2019年7月29日月曜日

「詩篇」とりわけ「ざんげの詩篇」について 苦しみの洪水の中で 詩篇6篇1〜8節(その1)

「詩篇」とりわけ「ざんげの詩篇」について


苦しみの洪水の中で 詩篇6篇1〜8節(その1)


「詩篇」6篇

6:1 聖歌隊の指揮者によってシェミニテにあわせ琴をもってうたわせたダビデの歌

6:2 主よ、あなたの怒りをもって、わたしを責めず、
あなたの激しい怒りをもって、
わたしを懲しめないでください。

6:3 主よ、わたしをあわれんでください。
わたしは弱り衰えています。
主よ、わたしをいやしてください。
わたしの骨は悩み苦しんでいます。

6:4 わたしの魂もまたいたく悩み苦しんでいます。
主よ、あなたはいつまでお怒りになるのですか。

6:5 主よ、かえりみて、わたしの命をお救いください。
あなたのいつくしみにより、わたしをお助けください。

6:6 死においては、あなたを覚えるものはなく、
陰府においては、だれがあなたを
ほめたたえることができましょうか。

6:7 わたしは嘆きによって疲れ、
夜ごとに涙をもって、わたしのふしどをただよわせ、
わたしのしとねをぬらした。

6:8 わたしの目は憂いによって衰え、
もろもろのあだのゆえに弱くなった。

6:9 すべて悪を行う者よ、わたしを離れ去れ。
主はわたしの泣く声を聞かれた。

6:10 主はわたしの願いを聞かれた。
主はわたしの祈をうけられる。

6:11 わたしの敵は恥じて、いたく悩み苦しみ、
彼らは退いて、たちどころに恥をうけるであろう。

(口語訳)


苦しみの洪水の中で 6章1〜8節

この「詩篇」は典型的な「個人の嘆きの詩篇」です。

1節に神様の怒りについての記述がありますが、
それでもこれは本来の意味での「ざんげの詩篇」ではありません。

詩篇朗唱者は「自分が神様の怒りを受けるのは当然であった」と告白します。

しかしその一方で、彼はその怒りから赦免されることを祈り求めています。

このように始めの部分は、
人がうろたえながら苦しみの只中で助けを求めて
叫び声を上げる様子を描写しています。

苦しみの要因が何なのかは明示されていませんが、
この種の「詩篇」において一般的な苦しみの要因である
「敵」と「身体的な苦痛」とが関係しているように思われます。

詩人は死に瀕する危険のうちにあって苦しみ嘆き憔悴し切っています。

そして「どうか手遅れにならないうちに私を助けてください」
という心の叫びが神様に聴いていただけるように願い求めています。

2019年7月1日月曜日

「詩篇」とりわけ「ざんげの詩篇」について 「ざんげの詩篇」

「ざんげの詩篇」

「ざんげの詩篇」という名で呼ばれる詩篇の一群があり、
中世以来の伝統に基づいて他の「詩篇」から区別されています。
キリスト信仰者たちにとって「ざんげの詩篇」は
時代を超えてとりわけ大切な意味を持つ詩篇たちでした。
詩篇につけられている番号でいうと
6、32、38、51、102、130、143篇が
「ざんげの詩篇」に分類されています。
ルターは詩篇全体をこよなく愛していましたが、
とりわけこれら一連の詩篇には特別な愛着をもっていました。

現代の詩篇研究のもたらした最良の成果のひとつとして
「個々の詩篇にはどのような内容的特徴があるか」という問題設定があります。
この観点による研究では、
上述の「ざんげの詩篇」が最初からひとつの固定したまとまりとして
扱われることはありません。
たとえば、宗教改革者マルティン・ルターも
「詩篇」32篇が内容的には「ざんげの詩篇」ではなく
「教えの詩篇」であることに当時すでに気づいていました。

現代の詩篇研究では、広大で多彩な一群の詩篇が
「個人の嘆きの詩篇」として分類されています。
このグループには今まで伝統的に「ざんげの詩篇」と呼ばれてきた
ほとんどすべての詩篇が含まれます。
これらの詩篇からは、人間に痛みや苦しみを引き起こす多くの要因の中でも
とりわけ二つの事柄が浮かび上がってきます。
それは「敵」と「病気」です。

また、この詩篇講義で取り上げる幾つかの詩篇では、
痛みや苦しみの要因として「罪」が挙げられています。
ですから、これらの詩篇は
まさに「ざんげの詩篇」という呼称がふさわしいものと言えるでしょう。
もちろん私たちは呼称にそれほど拘泥する必要はありません。