取るべきでしょうか。
  
8)獣の数字はどういう意味でしょうか。
1318節の説明を参照してください。
 

2012年5月4日金曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 13章11~18節 第二の獣(その2)


  
第二の獣 131118節(その2)
   

    
18節には、獣の数字として666が出てきます。
この数字に込められたメッセージを解き明かすべく、
多くの試みがなされてきました。
この数字に獣の名が隠されているのは確かでしょう。
ヘブライ語やギリシア語のアルファベットには
それぞれある数価が対応しています。
そして、単語を構成するそれぞれのアルファベットに
対応する数価を合計することによって、
その単語に対応する数価が算出されます。
このいわゆる「ゲマトリア」という方法は、古典時代には盛んに行われました。
さまざまな計算が実行され、
この666という数字は歴史上のいろいろな人物に当てはめられてきました。
獣としてみなされたそれらどの人物の場合にも、
この数字が問題なく合致することはありませんでした。
反キリストが「誰」であれ、あるいは「何」であれ、
おそらくこの数字は本来の反キリストの名に対応するものなのでしょう。
獣の数字については、もう一つ別の説明が考えられます。
聖書において神様の御名の数価は7です。
悪魔は権力や力に関して神様にほとんど匹敵するものの、
やはり神様よりも劣った存在です。
このような悪魔に、6という数字はよく合っています。
ヨハネが獣の数字として63個含む数字を告げるとき、
獣が誰に仕えており誰の仕事道具か、語っていることになります。
獣は悪魔と一緒に活動しているのですから、
神様に属する人々が獣と「兄弟関係」を結ぶのは絶対にいけないことです。