2009年9月29日火曜日

マルコによる福音書について 14章53~65節

ついに取り除かれるヴェール 14章53~65節

大祭司たちはただちに大議会(サンへドリン)を召集します。この70人の議員からなる委員会はユダヤ人たちの最高意思決定機関であり、ローマ人たちはこの議会に広範な権限を与えていました。しかし、死刑の裁決は大議会の権限外でした。今回の大議会が公的に有効なものかどうか疑いの余地がありましたが、大祭司たちにとって事は急を要するものでした。このイエス様の件はどうしても明朝までに片付けなければならなかったのです。さもないと、民が何をしでかすか見当もつかなかったからです。モーセの律法によれば、死刑の裁決のためには、犯罪についてふたりの証人が要求されました(申命記19章15節)。ところが、イエス様の犯罪を立証することはどうしてもできませんでした。さまざまな人が証人として立ったものの、彼らの証言は互いにくいちがっていたため、死刑の裁決を下すことはできなかったのです。それで、今度は大祭司が直接イエス様を尋問しました。今や(まだ民の指導者たちの前だけではあるものの)「メシアの秘密」が暴かれようとしています。大祭司は神様について婉曲表現(「ほむべき方」)を用いましたが、その質問自体はあけすけでした。「イエス・キリストは神様の御子であるかどうか」ということです。イエス様の答えも、大祭司の質問と同じように明瞭でした。それゆえ、大祭司はイエス様を「神様を侮辱する者」として告発します。大議会は裁決を下し、こうして神様の民はイエス様を捨て去りました。怒りが爆発し、まわりに発散していきます。「神様を侮辱した者は聖なる民から滅ぼし取り除かなければならない!」

2009年9月28日月曜日

マルコによる福音書について 14章43~52節

夜にまぎれた卑怯者たち 14章43~50節

過ぎ越しのお祝いの時期は満月でしたが、夜のとばりに包まれた園は逃げ出したい者にはその機会をすんなりと提供しました。大勢の人が動きまわっていたし、イエス様の敵は暗い中であてずっぽうに誰かのあとを追いかけていくことは避けようとしました。それで、はっきりとした合図として、ユダの口づけが必要でした。この合図のあと、戦いがはじまります。イエス様は暴力を用いた自己防衛を拒否なさいました。今や、最も陰鬱な聖書の箇所が書かれてあるとおりに実現する「暗闇の時」です。この結果、弟子たちは最後の勇気のかけらも失い、皆いっせいにその場を逃げ出しました。


これは誰ですか、マルコでしょうか? 14章51~52節
その時、その場に、福音書の読者の想像を掻き立てる「ある若者」があらわれました。おそらく若者の家は園のすぐそばだったのでしょう。最初に逃げ出した者たちの様子を見て、彼は何事かと思い、寝巻きのまま現場に駆けつけたのではないでしょうか。若者はあらわれたときと同様、またあっという間に消え去りました。この「意味がない」ように感じられる若者の行動を読んで、多くの人は「福音書記者マルコが自分自身のことをここに描き出しているのではないか」と想像しています。これはたしかにありえないことではないにせよ、たんなる推測の域をでるものでもありません。

2009年9月23日水曜日

マルコによる福音書について 14章27~42節

深まる夜 14章27~31節

聖餐式が設定されて、イエス様はふたたび道を先へと歩まれます。弟子たちは決定的な瞬間が間近に迫っていることをいまだにしらないままです。ゼカリヤ書(13章7節)に「羊飼いを撃ちなさい、その羊は散り散りになります」と書いてあるにもかかわらず、ペテロは「イエス様のためならば自分は死ぬのもいとわない」と自信満々です。イエス様は、ペテロとはちがって本当のことがわかっておられましたが、孤独に耐えていました。私たちはそのようなイエス様のお姿に非常な感動をおぼえます。


「あなたの御心がなりますように」 14章32~42節

ペテロとヤコブとヨハネはイエス様の最高に偉大な瞬間のひとつに立ち会うことを許されました。イエス様はゲッセマネでの祈りの戦いの支えとして彼らをお選びになったのです。夜はすでに更け、さきほどまでのお祝いの食事は眠気を誘いました。それは目を開けていることさえできないほどのものでした。弟子たちは今がどんな時であるか、まったくわからなくなっていました。イエス様はおひとりで祈って戦っていました。御自分を待ち受けていたのは、苦難と恥辱と死でした。エレミヤが「民全体に飲ませるように」という使命を受けたあの「神様の怒りの杯」(エレミヤ書25章15節)が、今イエス様の目前にありました。イエス様はこの使命から解放されることを祈り求めますが、かないませんでした。天は閉じられ、神様は御子に迂回路をお与えにはなりません。イエス様はすべての人間の罪が当然受けるべき報いとしての「怒りの杯」を、おひとりで一滴のこらず飲み干さなければならなかったのです。イエス様はそれを受け入れる心構えをし、敵との絶望的な遭遇に備えて、弟子たちをお集めになります。

2009年9月21日月曜日

マルコによる福音書について 14章17~26節

裏切り者の驚愕 14章17~21節

イエス様が「これから裏切りが起こる」と話し始められたとき、ユダがどれほど驚愕したことか、私たちには想像もつきません。ところが、イエス様は「誰が裏切り者なのか」明かされず、詩篇41篇を引用するにとどめられました(41篇10節)。神様の御子の受難の道は聖書に示されていたのです。とはいえ、神様は背後で全部を自分の思い通りに行う監督などではありません。神様の御子を裏切ることは重い罪であり、その罪を負うのは罪をおかした本人でした。そして、その罪は彼にとって担うにはあまりにも重過ぎたのでした。


神様が用意してくださった食事 14章22~26節

食事が進むにつれて不思議なことが起こりました。旧約の過ぎ越しの食事では、神様の救いのみわざについての記憶につながる特別な食べ物が供されました。現在でもユダヤ人たちはお祝いの食事の席で「これらはすべて何を意味しているか」と互いに尋ね合います。その答えは「神様はエジプトでの隷属から今自由を祝っている民を解放してくださった」ということにあります。「もしもあながたの子供たちが「この儀式にはどんな意味がありますか」と尋ねるならば、「これは主の過ぎ越しの犠牲です。主は、エジプトの人々を撃たれたときに、エジプトにいたイスラエルの人々の家を過ぎ越して、私たちの家を救ってくださったのです。」とあなたがたは言いなさい。」(出エジプト記12章26~27節)神様の救いのみわざはたんに昔の歴史の出来事にすぎないのではなく、なによりも「今ここ」に関係しているのです。イエス様はここで過ぎ越しの食事にまったく新しい説明をお与えになります。イエス様は神様にパンを感謝して弟子たちに配ります。パンは今や秘められたかたちで「イエス様のからだ」でもあるのです。同じようにして、イエス様は神様にぶどう酒を感謝します。そしてこのぶどう酒は今や「イエス様の血」でもあります。こうして、旧約聖書の奇跡は新たにより大規模に繰り返されます。神様はイエス様をとおして新しい契約を結んでくださいました。この契約は最初の契約と同様に血によって確固たるものとされました(出エジプト記24章8節)。エレミヤがすでに予言したように、新しい契約は旧い契約に取って代わるものです(エレミヤ書31章31~34節)。新しい契約は、「イエス様の血が全世界のために流されたこと」に基づいています。その背景にあるのは、神様の戒めを守る人間の力ではなくて、神様からの無条件の罪の赦しです。

2009年9月18日金曜日

マルコによる福音書について 14章12~16節

過ぎ越しのお祝いの食事の準備 14章12~16節

ユダヤ人たちが過ぎ越しのお祝いの食事をどのように準備するか、マルコによる福音書は語っています。これらの記述を基にして、私たちは福音書に書かれている出来事の起きた正確な日時を知ることができます。今は種入れぬパンの最初の日であり、過ぎ越しの食事の準備の日です。それはニサンの月の14日です。つまり、イエス様は翌日のニサンの月の15日に十字架にかけられたことになります。ヨハネによる福音書によると、ユダヤ人たちはまだお祝いの食事をしておらず、過ぎ越しの羊をほふる儀式が始まった時、すなわち、ニサンの月の15日に、イエス様は死にました(ヨハネによる福音書18章28節、19章31節)。ここで大切なことは、これらの出来事は神様が指し示されている道にそって進行している、ということです。怒りと殺意のうずまく中、イエス様はこの道を歩まれていきます。そして、しるしを用いながら人々に「神様が彼らと共におられる」ことを示されます。名前もわからないある人が、神様の御子の最後の晩餐のために二階の広間を提供してくれました。

2009年9月16日水曜日

マルコによる福音書について 14章10~11節

裏切り者の出現 14章10~11節

ユダのような人物があらわれたのは、イエス様の敵にとって宝くじにあたったようなものでした。今や事を公にせず、しかも大きな危険をおかさずに、イエス様を取り除くことが可能になったのです。イエス様の弟子たちの中から裏切り者があらわれたということは、「大祭司たちは自分たちで適当な時機を選ぶことができるので、もはや不意の出来事に邪魔されたりはしない」、ということを意味していました。ユダという人物は、いつの時代も人々の興味と恐怖をかきたててきました。彼自身および彼の動機については残念ながらごくわずかのことしか確実には言えません。クリスチャンの誰もがユダに対してある種の同情をいだくのは確かでしょう。ユダの裏切り行為にはなんら正当化すべき余地はありません。にもかかわらず、ユダという裏切ったのち自分の罪を悔いた者は、ぽいと見捨てて忘れ去ってしまうには、あまりにも悲劇的な人物です。なぜユダが必要だったのでしょう。彼の心にはどんなことがよぎったのでしょうか。どうして彼は悔いたのでしょう。ユダは罪の赦しの恵みを結局はいただけたのでしょうか。答えよりも疑問の方がたくさんわいてきます。

2009年9月14日月曜日

マルコによる福音書について 14章3~9節

女の高価な贈り物 14章3~9節

イエス様はエルサレムの外、ベタニアで寝泊りされていました。マルコによる福音書は、イエス様がらい病人シモンの家に住んでおられたと、伝えています。この場所で、やや謎めいた驚くべき出来事が起こりました。古代世界ではかぐわしい香りを放つ香油が重宝がられていました。名前も記されていないある女が高価な香油の入った壺を取り出して壊し、香油をイエス様の頭に注ぎかけたのです。それは労働者の一年分の給料に当たる価値を持つ良質の香油でした。こうした香油は大きなお祝いや重要な人物のために用いられました。おそらくその女にはこうした慣習が頭にあったのでしょう。そしてまたこの行為は、「イエス様は神様が約束してくださったキリストであり、油注がれた王様です」という信仰告白でもあったでしょう。イエス様は香油を用いるもうひとつの目的を示されました。当時、死者に対して葬られる前に油を塗る習慣がありました。香油を「無駄にした」ことを残念がった弟子たちは、イエス様から叱られました。「香油を塗る」という女の行為は、イエス様への彼女の愛のあらわれでした。愛は計算したり財布を覗いたりはしないものです。愛は自分の持っているものを差し出します。そして、まさにそこに愛の偉大さがあるのです。このように短い出来事が一人の人間のイエス様への大いなる愛を証するドキュメントになっています。よい行いは黒い額縁にはめられてみると、いっそうひきたつものです。この出来事の前の箇所は、神様の民の指導者たちのイエス殺害計画について語っています。そしてこの香油の塗布の後に続いて、主を裏切ろうとするユダの様子が描かれています。

2009年9月9日水曜日

マルコによる福音書について 14章1~2節

「私はあの男なんかしらない!」

マルコによる福音書14章


張りめぐらされる陰謀 14章1~2節

エルサレムとその神殿はユダヤ人の信仰のまぎれもない中枢でした。過ぎ越しのお祝いのときには、この聖なる都に世界中から聖地巡礼の人々がなだれこみました。過ぎ越しのお祝いは、「神様がイスラエルをエジプトの隷属から解放してくださった」という神様の救いのみわざをユダヤの民全体に思い起こさせるものでした。このお祝いの設定については出エジプト記の12章に書かれています。それによると、お祝いには過ぎ越しの小羊とパン種の入っていないパンを食することになっていました。お祝いは春分の日のあとにくる月(ニサンの月)の15日に最高潮に達します。すでにふつうの過ぎ越しのお祝いでさえ、いつ爆発してもおかしくないほど過敏な時期であるのに、今やエルサレムはイエス様の存在のためにまったく特別な緊張にみなぎっていました。ユダヤ人の指導者たちには、民の目の前で危険な「火遊び」をして自分たちが民の支持を得るかどうか試す勇気などはありませんでした。イエス様を彼らの行く手から取り除かなければならないのはわかっていましたが、それをお祝いのさなかや、まして民の眼前で行うのは問題外でした。宗教的に熱狂している民がどういう行動にでるか予測するのは難しいため、民に気づかれないように細心の注意をもってことを運ぶ必要がありました。ともかくも、決断するべき時は間近に迫っていました。こうして、人々が気づかぬうちに、暗い影が神様の御国をしだいに重苦しく覆い始めたのです。

2009年9月7日月曜日

マルコによる福音書 第13回目の終わりのメッセージ

終わりのメッセージ

あなたがたの心が放縦や、泥酔や、生計の心配のために鈍らされて、思いもよらないときにその日があなたがたの目の前に訪れるようなことがないように、よく注意していなさい。(ルカによる福音書21章34節)

これは非常に大切な警告です。私たちはそれを決して忘れてはいけません。主は、食べたり飲んだりすることを禁じておられるわけではありません。食べて飲みなさい。神様はそうすることをあなたがたにゆるしてくださいます。生活するために働きなさい。しかし、こうしたことを行ううちに心が鈍くなって、私(キリスト)がふたたびこの世に帰ってくること(再臨)を忘れてしまうことがないように注意しなさい。

私たちクリスチャンにとっては、自分の生活の目的を「この世的なことがら」におくのはふさわしいことではありません。「半分」だけ、「左手」だけで、私たちはこの人生のなかにとどまるべきです。それとは反対に、「右手」で、心をこめて、私たちは、私たちの主がたとえようもないほどすばらしい権威をまとって戻って来られる日のことを待つべきなのです。最後の日の訪れる前には、人は家を建てたり、結婚式をあげたり、悲しみを知らずに過ごし、まるで他には何もやることがないかのように、心を鈍くしてしまいます。しかし、クリスチャンであろうとするあなたがたは、それとは反対に、最後の日を心に留めていなさい。その日を絶えず待ち望み、神様への畏れのなかで、汚れのない良心をもって、生活しなさい。その場合には、何の心配もありません。その日がどこで私たちに訪れようとも、それは「救いの喜びに満ちた瞬間」としてやって来ます。なぜなら、その日は、あなたがたが神様への畏れをもち、神様の守りにつつまれているときに、あなたがたのもとを訪れるからです。

マルティン・ルター 「神様の子供たちに与えるマナ」

2009年9月2日水曜日

マルコによる福音書 第13回目の質問

第13回目の集まりのために

マルコによる福音書13章

イエス様はエルサレムの滅亡と世の終わりについて話されます。

1)イエス様は「偽のキリスト」について気をつけるように警告なさっています。あなたがたはそのような者たちについて聞いたことがありますか。

2)「世界はどんどんよい方向に発展していく」と考える人たちがたくさんいます。また、「世界はどんどん悪くなってきている」と考える人たちもいます。聖書は来るべき世界の歴史についてどのようなことを教えていますか。私たちを待ち受けているのは、黄金の未来でしょうか、それとも、真っ暗闇の夜でしょうか。この世の人間たちは自分たちの問題と戦わなければならないのでしょうか。そして、彼らは結局は滅びに定められているのでしょうか。

3)13章におけるイエス様の御言葉を自分の時代の宗教的や政治的な潮流にあてはめて説明する人たちが今までも大勢いました。このような態度にはどのような危険が隠れていますか。

4)イエス様の予言の後にまもなく、エルサレムにはどのようなことが起こりましたか。ユダヤから山々へ避難した人たちがいましたか。偽の預言者たちがあらわれましたか。

5)「荒らす憎むべきもの」とは何ですか。この言葉の背景には旧約聖書のどのような箇所が関係していますか。この言葉と、イエス様の予言のとおりに起きた歴史上の出来事との間には、どのような共通点がありますか。

6)エルサレム神殿のあった場所に今あるのは何ですか。イスラエルが独立国家となった現代では、約二千年ぶりに新しい神殿を建設することは、はたして可能でしょうか。