2012年1月30日月曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 7章1~8節 144000人 とは一体誰のことか?(その1)

 
ヨハネの黙示録7
  
144000 人とは一体誰のことか? 718節(その1)
  
 
第六の封印が解かれたとき、
ヨハネは世界が揺り動かされるのを見ました。
神様の怒りが地を覆い、空の星が地に落ち、艱難の只中で人々は死を願います。
このような幻におびえないような人がいましょうか。
神様に属する人々も、
恐れを抱かずにこの幻について読むことはできないでしょう。
8章にもいろいろな幻が続いてあらわれます。
最後の日はすぐそこまで来ており、前代未聞の災いが世界を震撼させます。
終わりの時が新たにより詳しく描写される前に、
神様に属する人々を励まし慰め力づける幻が、ヨハネに示されます。
  
まずはじめにヨハネは世界の四隅に立っている四人の天使を見ます。
つまり、天使が一人ずつそれぞれの隅にいるわけです。
彼らの役割は、風が地を台無しにしないように、風を留めておくことです。
風というよりも嵐は、最後の日に世界中を吹き荒れる諸力を表しています。
それら諸力によって世界は揺り動かされ、地上の艱難は拡大していきます。
この世界は偶然に左右されているわけではないのだ、
と私たちはふたたび気がつきます。
神様の天使たちが、
自然や人間を痛めつける諸力をしっかり抑えてくれているのです。
神様による決定にもとづいて、ようやくそれらの諸力は開放されます。
神様はあらゆる権威をお持ちなので、
この世界では神様が知らず許可なさらないことは決して起きもしません。

2012年1月26日木曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 6章12~17節 第六の封印

 
第六の封印 61217
  
 
イエス様は第六の封印を開きます。
すると、宇宙全体が揺り動かされます。
最後の日は近く、人々が恐れから震え上がるようなことが起きます。
イエス様はエルサレムで弟子たちにまったく同じことを告げられました、
「日は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、
天の諸力(天体)は揺り動かされます」
(「マタイによる福音書」2429節)。
天地創造の時と同じように革新的なことが起こります。
ただし、
出来事の経緯が天地創造の時とはまったく逆である、
という違いはあります。
終わりの時には、
人々は神様から逃げて、その怒りから身を隠そうとします。
彼らは聖なるお方の御前に出るよりは、むしろ死を望みます。
 
 

2012年1月23日月曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 6章9~11節 第五の封印

 
第五の封印 6911
  
 
第五の封印が開かれ、ヨハネは殉教者の一群を見ます。
彼らは、裁きの日が早く来るようにと神様に祈っています。
殉教者たちが叫び求めているのは、復讐ではなく、公正です。
「最後の日」に正義が実現し、すべての人が公正に裁きを受けます。
その日に世の悪は止み、
新しく創造された、悪の存在しない世界における命が始まります。
「この日が早く来ますように」、と、
神様の御言葉のゆえに殺された人々は祈り願っているのです。
  
ところが、裁きの日はまだ来ていません。
殉教者たちには白い衣が与えられます。
白い衣は、天国の「清潔さ」をあらわしています。
殉教者たちは天国に着いて、今はあらゆる悪から守られています。
白い衣はそのしるしでもあります。
それから彼らは、「待っているように」、と命じられます。
悪はまだこの世界で猛威を振るうままにされています。
それは、
イエス様を信じるがゆえに殺される人々がこれからも出てくる、
ということを意味しています。
 

2012年1月18日水曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 6章7~8節 第四の封印

  
第四の封印 678
  
 
第四の封印が解かれたとき、黄緑色の馬が出てきました。
その馬に乗っている者の名は「死」であり、
それに「ハデス」(黄泉)が従っています。
これらはその名が示す通りのことを派手に実行します。
すなわち、病気や戦争や飢饉やその他の破滅をもたらすのです。
地の四分の一が破壊される、
というのは私たちには不思議に思われるかもしれません。
しかし、中世のヨーロッパで猛威を振るったペストや、
地の四分の一より多くのものの破壊を可能にした人間の発明(核兵器)
といった例もあります。
ですから、この幻の数字はたんに象徴的なものであるとはかぎりません。
  
すでにこれらの幻は、
「なぜ神様はこれほどおびただしい悪が生じるのを放置なさっているのか」、
というやっかいな問題を私たちに突きつけます。
神様は厳しく残酷な方なのでしょうか。
もしも神様が全能ならば、
なぜ封印の幻が描いているような悪の実現を阻止なさらないのでしょうか。
しかし、このことについて神様を糾弾するのは、見当違いです。
戦争があるのは神様のせいではありません。
飢饉についても人間以外のものに責任を押し付けるのは無理があります。
あらゆる悪の背後にある真犯人は私たち人間であり、
私たち皆の中に居座っている罪なのです。
私たちは怒りを溜めたあげく争いはじめます。
私たちの自己中心さのせいで、
他の貧しい人々が十分な栄養すら得られない状態になっています。
もしも神様が世界から悪を取り除こうとされるならば、
まずはじめにこの世界から
悪を行う私たち人間を取り除かなければならなくなります。
いつか神様の裁きが下され、その時に悪は止みます。
しかし、その時はまだ来ていません。
そして、それは私たちに対する神様の大いなる恵みなのです。
手遅れになる前に多くの人が救いを見出すこと、
また、最後の裁きの時にできるかぎり多くの人に
(罪赦されて天国へ入れるという)よい裁決が下されることを、
神様は待ち望んでおられます。
神様はこの世界のために御自分の計画を用意されており、
それは多くの悲惨な出来事も含む多様な段階を経て実現されていくものだ、
ということも覚えておくべきでしょう。
神様の御計画には、よい目的があるのです。
おそらく悪い出来事さえも、神様のよき御計画の役に立っているのでしょう。
わざわいを通して、神様は人々を御許に引き寄せられます。
神様は、
不幸な日々が私たちを御許に導くきっかけとなるように、
待っておられます。
この通りになった(不幸を通して神様に導かれた)
という例が実際にたくさんあります。
一般的に、優しい態度よりも厳しい叱咤によって、
人は神様へと引き寄せられていくものです。
出来事の意味を完全には理解できないことを認めざるをえない場合があります。
神様は私たち人間よりもはるかに賢く、
御自分のなさることを熟知しておられます。
また、神様は
この世に悪が厳然として存在し続けていることを許容なさっています。
これは、私たち人間には理解しがたいことです。
しかし、もちろん神様は悪の存在理由をご存知です。
このことに関しても、
実は神様は賢く正しく事を運ばれたのだ、
と私たちはいつか必ず天国で理解するようになるでしょう。
   

2012年1月16日月曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 6章5~6節 第三の封印

  
第三の封印 656
  
 
イエス様が第三の封印を開けると、
ふたたび世界を襲う新しい災いが描かれます。
今度は、黒い馬がそれに乗る者と共に走り出ます。
ヨハネは秤やデナリについて話す声を聞きます。
「秤」は、人間が一日に必要とする穀物の量を意味しています。
また、「デナリ」は、普通の人が一日働いて稼ぐ金額です。
黒い馬の幻は、飢饉を意味しています。
一家の主人は一日の賃金で、
やっと一人分の食事に必要な「小麦」を購入することができるという有様です。
ですから、
当時貧しい人々の食事とされた「大麦」で満足しなければなりません。
しかし、それも三人分の食事にしかならず、大家族にはとても足りません。
「オリーブ油」と「ぶどう酒」は、
おそらく富裕な人々が購入するための商品でしょう。
ただし、
買うためのお金があるならば、それらを手に入れることは可能だ、
ということです。
  
飢饉は、人類の歴史の中で何度となく繰り返されてきた災いです。
今日でも世界には十分な栄養を取れないまま生活している人々がいます。
私たちの周りにもそういう人たちがいることでしょう。
確実に黒い馬は今も活動中なのです。
  
死なれる少し前にイエス様は世界の将来について弟子たちに語られました
(「マタイによる福音書」24章など)。
例えば、諸国民の間の戦争や人類を襲う飢饉についてです。
これと封印の幻との間には明らかな共通点があります。
イエス様は人類の(歴史の)さまざまな段階を、
エルサレムの弟子たちにも、パトモスのヨハネにも、
同じように示してくださったのです。